第45話 無罪を叫んだ少年
若いルシアンが大剣を持ち上げたところで、処刑場の光景が静止した。
曇天の下、石畳に落ちかけていた雨粒までが空中に留まり、見物人たちのざわめきも途絶える。
処刑台の前では、両手を拘束された少年が顔を上げたまま、何かを訴えようとしていた。
アリスはその表情から目を離せなかった。
少年の頬には殴られた痕があり、痩せた肩は寒さと恐怖で震えている。
それでも、彼の目にはまだ希望が残っていた。
目の前の騎士ならば、自分の話を聞いてくれるかもしれない。そんな期待が、処刑の直前まで失われていなかった。
「エリオ・ベルン。十五歳」
ガウェインの声とともに、処刑場の上空へ判決記録が展開された。
「王都南区の印刷工房で働いていた見習い職人だ。王国徴税局の役人、オスカー・レムを殺害した罪で起訴され、死刑判決を受けた」
文字の横に、事件現場の見取り図が浮かび上がる。
裏通りに面した石造りの倉庫。そこで役人の遺体が発見され、近くには血の付着した作業着が残されていたという。
「作業着には被告人の名前が縫い込まれていた。また、事件の前後にエリオが倉庫付近を歩いていたとする証言もあった。裁判所は二つの証拠を重視し、有罪と認定した」
アリスは記録を読み進めた。
エリオには弁護人が付いていた。審理も一度きりではなく、証人への尋問や証拠の確認が行われている。少なくとも書類の上では、正式な裁判の手続きを踏んでいた。
しかし、記録の下部に小さな文字が残っていた。
『被告人は事件当日、作業着を第三者へ貸与したと主張。ただし、貸与先を特定する証言および物証は提出されず』
「……作業着を貸していた?」
アリスが呟くと、ガウェインは頷いた。
「エリオは、工房へ出入りしていた男に作業着を貸したと主張した。だが、男の名前も所在も確認できなかった」
「それだけで、嘘だと判断されたんですか?」
「それだけではない。現場付近にいたという目撃証言もあり、裁判官は証拠を総合して判断した」
ガウェインの答えは淡々としていた。
アリスは再び記録へ目を向けた。
確かに、作業着を貸したという主張が事実だった証拠はない。しかし、それが虚偽だったと証明する記録も見当たらなかった。
有罪と判断するには、十分な証拠だったのだろうか。
それとも、十分だと判断されたから、判決が確定したのだろうか。
「……この話を、俺も聞いた」
隣でルシアンが口を開いた。
彼は処刑台の上にいる過去の自分を見つめていた。
「執行前の確認で、エリオは何度も同じことを訴えた。作業着は貸したものだ、自分は役人を殺していない、と」
「それなら、どうして……」
アリスは問いかけかけて、言葉を止めた。
ルシアンの右手が、ゆっくりと握られていたからだ。
彼はしばらく沈黙し、それから短く答えた。
「判決は確定していた。執行命令も有効だった」
ガウェインが片手を下ろすと、静止していた処刑場が再び動き始めた。
空中の雨粒が石畳へ落ち、見物人たちのざわめきが戻る。
若いルシアンは大剣を下ろし、腰に差していた書類入れから一枚の命令書を取り出した。
執行対象、エリオ・ベルン。
罪状、殺人。
刑罰、死刑。
裁判所の印章と、執行を承認する署名が並んでいる。
若いルシアンは命令書を確認し、再び少年へ向き直った。
「最後に、何か言い残すことはあるか」
その声は、今のルシアンよりもわずかに硬かった。
エリオは顔を上げた。
「僕じゃない! 母さんが待ってるんだ! 帰らせてよ!」
少年は拘束された腕を動かそうとし、兵士に肩を押さえつけられた。
「作業着は貸したんです! あの日、僕は工房へ戻る途中で……お願いです、もう一度調べてください!」
若いルシアンは動かなかった。
命令書を持つ左手が、わずかに震えている。
アリスはその震えを見つめた。
彼は、何も感じずに剣を振るったわけではなかった。
少年の言葉を聞き、判決への疑問を抱いていた。それでも、処刑を止めるための行動は取らなかったのだ。
若いルシアンは命令書を折り畳み、書類入れへ戻した。
そして、両手で大剣を握った。
エリオが何かを叫んだ。
その声は見物人たちのざわめきにかき消され、若い騎士が剣を振り下ろすと同時に、処刑場の光景は白い光へ包まれた。
次に景色が現れた時、処刑台には誰もいなかった。
雨に濡れた石畳の上に、少年が履いていた古い靴が一足、残されている。
片方の靴底は剥がれかけ、粗末な紐で縫い留められていた。何度も修繕して履き続けてきたのだろう。つま先には、印刷工房で使う黒いインクの染みが付いていた。
兵士が靴を拾い上げ、遺品を入れる木箱へ投げ込んだ。
その下には、折り畳まれた一通の手紙があった。
『母さんへ』
書き出しだけが見えた。
エリオが拘束中に書いたものらしい。母親を心配させないようにする言葉と、帰ったら工房でもっと働くという約束が、幼さの残る筆跡で綴られていた。
だが、封筒には宛先の住所がなく、発送を示す印もなかった。
「……この手紙は?」
アリスが尋ねると、ガウェインは記録を確認した。
「遺品として保管された。受取人の所在を確認できず、返還には至っていない」
アリスは木箱を見つめた。
少年が最後まで帰りたいと願った家へ、彼の言葉さえ届かなかった。
その事実が、処刑の瞬間よりも重く胸に残った。
「……もういい」
ルシアンが静かに言った。
ガウェインは彼を見たが、記録を消そうとはしなかった。
「お前が望んだ確認だ」
「分かっている」
ルシアンは処刑台へ目を向けたまま、低く続けた。
「だから、最後まで見る」
ガウェインはしばらく沈黙し、別の記録を呼び出した。
処刑場の上空に、新たな書類が浮かび上がる。
「エリオの処刑から三年後、別件の捜査記録から当時の証言に疑義が生じた」
書類には、事件現場付近でエリオを見たと証言した商人の名前が記されていた。
その商人は後年、別の事件で事情聴取を受けた際、役人殺害事件についても言及していた。
『被告人を見たのは、事件当日の夕刻ではなく、前日の夕刻だった可能性がある』
アリスは息を呑んだ。
「……目撃した日が違っていたんですか?」
「その可能性がある。だが、証人自身の記憶も曖昧だった。ほかの証拠を覆すだけの確実性があるとは判断されていない」
ガウェインは書類を閉じた。
「エリオが無罪だったと証明されたわけではない。犯行に関与した可能性も、なお残っている」
アリスは頷いた。
確かに、この記録だけで少年の無実を断定することはできない。
けれど、処刑が正しかったと断言することもできなかった。
「……俺は、あの判決を疑っていた」
ルシアンが言った。
ガウェインは否定しなかった。
「知っている」
その答えに、アリスは顔を上げた。
「知っていたんですか?」
「執行前、ルシアンは私に相談した。被告人の訴えと証拠の間に、説明のつかない部分があると」
ガウェインはルシアンを見つめた。
「私は、執行者が判断すべき問題ではないと答えた。判決に異議があるなら、裁判所の手続きを通すべきだと」
ルシアンは静かに頷いた。
「……その通りだ」
彼は自分の右手を見下ろした。
「俺には、疑問を報告することも、執行の延期を求めることもできた。認められる保証はなかったが、何もしない理由にはならなかった」
指先がわずかに動いた。
「それでも、俺は剣を振った」
アリスは何も言わなかった。
彼の代わりに少年の無罪を証明することも、ルシアンの行為を赦すこともできない。
ただ、彼が自分の言葉で語り終えるのを待った。
「命令だったからじゃない。命令に従えば、考えなくて済むと思ったからだ」
ルシアンは顔を上げた。
その視線の先には、処刑台と、木箱に収められた少年の靴がある。
「判決が正しいかどうかは、裁判官が決める。執行者の俺は、それに従えばいい。そう考えていれば、自分が何をしているのか、最後まで考えずに済むと思っていた」
彼の声は荒れていなかった。
怒りも、悲しみも、誰かへの非難もない。
ただ、長い間胸の奥へ押し込めてきた事実を、一つずつ確かめるような話し方だった。
「……俺が殺した」
ルシアンはそう言って、右手を下ろした。
アリスは彼の横顔を見つめた。
その言葉を口にしたからといって、少年の死が軽くなるわけではない。ルシアン自身が救われるわけでもない。
それでも彼は、命令や制度の陰へ責任を隠すことを、ようやくやめようとしていた。
ガウェインは長い沈黙の後、静かに口を開いた。
「なら騎士を辞めれば、その死が戻るのか」
ルシアンは答えなかった。
ガウェインは一歩近づいた。
「お前が騎士団を離れ、自分の罪を認めたとしても、エリオ・ベルンは生き返らない。母親へ手紙が届くこともない。お前が執行したほかの判決についても同じだ」
その声には、怒りも嘲りもなかった。
むしろ、かつての弟子を試すような厳しさがあった。
「罪から目を背けるなと言うのなら、騎士団を辞めることもまた、責任から逃れる行為ではないのか」
ルシアンは、処刑台に残された靴を見つめた。
騎士団を離れれば、もう処刑命令を受けずに済む。
だが、それは自分が再び同じ過ちを犯す機会から遠ざかるだけではないのか。
剣を置くことと、責任を果たすことは同じなのか。
答えは、まだ見つからなかった。
処刑場の記録がゆっくりと薄れ、石造りの法廷が戻ってくる。
その中央で、ルシアンは大剣を握ったまま立ち尽くしていた。
ガウェインの問いだけが、消えない判決のように、彼の胸へ残されていた。




