第43話 審判回廊ジャッジメント・ホール
王国の紋章が刻まれた門をくぐった瞬間、アリスの頬を撫でていた雪風が途絶えた。
背後では白雪柩庭園の雪が静かに降り続いている。
それなのに、門の向こうには冬の気配がなく、乾いた石の匂いと、磨かれた金属特有の冷たい空気が満ちていた。
そこは、法廷と軍事要塞を一つにしたような建物だった。
見上げるほど高い天井には王国の紋章が浮き彫りにされ、左右の壁には黒い石柱が果てしなく並んでいる。
石柱の表面を埋め尽くす細かな文字は、近づくと人名と罪状、そして判決年月日であることが分かった。
中央には広大な石造りの大広間があり、その奥に裁判官席を思わせる高い壇が設けられている。
しかし、被告人が立つはずの場所には巨大な処刑台が据えられ、さらにその両脇には、兵士を配置するための防御壁と射撃用の狭間が築かれていた。
裁くための場所と、命令を執行するための場所。
本来なら分けて考えるべき二つの機能が、ここでは一つの建物に収められていた。
「……趣味の悪い再現だ」
隣を歩いていたルシアンが、低く呟いた。
アリスが振り向くと、彼は大広間の奥を睨んでいた。
負傷した左腕には包帯が巻かれているが、第五鏡装【白葬装スノウ・コフィン】の力によって、本人が望んだ範囲で痛みは和らげられている。
それでも傷が治ったわけではなく、歩く際には無意識に左肩を庇っていた。
「この場所を、知ってるんですか?」
「王都の断罪騎士団本部だ。正確には、その処刑審理棟を鏡に映したような造りだな」
ルシアンは天井の紋章を見上げた。
「石柱の位置も、奥の階段も同じだ。違うのは、現実の本部じゃ判決記録をこんなふうに壁へ並べたりしないってことくらいか」
「おや。元職場への感想にしては、ずいぶん辛辣だね」
ヴェルトが帽子のつばを持ち上げた。
「辞めた職場の悪口くらい、好きに言わせろ」
「では、お嬢様。彼の退職理由を詳しく聞いてみましょうか。職場環境の改善に役立つかもしれませんよ」
「ヴェルトさん、今はやめておきましょう」
アリスが苦笑すると、ルミナスが興味深そうにルシアンを見上げた。
「でも、ちょっと気になる。ルシアンって、昔からそんな怖い顔してたの?」
「生まれつきだ」
「えー。赤ちゃんの頃から?」
「……そこまで覚えていない」
ルミナスが笑い、ヴェルトも肩を揺らした。
アリスは二人のやり取りを聞きながら、わずかに息をついた。
白雪柩庭園で母との二度目の別れを経験してから、胸の奥には埋めようのない空白が残っている。
それでも、こうして仲間たちの声を聞いている間だけは、現実へ戻ってきたことを確かめられる気がした。
だが、その穏やかな時間は長く続かなかった。
大広間の左右に並んでいた騎士たちが、一斉に剣を抜いたのだ。
鋼の擦れる音が高い天井へ反響し、整列した騎士たちの足元に白い魔法陣が広がっていく。
アリスは反射的に【グラス・ヴェリタス】へ手を伸ばしたが、ルシアンが右腕を横へ出して制した。
「待て。まだ斬りかかってくるとは限らん」
彼の言葉通り、騎士たちは剣を構えたまま動かなかった。
その視線は、アリスたち全員ではなく、ルシアン一人へ向けられている。
やがて、大広間の奥にある階段から、重い足音が聞こえてきた。
黒鋼の鎧に白い外套を纏った男が、ゆっくりと階段を降りてくる。
短く刈り込まれた銀灰色の髪と、左頬を斜めに走る古傷。
年齢は五十代半ばほどだろうか。背筋は真っ直ぐに伸び、腰には通常の騎士剣よりも幅の広い大剣が吊られていた。
男が姿を現した途端、騎士たちは一斉に剣を下げ、胸元へ掲げた。
「久しいな、ルシアン」
低く、よく通る声だった。
ルシアンの表情が強張る。
「……ガウェイン」
男は階段の途中で足を止めた。
「師を呼び捨てにするようになったか。以前のお前なら、少なくとも人前では騎士団長と呼んでいたものだが」
「……あんたまで鏡界にいるとはな」
「ここは王国の正義が保管される場所だ。私がいないほうがおかしい」
ガウェイン・クロイツ。
断罪騎士団長であり、かつてルシアンへ剣と執行者の心得を教えた人物だった。
アリスは二人の間に流れる空気を感じ取り、言葉を挟まずにいた。
ルシアンはガウェインを睨んでいる。しかし、その眼差しには敵意だけでなく、長年の習慣によって身体へ染み込んだ敬意のようなものも残っていた。
「ずいぶん立派な場所を任されたんだな」
ルシアンが言うと、ガウェインは表情を変えずに答えた。
「王国の法を守るために必要な場所だ。お前も、その重要性は理解しているはずだ」
「理解してるからこそ、気に入らないんだよ」
ガウェインはしばらくルシアンを見つめ、それから静かに告げた。
「戻れ。お前の席はまだ残してある」
アリスは思わず目を見開いた。
これほど多くの騎士に囲まれ、今にも戦闘が始まると思っていた。
ところが、ガウェインはルシアンを反逆者として処刑するどころか、騎士団への復帰を命じたのだ。
「……冗談だろ」
「私は冗談で騎士を動かさない」
ガウェインは一段ずつ階段を降りてきた。
「お前ほど正確に命令を遂行できる執行者は、そう多くない。感情に流されず、定められた手順を守り、最後まで任務を果たす。その資質を私は高く評価していた」
「……それが、今の俺にも必要だと?」
「必要なのは王国だ。お前が何を見て、何を疑ったとしても、執行者として積み重ねた経験まで失われるわけではない」
ルシアンは答えなかった。
アリスは彼の横顔を見つめた。
ルシアンはかつて百人を超える人間を処刑したと話していた。
その中には、罪を認めず、最後まで無実を訴えた者もいたはずだ。
彼が今、何を考えているのかは分からない。
ただ、ガウェインの言葉が彼の胸へ深く突き刺さっていることだけは、固く握られた右手から伝わってきた。
「……少々、よろしいですか」
ヴェルトが口を開いた。
彼はいつの間にか、壁際の黒い石柱へ近づいていた。
「こちらの判決記録、なかなか興味深い仕組みだね。単なる展示品ではないようだけど」
ガウェインの視線が動く。
「触れるな。そこには王国の正式な司法記録が保管されている」
「うん、だから気になるんだよ」
ヴェルトは石柱の表面へ指先を近づけた。
そこには一人の罪人の名前と、殺人罪による死刑判決が刻まれている。
文字の下には小さな魔法陣があり、そこから細い光の線が床へ伸びていた。
「この術式、記録を保存するだけではないようだね。どうやら別の場所へ情報を送っている」
ヴェルトが指を鳴らすと、カードが一枚、石柱の前へ浮かび上がった。
「【マッド・ディール】このカードの魔力伝導率を、一時的に引き上げる」
カードが淡く光り、石柱から伸びる魔力の流れが可視化された。
無数の細い線が床下へ集まり、大広間の奥にある巨大な紋章へ接続されている。
その紋章からは、さらに別の空間へ向かう魔力の流れが続いていた。
「……なるほど。鏡界の内部だけで完結していない」
ヴェルトの声から、いつもの軽さが消えた。
「お嬢様。ここは現実の司法記録と接続されている」
「……現実と?」
「うん。鏡界で発行された【罪籍照合】の結果が、現実側の記録にも反映され得る構造だね」
アリスは石柱を見つめた。
もし、鏡界の中で誰かが有罪と認定されたら。
その情報が現実の司法記録へ送られ、正式な執行命令として扱われる可能性があるということだ。
「そんなことが許されたら、裁判を受ける前に処刑される人が出てしまいます」
アリスの言葉に、ガウェインは静かに頷いた。
「危険性は承知している」
「では、なぜ止めないんですか?」
「王国の法が及ばない場所で、どれほど多くの私刑が行われてきたと思う」
ガウェインは黒い石柱へ視線を向けた。
「領主の気分で罪を決められた者もいれば、金で判決を買った者もいる。裁判を受ける権利すら与えられず、処刑された者もいた。司法の記録を統一し、執行を一元化できれば、少なくともそうした恣意的な裁きを減らせる」
「でも、その仕組み自体が間違った判決を出したら?」
「だからこそ、記録と手続きを厳格に管理する必要がある」
ガウェインの答えに迷いはなかった。
アリスは反論しかけたが、言葉を飲み込んだ。
彼の主張には、確かに合理性がある。
誰もが自分の正義を振りかざして人を裁く国より、共通の法と手続きを持つ国のほうが、守られる人は多いだろう。
けれど、制度が間違えた時、その誤りを誰が止めるのか。
アリスは、ルシアンへ視線を向けた。
彼はずっと黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……ガウェイン。一つ、聞きたいことがある」
「何だ」
「十五歳の少年が、役人殺しで処刑された事件を覚えているか」
ガウェインの表情が、わずかに変わった。
「……エリオ・ベルンの件か」
その名前を聞いた瞬間、ルシアンの右手が強く握られた。
「あいつは、最後まで無罪を訴えていた」
「判決は有罪だった」
「後になって、証拠の一部がおかしかったと分かったはずだ」
ガウェインは否定しなかった。
ルシアンは一歩前へ出た。
「……あの判決は、本当に正しかったのか」
大広間に沈黙が落ちた。
騎士たちは動かず、黒い石柱に刻まれた文字だけが淡く光っている。
ガウェインは長い間、ルシアンを見つめていた。
やがて、静かに口を開いた。
「お前が疑っている判決は、一件だけではない」
その言葉と同時に、大広間の石柱が一斉に輝き始めた。
黒い表面を埋め尽くしていた文字が浮かび上がり、空中へ無数の判決記録が展開される。
殺人、反逆、窃盗、国家機密の漏洩。
罪状も刑罰も異なる膨大な記録が、天井の紋章へ向かって連なっていく。
その中には、ルシアンの名が執行者として記されたものもあった。
一件だけではない。
彼がこれまで振るってきた剣の数だけ、判決が存在している。
ルシアンは、目の前に広がる記録を見上げた。
アリスは彼の横顔を見つめたが、声を掛けることができなかった。
ガウェインは階段の上から、かつての弟子へ告げた。
「見せてやろう、ルシアン。お前が信じてきた王国の正義を」
天井に刻まれた王国の紋章が、冷たい金色の光を放った。




