第41話 眠りは救済か
白い森には、相変わらず雪が降り続いていた。
アリスが硝子の棺から降りると、ルシアンは蓋を支えていた右手を離し、負傷した左腕を庇いながら彼女の前に立った。
「……歩けるか」
いつもと変わらない、ぶっきらぼうな声だった。
アリスは頬に残っていた涙を拭い、頷いた。
「はい。もう、大丈夫です」
そう答えながらも、胸の奥には夢の余韻が残っていた。
母の笑顔も、抱き締められた温もりも覚えている。
けれど、現実の母がどんな声で自分の名前を呼んでくれたのか、どうしても思い出せなかった。
夢の中で繰り返された優しい言葉だけが、記憶に残っている。
その喪失を口にすれば、ルシアンたちは何か言ってくれるかもしれない。
だが、今は誰かに慰めてもらうよりも、自分の足で立っていたかった。
「……皆さん、どうしてここに?」
アリスが尋ねると、ヴェルトが帽子を被り直した。
「お嬢様が禁書領域を出た後、あの【記録律アポクリファ】の残存機構を止めてたんだよ。放っておけば、また誰かの過去を勝手に書き換えかねないからね」
「それが済んでから、足跡を追ってきたんだ」
ルミナスが答えた。
「雪の上には何も残ってなかったけど、アリスの魔力が少しだけ残ってた。途中から、変な白い霧に隠されちゃったけど」
「見つけた時には、もう棺の中だった」
ルシアンは短く付け加えた。
「起こそうとしたが、蓋が開かなかった。お前が中から目を覚ますまで、どうにもならなかったんだ」
アリスは自分が眠っていた硝子の棺を振り返った。
透明な蓋には、細かな亀裂が走っていた。夢の中で【グラス・ヴェリタス】を振るった時、その衝撃がこちらにも届いたのかもしれない。
「……ご心配をおかけしました」
「面倒を増やすなとは言いたいが、今回は仕方ない」
ルシアンはそう言って、森の奥へ視線を向けた。
その後ろに、もう一人の人物が立っていた。
ハロルドだった。
仮面を外した第一王子は、雪の降る木立の間で静かにアリスを見つめている。
禁書領域で彼の頬を張った時の感触が蘇った。
母の死に関わる計画を知りながら、彼はアリスへ【グラス・ヴェリタス】を渡し、その力を目覚めさせようとしていた。
必要だったから。
世界を救うためだったから。
そんな理由で、自分の人生を利用したのだ。
アリスはハロルドから視線を外した。
「……先へ進みましょう」
彼は何も言わなかった。
その沈黙が、今のアリスにはありがたかった。
森の奥へ進むにつれ、硝子の棺の数は増えていった。
木々の間に規則正しく並ぶ棺には、老人も若者も、男も女も眠っている。
誰もが穏やかな表情を浮かべ、時折、夢の中の誰かへ語りかけるように唇を動かしていた。
「これだけの人数を眠らせているのか……」
ルシアンが低く呟いた。
彼は近くの棺へ歩み寄り、蓋の縁へ手を掛けた。
「開けられるなら、救助してやったほうがいい」
「待ってください」
アリスは咄嗟に彼を止めた。
ルシアンが振り返る。
「何だ?」
「無理に起こしてはいけません」
アリスは棺の中で眠る女性を見つめた。
年老いた女性だった。頬には深い皺が刻まれているが、その表情は幸福そうで、両手を胸の前で重ねている。
「私も、あの中で夢を見ました」
アリスは静かに言った。
「失ったものが戻ってきて、もう二度と会えないと思っていた人と、一緒に過ごせたんです」
ルシアンは何も言わず、彼女の言葉を待った。
「……そこから出るのは、とても苦しかったです。自分で目覚めようと決めても、最後まで迷いました」
アリスは硝子棺へ手を添えた。
「この人たちの中にも、まだ現実へ戻る準備ができていない人がいると思います。私たちが正しいと思うからといって、無理に起こしていいわけではありません」
「だが、ここに閉じ込められているんだろう?」
「はい。だからこそ、選べるようにしなければならないんです」
アリスはルシアンを見上げた。
「眠り続けたい人もいると思います。でも、それを決めるのはセラフィナさんでも、私たちでもありません」
ルシアンはしばらく考え、それから棺の縁から手を離した。
「……分かった。勝手には開けない」
ヴェルトが小さく息を吐いた。
「なるほど。助けるつもりで、相手の選択を奪ってしまうこともあるわけか」
「……そういうことです」
アリスは頷いた。
自分が幸福な夢から抜け出したことを、誰かに正しいと認めてもらいたいわけではない。
あの場所に留まりたいと願う人の気持ちも、今なら分かる。
だからこそ、眠ることも目覚めることも、本人が決めるべきだと思った。
「……あなたは、あの幸福な世界から戻ってきたのですね」
柔らかな声が、木々の間から聞こえた。
白い衣装を纏った少女が、雪の中に立っていた。
白鏡姫セラフィナ。
彼女はアリスを責めることも、警戒することもなく、静かに微笑んでいる。
「はい」
アリスは答えた。
「私には、戻らなければならない理由があります」
セラフィナは少し悲しそうに首を傾げた。
「お母様に会えたのでしょう? それでも、あの方と別れることを選んだのですか?」
アリスの胸が痛んだ。
母の姿が脳裏に浮かぶ。
優しく微笑み、何も考えなくていいと囁いてくれた人。
その温もりは、今も確かに覚えている。
「……会えました」
アリスは頷いた。
「だからこそ、あの人が本当のお母様ではないと分かったんです」
セラフィナは、しばらくアリスを見つめていた。
「本物である必要が、あるのでしょうか」
その問いは、静かだった。
「愛されていると感じられるのなら、それで十分ではありませんか?」
アリスはすぐには答えられなかった。
夢の中で得た幸福は、確かに自分を慰めてくれた。
母に抱き締められた温もりも、父と本を読んだ時間も、アリスにとっては本物の経験だった。
それを偽物だから無価値だと切り捨てることは、できなかった。
「……あの夢が、私を救ってくれたことは否定しません」
アリスはゆっくりと言った。
「でも、私は夢の中にいるだけでは、前へ進めなかったんです」
セラフィナは不思議そうに首を傾げた。
「前へ進むことが、そんなに大切なのですか?」
「……私には、大切です」
アリスが答えると、セラフィナは静かに微笑んだ。
「それなら、あなたはとても強い方なのですね」
その言葉に、アリスは首を振りかけた。
強かったわけではない。
ただ、母が命を懸けて守ろうとしたものを、自分で手放したくなかっただけだ。
「……セラフィナ」
低い声がした。
ハロルドだった。
セラフィナは彼を見ると、嬉しそうに目を細めた。
「ハロルド様。お久しぶりです」
その無邪気な挨拶に、ハロルドの表情が強張った。
「……君は、まだここにいたのか」
「はい。私には、守らなければならない方々がいますから」
セラフィナは周囲の硝子棺を見渡した。
「みんな、苦しんでいました。でも、今は幸せそうでしょう?」
ハロルドは答えなかった。
アリスは二人を見比べた。
「……知り合いなんですか?」
ハロルドはしばらく沈黙した後、口を開いた。
「彼女は、初期の安寧研究に参加していた少女だ」
セラフィナは静かに頷いた。
「私は、痛みに苦しむ人たちを助けたかったんです」
彼女は自分の胸元へ手を当てた。
「怪我をした人も、病気の人も、眠れないほど悲しい人も、少しでも楽になれたらいいと思っていました。だから、自分から研究に参加したんです」
ハロルドが言葉を引き継いだ。
「最初は、苦痛を一時的に和らげるための魔力治療だった。本人の同意を得て、必要な時間だけ痛みを抑える。それが本来の目的だった」
「……それが、どうしてこんなことに?」
アリスが尋ねると、ハロルドは視線を落とした。
「痛みを取り除いても、人はまた傷つく。悲しみを和らげても、再び悲しい出来事が起きる。研究者たちは、苦痛を生む原因そのものをなくそうと考え始めた」
セラフィナは穏やかに微笑んだ。
「そうすれば、誰も苦しまなくて済みますから」
「……違う」
ハロルドの声が震えた。
「私は、あの時に止めるべきだった。君が自分の意志で研究に参加したことを、研究を進める理由にしてしまった」
セラフィナは不思議そうに彼を見つめた。
「どうして謝るのですか?」
「君の善意を、利用したからだ」
「そんなことありません」
セラフィナは微笑んだ。
「ハロルド様は、たくさんの人を救おうとしていました。私も同じです」
その言葉に、ハロルドは何も返せなかった。
アリスは、セラフィナの笑顔を見つめた。
彼女は誰も責めない。
自分を利用した者さえ、悪くないと言う。
それは優しさなのだろうか。
それとも、誰かを責めるという苦しい選択さえ、彼女から奪われてしまったのだろうか。
「……セラフィナさん」
アリスは静かに呼びかけた。
「眠っている人たちが、自分で目覚めたいと言ったら、どうしますか?」
セラフィナは迷わず答えた。
「目覚めれば、また傷つきます」
「それでも、本人が望んだら?」
「その方は、苦しみを正しく理解できていないのだと思います」
「……では、その人の願いは聞かないんですね」
セラフィナは沈黙した。
雪が、二人の間へ静かに降り続ける。
やがて、彼女は悲しそうに微笑んだ。
「苦しむ自由に、何の価値があるのですか?」
アリスは答えられなかった。
苦しみそのものに価値があるとは思わない。
できることなら、誰も傷つかずに生きてほしい。
母が死なずに済む世界があるのなら、今でもそこへ行きたいと思っている。
けれど、苦しみをなくすために、未来を選ぶことまで奪われてしまったら。
その人は、本当に幸せなのだろうか。
「……私にも、まだ分かりません」
アリスは正直に答えた。
「でも、苦しむことと、自分で選ぶことは、同じではないと思うんです」
セラフィナの瞳が、わずかに揺れた。
「……あなたは、みんなを起こしたいのですね」
「違います。私は、みんなが自分で決められるようにしたいんです」
「でも、それではまた苦しむ人が出てしまいます」
セラフィナは胸元で両手を重ねた。
「そんなこと、させられません」
その声には、初めてはっきりとした拒絶が混じっていた。
アリスは【グラス・ヴェリタス】の柄へ手を添えた。
「……セラフィナさん」
「あなたたちも、少し休んだほうがいいと思います」
少女は静かに微笑んだ。
その瞬間、庭園全体が白い光に包まれた。
硝子棺の表面へ一斉に霜が広がり、木々の枝が透明な氷に覆われていく。
足元の雪は音もなく固まり、森の奥まで続く白い道が、硝子の床のように変わっていった。
「……何だ、これは」
ルシアンが大剣を抜こうとした。
しかし、負傷した左腕の痛みが突然消え、彼は一瞬、動きを止めた。
傷は残っている。
それなのに、痛みも疲労も感じない。
「……まずい。身体の感覚が……」
ヴェルトが帽子の縁を押さえ、ルミナスも足元をふらつかせた。
アリスは【グラス・ヴェリタス】を抜こうとしたが、指先に力が入らなかった。
恐怖も、怒りも、悲しみも、ゆっくりと遠ざかっていく。
それと同時に、意識の奥から深い眠気が押し寄せてきた。
視界の端に、白い文字が浮かび上がる。
――TRANQUILITY PRESERVATION:MAXIMUM.
【安寧維持・最大出力】
セラフィナは、眠る人々を守るように両手を広げた。
「大丈夫です。もう、誰も傷つきません」
その声を最後に、白い光がアリスたちを包み込んだ。




