第56話 母と娘
「……管理権を、解除することはできますか?」
レオンハルトは頷いた。
「第一段階のうちなら、接続を切ることは可能だ。ただし、七つの鏡印を統合した状態は残る。完全に元へ戻すには、管理機構そのものを再構築する必要があるだろうね」
アリスは少しだけ安堵した。
まだ、戻る道はある。
少なくとも、今なら。
その時、視界の隅に、別の文字列が浮かび上がった。
――ARCHIVED PERSONALITY RECORD:DETECTED.
【保存済み人格記録】
――SUBJECT:LUVERT HOUSEHOLD.
【ルーヴェルト家】
――MATERNAL RECORD:PARTIAL.
【母親の記録:不完全】
アリスの呼吸が止まった。
侯爵家。
母親の記録。
彼女は思わず文字列へ手を伸ばした。
「……これは?」
レオンハルトも表示を見つめた。
「君の母親に関する記録だね。鏡界計画に関わった人物の情報は、王家の機密資料として保存されている。君の母親も、その一人だった」
アリスは息を呑んだ。
母は、鏡界の秘密を知ったために殺された。
その事実を知った時の痛みが、胸の奥に蘇る。
けれど、今のアリスには、その痛みさえどこか遠く感じられた。
「……見せてください」
アリスが告げると、レオンハルトは頷いた。
「君自身の管理権で、閲覧できるはずだよ」
アリスは剣を掲げ、記録へ意識を向けた。
黒い硝子の壁に、古い映像が現れた。
侯爵家の書斎。
机に向かい、手紙を書いている母の姿。
その横顔は、先ほどの試算世界で見たものと同じだった。
アリスは思わず一歩近づいた。
母はペンを止め、窓の外へ目を向けた。
そこには、幼いアリスが庭を走る姿が映っている。
母は微笑み、何かを呟いた。
だが、音声は途中で途切れていた。
――AUDIO RECORD:INCOMPLETE.
【音声記録:不完全】
アリスは唇を噛んだ。
続いて、別の記録が現れた。
王家の研究施設。
母が魔術師たちと議論している。
彼女は鏡界計画の資料を指さし、何かを強く訴えていた。
その表情には、怒りと恐怖が混じっている。
アリスは、母が何を守ろうとしていたのかを知っていた。
鏡界へ組み込まれようとしていた人々。
そして、自分自身。
母は、誰かの人生を勝手に決める仕組みに反対していた。
そのために命を奪われた。
「……お母様」
アリスの声が震えた。
次の瞬間、記録の中の母がこちらを向いた。
それは単なる偶然だったろう。
過去の映像が、たまたまアリスの立つ方向を映しただけだ。
それでも、アリスには母が自分を見つめたように思えた。
視界に、新たな文字列が現れる。
――PERSONALITY RECONSTRUCTION:AVAILABLE.
【人格再構築:可能】
――SOURCE DATA:PARTIAL.
【元データ:不完全】
――SUPPLEMENTAL INFERENCE:REQUIRED.
【補完推定:必要】
アリスは息を呑んだ。
「……人格を、再構築できる?」
レオンハルトは静かに答えた。
「完全な記録ではない。けれど、姿や声、行動の傾向、魔術的な人格情報の一部は残っている。それらを組み合わせれば、君の母親によく似た存在を作ることはできるだろう」
「……それは、本当にお母様なんですか?」
「分からない」
レオンハルトは即答した。
「記録の中に、彼女自身の意識の一部が残っている可能性はある。けれど、それが生前の本人と連続した存在なのか、記録から作られた別の人格なのかを、証明する方法はない」
アリスは目を閉じた。
分からない。
その言葉が、胸に刺さった。
もし、母の一部が本当に残っているのなら。
もし、もう一度だけ、母と話せるのなら。
それを確かめずに手放すことが、できるだろうか。
「……再構築したら、どうなるんですか?」
「鏡界の内部であれば、人格を維持できる。君が管理権を持ち続ける限り、記録の劣化を防ぎ、会話や行動を継続させることも可能だ」
レオンハルトは続けた。
「ただし、再構築には第二段階以上の権限が必要になる。人格情報の欠損を補うため、管理者自身の記憶や判断も参照されるだろう」
アリスは自分の胸へ手を当てた。
母の声を思い出せない。
あの日、失ってしまった声。
それを取り戻せるかもしれない。
たとえ完全な母ではなくても、母の記憶の一部が残っているのなら。
アリスは、ゆっくりと剣を掲げた。
「……少しだけ、試してもいいですか」
ハロルドが息を呑んだ。
「アリス」
「分かっています。危険なのは」
アリスは振り返らなかった。
「でも……会いたいんです」
その言葉だけは、管理機構の計算ではなかった。
胸の奥から、どうしようもなく溢れてきた願いだった。
「一度だけでいいから、お母様に会いたいんです」
ルミナスが何かを言いかけたが、ヴェルトがそっと手を上げて止めた。
誰も、アリスの願いを笑わなかった。
レオンハルトも、何も言わずに見守っていた。
アリスは【グラス・ヴェリタス】を胸の前へ掲げた。
「【黒鏡世界ノワール・ミラージュ】」
七つの鏡印が、再び輝いた。
――STAGE TWO:ACCESS REQUESTED.
【第二段階:接続要求あり】
――PERSONALITY RECORD RECONSTRUCTION.
【人格記録の再構築】
――TARGET:MATERNAL ARCHIVE.
【対象:母親の保存記録】
黒い硝子の床から、細い光の糸が立ち上がった。
それらは空中で絡み合い、人の輪郭を形作っていく。
最初に現れたのは、長い黒髪だった。
続いて、白い手。
淡い色のドレス。
やがて、アリスが幼い頃から見慣れていた横顔が浮かび上がる。
アリスは息を止めた。
目の前に、母が立っていた。
先ほどの試算世界よりも、さらに精巧な姿だった。
髪の揺れ方も、指先の動きも、記憶の中の母によく似ている。
女性はゆっくりと顔を上げた。
「……アリス」
その声を聞いた瞬間、アリスの胸が強く締めつけられた。
母の声。
失ってしまったはずの声。
けれど、本当に同じなのかどうか、もう確かめることはできなかった。
アリスは一歩近づいた。
「……お母様?」
女性は微笑んだ。
「大きくなったのね」
その言葉に、アリスの目から涙がこぼれた。
母が生きていた頃、何度も聞いたような気がする言葉だった。
けれど、実際にそう言われた記憶があるのか、それとも自分が聞きたかった言葉なのか、分からない。
それでも、嬉しかった。
「……私、ずっと」
アリスは声を詰まらせた。
「ずっと、会いたかったんです」
女性は優しく頷いた。
「ええ。分かっているわ」
その返答を聞いた瞬間、アリスの視界に文字列が浮かんだ。
――EMOTIONAL RESPONSE:HIGH.
【情動反応:高】
――MEMORY CONSISTENCY:PARTIAL.
【記憶の整合性:不完全】
――PERSONALITY COMPLETION:62%.
【人格再構築の完成度:62%】
アリスは瞬きをした。
母の姿の向こうに、膨大な情報が流れている。
声の抑揚。
表情の変化。
過去の行動記録との一致率。
欠損した記憶を補うために必要な推定値。
それらが、驚くほど簡単に理解できた。
――SUBJECT RECONSTRUCTION BENEFIT:HIGH.
【対象再構築による利益:高】
――ADMINISTRATOR EMOTIONAL STABILITY:IMPROVEMENT EXPECTED.
【管理者の情動安定性:改善見込み】
――RESOURCE COST:ACCEPTABLE.
【資源消費:許容範囲】
アリスは、自分がその情報を冷静に評価していることに気づいた。
母が目の前にいる。
ずっと会いたかった人が、手の届く場所にいる。
それなのに、心のどこかで、必要な魔力と維持費用を計算している。
この人格を維持するために、どれだけの魔力が必要か。
母の記録を補完するために、どの程度の推定が許容されるか。
アリス自身の精神状態を安定させるために、どんな会話を優先すべきか。
そのすべてが、自然に分かってしまう。
「……違う」
アリスは小さく呟いた。
女性が首を傾げた。
「どうしたの、アリス?」
「……違うんです」
アリスは胸へ手を当てた。
涙はまだ流れている。
けれど、涙が流れている理由を、少しずつ思い出せなくなっていた。
母に会いたかった。
その願いは確かにあった。
なのに、今は母が存在することの利点ばかりが浮かぶ。
自分の精神が安定する。
過去の喪失感が軽減される。
今後の判断に必要な情動負荷が減る。
それらは、すべて正しいのかもしれない。
けれど、アリスが母に会いたかったのは、そんな理由ではなかった。
ただ、抱きしめてほしかった。
名前を呼んでほしかった。
自分がどれほど怖かったのか、聞いてほしかった。
それだけだったはずなのに。
――PERSONALITY COMPLETION:74%.
【人格再構築の完成度:74%】
――ADMINISTRATOR MEMORY INTEGRATION:PROGRESSING.
【管理者の記憶統合:進行中】
アリスの視界が揺れた。
幼い頃の記憶が、突然鮮明になる。
侯爵家の庭園。
母の手。
白い花。
そして、まだ幼い自分が、転んで泣いている姿。
母は駆け寄り、アリスを抱き起こした。
その声が聞こえる。
『大丈夫よ、アリス』
アリスは息を呑んだ。
これは、本当にあった記憶だろうか。
それとも、管理機構が記録から補ったものだろうか。
分からない。
記憶の中の母は、優しく微笑んでいる。
その表情は、目の前の女性と同じだった。
――MEMORY SOURCE:MIXED.
【 記憶の出所:混在】
――ORIGINAL EXPERIENCE:UNVERIFIED.
【実体験との一致:未確認】
アリスは頭を押さえた。
「……やめて」
しかし、光の糸は止まらなかった。
女性の姿はさらに鮮明になり、瞳の奥に柔らかな輝きが宿る。
アリスの脳裏には、母と過ごしたはずの時間が次々と浮かんでくる。
庭園で花を摘んだ午後。
雨の日に読んでもらった物語。
眠れない夜に握ってくれた手。
その一つ一つが、実際の記憶なのか、再構築された情報なのか、区別できなくなっていく。
アリスは、母の顔を見つめた。
こんなにも会いたかったのに。
こんなにも、抱きしめてほしかったのに。
今の自分は、母を見ながら、その人格の完成度を測っている。
母を取り戻そうとするほど、母を愛していた自分が、少しずつ失われていく。
「……アリス!」
遠くから、ルミナスの声が聞こえた。
アリスは振り返ろうとした。
しかし、身体が動かなかった。
視界の隅に、仲間たちの情報が浮かんでいる。
――EXTERNAL INTERFERENCE:DETECTED.
【外部からの干渉:検出】
――PROTECTION TARGETS:FOUR.
【保護対象:四名】
――INTERVENTION PRIORITY:LOW.
【介入優先度:低】
アリスは唇を噛んだ。
ルミナスが呼んでいる。
ヴェルトも、何かを叫んでいる。
ルシアンがこちらへ駆け寄ろうとしている。
ハロルドは【ラスト・ページ】を発動し、必死に未来を探っていた。
それなのに、アリスの意識は彼らを、保護対象としてしか認識できなくなり始めていた。
「……違う」
アリスは必死に声を絞り出した。
「みんなは……そんなものじゃ……」
目の前の母が、ゆっくりと手を伸ばした。
白い指先が、アリスの頬へ近づく。
その仕草は、幼い頃の記憶とよく似ていた。
アリスは涙を流しながら、母の手へ自分の手を伸ばした。
触れたい。
抱きしめてほしい。
たとえ本物かどうか分からなくても、今だけは。
その瞬間、管理機構の声が響いた。
『対象人格の再構築を完了するには、管理者人格の追加統合が必要です』
――PERSONALITY COMPLETION:89%.
【人格再構築の完成度:89%】
――STAGE THREE:INTEGRATION AVAILABLE.
【 第三段階: 統合可能】
――ADMINISTRATOR IDENTITY:REPLACEMENT RISK.
【管理者人格:人格置換の危険】
アリスは、その文字列を見つめた。
意味は、理解できた。
これ以上進めば、自分は戻れなくなるかもしれない。
母を取り戻すために、母を愛していた自分自身を失う。
それでも、目の前の手は、あまりにも優しかった。
アリスは、手を止められなかった。




