第54話 完成世界コンプリート・エデン
目の前の男が子供を傷つける可能性は、確かにあった。
その危険を防ぐために、誰かが介入する必要もあったかもしれない。
けれど、暴力を止めることと、本人の感情を知らないうちに書き換えることは、本当に同じなのだろうか。
アリスはさらに記録を調べた。
そこには、危険な衝動だけではない、別の項目が並んでいた。
――SOCIAL INSTABILITY RISK.
【社会不安定化の危険】
――IDEOLOGICAL DEVIATION.
【思想上の逸脱】
――UNPREDICTABLE CHOICE.
【予測不能な選択】
――PREEMPTIVE CORRECTION.
【事前修正】
アリスの指先が冷たくなった。
「……危険な思想?」
彼女は文字列を読み上げた。
「予測不能な選択まで、修正するんですか?」
レオンハルトは頷いた。
「重大な被害へ繋がる可能性が高い場合にはね。人間は、必ずしも自分にとって正しい選択をするとは限らない。まして、その選択が他人の人生を大きく変えてしまうこともある」
「でも、まだ何もしていない人まで……」
「被害が起きてからでは遅いんだよ、アリス」
レオンハルトの声は優しかった。
だからこそ、アリスは言葉の重さを感じた。
「殺人が起きてから犯人を裁いても、被害者は戻らない。戦争が始まってから和平を求めても、死んだ兵士たちは帰ってこない。子供が虐待されてから保護しても、心に残った傷が消えるとは限らない」
彼はアリスを見つめた。
「君は、それをよく知っているはずだ」
アリスは唇を噛んだ。
母の死。
自分に下された不当な判決。
鏡界で出会った人々の苦しみ。
そのどれも、起きてしまった後では、完全に元へ戻すことができなかった。
「だから僕は、間違いが起きる前に防ぐ世界を作りたいんだ」
レオンハルトは言った。
「人間が後悔しなくて済むように。誰かが取り返しのつかない罪を背負わなくて済むように」
アリスは、通りを行き交う人々へ目を向けた。
誰もが穏やかに笑っている。
子供たちは楽しそうに走り、商人は客へ丁寧に品物を渡し、兵士たちは通りの安全を見守っている。
そこに不自然な動きはなかった。
誰かに操られているようにも見えない。
むしろ、アリスが知る王都よりも、人々は自由に過ごしているようにさえ見えた。
「……この人たちは、自分で選んでいるんですか?」
アリスが尋ねると、レオンハルトは微笑んだ。
「もちろん。選べる範囲で、自由に選んでいる」
「その範囲を決めるのは?」
「世界を守るための管理機構だ」
アリスは黙り込んだ。
選べる範囲で、自由に選んでいる。
その言葉は、一見すると矛盾していない。
人間は誰もが、限られた条件の中で選択している。
時間も、能力も、環境も、すべての可能性を手にできるわけではない。
けれど、この世界では違う。
選択肢が現れる前に、誰かがそれを取り除いている。
本人が迷うことも、後悔することも、間違えることも許されないまま、正しいと判断された道だけが残される。
アリスは、ふと足を止めた。
広場の片隅で、一人の少年が絵を描いていた。
少年は画板へ向かい、何度も筆を動かしている。
描かれているのは、王都の城壁だった。
しかし、彼は途中で筆を止め、首を傾げた。
アリスが近づくと、少年は画板を見つめながら呟いた。
「……なんか、違うな」
「どうしたの?」
アリスが尋ねると、少年は顔を上げた。
「本当は、もっと面白い絵を描きたかったんだ。城壁がお菓子で出来てて、塔が空を飛んでたり、王様が魚だったり。でも、描いてるうちに、こっちのほうがいい気がしてきて」
画板には、整った構図の美しい王都が描かれていた。
技術的には、申し分のない絵だった。
けれど、少年はどこか物足りなさそうに筆を握っている。
アリスは第四の鏡印を通じて、少年の周囲にある管理記録を確認した。
――CREATIVE OUTPUT OPTIMIZATION.
【創作成果の最適化】
――SOCIAL ACCEPTANCE PROBABILITY:HIGH.
【 社会的受容の可能性:高】
――DEVIATION:CORRECTED.
【逸脱:修正済み】
アリスは少年の顔を見つめた。
彼は誰かに命令されたわけではない。
自分で考え、自分で筆を動かしている。
ただ、最初に描こうとしたものだけが、知らないうちに消えていた。
「……その絵、好き?」
アリスが尋ねると、少年は少し考えた。
「うん。綺麗に描けたから」
そう言って笑う。
その笑顔は、確かに本物だった。
アリスは何も言えなかった。
この世界は、人々を苦しませるために作られたものではない。
むしろ、苦しみを減らすために、驚くほど精巧に設計されている。
だからこそ、何を失っているのかが見えにくかった。
「……アリス」
背後から、ルシアンが声を掛けた。
振り返ると、彼は少年の絵を見つめていた。
「俺には、この世界を簡単に否定できない」
アリスは驚いて彼を見た。
「ルシアン……」
「誤った判決がなくなるなら、それだけで救われる命がある」
彼は静かに続けた。
「だが、誰かが正しいと決めた答えに従うだけなら、俺がしてきたことと何が違うのかも分からない」
ルシアンはそれ以上、何も言わなかった。
ヴェルトも珍しく軽口を控えていた。
ルミナスは少年の絵を覗き込み、首を傾げている。
「ねえ、空を飛ぶお城って、面白そうじゃない?」
少年は目を丸くした。
「……そうかな?」
「うん! 王様が魚なら、僕は猫の騎士を描く!」
ルミナスが笑うと、少年もつられて笑った。
その瞬間、少年の周囲に浮かんでいた管理記録が、わずかに明滅した。
アリスは、その変化を見逃さなかった。
――UNPREDICTABLE INFLUENCE DETECTED.
【予測不能な影響を検出】
――CORRECTION PENDING.
【修正待機中】
アリスが顔を上げると、レオンハルトは静かに彼女を見つめていた。
「……これも、修正するんですか?」
「必要ならね」
「ルミナスは、ただ面白い絵の話をしただけです」
「今はそうだよ。けれど、小さな変化が、将来どんな結果を生むかは分からない」
「分からないから、消すんですか?」
「危険が大きいと判断されれば、そうする」
レオンハルトの声には、迷いがなかった。
アリスは少年へ目を向けた。
彼はまだ笑っている。
自分の周囲で何が判断されているのか、何も知らないまま。
アリスは胸の奥に、先ほどよりもはっきりとした違和感を覚えた。
だが、それを言葉にする前に、レオンハルトが歩き出した。
「もう一つ、見せたいものがあるんだ」
街並みがゆっくりと薄れていく。
石畳の通りが消え、代わりに、白い花が咲く庭園が現れた。
アリスは、その景色を見た瞬間、足を止めた。
侯爵家の庭園。
幼い頃、母と一緒に花を摘んだ場所だった。
庭の奥には、白い石造りの東屋がある。
その傍らで、一人の女性が花を手入れしていた。
長い黒髪。
柔らかな横顔。
見慣れた淡い色のドレス。
アリスは、呼吸の仕方を忘れた。
「……お母様?」
女性が振り返った。
その顔を見た瞬間、アリスの胸が強く締めつけられた。
母だった。
死んだはずの母が、そこに立っていた。
女性はアリスに気づくと、穏やかに微笑んだ。
「アリス。お帰りなさい」
声が聞こえた。
アリスはその場に立ち尽くした。
第五階層へ至るまでの戦いで、彼女は母の声を失っていた。
母がどんな声で名前を呼んでくれたのか、思い出そうとしても、もう思い出せなかった。
それなのに、今、目の前の女性は自分の名を呼んでいる。
優しく、懐かしい響きで。
アリスは一歩、前へ出た。
足元の白い花が揺れる。
女性は微笑んだまま、手を差し伸べていた。
「今日は随分と遅かったのね。お茶が冷めてしまうわ」
東屋の机には、二人分の茶器が並んでいた。
焼き菓子の甘い香りが漂っている。
アリスは、その光景を知っていた。
母が生きていた頃、何度も繰り返した午後の時間。
何も恐れる必要がなく、明日のことを心配することもなかった日々。
「……どうして」
アリスの声が震えた。
「どうして、お母様が……」
「これは、君が望んだかもしれない未来だよ」
レオンハルトが隣へ立った。
「君の母親が殺されず、侯爵家が王家の陰謀に巻き込まれなかった世界。君が罪人として追われることもなく、家族と穏やかに暮らしている未来だ」
アリスは母から目を離せなかった。
「……本物、なんですか?」
「今ここにいる彼女は、試算世界の再現体だよ。現実の君の母親が蘇ったわけではない」
レオンハルトは正直に答えた。
「ただし、王家と侯爵家に残された記録、君自身の記憶、当時の生活資料を照合すれば、かなり精密な再現ができる。君が失った声も、記録が残っていれば再構成できるかもしれない」
アリスの喉が詰まった。
失った声。
もう二度と聞けないと思っていた声。
それが、再び手の届く場所にある。
「……お母様は、私を覚えているんですか?」
「この再現体には、君の母親の行動記録と人格の推定モデルが組み込まれている。君のことも、当然知っているよ」
「でも……」
アリスは唇を噛んだ。
「本当に、お母様が考えていたことまで、分かるんですか?」
レオンハルトは少しだけ表情を和らげた。
「完全には分からない。人間の心を、過去の記録だけで余すところなく再現することは難しいからね」
その答えは、かえって残酷だった。
目の前の母は、母によく似ている。
声も、仕草も、微笑み方も。
けれど、そこにいるのは、アリスが失った母そのものではない。
それでも。
「君が望むなら、この未来に近づけることもできる」
レオンハルトは続けた。
「過去を変えることはできない。けれど、これから先、君が二度と同じ苦しみを味わわなくて済む世界なら作れる。君のように母親を失う子供も、家族を奪われる人々も、限りなく減らせるんだ」
アリスは母の姿を見つめた。
女性は東屋の前で待っている。
いつものように、アリスが歩み寄るのを待っている。
その微笑みは、あまりにも優しかった。
「……アリス」
背後からハロルドが呼びかけた。
アリスは振り返らなかった。
ハロルドも、それ以上は何も言わなかった。
彼には、アリスから母を奪った王家の罪に関わった責任がある。
今、彼女が何を感じているのか、簡単に理解したつもりになることはできなかった。
アリスはゆっくりと手を伸ばした。
指先が、母の手に触れようとする。
その直前で、彼女は動きを止めた。
母の手は、温かいのだろうか。
あの頃と同じように、優しく握り返してくれるのだろうか。
もし触れてしまったら、自分はこの世界から離れられるのだろうか。
アリスは手を引いた。
女性は少しだけ不思議そうな顔をしたが、すぐに微笑み直した。
「どうしたの、アリス?」
その声を聞いた瞬間、アリスの目から涙がこぼれた。
彼女は慌てて拭おうとしたが、涙は止まらなかった。
悲しいのか、嬉しいのか、自分でも分からなかった。
ただ、もう一度会いたかった。
母に会って、話したかった。
自分がどれほど寂しかったのか、どれほど怖かったのか、そして、今は一人ではないことを伝えたかった。
けれど、そのすべてを話したところで、目の前の女性が本当に母のように受け止めてくれるのか、アリスには分からない。
レオンハルトは、彼女の涙を静かに見守っていた。
「アリス。僕は、君から悲しみを奪いたいわけじゃない」
彼は穏やかに言った。
「悲しまなくて済む未来を、君に渡したいんだ」
その言葉に、アリスは目を閉じた。
母の死をなかったことにはできない。
失った時間も、戻らない。
それでも、これから生まれてくる子供たちが、同じ苦しみを味わわずに済むのなら。
それは、間違った願いなのだろうか。
アリスが目を開けると、庭園の向こうに再び王都の街並みが広がっていた。
白い花々の間を抜ける風が、穏やかな街へ流れていく。
子供たちが笑い、商人が客と談笑し、兵士たちが剣を抜くことなく通りを歩いている。
誰も飢えていない。
誰も傷つけられていない。
誰も、取り返しのつかない罪を背負わずに済む。
少なくとも、この試算世界では。
アリスは涙の跡が残る頬を拭い、静かに街を見渡した。
「……綺麗ですね」
レオンハルトが微笑んだ。
その言葉が、何を意味しているのかを確かめようとはしなかった。
ただ、彼は満足そうに頷き、アリスの手にある七つの鏡印を見つめていた。




