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断罪の国のアリス―Project Glass Eden―  作者: 塚田澄玻
第十章 黒鏡世界ノワール・ミラージュ
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第55話 黒鏡姫アストレア

 母のいる庭園は、まだそこにあった。

 白い花が風に揺れ、東屋のテーブルには二人分の茶器が並んでいる。

 アリスの母によく似た女性は、娘が近づくのを待つように微笑んでいた。


 その光景を前に、アリスは動けずにいた。


 目の前の女性が、生き返った母ではないことは理解している。

 レオンハルトが見せているのは、過去の記録と未来の試算から作られた再現体にすぎない。

 それでも、もう一度その手に触れたいという願いは、理屈で消せるものではなかった。


「アリス。君には、まだ見せていないものがある」


 レオンハルトの声に、彼女はゆっくりと振り返った。

 第二王子は穏やかな表情のまま、右手を差し出していた。

 その掌には、小さな硝子の紋章が浮かんでいる。


「七つの鏡印が揃った今、君は【グラス・エデン】の管理権を継承できる。女王レギナが残した古い機構も、僕が追加した新しい管理命令も、君なら一つの体系として扱えるはずだ」

「……私が、それを望まなかったら?」

「望まないまま使い続けることはできない。管理者には、自分が何を実現したいのかを判断する意思が必要だからね」


 レオンハルトは少しだけ目を細めた。


「まずは管理権に触れて、君自身に可能性を確かめてほしい」


 アリスは彼の掌を見つめた。


 先ほど見た【完成世界コンプリート・エデン】の街並みが、脳裏に浮かぶ。

 飢えのない食卓、誤った判決を防ぐ法廷、争いを避けた国境の兵士たち。

 そして、誰にも奪われることのなかった母との時間。


 あの世界には、確かに救われる命がある。


 けれど、その幸福を維持するために、人々が知らないうちに選択を変えられていることも知ってしまった。


「……管理権を得たら、私が命令を変えられるんですか?」

「変えられるよ。鏡界の内部であれば、今までのように原理の矛盾を証明する必要もない。君が望む形へ、法則そのものを修正できる」

「その力で、人々の選択を奪わない仕組みにすることも?」

「理論上は可能だ。ただし、それでどんな未来が生まれるかは、君自身が引き受けなければならない」


 アリスは【グラス・ヴェリタス】へ目を落とした。


 七つの鏡印は、静かに輝いている。


 恐怖に支配されないこと。欲望を他人に決められないこと。与えられた役割だけで生きないこと。記録を疑うこと。痛みを感じる自由を持つこと。判決を問い直すこと。そして、愛を理由に他人の人生を奪わないこと。


 それらは、アリスが鏡界で出会った人々とともに選んできた答えだった。

 彼女は剣を胸の前へ掲げた。


「……確かめます。私に何ができるのか」


 ハロルドが一歩踏み出した。


「アリス、待て。レオンハルトが管理権の移譲条件を設計した以上、その先に何があるか分からない」

「分かっています」


 アリスは兄王子を見た。


「だからこそ、確かめたいんです。誰かの説明だけを信じて、また選択を間違えたくありません」


 ハロルドは何かを言いかけたが、やがて口を閉じた。

 レオンハルトは二人のやり取りを見守り、満足そうに頷いた。


「では、始めよう」


 彼が掌を閉じた瞬間、庭園の景色に細い亀裂が走った。

 白い花も、東屋も、母によく似た女性の姿も、幾千もの硝子片となって宙へ舞い上がる。

 アリスは思わず手を伸ばしたが、女性の微笑みは光の粒へ変わり、指先に触れることなく消えていった。


 次の瞬間、足元には黒い硝子の広間が戻っていた。

 中央に浮かぶ巨大な心臓が、重く脈打っている。

 玉座の前に立つレギナは、アリスの剣を見つめていた。


「……七つの原理が、統合されるのか」


 その声に応じるように、【グラス・ヴェリタス】の刀身から七色の光が立ち上った。


 第一の鏡印が赤く輝き、続いて蒼、銀、白、金の光が複雑に絡み合う。

 これまで別々の原理を宿していた紋様が、一本の細い線で結ばれていった。

 アリスの足元に円形の魔法陣が広がる。

 黒い硝子の床には、彼女自身の姿が映っていた。

 しかし、映し出された少女は、現実のアリスよりも一瞬早く顔を上げた。


「……え?」


 アリスが息を呑むと、鏡像は静かに微笑んだ。

 その瞳には、赤と青の光が宿っている。


 ――SEVEN PRINCIPLES:INTEGRATED.

 【七つの原理:統合完了】


 ――ADMINISTRATIVE AUTHORITY:TRANSFER INITIATED.

 【 管理権限:移譲開始】


 ――VESSEL IDENTIFIED.

 【 器を識別】


 ――ASTRAEA.

 【アストレア】


 硝子の文字列が浮かび上がった直後、アリスの身体を冷たい光が包んだ。

 髪の根元から銀色の輝きが走り、黒髪の一房一房に細かな光が宿る。

 右の青い瞳と左の赤い瞳は、磨き上げられた宝石のように透明な輝きを帯びた。

 黒い軍装風のドレスも変化していく。

 胸元には細い銀の装飾が浮かび、肩から腰へかけて、王冠を思わせる曲線が幾重にも重なった。

 裾は鏡片のような薄い硝子へ分かれ、アリスがわずかに身じろぎするだけで、周囲の光を異なる角度へ反射する。

 その姿は、かつて鏡界の記録に現れた黒鏡姫の肖像と重なっていた。


「……アストレア」


 ハロルドが呟いた。

 アリスは自分の手を見つめた。

 指先に、痛みはない。

 重さも、息苦しさも感じない。

 むしろ、これまで曖昧だった周囲の気配が、驚くほど明瞭になっていた。


 広間を流れる魔力の量。

 巨大な心臓が次に収縮するまでの時間。

 床に刻まれた術式の構造。

 レギナの管理人格を維持する記録の位置。


 それらが、意識するよりも早く理解できた。

 そして、仲間たちの姿を見た瞬間、アリスは奇妙な違和感を覚えた。

 ルシアンの顔が見える。

 けれど、その顔を認識するより先に、別の情報が浮かんだ。


 ――PROTECTION TARGET:HIGH PRIORITY.

 【保護対象:高優先度】


 ――COMBAT CAPABILITY:DECREASED.

 【戦闘能力:低下】


 ――LEFT ARM:STRUCTURAL DAMAGE.

 【左腕:組織損傷】


 ――PREDICTED SURVIVAL RATE:71.4%.

 【予測生存率:71.4%】


 アリスは目を見開いた。


「……ルシアン?」

「どうした」


 彼はいつものように短く答えた。

 その声を聞いた瞬間、アリスはほっとした。

 だが、安堵の感情が生まれるより早く、別の記録が視界を横切る。


 ――EMOTIONAL ATTACHMENT:DETECTED.

 【情緒的愛着:検出】


 ――DECISION BIAS:POSSIBLE.

 【判断の偏り:可能性あり】


 ――CORRECTION RECOMMENDED.

 【修正を推奨】


 アリスは思わず一歩退いた。

 次にヴェルトを見ると、彼の周囲にも文字列が浮かんだ。


 ――UNSTABLE MAGIC USER.

 【 不安定な魔術使用者】


 ――RESOURCE EXCHANGE CAPABILITY:RESTRICTED.

 【 資源交換能力:制限中】


 ――UNPREDICTABLE ACTION RISK:MODERATE.

 【予測不能な行動の危険度:中】


 ルミナスには、別の記録が重なる。


 ――HIGH MOBILITY COMBATANT.

 【高機動戦闘員】


 ――OBSERVATION INTERFERENCE CAPABILITY:ACTIVE POTENTIAL.

 【観測妨害能力:発動の可能性あり】


 ――BEHAVIORAL PREDICTABILITY:LOW.

 【行動予測可能性:低】


「……何、これ」


 アリスは小さく呟いた。

 仲間の名前も、顔も、声も、ちゃんと覚えている。

 それなのに、彼らを見た瞬間、心より先に数値と分類が現れる。

 ルミナスが首を傾げた。


「アリス? 大丈夫?」


 その声に、アリスは顔を上げた。

 銀紫色の髪と猫の耳。いつも明るく笑い、思ったことをすぐ口にする友人。

 そう認識したいのに、視界の隅では、少年の行動を予測する文字列が絶え間なく更新されている。


「……大丈夫、です」


 答えた自分の声が、妙に落ち着いて聞こえた。

 心臓が早く打っているはずなのに、焦りが遠い。

 恐怖も、不安も、薄い硝子の向こうに置かれたようだった。

 レオンハルトが静かに拍手した。


「素晴らしい。七つの鏡印が、完全に統合された」


 アリスは彼を睨もうとした。

 しかし、怒りが生まれる前に、彼の情報が表示された。


 ――SYSTEM DESIGNER.

 【システム設計者】


 ――ADMINISTRATIVE ACCESS:PARTIAL.

 【管理権限へのアクセス:一部可能】


 ――HOSTILITY:UNCONFIRMED.

 【敵意:未確認】


 ――UTILITY VALUE:HIGH.

 【 利用価値:高】


 アリスは唇を噛んだ。

 レオンハルトが何をしたのか、忘れたわけではない。

 彼が自分を利用し、鏡界の試練を管理権の継承条件へ組み込んだことも覚えている。

 それなのに、目の前の男を危険な相手として警戒する感情が、以前よりも薄くなっていた。


「……私に、何をしたんですか」

「何も奪ってはいないよ」


 レオンハルトは穏やかに答えた。


「君が得た力を、管理権へ接続しただけだ。今の君は、鏡界の情報を直接認識できる。人間の感覚では扱いきれない量だから、管理機構が理解しやすい形へ整理しているんだ」

「……人間の感覚では、扱いきれない?」

「そう。君の判断を補助するために、感情よりも先に必要な情報が提示される。慣れれば、とても便利なはずだよ」


 アリスは自分の胸へ手を当てた。

 便利。

 確かに、そうなのかもしれない。

 今なら、誰がどこで傷つき、どんな危険が迫っているのかを、以前よりも正確に把握できる。

 けれど、仲間を心配する前に、生存率が表示されることを、便利だと喜んでいいのだろうか。


「……これは、【鏡装ミラー・アームズ】ではないのですね」


 レギナが低く呟いた。

 レオンハルトは頷いた。


「ええ。七つの鏡印を統合した管理権限そのものです。古い鏡界では、原理の矛盾を見つけなければ法則を変更できなかった。けれど、アストレアにはその制約がない」


 レギナの表情が険しくなった。


「……矛盾を証明せずに、法則を書き換えるというのか」

「鏡界内部に限れば、可能です」


 レオンハルトはアリスへ向き直った。


「試してみるといい。君の望むことを、ひとつだけ」


 アリスは警戒しながら、周囲を見渡した。

 黒い硝子の床には、先ほどの戦闘で生じた亀裂が残っている。

 彼女は、その一つへ視線を向けた。


 ――LOCAL STRUCTURE:DAMAGED.

 【 局所構造:損傷】


 ――REPAIR:AVAILABLE.

 【 修復:可能】


 文字列が浮かんだ。

 アリスは、心の中で命じた。

 この亀裂を、元に戻したい。

 その瞬間、床の亀裂が音もなく閉じた。

 硝子片が浮かび上がり、元の位置へ戻る。

 欠けていた部分も補われ、床は最初から傷一つなかったかのように滑らかになった。


 アリスは息を呑んだ。

 【インバーテッド】を使った時のような、根本律の矛盾を探る感覚はなかった。

 ただ、望んだだけだった。


 ――NOIR MIRAGE:STAGE ONE.

 【黒鏡世界(ノワール・ミラージュ):第一段階】


 ――LOCAL LAW REWRITING:SUCCESS.

 【局所法則の書き換え:成功】


 ――EMOTIONAL RESPONSE:SUPPRESSED.

 【情動反応:抑制】


 視界に新たな文字列が現れた。

 同時に、アリスは自分が驚いていないことに気づいた。

 目の前で不可能なことが起きたはずなのに、心は静かなままだった。

 むしろ、亀裂が修復されたことを、当然の結果として受け止めている。


「……今のが」

「【黒鏡世界ノワール・ミラージュ】」


 レオンハルトが答えた。


「鏡界内部の法則を、管理者の意思によって直接変更する能力だ。君が望めば、地形も、魔術の条件も、記録の扱いも変えられる」

「……どこまで?」

「段階によるよ」


 レオンハルトが指を動かすと、アリスの前に三つの円環が浮かび上がった。


「第一段階では、限られた範囲の法則を変更できる。今のような地形の修復や、局所的な魔術条件の変更だ。ただし、管理判断を優先するため、感情が一時的に鈍くなる」


 アリスは自分の手を見つめた。


 先ほどから感じていた、胸の奥の奇妙な静けさは、その代償だったのだ。


「第二段階では、他人の記憶や選択経路へ介入できる。過去の記録を再構築し、鏡界内の人格情報を変更することも可能になる」


 レオンハルトは少しだけ声を落とした。


「ただし、管理者自身の記憶や価値判断も、処理対象の情報と混ざり始める。何が自分の経験で、何が管理記録から得たものなのか、区別が難しくなることがある」


 アリスの胸に、冷たいものが広がった。


「……第三段階は?」

「鏡界全体の歴史と人格記録を、大規模に再構築できる」


 レオンハルトは答えた。


「その段階まで進めば、君の人格は管理機構へ深く統合される。個人としての判断より、世界全体の最適化が優先されるようになるだろう」

「……それは、私が私でなくなるということですか」


 レオンハルトはすぐには答えなかった。

 やがて、静かに頷いた。


「少なくとも、今の君と同じではいられない」


 ハロルドが鋭く声を上げた。


「レオンハルト。それを知っていて、アリスに管理権を渡したのか」

「知っているからこそ、説明しているんだよ」

「説明すれば許されると思うな」

「許しを求めているわけじゃない。選択に必要な情報を渡しているだけだ」


 レオンハルトは兄を見つめた。


「兄上。あなたは、アリスが自分で決めることを尊重すると言ったはずだ」


 ハロルドは言葉を詰まらせた。


 アリスは二人の間へ視線を向けた。

 レオンハルトの言葉には、確かに一理ある。

 危険を知ったうえで、選ぶこと。

 それは、これまで彼女が守ろうとしてきたものだった。


 だが、今の自分は、本当に自由に選べているのだろうか。

 管理機構へ接続した瞬間から、感情が鈍くなり、仲間を数値で見るようになっている。

 その状態で下す判断を、以前の自分の選択と同じものとして扱っていいのか。

 アリスは【グラス・ヴェリタス】を握り直した。


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