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断罪の国のアリス―Project Glass Eden―  作者: 塚田澄玻
第七章 白雪柩庭園
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第41話 眠りは救済か

 白い森には、相変わらず雪が降り続いていた。


 アリスが硝子の棺から降りると、ルシアンは蓋を支えていた右手を離し、負傷した左腕を庇いながら彼女の前に立った。


「……歩けるか」


 いつもと変わらない、ぶっきらぼうな声だった。

 アリスは頬に残っていた涙を拭い、頷いた。


「はい。もう、大丈夫です」


 そう答えながらも、胸の奥には夢の余韻が残っていた。

 母の笑顔も、抱き締められた温もりも覚えている。

 けれど、現実の母がどんな声で自分の名前を呼んでくれたのか、どうしても思い出せなかった。

 夢の中で繰り返された優しい言葉だけが、記憶に残っている。

 その喪失を口にすれば、ルシアンたちは何か言ってくれるかもしれない。

 だが、今は誰かに慰めてもらうよりも、自分の足で立っていたかった。


「……皆さん、どうしてここに?」


 アリスが尋ねると、ヴェルトが帽子を被り直した。


「お嬢様が禁書領域を出た後、あの【記録律アポクリファ】の残存機構を止めてたんだよ。放っておけば、また誰かの過去を勝手に書き換えかねないからね」

「それが済んでから、足跡を追ってきたんだ」


 ルミナスが答えた。


「雪の上には何も残ってなかったけど、アリスの魔力が少しだけ残ってた。途中から、変な白い霧に隠されちゃったけど」

「見つけた時には、もう棺の中だった」


 ルシアンは短く付け加えた。


「起こそうとしたが、蓋が開かなかった。お前が中から目を覚ますまで、どうにもならなかったんだ」


 アリスは自分が眠っていた硝子の棺を振り返った。

 透明な蓋には、細かな亀裂が走っていた。夢の中で【グラス・ヴェリタス】を振るった時、その衝撃がこちらにも届いたのかもしれない。


「……ご心配をおかけしました」

「面倒を増やすなとは言いたいが、今回は仕方ない」


 ルシアンはそう言って、森の奥へ視線を向けた。

 その後ろに、もう一人の人物が立っていた。

 ハロルドだった。

 仮面を外した第一王子は、雪の降る木立の間で静かにアリスを見つめている。

 禁書領域で彼の頬を張った時の感触が蘇った。


 母の死に関わる計画を知りながら、彼はアリスへ【グラス・ヴェリタス】を渡し、その力を目覚めさせようとしていた。

 必要だったから。

 世界を救うためだったから。

 そんな理由で、自分の人生を利用したのだ。

 アリスはハロルドから視線を外した。


「……先へ進みましょう」


 彼は何も言わなかった。

 その沈黙が、今のアリスにはありがたかった。


 森の奥へ進むにつれ、硝子の棺の数は増えていった。

 木々の間に規則正しく並ぶ棺には、老人も若者も、男も女も眠っている。

 誰もが穏やかな表情を浮かべ、時折、夢の中の誰かへ語りかけるように唇を動かしていた。


「これだけの人数を眠らせているのか……」


 ルシアンが低く呟いた。

 彼は近くの棺へ歩み寄り、蓋の縁へ手を掛けた。


「開けられるなら、救助してやったほうがいい」

「待ってください」


 アリスは咄嗟に彼を止めた。

 ルシアンが振り返る。


「何だ?」

「無理に起こしてはいけません」


 アリスは棺の中で眠る女性を見つめた。

 年老いた女性だった。頬には深い皺が刻まれているが、その表情は幸福そうで、両手を胸の前で重ねている。


「私も、あの中で夢を見ました」


 アリスは静かに言った。


「失ったものが戻ってきて、もう二度と会えないと思っていた人と、一緒に過ごせたんです」


 ルシアンは何も言わず、彼女の言葉を待った。


「……そこから出るのは、とても苦しかったです。自分で目覚めようと決めても、最後まで迷いました」


 アリスは硝子棺へ手を添えた。


「この人たちの中にも、まだ現実へ戻る準備ができていない人がいると思います。私たちが正しいと思うからといって、無理に起こしていいわけではありません」

「だが、ここに閉じ込められているんだろう?」

「はい。だからこそ、選べるようにしなければならないんです」


 アリスはルシアンを見上げた。


「眠り続けたい人もいると思います。でも、それを決めるのはセラフィナさんでも、私たちでもありません」


 ルシアンはしばらく考え、それから棺の縁から手を離した。


「……分かった。勝手には開けない」


 ヴェルトが小さく息を吐いた。


「なるほど。助けるつもりで、相手の選択を奪ってしまうこともあるわけか」

「……そういうことです」


 アリスは頷いた。

 自分が幸福な夢から抜け出したことを、誰かに正しいと認めてもらいたいわけではない。

 あの場所に留まりたいと願う人の気持ちも、今なら分かる。

 だからこそ、眠ることも目覚めることも、本人が決めるべきだと思った。


「……あなたは、あの幸福な世界から戻ってきたのですね」


 柔らかな声が、木々の間から聞こえた。

 白い衣装を纏った少女が、雪の中に立っていた。

 白鏡姫《しろきょうき》セラフィナ。

 彼女はアリスを責めることも、警戒することもなく、静かに微笑んでいる。


「はい」


 アリスは答えた。


「私には、戻らなければならない理由があります」


 セラフィナは少し悲しそうに首を傾げた。


「お母様に会えたのでしょう? それでも、あの方と別れることを選んだのですか?」


 アリスの胸が痛んだ。

 母の姿が脳裏に浮かぶ。

 優しく微笑み、何も考えなくていいと囁いてくれた人。

 その温もりは、今も確かに覚えている。


「……会えました」


 アリスは頷いた。


「だからこそ、あの人が本当のお母様ではないと分かったんです」


 セラフィナは、しばらくアリスを見つめていた。


「本物である必要が、あるのでしょうか」


 その問いは、静かだった。


「愛されていると感じられるのなら、それで十分ではありませんか?」


 アリスはすぐには答えられなかった。

 夢の中で得た幸福は、確かに自分を慰めてくれた。

 母に抱き締められた温もりも、父と本を読んだ時間も、アリスにとっては本物の経験だった。

 それを偽物だから無価値だと切り捨てることは、できなかった。


「……あの夢が、私を救ってくれたことは否定しません」


 アリスはゆっくりと言った。


「でも、私は夢の中にいるだけでは、前へ進めなかったんです」


 セラフィナは不思議そうに首を傾げた。


「前へ進むことが、そんなに大切なのですか?」

「……私には、大切です」


 アリスが答えると、セラフィナは静かに微笑んだ。


「それなら、あなたはとても強い方なのですね」


 その言葉に、アリスは首を振りかけた。

 強かったわけではない。

 ただ、母が命を懸けて守ろうとしたものを、自分で手放したくなかっただけだ。


「……セラフィナ」


 低い声がした。

 ハロルドだった。

 セラフィナは彼を見ると、嬉しそうに目を細めた。


「ハロルド様。お久しぶりです」


 その無邪気な挨拶に、ハロルドの表情が強張った。


「……君は、まだここにいたのか」

「はい。私には、守らなければならない方々がいますから」


 セラフィナは周囲の硝子棺を見渡した。


「みんな、苦しんでいました。でも、今は幸せそうでしょう?」


 ハロルドは答えなかった。

 アリスは二人を見比べた。


「……知り合いなんですか?」


 ハロルドはしばらく沈黙した後、口を開いた。


「彼女は、初期の安寧研究に参加していた少女だ」


 セラフィナは静かに頷いた。


「私は、痛みに苦しむ人たちを助けたかったんです」


 彼女は自分の胸元へ手を当てた。


「怪我をした人も、病気の人も、眠れないほど悲しい人も、少しでも楽になれたらいいと思っていました。だから、自分から研究に参加したんです」


 ハロルドが言葉を引き継いだ。


「最初は、苦痛を一時的に和らげるための魔力治療だった。本人の同意を得て、必要な時間だけ痛みを抑える。それが本来の目的だった」

「……それが、どうしてこんなことに?」


 アリスが尋ねると、ハロルドは視線を落とした。


「痛みを取り除いても、人はまた傷つく。悲しみを和らげても、再び悲しい出来事が起きる。研究者たちは、苦痛を生む原因そのものをなくそうと考え始めた」


 セラフィナは穏やかに微笑んだ。


「そうすれば、誰も苦しまなくて済みますから」

「……違う」


 ハロルドの声が震えた。


「私は、あの時に止めるべきだった。君が自分の意志で研究に参加したことを、研究を進める理由にしてしまった」


 セラフィナは不思議そうに彼を見つめた。


「どうして謝るのですか?」

「君の善意を、利用したからだ」

「そんなことありません」


 セラフィナは微笑んだ。


「ハロルド様は、たくさんの人を救おうとしていました。私も同じです」


 その言葉に、ハロルドは何も返せなかった。

 アリスは、セラフィナの笑顔を見つめた。

 彼女は誰も責めない。

 自分を利用した者さえ、悪くないと言う。

 それは優しさなのだろうか。

 それとも、誰かを責めるという苦しい選択さえ、彼女から奪われてしまったのだろうか。


「……セラフィナさん」


 アリスは静かに呼びかけた。


「眠っている人たちが、自分で目覚めたいと言ったら、どうしますか?」


 セラフィナは迷わず答えた。


「目覚めれば、また傷つきます」

「それでも、本人が望んだら?」

「その方は、苦しみを正しく理解できていないのだと思います」

「……では、その人の願いは聞かないんですね」


 セラフィナは沈黙した。

 雪が、二人の間へ静かに降り続ける。

 やがて、彼女は悲しそうに微笑んだ。


「苦しむ自由に、何の価値があるのですか?」


 アリスは答えられなかった。

 苦しみそのものに価値があるとは思わない。

 できることなら、誰も傷つかずに生きてほしい。

 母が死なずに済む世界があるのなら、今でもそこへ行きたいと思っている。

 けれど、苦しみをなくすために、未来を選ぶことまで奪われてしまったら。

 その人は、本当に幸せなのだろうか。


「……私にも、まだ分かりません」


 アリスは正直に答えた。


「でも、苦しむことと、自分で選ぶことは、同じではないと思うんです」


 セラフィナの瞳が、わずかに揺れた。


「……あなたは、みんなを起こしたいのですね」

「違います。私は、みんなが自分で決められるようにしたいんです」

「でも、それではまた苦しむ人が出てしまいます」


 セラフィナは胸元で両手を重ねた。


「そんなこと、させられません」


 その声には、初めてはっきりとした拒絶が混じっていた。

 アリスは【グラス・ヴェリタス】の柄へ手を添えた。


「……セラフィナさん」

「あなたたちも、少し休んだほうがいいと思います」


 少女は静かに微笑んだ。

 その瞬間、庭園全体が白い光に包まれた。


 硝子棺の表面へ一斉に霜が広がり、木々の枝が透明な氷に覆われていく。

 足元の雪は音もなく固まり、森の奥まで続く白い道が、硝子の床のように変わっていった。


「……何だ、これは」


 ルシアンが大剣を抜こうとした。

 しかし、負傷した左腕の痛みが突然消え、彼は一瞬、動きを止めた。

 傷は残っている。

 それなのに、痛みも疲労も感じない。


「……まずい。身体の感覚が……」


 ヴェルトが帽子の縁を押さえ、ルミナスも足元をふらつかせた。

 アリスは【グラス・ヴェリタス】を抜こうとしたが、指先に力が入らなかった。


 恐怖も、怒りも、悲しみも、ゆっくりと遠ざかっていく。

 それと同時に、意識の奥から深い眠気が押し寄せてきた。

 視界の端に、白い文字が浮かび上がる。


 ――TRANQUILITY PRESERVATION:MAXIMUM.

 【安寧維持・最大出力】


 セラフィナは、眠る人々を守るように両手を広げた。


「大丈夫です。もう、誰も傷つきません」


 その声を最後に、白い光がアリスたちを包み込んだ。


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