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断罪の国のアリス―Project Glass Eden―  作者: 塚田澄玻
第七章 白雪柩庭園
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第40話 理想の母親

 母の手は、記憶にあるものと同じくらい温かかった。

 窓辺の椅子に腰掛けたアリスは、髪を撫でられる心地よさに身を委ねながら、その優しさの奥にある違和感を確かめようとしていた。


 夕暮れの陽射しが室内を淡い金色に染め、卓上の紅茶からは、まだ微かな湯気が立っている。開け放たれた窓から薔薇の香りが流れ込み、遠くで庭師の使う鋏の音が聞こえた。

 何もかもが穏やかだった。

 だからこそ、アリスは尋ねずにはいられなかった。


「……お母様。昔、私が花瓶を割ってしまったことを覚えていますか?」


 母は髪を撫でる手を止めず、懐かしそうに微笑んだ。


「もちろんよ。あなたがまだ小さかった頃でしょう?」

「はい。叱られるのが怖くて、マルタが落としたんだと嘘をつきました」


 アリスは膝の上で指を組んだ。


「あの時、私が黙っていれば、マルタが叱られていたかもしれません。お母様は、どう思いますか?」

「子供の頃のことだもの。気にしなくていいのよ」

「……でも、私は嘘をつきました」

「怖かったのでしょう? それなら仕方がないわ」


 母はアリスの頬へ手を添えた。


「あなたは悪くないわ」


 その言葉は、胸の奥へ柔らかく染み込んだ。

 何年も前の失敗を、今さら責められたかったわけではない。むしろ、許してもらえるなら、どれほど楽だろうと思っていた。

 けれど、アリスが覚えている母の言葉は違っていた。


 あの日、母は割れた花瓶の前にしゃがみ込み、アリスと同じ目の高さで話をしてくれた。

 嘘をついた理由を尋ね、怖かった気持ちを受け止めた上で、それでも他人に責任を押しつけてはいけないと教えてくれたのだ。


「……もし、私が今も同じことをしたら?」


 アリスは続けた。


「自分が助かるために誰かへ罪を着せて、その人が罰を受けると分かっていても黙っていたら、お母様はどうしますか?」


 母は少しも迷わなかった。


「あなたが無事なら、それでいいわ」


 アリスの胸に、小さな痛みが走った。


「その人が傷ついても、ですか?」

「あなたが傷つくより、ずっといいでしょう?」


 母は優しく笑った。

 アリスは視線を落とした。

 答えは予想していた。それでも、実際に聞くと、思っていた以上に苦しかった。

 アリスはさらに問いを重ねた。


「私、誰かを傷つけたことがあるんです」


 母は黙って耳を傾けた。


「自分を守るために剣を振りました。仲間を助けるために戦って、相手を傷つけたこともあります。あの時は、ほかに方法がないと思っていました。でも、本当に正しかったのか、今でも分からないんです」


 ルシアンの負傷した左腕が脳裏に浮かんだ。

 禁書領域で、自分の魔力が暴走した時、彼はアリスを庇って傷を深めた。

 あの時、自分がもう少し冷静でいられたなら、彼を傷つけずに済んだかもしれない。


「……私が間違っていたら、どうすればいいんでしょう」


 母はアリスを抱き寄せた。


「あなたのしたことは、全部正しいのよ」


 耳元で囁かれた言葉は、ひどく甘かった。


「誰かを傷つけたとしても、あなたが必要だと思ったのなら、それでいいの。後悔することなんてないわ」


 アリスは母の胸に額を預けた。

 柔らかな衣服の感触と、懐かしい香りが身体を包み込む。

 ここにいれば、何も考えずに済む。

 自分が正しかったのか悩む必要も、誰かを傷つけた責任と向き合う必要もない。

 母が、すべてを許してくれるからだ。


 その優しさに甘えてしまいたいと、アリスは心の底から思った。

 けれど、母の腕の中で目を閉じた時、別の記憶が浮かび上がった。

 幼い頃、割れた花瓶の破片を一緒に拾った日のことだった。

 母は、泣きながら謝るアリスの手を取り、指先に傷がないか確かめてから、静かに言った。


『間違えることは恥ずかしくないわ。でも、間違いを認めないことは、あなた自身を傷つけるのよ』


 あの時の母は、決して怒鳴らなかった。

 けれど、アリスが謝るまで、代わりに言い訳をしてくれることもなかった。

 マルタへ謝罪した後、母は一緒に新しい花瓶を選びに行こうと誘ってくれた。

 失敗をなかったことにするのではなく、失敗した後にどうするかを教えてくれたのだ。

 アリスは、ゆっくりと母の腕から身を離した。


「……お母様は、そんなことを言いません」


 母は不思議そうに首を傾げた。


「どうしたの、アリス?」

「本当のお母様は、私が間違えた時、ちゃんと叱ってくれました」


 アリスは顔を上げた。


「怖いことから逃げたくても、考えることをやめてはいけないと教えてくれたんです」


 母は穏やかに微笑んだままだった。


「でも、もう苦しまなくていいのよ。あなたは十分頑張ったでしょう?」

「……そうかもしれません」


 アリスは小さく頷いた。


「私、疲れていました。ずっと怖かったんです。誰かを信じて裏切られることも、自分の選択で誰かが傷つくことも、もう嫌でした」


 母の表情が、わずかに和らいだ。


「それなら、ここにいればいいわ」


 その言葉に、アリスは目を閉じた。

 ここにいれば、母は生きている。

 父も穏やかに笑い、マルタは毎朝髪を結ってくれる。

 薔薇の咲く庭園を歩き、午後には書庫で本を読み、夕方になれば母と紅茶を飲む。

 誰も死なない。

 誰も裏切らない。

 自分が間違えることさえない。

 それは、アリスが失ってしまった幸福そのものだった。


 けれど、その幸福の中には、母が命を懸けて守ろうとしたものが欠けていた。

 母は、アストレア継承計画から娘を逃がそうとした。

 王宮が用意した未来に従わせるのではなく、アリス自身に生きる道を選ばせようとしたのだ。

 そのために、母は命を奪われた。

 アリスは唇を噛んだ。


「……お母様は、私に幸せになってほしかったんですよね」

「もちろんよ」

「でも、それは……何も考えずに、誰かに守られているだけの幸せではなかったはずです」


 母は答えなかった。

 ただ、変わらず微笑んでいた。

 アリスは立ち上がり、部屋を見回した。

 机の上には、読みかけの本が置かれている。窓辺には白薔薇が咲き、夕陽は穏やかに室内を照らしていた。

 何も変わらない。

 母の笑顔も、部屋の温もりも、アリスが望んだ通りのままだった。

 そのことが、今は悲しかった。


「……私は、お母様に叱ってほしかったんです」


 声が震えた。


「間違えた時には、間違っていると言ってほしかった。怖くて逃げたくなった時には、どうすればいいのか一緒に考えてほしかったんです」


 母は静かに歩み寄り、アリスの手を取った。


「それなら、もう考えなくていいのよ」


 アリスは首を振った。


「違うんです……」


 涙が頬を伝った。

 母が亡くなった時、アリスは泣くことを我慢していた。

 父を心配させたくなかった。侯爵家の娘として、しっかりしなければならないと思っていた。

 断罪された時も、処刑台へ立たされた時も、涙を見せれば負けてしまうような気がして、必死に堪えていた。

 けれど、今はもう抑えられなかった。


「私、お母様に会いたかった……!」


 声が崩れた。


「もう一度、名前を呼んでほしかったんです。何でもない朝に、一緒にご飯を食べて、庭園を歩いて……ただ、それだけでよかったのに……!」


 アリスは母の手を握り締めた。


「どうして、あんな目に遭わなければならなかったんですか……! お母様は、私を守ろうとしただけなのに……!」


 王宮が母を処分したという記録が、脳裏に蘇った。

 母が最後に残した声。


『アリスを逃がしてください』


 あの時、母はどれほど怖かっただろう。

 娘を守れないかもしれないと知りながら、それでも助けを求め続けたのだ。

 アリスは声を上げて泣いた。

 幼い頃のように、母の胸へ顔を埋め、何度も名前を呼んだ。

 母は何も言わず、優しく抱き締めてくれた。

 その温もりは、確かにアリスを慰めた。

 夢の中であっても、母に抱き締められた幸福まで、嘘だったとは思いたくなかった。

 やがて、涙が少しずつ落ち着くと、アリスは母から身を離した。


「……ありがとうございます、お母様」


 母は微笑んだ。


「もう大丈夫よ。ここにいれば、悲しいことなんて何もないわ」


 アリスは、その言葉を聞いて静かに首を振った。


「……私は、帰らなければなりません」

「どこへ?」

「私が選んだ場所へ、です」


 母は困ったように眉を下げた。


「外には、怖いことがたくさんあるのよ」

「知っています」

「また傷つくかもしれないわ」

「……はい」

「それでも、行くの?」


 アリスは涙を拭った。


「行きます」


 その瞬間、部屋の隅に淡い光が灯った。

 光は細い線となって伸び、硝子の輪郭を描き始める。

 やがて、そこに一本の剣が現れた。

 【グラス・ヴェリタス】

 アリスはゆっくりと歩み寄り、その柄を握った。

 手に馴染む重みが戻ってくる。

 母は、剣を手にした娘を見ても、少しも怯えなかった。


「ここにいれば、もう悲しまなくていいのよ」


 その声は、どこまでも優しかった。

 アリスは母を見つめた。

 この人は、自分が望んだ母だった。

 決して怒らず、決して否定せず、どんな間違いも許してくれる。

 けれど、本当の母は違った。

 娘が間違えれば叱り、悩めば一緒に考え、最後には自分の足で歩けるように送り出してくれた。

 アリスは剣を構えた。


「……お母様」


 母は微笑んだまま、両手を広げた。


「大丈夫よ、アリス」


 その姿に、アリスの胸が再び痛んだ。

 斬りたくなかった。

 この人が本当の母ではないと分かっていても、もう一度失うことが怖かった。

 それでも、ここに留まれば、自分は永遠に母の優しさへ甘え続けることになる。

 母が命を懸けて守ろうとした、自分で未来を選ぶ権利を、手放してしまう。


「……さようなら、お母様」


 アリスは涙を流しながら、【グラス・ヴェリタス】を振るった。

 硝子の刃が、母の胸元へ届く。

 しかし、血は流れなかった。

 刃が触れた瞬間、母の姿に細かな亀裂が走り、柔らかな光が溢れ出した。

 母は最後まで、穏やかに微笑んでいた。

 その笑顔が砕けると同時に、食堂も、庭園も、懐かしい屋敷のすべてが硝子の破片となって崩れ始めた。


 アリスは剣を握り締めたまま、消えていく光を見つめた。

 温もりも、幸福も、確かにそこにあった。

 だからこそ、手放すことが苦しかった。

 けれど、その痛みを抱えたまま歩いていくことを、アリスは自分で選んだのだ。


 次の瞬間、視界が白く染まった。

 冷たい光が瞼の裏へ差し込み、アリスはゆっくりと目を開けた。

 透明な硝子が、目の前にあった。

 白い硝子棺の中だった。

 身体を起こそうとすると、頭上の蓋が静かに持ち上がった。


「……起きたか」


 低い声がした。

 ルシアンだった。

 彼は負傷した左腕を庇いながら、右手で棺の蓋を支えていた。

 その後ろには、帽子を胸に当てたヴェルトと、心配そうにこちらを見つめるルミナスが立っている。


 アリスは三人の顔を見た。

 何か言おうとしたが、声が出なかった。

 頬には、まだ涙が流れていた。

 ルシアンは、その理由を尋ねなかった。

 ただ、アリスが棺から出られるように、蓋を支え続けていた。

 ヴェルトも何も言わず、静かに頭を下げた。

 ルミナスはアリスの傍へ歩み寄り、小さな手を差し出した。

 アリスはその手を取った。

 温かかった。

 夢の中で触れた母の手とは違う、今ここにいる仲間の温もりだった。


「……ごめんなさい」


 アリスが呟くと、ルシアンは短く息を吐いた。


「謝ることじゃない」


 それだけ言って、彼は視線を逸らした。

 アリスは涙を拭い、ゆっくりと棺から立ち上がった。


 白い森には、変わらず雪が降っている。

 無数の硝子棺の中で、人々は幸福そうに眠り続けていた。

 アリスは【グラス・ヴェリタス】の柄を握った。

 母を失った悲しみは、消えていない。

 けれど、その悲しみを抱えたままでも、自分は歩いていける。

 そう思えたことが、今は何よりも大切だった。


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