第57話 消したくない過去
母の指先が、アリスの頬に触れようとしていた。
白く細い指は、記憶の中に残る母の手とよく似ていた。
幼い頃、熱を出して寝込んだ夜にも、転んで膝を擦りむいた午後にも、その手はアリスの頬へ伸びてきた。
もう二度と触れられないと思っていた温もりが、今、わずかに腕を伸ばせば届く場所にある。
アリスも手を伸ばしていた。
黒い軍装風のドレスの裾が、鏡片のような光を反射する。
銀色の輝きを帯びた黒髪が肩を滑り、右の青い瞳と左の赤い瞳には、無数の管理記録が映り込んでいた。
――PERSONALITY COMPLETION:89%.
【人格再構築の完成度:89%】
――STAGE THREE:INTEGRATION AVAILABLE.
【第三段階:統合可能】
――ADMINISTRATOR IDENTITY:REPLACEMENT RISK.
【管理者人格:人格置換の危険】
文字列の意味は理解できた。
このまま母の人格を完成させれば、自分の人格が管理機構へさらに統合される。
幼い頃の記憶も、母を愛していた感情も、膨大な管理情報の一部として処理されてしまうかもしれない。
それでも、手を止められなかった。
「……アリス」
母が微笑む。
その声を聞いた瞬間、胸の奥に残っていた寂しさが疼いた。
この声は、本当に母のものなのだろうか。
かつて自分が失ってしまった声と、同じなのだろうか。
確かめる方法は、もうない。
けれど、確かめられないからといって、会いたいという願いまで消えるわけではなかった。
アリスの指先が、母の手へ近づく。
あと少し。
ほんの少しで、触れられる。
その時、背後から重い足音が聞こえた。
「……アリス」
ルシアンの声だった。
アリスは振り返ろうとしたが、視界に浮かんだ文字列が、その動きを妨げた。
――PROTECTION TARGET:HIGH PRIORITY.
【保護対象:高優先度】
――COMBAT CAPABILITY:DECREASED.
【戦闘能力:低下】
――INTERVENTION RISK:MODERATE.
【介入危険度:中】
アリスは眉を寄せた。
ルシアンは、保護対象ではない。
自分と一緒に戦ってきた仲間だ。
そう思おうとしても、管理機構は彼の状態を数値と分類へ置き換えていく。
左腕の負傷。
戦闘能力の低下。
現在の行動が、母の再構築へ与える影響。
それらが、彼の顔を認識するよりも早く理解できてしまう。
「……ルシアン」
アリスがようやく名前を呼ぶと、彼は少しだけ表情を緩めた。
「聞こえているなら、それでいい」
彼は大剣を床へ下ろし、傷ついた左腕を庇いながら近づいてきた。
無理にアリスを引き戻そうとはしなかった。
母の姿を消そうとも、剣を奪おうともしない。
ただ、彼女の隣に立った。
「……俺の話を、少し聞いてくれ」
アリスは母の手を見つめたまま、微かに頷いた。
ルシアンはしばらく沈黙していた。
黒い硝子の広間には、【ハートコア】の鼓動が響いている。巨大な心臓の奥で【悲嘆聖炉グリーフ・リアクター】が低く唸り、七つの鏡印へ魔力を送り続けていた。
「俺は、処刑騎士だった」
ルシアンが口を開いた。
「王国の判決に従い、罪人の首を落とした。百人を超える人間を、この手で殺してきた」
アリスはゆっくりと彼を見た。
ルシアンの顔には、いつものように大きな感情は浮かんでいない。
けれど、その声には、隠しようのない重さがあった。
「判決が正しいかどうかを、俺が決める立場ではなかった。そう考えていた。裁判所が罪を認め、王国が処刑を命じたのなら、俺は剣を振るう。それが役目だと信じていた」
彼は一度、目を伏せた。
「だが、判決が間違っていた可能性を知ってからも、俺はその言い訳を捨てきれなかった」
アリスの脳裏に、エリオ・ベルンの名が浮かんだ。
十五歳で処刑された少年。
彼が本当に罪を犯したのか、今も確かな結論は出ていない。
しかし、裁判の記録には疑わしい点があり、再審を求める声も退けられていた。
ルシアンは、その少年へ剣を振り下ろした。
「……エリオのことですか」
「ああ」
ルシアンは頷いた。
「俺は、あの少年が無実だったと断言できない。だが、有罪だったと胸を張って言うこともできない」
彼は自分の右手を見つめた。
「それでも、俺が殺したことだけは変わらない」
アリスの視界に、新たな記録が浮かび上がった。
――EXECUTION RECORDS:AVAILABLE.
【処刑記録:参照可能】
――HISTORICAL RECONSTRUCTION:POSSIBLE.
【過去の再構築:可能】
――SUBJECT:LUCIAN VALHART.
【 対象:ルシアン・ヴァルハート】
アリスは息を呑んだ。
【黒鏡世界ノワール・ミラージュ】を使えば、鏡界に保存された処刑記録を書き換えられる。
さらに深く管理権へ接続すれば、処刑の記録だけでなく、関係者の記憶や判断まで再構築できるかもしれない。
ルシアンが誰も殺していない世界。
彼が処刑騎士にならず、罪を背負わずに生きてきた世界。
そんな可能性が、目の前に浮かんでいた。
「……ルシアン」
アリスは思わず口を開いた。
「私なら、あなたの記録を……」
「俺の罪を消すな」
ルシアンは静かに言った。
アリスは言葉を失った。
「俺が殺した人間は戻らない。なら、俺だけが何もしていない人間になるわけにはいかない」
彼はアリスを見つめた。
「記録を消しても、剣を振るった事実は変わらない。仮に俺の記憶まで消せたとしても、死んだ人間が生き返るわけじゃない」
「……でも、あなたは」
「苦しんでいるから、許されるわけでもない」
ルシアンは首を振った。
「俺は、自分が何をしたのかを覚えていたい。これから先、間違った判決を止めるために何ができるのか、考え続けたい」
アリスの胸に、鈍い痛みが戻ってきた。
それは、管理機構が計算したものではなかった。
ルシアンの言葉を聞いて、彼が背負っているものの重さを想像した時に生まれた痛みだった。
「……面倒な生き方ですね」
アリスが呟くと、ルシアンはわずかに口元を緩めた。
「面倒だ」
その返答が、あまりにも彼らしかった。
アリスは涙の残る顔で、小さく笑った。
視界に浮かんでいた生存率の文字列が、一瞬だけ薄くなった。
ルシアンはそれ以上、何も言わなかった。
彼は自分の選択を語っただけだった。
アリスに同じ答えを求めることも、母の再構築を止めるよう命じることもしなかった。
その沈黙が、アリスにはありがたかった。
続いて、軽い足音が近づいてきた。
「いやあ、相変わらず重たい話をする男だねえ」
ヴェルトだった。
彼は黒い帽子を指先で回しながら、ルシアンの隣へ立った。
いつもの軽薄な笑みを浮かべているが、顔色はまだ悪い。
禁術【終局取引】の代償は、完全には消えていなかった。
アリスが彼へ目を向けると、視界に管理記録が現れた。
――EXISTENCE STABILITY:DECREASED.
【存在安定性:低下】
――MEMORY ANCHOR:EXTERNAL.
【記憶の固定点:外部】
――FORBIDDEN EXCHANGE COST:ONGOING.
【禁術取引の代償:継続中】
アリスは眉を寄せた。
「……ヴェルト。あなた、まだ……」
「おっと、見えてるのかい?」
ヴェルトは肩をすくめた。
「便利な目だねえ。俺の財布の中身まで分かるなら、今後の商売は少し困るな」
「冗談を言っている場合じゃありません」
「そう言われると、ますます冗談を言いたくなるんだが」
彼は帽子を被り直し、少しだけ真面目な顔になった。
「まあ、俺の話も聞いてくれよ、お嬢様」
アリスは頷いた。
ヴェルトは黒い硝子の床へ視線を落とした。
「俺は、ずっと損をしない取引を探してきた。相手の欲しいものを見抜いて、自分が一番得をする条件を出す。危ない橋は渡らないし、勝てない賭けには乗らない。それが賢いやり方だと思ってた」
彼は苦笑した。
「ところが、人生ってやつは、どうも計算どおりにいかない」
アリスは黙って聞いていた。
「信用した相手に裏切られたこともあるし、逆に信用すべき相手を疑って、取り返しのつかない損をしたこともある。大事なものを手放してから、その値打ちに気づいたことだってある」
ヴェルトはルミナスのほうへ目を向けた。
少し離れた場所で、少年は耳をぴんと立てていた。
「それで、最後には禁術まで使った。あの時は、自分でも馬鹿な取引だと思ったよ」
「……後悔しているんですか?」
アリスが尋ねると、ヴェルトは首を振った。
「いや」
その返答は、驚くほどはっきりしていた。
「失敗のない人生なんざ、俺じゃない」
彼は帽子のつばを指で弾いた。
「損をしない取引しかできないなら、そもそも賭ける意味がないだろう?」
アリスは、彼の顔を見つめた。
ヴェルトの存在は、まだ不安定だった。
時折、彼の輪郭が薄く揺らぎ、周囲の記録から名前が欠けるような兆候が現れている。
その代償を取り除く方法を、管理機構は探していた。
――COST REVERSAL:POSSIBLE.
【代償の取り消し:可能】
――PAST DECISION RECONSTRUCTION:REQUIRED.
【過去の選択の再構築:必要】
アリスは思わず口を開いた。
「……あの取引を、なかったことにすれば」
「俺がルミナスに助けられたことも、なかったことになるのかい?」
ヴェルトは静かに尋ねた。
アリスは答えられなかった。
「それは、ちょっと困るな」
彼は笑った。
「俺はあの時、確かに間違えたかもしれない。けれど、あいつが俺を忘れずにいてくれたことまで、消したくないんだ」
ルミナスが耳を動かした。
「ヴェルト、聞こえてるよ!」
「聞かせてるんだよ」
「だったら、もっと素直に感謝してよね!」
「してるだろう? 俺にしては、かなり大盤振る舞いだぜ」
ルミナスは頬を膨らませたが、すぐに笑った。
アリスは二人のやり取りを見つめた。
失敗した取引。
消えかけた存在。
それを繋ぎ止めた、誰かの記憶。
管理機構にとっては、修正すべき不安定な記録なのかもしれない。
けれど、ヴェルトにとっては、確かに自分が生きてきた証だった。
「……お嬢様」
ヴェルトが声を落とした。
「俺の過去を綺麗にしてくれる必要はないよ。どうしても手を貸してくれるなら、これから先、もう少し面白い取引ができるようにしてくれ」
アリスは小さく頷いた。
「……考えておきます」
「それで十分さ」
ヴェルトは満足そうに笑った。
その横から、ルミナスが勢いよく飛び出してきた。
「はいはい! 次は僕!」
少年はアリスの正面へ回り込み、猫耳をぴんと立てた。
銀紫色の髪が揺れ、腰に下げた双剣【グリン】と【グリム】が小さく音を立てる。
アリスの視界に、また管理記録が浮かんだ。
――BEHAVIORAL PREDICTABILITY:LOW.
【行動予測可能性:低】
――UNEXPECTED ACTION FREQUENCY:HIGH.
【予測外行動の頻度:高】
――RISK FACTOR:UNSTABLE.
【 危険因子:不安定】
アリスは思わず眉を寄せた。
「……ルミナスは、相変わらず予測不能ですね」
「えへへ。褒めてる?」
「管理機構は、危険要因だと判断しています」
「じゃあ、褒めてるんだ!」
ルミナスは胸を張った。
アリスは呆れたように息を吐いた。
その反応を見て、ルミナスは嬉しそうに笑う。
「ほら、今の顔!」
「……何ですか?」
「そういう顔、好きなんだよね。アリスが、僕の予想と違う反応する時の顔」
アリスは首を傾げた。
「……それが、そんなに大切なんですか?」
「大切だよ」
ルミナスは即答した。
「全部決められたら、君を驚かせられない」
アリスは瞬きをした。
「驚かせることが、そんなに大切なの?」
「大切だよ。アリスがどんな顔するか、僕だって知らないもん」
ルミナスは笑った。
「知らないから、一緒にいたいんじゃない?」
アリスは言葉を失った。
その瞬間、視界に浮かんでいた管理記録が、わずかに乱れた。
――UNPREDICTABLE INTERACTION.
【予測不能な相互作用】
――EMOTIONAL RESPONSE:UNCLASSIFIED.
【 情動反応:分類不能】
――CORRECTION RECOMMENDED.
【修正を推奨】
アリスは、その文字列を見つめた。
予測できないこと。
管理機構にとっては、危険だった。
誰かが予想外の行動をすれば、争いが起こるかもしれない。
誰かが思いがけない選択をすれば、取り返しのつかない結果が生まれるかもしれない。
けれど、予測できないことは、悪いことばかりではない。
ルミナスが突然笑い出すこと。
ヴェルトが思いがけず誰かを助けること。
ルシアンが不器用な言葉で、誰かを気遣うこと。
そうした瞬間を、アリスは何度も見てきた。
それらは、誰かに命令されたものではなかった。
だからこそ、嬉しかった。
「……ルミナス」
アリスが名前を呼ぶと、彼女は嬉しそうに耳を動かした。
「なあに?」
「あなたといると、疲れることが多いです」
「ひどい!」
「でも……」
アリスは少しだけ笑った。
「退屈したことは、ありません」
ルミナスは目を丸くした。
次の瞬間、満面の笑みを浮かべた。
「でしょ!」
彼女は勢いよくアリスへ抱きつこうとしたが、途中で動きを止めた。
目の前には、まだ母の再構築された姿が立っている。
アリスがどんな気持ちでいるのか、ルミナスにも分かっていた。
少年は両腕を下ろし、少しだけ声を柔らかくした。
「……アリス。僕、君がどっちを選んでも、ちゃんと聞くよ」
アリスは目を見開いた。
「ただ、君がいなくなっちゃうのは、嫌だな」
ルミナスは照れくさそうに笑った。
「まだ、一緒にご飯食べる約束もしてるしね」
アリスの胸に、温かなものが広がった。
管理機構は、それを情動反応として分類しようとした。
けれど、アリスはその文字列を見なかった。
ただ、目の前の友人を見つめていた。




