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断罪の国のアリス―Project Glass Eden―  作者: 塚田澄玻
第十章 黒鏡世界ノワール・ミラージュ
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第56話 母と娘

「……管理権を、解除することはできますか?」


 レオンハルトは頷いた。


「第一段階のうちなら、接続を切ることは可能だ。ただし、七つの鏡印を統合した状態は残る。完全に元へ戻すには、管理機構そのものを再構築する必要があるだろうね」


 アリスは少しだけ安堵した。

 まだ、戻る道はある。

 少なくとも、今なら。


 その時、視界の隅に、別の文字列が浮かび上がった。


 ――ARCHIVED PERSONALITY RECORD:DETECTED.

 【保存済み人格記録】


 ――SUBJECT:LUVERT HOUSEHOLD.

 【ルーヴェルト家】


 ――MATERNAL RECORD:PARTIAL.

 【母親の記録:不完全】


 アリスの呼吸が止まった。


 侯爵家。

 母親の記録。

 彼女は思わず文字列へ手を伸ばした。


「……これは?」


 レオンハルトも表示を見つめた。


「君の母親に関する記録だね。鏡界計画に関わった人物の情報は、王家の機密資料として保存されている。君の母親も、その一人だった」


 アリスは息を呑んだ。

 母は、鏡界の秘密を知ったために殺された。

 その事実を知った時の痛みが、胸の奥に蘇る。

 けれど、今のアリスには、その痛みさえどこか遠く感じられた。


「……見せてください」


 アリスが告げると、レオンハルトは頷いた。


「君自身の管理権で、閲覧できるはずだよ」


 アリスは剣を掲げ、記録へ意識を向けた。

 黒い硝子の壁に、古い映像が現れた。

 侯爵家の書斎。

 机に向かい、手紙を書いている母の姿。

 その横顔は、先ほどの試算世界で見たものと同じだった。


 アリスは思わず一歩近づいた。

 母はペンを止め、窓の外へ目を向けた。

 そこには、幼いアリスが庭を走る姿が映っている。

 母は微笑み、何かを呟いた。

 だが、音声は途中で途切れていた。


 ――AUDIO RECORD:INCOMPLETE.

 【音声記録:不完全】


 アリスは唇を噛んだ。

 続いて、別の記録が現れた。


 王家の研究施設。

 母が魔術師たちと議論している。

 彼女は鏡界計画の資料を指さし、何かを強く訴えていた。

 その表情には、怒りと恐怖が混じっている。

 アリスは、母が何を守ろうとしていたのかを知っていた。

 鏡界へ組み込まれようとしていた人々。

 そして、自分自身。

 母は、誰かの人生を勝手に決める仕組みに反対していた。

 そのために命を奪われた。


「……お母様」


 アリスの声が震えた。

 次の瞬間、記録の中の母がこちらを向いた。

 それは単なる偶然だったろう。

 過去の映像が、たまたまアリスの立つ方向を映しただけだ。

 それでも、アリスには母が自分を見つめたように思えた。

 視界に、新たな文字列が現れる。


 ――PERSONALITY RECONSTRUCTION:AVAILABLE.

 【人格再構築:可能】


 ――SOURCE DATA:PARTIAL.

 【元データ:不完全】


 ――SUPPLEMENTAL INFERENCE:REQUIRED.

 【補完推定:必要】


 アリスは息を呑んだ。


「……人格を、再構築できる?」


 レオンハルトは静かに答えた。


「完全な記録ではない。けれど、姿や声、行動の傾向、魔術的な人格情報の一部は残っている。それらを組み合わせれば、君の母親によく似た存在を作ることはできるだろう」

「……それは、本当にお母様なんですか?」

「分からない」


 レオンハルトは即答した。


「記録の中に、彼女自身の意識の一部が残っている可能性はある。けれど、それが生前の本人と連続した存在なのか、記録から作られた別の人格なのかを、証明する方法はない」


 アリスは目を閉じた。

 分からない。

 その言葉が、胸に刺さった。

 もし、母の一部が本当に残っているのなら。

 もし、もう一度だけ、母と話せるのなら。

 それを確かめずに手放すことが、できるだろうか。


「……再構築したら、どうなるんですか?」

「鏡界の内部であれば、人格を維持できる。君が管理権を持ち続ける限り、記録の劣化を防ぎ、会話や行動を継続させることも可能だ」


 レオンハルトは続けた。


「ただし、再構築には第二段階以上の権限が必要になる。人格情報の欠損を補うため、管理者自身の記憶や判断も参照されるだろう」


 アリスは自分の胸へ手を当てた。

 母の声を思い出せない。

 あの日、失ってしまった声。

 それを取り戻せるかもしれない。

 たとえ完全な母ではなくても、母の記憶の一部が残っているのなら。

 アリスは、ゆっくりと剣を掲げた。


「……少しだけ、試してもいいですか」


 ハロルドが息を呑んだ。


「アリス」

「分かっています。危険なのは」


 アリスは振り返らなかった。


「でも……会いたいんです」


 その言葉だけは、管理機構の計算ではなかった。

 胸の奥から、どうしようもなく溢れてきた願いだった。


「一度だけでいいから、お母様に会いたいんです」


 ルミナスが何かを言いかけたが、ヴェルトがそっと手を上げて止めた。

 誰も、アリスの願いを笑わなかった。

 レオンハルトも、何も言わずに見守っていた。

 アリスは【グラス・ヴェリタス】を胸の前へ掲げた。


「【黒鏡世界ノワール・ミラージュ】」


 七つの鏡印が、再び輝いた。


 ――STAGE TWO:ACCESS REQUESTED.

 【第二段階:接続要求あり】


 ――PERSONALITY RECORD RECONSTRUCTION.

 【人格記録の再構築】


 ――TARGET:MATERNAL ARCHIVE.

 【対象:母親の保存記録】


 黒い硝子の床から、細い光の糸が立ち上がった。

 それらは空中で絡み合い、人の輪郭を形作っていく。


 最初に現れたのは、長い黒髪だった。

 続いて、白い手。

 淡い色のドレス。

 やがて、アリスが幼い頃から見慣れていた横顔が浮かび上がる。


 アリスは息を止めた。


 目の前に、母が立っていた。

 先ほどの試算世界よりも、さらに精巧な姿だった。

 髪の揺れ方も、指先の動きも、記憶の中の母によく似ている。

 女性はゆっくりと顔を上げた。


「……アリス」


 その声を聞いた瞬間、アリスの胸が強く締めつけられた。

 母の声。

 失ってしまったはずの声。


 けれど、本当に同じなのかどうか、もう確かめることはできなかった。

 アリスは一歩近づいた。


「……お母様?」


 女性は微笑んだ。


「大きくなったのね」


 その言葉に、アリスの目から涙がこぼれた。

 母が生きていた頃、何度も聞いたような気がする言葉だった。

 けれど、実際にそう言われた記憶があるのか、それとも自分が聞きたかった言葉なのか、分からない。

 それでも、嬉しかった。


「……私、ずっと」


 アリスは声を詰まらせた。


「ずっと、会いたかったんです」


 女性は優しく頷いた。


「ええ。分かっているわ」


 その返答を聞いた瞬間、アリスの視界に文字列が浮かんだ。


 ――EMOTIONAL RESPONSE:HIGH.

 【情動反応:高】


 ――MEMORY CONSISTENCY:PARTIAL.

 【記憶の整合性:不完全】


 ――PERSONALITY COMPLETION:62%.

 【人格再構築の完成度:62%】


 アリスは瞬きをした。

 母の姿の向こうに、膨大な情報が流れている。

 声の抑揚。

 表情の変化。

 過去の行動記録との一致率。

 欠損した記憶を補うために必要な推定値。

 それらが、驚くほど簡単に理解できた。


 ――SUBJECT RECONSTRUCTION BENEFIT:HIGH.

 【対象再構築による利益:高】


 ――ADMINISTRATOR EMOTIONAL STABILITY:IMPROVEMENT EXPECTED.

 【管理者の情動安定性:改善見込み】


 ――RESOURCE COST:ACCEPTABLE.

 【資源消費:許容範囲】


 アリスは、自分がその情報を冷静に評価していることに気づいた。

 母が目の前にいる。

 ずっと会いたかった人が、手の届く場所にいる。

 それなのに、心のどこかで、必要な魔力と維持費用を計算している。

 この人格を維持するために、どれだけの魔力が必要か。

 母の記録を補完するために、どの程度の推定が許容されるか。

 アリス自身の精神状態を安定させるために、どんな会話を優先すべきか。

 そのすべてが、自然に分かってしまう。


「……違う」


 アリスは小さく呟いた。

 女性が首を傾げた。


「どうしたの、アリス?」

「……違うんです」


 アリスは胸へ手を当てた。

 涙はまだ流れている。

 けれど、涙が流れている理由を、少しずつ思い出せなくなっていた。


 母に会いたかった。

 その願いは確かにあった。

 なのに、今は母が存在することの利点ばかりが浮かぶ。


 自分の精神が安定する。

 過去の喪失感が軽減される。

 今後の判断に必要な情動負荷が減る。


 それらは、すべて正しいのかもしれない。

 けれど、アリスが母に会いたかったのは、そんな理由ではなかった。

 ただ、抱きしめてほしかった。

 名前を呼んでほしかった。

 自分がどれほど怖かったのか、聞いてほしかった。

 それだけだったはずなのに。


 ――PERSONALITY COMPLETION:74%.

 【人格再構築の完成度:74%】


 ――ADMINISTRATOR MEMORY INTEGRATION:PROGRESSING.

 【管理者の記憶統合:進行中】


 アリスの視界が揺れた。

 幼い頃の記憶が、突然鮮明になる。

 侯爵家の庭園。

 母の手。

 白い花。

 そして、まだ幼い自分が、転んで泣いている姿。

 母は駆け寄り、アリスを抱き起こした。

 その声が聞こえる。


『大丈夫よ、アリス』


 アリスは息を呑んだ。

 これは、本当にあった記憶だろうか。

 それとも、管理機構が記録から補ったものだろうか。

 分からない。

 記憶の中の母は、優しく微笑んでいる。

 その表情は、目の前の女性と同じだった。


 ――MEMORY SOURCE:MIXED.

 【 記憶の出所:混在】


 ――ORIGINAL EXPERIENCE:UNVERIFIED.

 【実体験との一致:未確認】


 アリスは頭を押さえた。


「……やめて」


 しかし、光の糸は止まらなかった。

 女性の姿はさらに鮮明になり、瞳の奥に柔らかな輝きが宿る。

 アリスの脳裏には、母と過ごしたはずの時間が次々と浮かんでくる。


 庭園で花を摘んだ午後。

 雨の日に読んでもらった物語。

 眠れない夜に握ってくれた手。

 その一つ一つが、実際の記憶なのか、再構築された情報なのか、区別できなくなっていく。


 アリスは、母の顔を見つめた。

 こんなにも会いたかったのに。

 こんなにも、抱きしめてほしかったのに。

 今の自分は、母を見ながら、その人格の完成度を測っている。

 母を取り戻そうとするほど、母を愛していた自分が、少しずつ失われていく。


「……アリス!」


 遠くから、ルミナスの声が聞こえた。

 アリスは振り返ろうとした。

 しかし、身体が動かなかった。

 視界の隅に、仲間たちの情報が浮かんでいる。


 ――EXTERNAL INTERFERENCE:DETECTED.

 【外部からの干渉:検出】


 ――PROTECTION TARGETS:FOUR.

 【保護対象:四名】


 ――INTERVENTION PRIORITY:LOW.

 【介入優先度:低】


 アリスは唇を噛んだ。

 ルミナスが呼んでいる。

 ヴェルトも、何かを叫んでいる。

 ルシアンがこちらへ駆け寄ろうとしている。

 ハロルドは【ラスト・ページ】を発動し、必死に未来を探っていた。

 それなのに、アリスの意識は彼らを、保護対象としてしか認識できなくなり始めていた。


「……違う」


 アリスは必死に声を絞り出した。


「みんなは……そんなものじゃ……」


 目の前の母が、ゆっくりと手を伸ばした。

 白い指先が、アリスの頬へ近づく。

 その仕草は、幼い頃の記憶とよく似ていた。

 アリスは涙を流しながら、母の手へ自分の手を伸ばした。


 触れたい。

 抱きしめてほしい。

 たとえ本物かどうか分からなくても、今だけは。

 その瞬間、管理機構の声が響いた。


『対象人格の再構築を完了するには、管理者人格の追加統合が必要です』


 ――PERSONALITY COMPLETION:89%.

 【人格再構築の完成度:89%】


 ――STAGE THREE:INTEGRATION AVAILABLE.

 【 第三段階: 統合可能】


 ――ADMINISTRATOR IDENTITY:REPLACEMENT RISK.

 【管理者人格:人格置換の危険】


 アリスは、その文字列を見つめた。

 意味は、理解できた。


 これ以上進めば、自分は戻れなくなるかもしれない。

 母を取り戻すために、母を愛していた自分自身を失う。

 それでも、目の前の手は、あまりにも優しかった。

 アリスは、手を止められなかった。


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