第52話 女王の罪
処刑台を破壊した未来では、魔力が暴発し、ルミナスが巻き込まれている。
心臓へ直接攻撃した未来では、広間全体が崩壊し、ヴェルトが脱出できない。
全員で防御に徹した未来では、やがてルシアンの左腕が限界を迎え、ハート兵に包囲されていた。
「……どれも、誰かが犠牲になるのか」
ハロルドが呟いた。
アリスは彼を見つめた。
かつてのハロルドなら、最も犠牲の少ない未来を選び、そのために誰かを動かそうとしたかもしれない。
だが、彼は頁を閉じなかった。
その代わり、アリスへ向き直った。
「私に見えているのは、選べる未来だけだ。選ぶのは君たちだ」
アリスは小さく息を吸った。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることではない。私は、これまでそれを忘れていた」
ハロルドは苦く笑った。
「今度は、君の選択を奪いたくない」
アリスは頷き、再び心臓へ目を向けた。
未来は、まだ決まっていない。
少なくとも、彼女たちが選ぶことをやめない限りは。
その時、玉座の前に立つレギナが、静かに口を開いた。
「見事な連携だ。だが、お前たちは一つ、根本的なことを見落としている」
女王が手を掲げると、広間の壁に映る記録が一斉に切り替わった。
燃える村。
飢えた子供。
城門を守る兵士。
そして、鏡界の結界によって敵軍の攻撃が退けられ、人々が生き延びた瞬間。
そこには、確かに救われた命があった。
「私が選ばなければ、彼らは死んでいた」
レギナの声が広間に響く。
「国境の結界は破られ、王都は陥落し、子供たちは飢えと疫病の中で命を落としていただろう。私は、それを防いだ」
アリスは映像を見つめた。
母親に抱き上げられた幼い子供が、泣きながら笑っている。
その姿を見れば、レギナの選択を簡単に否定することはできなかった。
しかし、次の瞬間、別の記録が映し出された。
情動転炉へ送られる囚人たち。
手枷を嵌められた男が、看守へ何かを訴えている。
その隣では、まだ若い女が、震える手で一枚の紙を握りしめていた。
アリスは【第四鏡印・情報】を通じて、その紙に書かれた内容を読み取った。
再審請求書。
女は、自分に下された判決の証拠に不備があると訴えていた。
しかし、請求は受理されないまま、彼女は転炉へ送られていた。
さらに別の記録では、罪を犯した収監者が、刑期を終えれば家族のもとへ帰れると信じていた。
彼に宣告されていたのは禁錮刑であり、人格の一部を奪われる刑ではなかった。
それでも、彼は転炉へ運ばれている。
「……この人たちは、同意していません」
アリスが言った。
「自分が何を失うのかも、知らされていなかった」
「そうだ」
レギナは否定しなかった。
「だが、彼らの犠牲によって、さらに多くの命が救われた」
「救われた人たちがいたことは、分かります」
アリスは剣を握り直した。
「でも、それで犠牲になった人たちの人生が消えるわけではありません」
レギナの背後で、巨大な心臓が強く脈打った。
その表面に、赤い文字列が浮かび上がる。
――ROOT LAW:LOVE JUSTIFIES ALL SACRIFICES MADE TO PROTECT WHAT IS LOVED.
【愛するものを守るための犠牲は、すべて正当化される】
アリスは、その言葉を見つめた。
愛するものを守るためなら、どんな犠牲も正当化される。
それが、この女王を支えてきた原理だった。
そして、その原理がある限り、王国を守るという目的のために、誰かの人生を奪うことが許され続ける。
「あなたは、王国を愛していたんですよね」
アリスが尋ねると、レギナは即座に答えた。
「当然だ」
「なら、その王国に生きていた人たちが、自分の人生を選ぶ権利も守るべきではなかったんですか?」
レギナの瞳が、わずかに細められた。
「選択を許せば、国は滅びた」
「そうかもしれません」
アリスは静かに頷いた。
「でも、それは犠牲にされた人たちの選択ではありません」
レギナは答えなかった。
アリスは続けた。
「あなたは、王国を守るために人々を犠牲にした。けれど、王国はそこに生きる人たちがいて初めて成り立つものです」
心臓の鼓動が、わずかに乱れた。
「人々を守るための仕組みが、その人たちの人生を奪っている。あなたの原理は、そこが矛盾しているんです」
レギナは玉座の肘掛けへ手を置いた。
「……私に、どうしろと言う。あの時、ほかに道があったと証明できるのか」
「できません」
アリスは即答した。
「私は、あなたが置かれた状況で、全員を救えたとは言えません。ほかに方法があったのかどうかも、今は分かりません」
レギナは目を見開いた。
アリスは剣先を下ろさず、まっすぐに女王を見つめた。
「でも、分からないからこそ、間違いを認めることが必要なんです」
彼女の声は、広間の隅々まで届いた。
「あなたが国を救ったことも事実です」
処刑台の上で、赤い光が揺らぐ。
「罪人を犠牲にしたことも事実です」
黒い硝子の壁に、救われた人々と、転炉へ送られた人々の姿が同時に映し出された。
「どちらか一つだけを真実にするから、世界は歪むんです」
その瞬間、《グラス・ヴェリタス》の六つの鏡印が一斉に輝いた。
――ROOT LAW CONFLICT DETECTED.
【根本律の矛盾を検出】
レギナが顔を上げた。
「……何をするつもりだ」
アリスは剣を掲げた。
「愛することは、相手の人生を所有することではありません」
硝子の刀身から、白い光が広がる。
「守りたいと思うからこそ、その人が選ぶ権利を奪ってはいけないんです!」
――【インバーテッド】深紅の瞳が矛盾を反転させる。
――LOVE DOES NOT ERASE THE RIGHT TO CHOOSE.
【愛は、他者が選ぶ権利を消し去らない】
白い光が広間を駆け抜けた。
処刑台の上に浮かんでいた判決書が、一斉に砕け散る。
ハート兵たちは動きを止め、胸甲に刻まれた赤い心臓の紋章が消えていった。
彼らの身体を形作っていた魔力がほどけ、黒い甲冑は床へ崩れ落ちる。
同時に、処刑台から巨大な心臓へ伸びていた赤い光の管が、次々と断ち切られた。
アリスはその光景を見つめた。
情動変換炉:【悲嘆聖炉グリーフ・リアクター】へ蓄積されていた感情の記録が、薄い光となって広間を漂っている。
それらは人の姿を取ることも、声を発することもなかった。
奪われた命が戻るわけではない。
失われた記憶や人格が、元通りになるわけでもない。
ただ、これ以上、本人の意思を無視して感情を奪い続ける仕組みが、停止したのだ。
レギナは玉座の前で膝をついた。
光で形作られた身体が揺らぎ、王冠の輪郭が薄れていく。
アリスはゆっくりと歩み寄った。
女王は顔を上げ、彼女を見つめた。
「……私の負けか」
「はい」
アリスは剣を下ろした。
「あなたの罪は、消えません」
「承知している」
「でも、あなたが守った人たちの命も、消えません」
レギナは長く沈黙した。
やがて、かすかに微笑む。
「……お前は、私を悪と断じぬのだな」
「あなたがしたことを、許すつもりはありません」
アリスは答えた。
「でも、あなたが守ろうとしたものまで、否定したくないんです」
レギナは目を閉じた。
「私は、国を守るために、国に生きる者たちの人生を奪った。……その矛盾を、最後まで見ようとしなかったのかもしれぬ」
アリスは何も言わなかった。
女王が自分の選択をどう受け止めるかは、女王自身が決めることだった。
その時、【グラス・ヴェリタス】の刀身に新たな光が走った。
六つの鏡印の先に、七つ目の紋様が浮かび上がる。
【第七鏡印・愛】
細い金色の光が硝子の中心を通り、七つの鏡印が一つの輪を形作った。
アリスは息を呑んだ。
これまで別々に輝いていた紋様が、互いに繋がり始めている。
レギナも、その変化を見つめていた。
「……七つ、揃ったか」
女王はゆっくりと立ち上がった。
その身体はまだ不安定だったが、声には再び威厳が戻っていた。
「アリス・フォン・ルーヴェルト。お前は、私が築いた鏡界の七つの原理を越えた」
巨大な心臓の表面に、複雑な魔法陣が浮かび上がる。
「この世界の行く末を、お前に託そう」
レギナが手を差し伸べると、心臓から七本の光が伸び、【グラス・ヴェリタス】の鏡印へ繋がろうとした。
アリスは思わず剣を引いた。
「待ってください。私は、鏡界の管理者になるつもりは――」
その言葉が終わる前に、背後から拍手が響いた。
ゆっくりと、規則正しい拍手だった。
「見事だよ、アリス」
聞き覚えのない、しかし不思議なほど落ち着いた男の声。
アリスたちは一斉に振り返った。
黒い硝子の壁が静かに開き、その向こうから一人の青年が歩いてくる。
整った金髪。
王家の紋章を胸に飾った白い礼装。
柔らかな微笑みを浮かべた顔には、戦場に立つ者の緊張も、敗北を恐れる者の焦りもなかった。
ハロルドの表情が凍りつく。
「……レオンハルト」
青年は兄へ軽く会釈した。
「久しぶりだね、兄上」
第二王子レオンハルト・ディア=ノクス・グランフェルド。
彼はアリスへ視線を移し、七つの鏡印を見つめた。
「本当に、よくここまで来てくれた」
レギナが眉を寄せる。
「……お前は、誰だ。私の管理領域へ、どうやって入った」
レオンハルトは微笑んだまま、女王へ向き直った。
「あなたが知らないのも無理はありません。僕は、あなたの時代よりずっと後に、この世界へ新しい目的を与えた者ですから」
アリスは【グラス・ヴェリタス】を構え直した。
レオンハルトは、その剣先を見ても表情を変えなかった。
むしろ、長い時間をかけて待ち望んだものが、ようやく目の前に現れたかのように、満足そうに頷いた。
「これで、すべての条件が揃った」




