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断罪の国のアリス―Project Glass Eden―  作者: 塚田澄玻
第九章 心臓領域ハートコア
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第50話 悲嘆聖炉グリーフ・リアクター

 映像はさらに進み、王都を包む巨大な防衛結界が現れた。

 敵軍の魔術砲撃が透明な壁に弾かれ、崩れかけた城門の内側で、人々が歓声を上げている。

 その光景には、確かに救われた命があった。


 アリスは、母親に抱き上げられた幼い子供を見つめた。

 もし結界がなければ、あの子は死んでいたのかもしれない。

 その事実を、簡単に否定することはできなかった。


「……戦争が終わった後は、どうしたんですか?」


 アリスが尋ねると、レギナは玉座の肘掛けへ指を置いた。


「転炉を停止するよう求める声はあった」

「それなのに、続けたんですね」

「戦争が終わっても、次の戦争が起こらぬ保証はない。疫病も飢饉も、王の意思だけでは防げぬ。私は、二度と国を滅亡の淵へ追い込まぬため、鏡界を恒久的な防衛機構とすることを決めた」


 黒い硝子の壁に、建設中の鏡界が映し出される。

 無数の魔術師が巨大な術式を組み上げ、中央の魔術核へ光の管を繋いでいた。

 その最深部に、今アリスたちの目の前にある心臓が据えられる。


「私は、後継の王たちが同じ決断を迫られることを望まなかった。だから、私自身を管理機構へ組み込んだ」


 玉座の女王の姿が揺らぎ、その背後に、生前のレギナが魔法陣へ横たわる光景が現れた。

 王冠を外した彼女の周囲には、宮廷魔術師たちが集まっている。

 儀式が始まると、レギナの身体から幾筋もの光が抜け出し、魔術核へ吸い込まれていった。

 やがて、生身の女王は動かなくなった。


 アリスは唇を噛んだ。

 目の前の女王は、他人に犠牲を強いただけではない。

 自分自身の人生さえ、国家のために差し出したのだ。

 それが彼女の選択だったとしても、同じ選択を他人へ強いる権利まで生まれるわけではない。


「あなた自身も犠牲になったのなら、ほかの人たちの苦しみも分かるはずです」


 アリスの問いに、レギナは静かに頷いた。


「理解している。だからこそ、必要な犠牲を選んだ」


 その答えは、アリスの予想よりもずっと重かった。

 レギナは、苦しみを知らないから人々を犠牲にしたのではない。

 苦しみを知ったうえで、国を守るためには必要だと判断したのだ。


「……後悔は、していないんですか?」

「している」


 意外な返答だった。

 レギナは玉座から、かつての王都を見下ろすように視線を動かした。


「失われたものは多い。私の命令によって人生を奪われた者たちを、忘れたことはない。もっとよい方法があったのではないかと、幾度も考えた」


 アリスは息を呑んだ。

 だが、次に続いた言葉は、赦しを求めるものではなかった。


「それでも、あの時に戻っても、私は同じ選択をする」


 レギナの声に迷いはなかった。


「私が【悲嘆聖炉グリーフ・リアクター】を使わなければ、王都は陥落し、さらに多くの命が失われていた。私には、王国を守る責務があった」

「……だから、犠牲になった人たちは仕方がなかったと?」

「仕方がなかったという言葉で片づけるつもりはない。彼らから奪ったものの重さは、私の選択の一部だ」


 女王はアリスを正面から見据えた。


「だが、その罪を認めたとしても、選択を誤りだったと断じることできない」


 アリスは言葉を失った。

 この女王を、単に冷酷な支配者と呼ぶことはできない。

 実際に救われた人々がいる。

 彼女自身も命を差し出した。

 それでも、犠牲にされた人々が、自分の人生を取り戻せるわけではなかった。

 ヴェルトが帽子を深く被り直した。


「ずいぶん高い買い物をしたものだな。しかも、代金を払ったのは女王だけじゃない」


 レギナは彼へ目を向けた。


「その通りだ」

「そこまで分かっていて、今も同じ仕組みを動かしているのか?」

「王国が存続する限り、守るべきものはなくならぬ」


 ヴェルトはそれ以上、何も言わなかった。

 アリスは、女王の背後に浮かぶ巨大な心臓を見つめた。


 ふと、その表面に見慣れない術式が走った。

 王国の古い紋章とは異なる、細い硝子の文字列。

 そこには、これまで各階層で目にした根本律とは違う形式の命令が刻まれていた。


 『GLASS EDEN:ADMINISTRATIVE SUCCESSION――』

 【グラス・エデン:管理権継承――】


 文字列は一瞬で消えた。


「……今のは?」


 アリスが尋ねると、レギナはわずかに眉を寄せた。


「後世に追加された管理命令だ。私の権限では、そのすべてを閲覧できぬ」


 ハロルドが顔を上げた。


「あなたが創設した鏡界なのに?」


「創設者であることと、現在のすべてを支配していることは同じではない。長い年月の間に、王家は鏡界へ幾度も変更を加えた」


 レギナは心臓へ視線を戻した。


「私は国を守るために存在している。だが、何をもって国が守られたと判断するか、その条件の一部は、すでに私の手を離れている」


 アリスは、胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。

 鏡界の創設者でさえ、すべてを知らない。

 それなら、この巨大な心臓を現在の形へ作り替えたのは、誰なのだろう。

 レギナは、アリスの手にある【グラス・ヴェリタス】へ視線を戻した。


「その剣には、六つの鏡印が宿っているな」

「……はい」

「恐怖、欲望、役割、情報、安寧、正義。いずれも、人間を導くために設けられた原理だ。お前はそれらを破壊せず、別の答えへ導いた」


 玉座を形作る光が静かに揺れた。


「私が生きていた時代には、そのような力は存在しなかった。人々の意思を一つずつ確かめ、全員が納得するまで待っていれば、王国は滅びていた」


 アリスは、かつての王都を映す光景へ目を向けた。

 城壁の内側では、母親が幼い子供を抱きしめている。その姿を見れば、レギナが何を守ろうとしたのかは理解できた。

 だが、【悲嘆聖炉グリーフ・リアクター】へ送られた収監者にも、帰りを待つ人がいたはずだった。


「お前は、私ができなかったことを成し遂げられる」


 レギナが告げた。


「七つの鏡印を統合すれば、鏡界の管理権へ到達できる。人間の感情と判断を調整し、争いの原因そのものを取り除くことも可能となろう」


 ハロルドが表情を強張らせた。


「レギナ女王。それは、王国の防衛ではありません。人間の生き方そのものを管理するということです」

「国を守るとは、そこに生きる者たちを守ることだ。争いも飢えも苦痛も防げるなら、それを拒む理由があるか?」


 レギナはアリスへ手を差し伸べた。


「お前は、私ができなかったことを成し遂げられる。犠牲のない統治を実現するために、その力を使え」


 アリスは差し伸べられた手を見つめた。

 もし、本当に誰も犠牲にならずに済むのなら。

 エリオ・ベルンのような少年が処刑されることも、母親が王家の秘密を知ったために殺されることも、なくせるのかもしれない。

 その未来を望まないはずがなかった。

 けれど、女王の言葉には、一つだけ欠けているものがあった。


「……その世界で、人々は自分の人生を選べるんですか?」


 レギナは答えた。


「必要な範囲で認めよう。だが、他者を傷つける選択や、国家の存続を脅かす判断は制限せねばならぬ」

「何が危険な選択なのかは、誰が決めるんですか?」

「管理者だ。膨大な記録を照合し、人間よりも正確に未来を予測できる者が判断する」


 アリスは静かに首を振った。


「犠牲をなくしたいと思う気持ちは、私にもあります」


 彼女は一度、仲間たちを振り返った。


 過去に罪を犯し、その責任を背負おうとしているルシアン。

 失敗も損失も引き受けながら、他人との繋がりを選んだヴェルト。

 誰にも行き先を決められず、自由に笑うルミナス。

 自分の行為を取り消せないと知りながら、なお責任を果たそうとするハロルド。


 彼らの人生には、後悔も痛みも残っている。

 それでも、今の彼らを形作ったのは、正しい選択だけではなかった。


「でも、そのために誰かの人生を勝手に決めるなら、あなたと同じです」


 レギナの瞳が、わずかに細められた。


「お前は、私の選択を否定するのか」

「すべてを否定するつもりはありません」

「私が【悲嘆聖炉グリーフ・リアクター】を使わなければ、王国は滅びていた。それでも、別の道があったと言うのか?」

「分かりません。私は、あの時代を生きていませんから」


 アリスは率直に答えた。


「あなたが置かれた状況で、私なら全員を救えたなんて言えません。ほかに方法があったのかどうかも、調べなければ分かりません」


 レギナはしばらく黙っていた。

 アリスは続けた。


「でも、あの時に何を選ぶべきだったのか分からないことと、今も同じ犠牲を強いていいことは、別です」


 その言葉に、女王の表情が初めて険しくなった。

 巨大な心臓が強く収縮し、広間を満たす赤い光が濃くなる。


「私の選択が誤りだというのなら、王国を救った事実まで否定するのか」


 黒い硝子の床から、幾重もの魔法陣が浮かび上がった。

 心臓から伸びる光の管が脈打ち、広間の壁に過去の処刑場や戦場が映し出されていく。

 玉座の背後では、赤い甲冑を纏った兵士たちの輪郭が形作られ始めていた。

 ルシアンが大剣を構え、ルミナスが双剣を抜く。

 ヴェルトは銀貨を指先へ滑らせたが、すぐに握り直した。禁術の代償が残る今、大規模な属性変更はできない。

 それでも、誰一人として退こうとはしなかった。

 アリスは【グラス・ヴェリタス】を胸の前へ掲げた。


「いいえ。救ったことも、奪ったことも、両方とも忘れません」


 レギナは玉座から立ち上がった。

 その足元に影は生まれない。光によって再現された身体は、黒い硝子の床へ触れることなく、ゆっくりと前へ進んだ。


「ならば、お前に問おう。救うべき命と、犠牲にせざるを得ぬ命が同時に存在する時、何を選ぶ?」


 アリスは答えなかった。

 その問いに、誰も傷つかない答えがあるとは思えなかったからだ。

 けれど、答えが難しいことを理由に、他人の選択を奪ってよいとは思わない。


 女王の背後で、巨大な心臓が再び脈打った。

 広間の奥に赤い光が走り、鏡界全体の防衛機構が起動していく。

 アリスは女王を見据え、剣先を向けた。


「なら私は、もう一度あなたを止めます」


 レギナは静かに両手を広げた。


「よかろう。お前の答えが、私の守ってきた王国に耐え得るものか、示してみよ」


 次の鼓動とともに、黒い硝子の床が割れた。

 その亀裂から、無数の処刑台がせり上がり始めた。


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