第42話 痛みのある未来
痛みが消えるということが、これほど恐ろしいとは思わなかった。
ルシアンは左腕を持ち上げ、指を握り込んだ。
禁書領域で傷を深めた腕は、包帯の下で腫れたままだというのに、骨に響いていた鈍痛も、動かすたびに走る鋭い痛みも感じられない。
「……傷が治ったわけじゃないな」
試しに腕を動かすと、指先がわずかに震えた。
痛覚だけを奪われた身体は、どこまで無理が利くのか判断できない。
足元から広がる白い霜が、彼の軍靴を覆い始めた。
「お嬢様、少々お行儀の悪い賭けに出るよ」
ヴェルトが帽子を押さえ、片手を硝子の床へ向けた。
「【マッド・ディール】。この場における眠りの強制度を、十分の一に変更する」
指先で弾かれたカードが空中で回転し、周囲の霜に細かな亀裂が走った。
アリスの意識を覆っていた眠気が一瞬だけ薄れたものの、カードが床へ刺さるより早く、亀裂は再び塞がっていく。
「……駄目だね。庭園そのものが術式になってる。俺の改変が終わるたび、元の値に戻される」
ルミナスは双剣【グリン】と【グリム】を抜き、雪の上を駆けた。
「だったら、見つからなければいい!」
【バニシング・グリン】が発動し、その姿がアリスの認識から抜け落ちる。
だが、次の瞬間には、何もいないはずの場所で雪が不自然に沈み、苦しげな息遣いが聞こえた。
「……うそ。見られてないのに、眠くなる……」
庭園は侵入者を探しているのではなかった。
そこに存在する者すべてを、区別なく眠らせようとしていた。
アリスの黒い軍装の上を透明な赤い装甲が覆う。【紅狩装ルージュ・ハント】を展開し、三秒先に仲間たちが倒れる光景を捉えた。
続けてうろこ状の青い装甲に切り替える。【蒼鱗装アズール・セイレーン】で互いの意思を確かめると、ルミナスの焦りと、ヴェルトが必死に保っている集中が伝わってくる。
最後に時計と歯車を組み合わせた銀色の装甲【銀刻装シルバー・ミッドナイト】へ切り替え、剣を握り直した。
しかし、セラフィナへ刃を向けても、庭園全体の術式は止まらない。
白鏡姫は雪の中で両手を重ね、ただ悲しそうに一行を見つめていた。
「お願いです。抵抗しないでください。眠ってしまえば、もう苦しまなくて済むのです」
その背後に、白い文字が浮かび上がった。
――ROOT LAW:TO BE HAPPY IS TO BE FREE FROM PAIN.
【幸福とは、苦痛から解放されることである】
アリスはその一文を見つめた。
セラフィナが間違っているのは、人々の苦痛を取り除こうとしたことではない。
苦痛を取り除くためなら、本人の願いを退けてもよいと考えていることだった。
「セラフィナさん。私は、あの夢の中で幸せでした」
アリスは剣を下ろし、少女へ語りかけた。
「母と朝食を食べて、庭園を歩いて、父と本を読みました。もう一度あんな時間を過ごせるなら、何でも差し出したいと思っていたんです」
セラフィナの表情が和らいだ。
「それなら、戻りましょう。今度は、いつまでも一緒にいられます」
「……でも、私は自分で目覚めたいと思いました」
「目覚めれば、またお母様を失った悲しみを感じます」
「そうです。きっと、これからも悲しいと思います」
アリスは唇を噛んだ。
夢から戻った代償として、母の本当の声を思い出せなくなった。
その喪失は、今も胸の奥で疼いている。
「でも、だからといって、あの夢の中に閉じ込められたいわけではありません」
「どうしてですか? 悲しみのない世界を選べるのに」
「私が選びたいのは、悲しみではありません。悲しいことが起きるかもしれない未来を、それでも自分で選ぶことです」
セラフィナは困惑したように眉を寄せた。
アリスは、彼女の背後に並ぶ無数の硝子の棺へ目を向けた。
「眠り続けたい人は、眠っていていいと思います。今すぐ目覚めることができない人もいるでしょう。でも、目覚めたい人まで閉じ込めるのは違います」
「その方は、苦しみを正しく理解していないのです」
「……では、あなたはどうなんですか?」
アリスは静かに尋ねた。
「セラフィナさん。あなたは、本当にここにいたいんですか?」
少女は即座に答えようとした。
しかし、唇がわずかに開いたまま、言葉が出てこなかった。
「私は……皆さんを守らなければ……」
「守りたいと思ったのは、あなた自身ですよね。でも、今のあなたは、守り方を変えることも、ここを離れることもできない」
アリスは一歩近づいた。
「あなたは、人を救いたかったんですよね。眠らせることが目的だったわけではないはずです」
セラフィナの瞳が揺れた。
かつて、痛みに苦しむ人々の手を握り、少しでも楽になってほしいと願った少女。
その願いは、いつしか苦痛を生む可能性そのものを消す仕組みに変えられていた。
「……私は、最初から眠らせたかったわけではありません」
セラフィナは自分の両手を見つめた。
「痛みが和らいだら、また家族と話したいと言っていた方がいました。歩けるようになったら、外へ出たいと……。私は、その願いを叶えたかったんです」
白い文字が、一瞬だけ明滅した。
「でも、今の私は……その方が外へ出たいと言っても、眠っているほうが幸せだと答えてしまう」
セラフィナの声が震えた。
「それでは、あの方の願いを守ったことにならないのでしょうか」
その問いが発せられた瞬間、庭園を覆う霜に亀裂が走った。
――ROOT LAW CONFLICT DETECTED.
【根本律の矛盾を検出】
アリスは【グラス・ヴェリタス】を構えた。
セラフィナ自身が、救済を望む者の意思と、意思を奪う安寧の矛盾に気づいた。
これで初めて、第五原理を反転させる条件が整ったのだ。
「痛みがないことと、生きていることは同じではありません」
硝子の刃が、白い光を映した。アリスの左目、深紅の瞳に魔力が集中する。
「幸せになるために、誰かの未来を奪ってはいけないんです!」
アリスは剣を振り上げた。
「【インバーテッド】!」
――HAPPINESS INCLUDES THE FREEDOM TO FEEL PAIN.
【幸福には、痛みを感じる自由も含まれる】
白い魔力が奔流となって庭園を駆け抜けた。
凍りついていた枝から霜が剥がれ、硝子の床へ落ちた雪が再び柔らかさを取り戻す。
アリスの身体を覆っていた眠気が薄れ、遠くで風が木々を揺らす音が聞こえ始めた。
「……痛っ」
ルシアンが左腕を押さえた。
傷の痛みが戻ったのだ。
彼は顔をしかめたが、どこか安堵したように息を吐いた。
「治っていないなら、痛むのが普通だな」
「普通のありがたさを、こんな形で思い知るとはね」
ヴェルトがカードをシャッフルする。
ルミナスも姿を現し、眠気の残る目を擦った。
アリスは周囲を見渡した。
無数の硝子棺は、まだそこにあった。
眠る人々も、一斉に目覚めたりはしない。
ただ、棺の表面を覆っていた白い文字が消え、代わりに小さな光が灯っていた。
セラフィナは最も近い棺へ歩み寄った。
中には、年老いた女性が眠っている。
少女がそっと蓋へ手を触れると、硝子が静かに開いた。
「……起きたいですか?」
女性は薄く目を開け、しばらくセラフィナを見つめていた。
「……まだ、ここにいたいわ」
掠れた声だった。
「もう少しだけ、あの人と話していたいの」
セラフィナは頷いた。
「分かりました。目覚めたくなったら、いつでも教えてください」
彼女は女性の手をそっと包み、再び棺を閉じた。
次の棺には、中年の男性が眠っていた。
セラフィナが同じ問いを投げかけると、男性は長い沈黙の後、震える声で答えた。
「……帰りたい。息子に、謝らなければならないんだ」
セラフィナは、その手を取った。
「では、一緒に帰る方法を探しましょう」
男性の身体を支え、ゆっくりと棺から起こす。
アリスは、その光景を見つめていた。
眠り続けることを選んだ人も、目覚めることを選んだ人も、どちらも否定されなかった。
セラフィナは初めて、人々を自分の正しさへ従わせるのではなく、一人ずつの願いを聞いていた。
やがて、彼女はアリスの前へ戻ってきた。
「……ありがとうございます」
セラフィナは小さく頭を下げた。
「私は、守ることと、閉じ込めることを同じだと思っていました」
少女が両手を差し出すと、掌の上に雪の結晶のような光が生まれた。
「これは、私が本当に使いたかった力です。あなたに託してもいいですか?」
アリスが頷くと、光は彼女の身体を包み込んだ。
銀白色の装甲が肩から胸元へ広がり、雪の結晶を模した薄い外套が背中へ流れる。
冷たさはなく、むしろ傷ついた身体をそっと包むような穏やかな魔力が満ちていた。
第五鏡装【白葬装スノウ・コフィン】
固有能力【選択の安息】
本人が明確に同意した場合に限り、苦痛を一時的に和らげる力。
傷を治すことも、記憶を消すことも、心を変えることもできず、同意が撤回されれば効果は失われる。
【グラス・ヴェリタス】の刀身に、新たな紋様が刻まれた。
【第五鏡印・安寧】
アリスはその光を見つめ、それからルシアンへ顔を向けた。
「……左腕の痛み、少しだけ和らげましょうか?」
ルシアンは包帯の巻かれた腕を見下ろした。
「傷が治るわけじゃないんだな」
「はい。痛みを抑えるだけです」
「なら、頼む。動かせる範囲を間違えない程度にな」
アリスは頷き、彼の左腕へそっと手をかざした。
白い光が包帯を包み、ルシアンの険しかった表情がわずかに緩む。
痛みを消すのではなく、本人が望む分だけ和らげる。
それが、セラフィナの力が本来あるべき姿だった。
少し離れた場所で、ハロルドが少女へ歩み寄った。
「……セラフィナ。すまなかった」
セラフィナは彼を見上げた。
「あなたが研究を止められなかったことも、私の願いを利用したことも、今は分かります」
ハロルドは目を伏せた。
少女は静かに続けた。
「でも、今すぐ許すかどうかは、まだ決められません」
「……それでいい」
「私がこれからどう生きるかは、私が決めます」
セラフィナはそう言って、眠る人々のほうへ振り返った。
「私は、ここに残ります。まだ目覚めたくない方も、いつか帰りたいと思うかもしれません。その時に、ちゃんと話を聞けるように」
アリスは頷いた。
「……お願いします」
その時、森の奥で低い音が響いた。
雪を被った木々の向こうに、巨大な門が姿を現していた。
これまでの鏡界で見た扉とは違う。
黒い金属で造られた門扉には、金色の装飾が施され、その中央には王国の紋章が刻まれている。
アリスは【白葬装スノウ・コフィン】を解き、【グラス・ヴェリタス】を見下ろした。
刀身には、五つの鏡印が並んでいた。
恐怖、欲望、役割、情報、そして安寧。
それぞれの世界で出会った人々の願いと、自分が選んできた答えが、硝子の刃へ刻まれている。
母の声は、まだ思い出せなかった。
けれど、母が教えてくれた言葉は、胸の中に残っている。
間違えた時には、間違いを認めること。
怖くても、自分で考えること。
そして、自分の足で歩いていくこと。
「……行きましょう」
アリスが歩き出すと、ルシアンが隣へ並び、ヴェルトとルミナスも後に続いた。
ハロルドは少し距離を置いたまま、同じ門へ向かって歩き始めた。
白い森には、静かに雪が降り続いている。
その向こうで、王国の紋章だけが、冷たい金色の光を放っていた。




