第49話 ハートの女王
心臓が脈打つたびに、王国の紋章が明滅していた。
黒い硝子に覆われた広間には、天井を支える柱も、外へ通じる窓もない。床から壁へと続く曲面は継ぎ目なく磨き上げられ、中央に浮かぶ巨大な心臓を、幾千もの角度から映し出していた。
心臓の表面には赤い光の筋が走り、収縮に合わせて太い血管のような管が震えている。その一本一本は広間の壁へ入り込み、さらに遠く、アリスたちが通り抜けてきた鏡界の各階層へ繋がっているようだった。
背後で足音が響き、アリスは振り返った。
「お嬢様、ずいぶん先まで来たものだな。追いつくのに苦労したよ」
帽子を片手で押さえながら、ヴェルトが回廊から姿を現した。その隣では、ルミナスが双剣を腰に戻している。
「ヴェルトさん! ルミナス!」
「やっほー、アリス! ちゃんと戻ってきたよ!」
ルミナスは笑顔で手を振ったが、左足を少し引きずっていた。
ヴェルトも平然とした顔をしているものの、外套の裾は破れ、いつもの軽やかな足取りには程遠い。
「……二百人を相手にして、無事だったのか」
ルシアンが呆れたように尋ねる。
「全員を倒したわけじゃない。向こうにも、話の分かる副団長がいて助かった」
「そうそう! でも、僕たちの勝ちだからね!」
「そこは譲らないんだな」
ヴェルトが苦笑すると、アリスは二人へ歩み寄った。
「……お帰りなさい」
その言葉に、ルミナスは嬉しそうに笑った。
「ただいま! 約束のご飯、忘れないでね!」
「もちろんです」
アリスが頷くと、ヴェルトは帽子を被り直し、広間の中央へ視線を向けた。
「さて、再会を喜ぶのは後にしようか。あれが、俺たちの探していたものらしいな」
その視線の先で、巨大な心臓がゆっくりと脈打っていた。
◇
アリスは【グラス・ヴェリタス】を握り直した。
刀身に刻まれた六つの鏡印が、心臓の鼓動に応じて淡く輝く。
「……生きているのか?」
ルシアンが低く呟いた。
左腕には包帯が巻かれたままで、彼は大剣を右手で支えている。先ほどのガウェインとの戦闘で消耗しているはずだが、その視線は広間の隅々を警戒していた。
「生物の心臓にしては、随分と行儀がいいな」
ヴェルトが帽子のつばを持ち上げた。
「鼓動の間隔が正確すぎる。あれは何かを生かしているというより、何かを動かしているんじゃないか?」
「じゃあ、壊せば止まる?」
ルミナスが双剣の柄に手を添えると、ヴェルトは首を振った。
「何が止まるか分からないうちは、やめておこう。俺たちまで一緒に止まったら困る」
軽口を交わす二人の間にも、疲労の色が残っていた。
ヴェルトは壁に寄りかかる時間が長くなり、ルミナスも左足へ体重をかけるたび、わずかに顔をしかめている。
アリスは彼らに休息を勧めようとしたが、その前にハロルドが一歩進み出た。
「……この構造は、王家の研究記録にあった」
彼の声には、いつもの落ち着きとは異なる緊張があった。
「鏡界の全階層を統括する魔術核。正式名称は【ハートコア】。ただし、記録には概念図しか残されていなかった。実物がこれほど巨大だとは……」
その時、心臓の鼓動が一度だけ止まった。
広間を満たしていた低い振動が消え、黒い硝子の表面に映る赤い光が、すべて同時に静止する。
アリスは反射的に剣を構えた。
次の鼓動とともに、声が響いた。
『第六原理の変更を確認した』
女の声だった。
冷たくも、機械的でもない。
落ち着いた響きの中に、長い年月を統治に費やした者だけが持つ、揺るぎない威厳があった。
『判決への絶対服従を否定し、再審の権利を認めたか。興味深い』
心臓の表面から無数の細い光が伸び、広間の中央で交差した。
光はやがて背の高い玉座の輪郭を形作り、その上に、一人の女の姿を映し出す。
白銀の髪を結い上げ、額には七つの宝石を埋め込んだ王冠。
深紅の礼装には金糸で王国の紋章が刺繍され、玉座の肘掛けへ置かれた両手には、古い様式の指輪が輝いていた。
年齢は四十代ほどに見える。
しかし、瞳に宿る静けさは、目の前の誰よりも長い歳月を知っているようだった。
「……まさか」
ハロルドが息を呑んだ。
「女王レギナ……あなたは、そんな姿になってまで……」
アリスは彼を振り返った。
「ご存じなのですか?」
「歴史資料で肖像を見た。鏡界計画の初期記録にも、彼女の名が残されている」
ハロルドは玉座から目を離さずに続けた。
「カルディア・レギナ。何世代も前に王国を統治した女王であり、鏡界の創設を命じた人物だ」
玉座の女が、ゆっくりとハロルドへ顔を向けた。
「グランフェルドの血を引く者か。王家はまだ続いているのだな」
「……ええ。ですが、あなたの時代から王国は大きく変わりました」
「そうであろう。私に与えられる外界の情報は、必要なものに限られている。王位の継承すら、すべてを知らされているわけではない」
女王は静かに頷いた。
「私はカルディア・レギナ。かつてこの国を治め、今は【ハートコア】の管理人格として存在する者だ」
アリスは玉座の足元を見た。
そこに影はない。
女王の姿は光によって形作られ、衣服の細かな皺まで再現されているものの、実際の身体が存在するわけではなかった。
「……あなたは、もう生きていないのですね」
「肉体はとうに滅びた」
レギナは当然の事実を述べるように答えた。
「生前の思考、記憶、感情、判断の型を魔術核へ転写した。今の私は、かつての女王の意思を引き継ぐ管理人格にすぎぬ」
「それでも、あなたは自分を女王と呼ぶんですね」
「国を守るという責務を、まだ終えていないからだ」
その答えを聞いた時、アリスは胸の奥に小さな違和感を覚えた。
肉体を失い、時代が変わり、王国の現在さえ十分に知らない。それでもなお、女王は自分が国を守り続けていると信じている。
いったい、何を守っているのだろう。
「鏡界を作った理由を、聞かせてください」
アリスが尋ねると、レギナは彼女の剣へ視線を落とした。
「六つの鏡印を得た者か。よかろう。お前には、知る資格がある」
玉座の背後に、巨大な光景が広がった。
燃える城壁。
雪に覆われた農地。
痩せ細った子供を抱く母親。
城門の外には敵軍の旗が並び、王都の通りには、病人を運ぶ荷車が絶え間なく行き交っていた。
アリスは思わず息を止めた。
映し出された王都は、今の華やかな街並みとはまるで違っていた。
「当時、王国は滅亡の瀬戸際にあった」
レギナが語り始めた。
「隣国との戦争は七年に及び、国境の防衛結界は破壊された。飢饉と疫病が広がり、領主たちは互いの食糧庫を奪い合った。王都の陥落まで、残された時間はわずかだった」
映像の中で、若き日のレギナが軍議の席に立っていた。
周囲の将軍たちは撤退を進言し、魔術師たちは結界の再構築に必要な魔力が足りないと訴えている。
「私は国を捨てることも、民を見捨てることもできなかった。そこで宮廷魔術師が提案したのが、情動変換炉【悲嘆聖炉】だった」
空中に複雑な魔法陣が現れる。
その中心には、人間の頭部を模した硝子の器が据えられていた。
「人の恐怖、後悔、絶望、罪悪感。それらの強い情動を魔力へ変換し、防衛結界へ供給する技術だ」
ハロルドが眉を寄せた。
「……王家の記録には、精神魔力の抽出技術としか書かれていなかった」
「後世の者が、そう呼び替えたのだろう」
レギナは淡々と答えた。
「最初は志願者を募った。兵士も、魔術師も、王都の市民も、自ら転炉へ入った。彼らの献身によって結界は一時的に回復し、王都は最初の総攻撃を退けた」
映像が切り替わる。
魔術師に付き添われ、一人の兵士が硝子の寝台へ横たわった。
装置が起動すると、兵士の胸元から赤黒い光が立ち上り、天井へ吸い込まれていく。
しばらくして寝台から起き上がった兵士は、傍らの妻を見ても表情を変えなかった。
妻が泣きながら抱きついても、彼は戸惑ったように自分の手を見つめている。
「……あの人は?」
アリスが尋ねた。
「恐怖と絶望を多く失った。戦場で受けた傷を思い出しても、以前ほど苦しまなくなった」
「それだけではないでしょう」
アリスは兵士の顔を見つめた。
「奥さんのことまで、分からなくなっているように見えます」
レギナは否定しなかった。
「情動は記憶と結びついている。抽出によって、関連する記憶や人格の一部が損なわれることがあった」
妻は夫の手を握り、何度も名前を呼んでいた。
しかし、夫はその声に応えられない。
ルミナスが耳を伏せた。
「……これ、助かったって言えるの?」
レギナは彼女へ目を向けた。
「その男は生き延びた。妻も、子も、敵軍によって殺されずに済んだ」
「でも、帰ってきた人は、前と同じ人じゃない」
「そうだ」
女王の返答に、ためらいはなかった。
次の映像では、転炉の前に長い列ができていた。
最初に並んでいた兵士や市民の姿はなく、手枷を嵌められた収監者たちが、看守に付き添われて装置へ運ばれていく。
「戦況が悪化するにつれ、志願者だけでは魔力が足りなくなった。私は刑務所の収監者を対象に加え、最後には死刑囚の情動も利用した」
ルシアンの指が、大剣の柄を強く握った。
「……本人の同意は?」
「収監者には拒否を認めなかった。死刑囚については、刑の執行に代わる措置として扱った」
「判決に、そんな刑罰は含まれていない」
ルシアンの声は静かだった。
しかし、アリスには彼が怒りを抑えていることが分かった。
「罪を犯した者であっても、裁かれていない罰まで受ける理由にはならない」
レギナは彼を見つめた。
「お前は処刑人だったのだな」
「……そうだ」
「ならば、国家が存続するために、誰かの命を奪わねばならぬ時があることも知っていよう」
ルシアンはすぐには答えなかった。
かつての自分なら、その言葉に頷いていたかもしれない。
だが、今は違う。
「必要だったからといって、全てが正しかったわけではない」
レギナは目を細めたものの、反論しなかった。




