第40話 理想の母親
母の手は、記憶にあるものと同じくらい温かかった。
窓辺の椅子に腰掛けたアリスは、髪を撫でられる心地よさに身を委ねながら、その優しさの奥にある違和感を確かめようとしていた。
夕暮れの陽射しが室内を淡い金色に染め、卓上の紅茶からは、まだ微かな湯気が立っている。開け放たれた窓から薔薇の香りが流れ込み、遠くで庭師の使う鋏の音が聞こえた。
何もかもが穏やかだった。
だからこそ、アリスは尋ねずにはいられなかった。
「……お母様。昔、私が花瓶を割ってしまったことを覚えていますか?」
母は髪を撫でる手を止めず、懐かしそうに微笑んだ。
「もちろんよ。あなたがまだ小さかった頃でしょう?」
「はい。叱られるのが怖くて、マルタが落としたんだと嘘をつきました」
アリスは膝の上で指を組んだ。
「あの時、私が黙っていれば、マルタが叱られていたかもしれません。お母様は、どう思いますか?」
「子供の頃のことだもの。気にしなくていいのよ」
「……でも、私は嘘をつきました」
「怖かったのでしょう? それなら仕方がないわ」
母はアリスの頬へ手を添えた。
「あなたは悪くないわ」
その言葉は、胸の奥へ柔らかく染み込んだ。
何年も前の失敗を、今さら責められたかったわけではない。むしろ、許してもらえるなら、どれほど楽だろうと思っていた。
けれど、アリスが覚えている母の言葉は違っていた。
あの日、母は割れた花瓶の前にしゃがみ込み、アリスと同じ目の高さで話をしてくれた。
嘘をついた理由を尋ね、怖かった気持ちを受け止めた上で、それでも他人に責任を押しつけてはいけないと教えてくれたのだ。
「……もし、私が今も同じことをしたら?」
アリスは続けた。
「自分が助かるために誰かへ罪を着せて、その人が罰を受けると分かっていても黙っていたら、お母様はどうしますか?」
母は少しも迷わなかった。
「あなたが無事なら、それでいいわ」
アリスの胸に、小さな痛みが走った。
「その人が傷ついても、ですか?」
「あなたが傷つくより、ずっといいでしょう?」
母は優しく笑った。
アリスは視線を落とした。
答えは予想していた。それでも、実際に聞くと、思っていた以上に苦しかった。
アリスはさらに問いを重ねた。
「私、誰かを傷つけたことがあるんです」
母は黙って耳を傾けた。
「自分を守るために剣を振りました。仲間を助けるために戦って、相手を傷つけたこともあります。あの時は、ほかに方法がないと思っていました。でも、本当に正しかったのか、今でも分からないんです」
ルシアンの負傷した左腕が脳裏に浮かんだ。
禁書領域で、自分の魔力が暴走した時、彼はアリスを庇って傷を深めた。
あの時、自分がもう少し冷静でいられたなら、彼を傷つけずに済んだかもしれない。
「……私が間違っていたら、どうすればいいんでしょう」
母はアリスを抱き寄せた。
「あなたのしたことは、全部正しいのよ」
耳元で囁かれた言葉は、ひどく甘かった。
「誰かを傷つけたとしても、あなたが必要だと思ったのなら、それでいいの。後悔することなんてないわ」
アリスは母の胸に額を預けた。
柔らかな衣服の感触と、懐かしい香りが身体を包み込む。
ここにいれば、何も考えずに済む。
自分が正しかったのか悩む必要も、誰かを傷つけた責任と向き合う必要もない。
母が、すべてを許してくれるからだ。
その優しさに甘えてしまいたいと、アリスは心の底から思った。
けれど、母の腕の中で目を閉じた時、別の記憶が浮かび上がった。
幼い頃、割れた花瓶の破片を一緒に拾った日のことだった。
母は、泣きながら謝るアリスの手を取り、指先に傷がないか確かめてから、静かに言った。
『間違えることは恥ずかしくないわ。でも、間違いを認めないことは、あなた自身を傷つけるのよ』
あの時の母は、決して怒鳴らなかった。
けれど、アリスが謝るまで、代わりに言い訳をしてくれることもなかった。
マルタへ謝罪した後、母は一緒に新しい花瓶を選びに行こうと誘ってくれた。
失敗をなかったことにするのではなく、失敗した後にどうするかを教えてくれたのだ。
アリスは、ゆっくりと母の腕から身を離した。
「……お母様は、そんなことを言いません」
母は不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの、アリス?」
「本当のお母様は、私が間違えた時、ちゃんと叱ってくれました」
アリスは顔を上げた。
「怖いことから逃げたくても、考えることをやめてはいけないと教えてくれたんです」
母は穏やかに微笑んだままだった。
「でも、もう苦しまなくていいのよ。あなたは十分頑張ったでしょう?」
「……そうかもしれません」
アリスは小さく頷いた。
「私、疲れていました。ずっと怖かったんです。誰かを信じて裏切られることも、自分の選択で誰かが傷つくことも、もう嫌でした」
母の表情が、わずかに和らいだ。
「それなら、ここにいればいいわ」
その言葉に、アリスは目を閉じた。
ここにいれば、母は生きている。
父も穏やかに笑い、マルタは毎朝髪を結ってくれる。
薔薇の咲く庭園を歩き、午後には書庫で本を読み、夕方になれば母と紅茶を飲む。
誰も死なない。
誰も裏切らない。
自分が間違えることさえない。
それは、アリスが失ってしまった幸福そのものだった。
けれど、その幸福の中には、母が命を懸けて守ろうとしたものが欠けていた。
母は、アストレア継承計画から娘を逃がそうとした。
王宮が用意した未来に従わせるのではなく、アリス自身に生きる道を選ばせようとしたのだ。
そのために、母は命を奪われた。
アリスは唇を噛んだ。
「……お母様は、私に幸せになってほしかったんですよね」
「もちろんよ」
「でも、それは……何も考えずに、誰かに守られているだけの幸せではなかったはずです」
母は答えなかった。
ただ、変わらず微笑んでいた。
アリスは立ち上がり、部屋を見回した。
机の上には、読みかけの本が置かれている。窓辺には白薔薇が咲き、夕陽は穏やかに室内を照らしていた。
何も変わらない。
母の笑顔も、部屋の温もりも、アリスが望んだ通りのままだった。
そのことが、今は悲しかった。
「……私は、お母様に叱ってほしかったんです」
声が震えた。
「間違えた時には、間違っていると言ってほしかった。怖くて逃げたくなった時には、どうすればいいのか一緒に考えてほしかったんです」
母は静かに歩み寄り、アリスの手を取った。
「それなら、もう考えなくていいのよ」
アリスは首を振った。
「違うんです……」
涙が頬を伝った。
母が亡くなった時、アリスは泣くことを我慢していた。
父を心配させたくなかった。侯爵家の娘として、しっかりしなければならないと思っていた。
断罪された時も、処刑台へ立たされた時も、涙を見せれば負けてしまうような気がして、必死に堪えていた。
けれど、今はもう抑えられなかった。
「私、お母様に会いたかった……!」
声が崩れた。
「もう一度、名前を呼んでほしかったんです。何でもない朝に、一緒にご飯を食べて、庭園を歩いて……ただ、それだけでよかったのに……!」
アリスは母の手を握り締めた。
「どうして、あんな目に遭わなければならなかったんですか……! お母様は、私を守ろうとしただけなのに……!」
王宮が母を処分したという記録が、脳裏に蘇った。
母が最後に残した声。
『アリスを逃がしてください』
あの時、母はどれほど怖かっただろう。
娘を守れないかもしれないと知りながら、それでも助けを求め続けたのだ。
アリスは声を上げて泣いた。
幼い頃のように、母の胸へ顔を埋め、何度も名前を呼んだ。
母は何も言わず、優しく抱き締めてくれた。
その温もりは、確かにアリスを慰めた。
夢の中であっても、母に抱き締められた幸福まで、嘘だったとは思いたくなかった。
やがて、涙が少しずつ落ち着くと、アリスは母から身を離した。
「……ありがとうございます、お母様」
母は微笑んだ。
「もう大丈夫よ。ここにいれば、悲しいことなんて何もないわ」
アリスは、その言葉を聞いて静かに首を振った。
「……私は、帰らなければなりません」
「どこへ?」
「私が選んだ場所へ、です」
母は困ったように眉を下げた。
「外には、怖いことがたくさんあるのよ」
「知っています」
「また傷つくかもしれないわ」
「……はい」
「それでも、行くの?」
アリスは涙を拭った。
「行きます」
その瞬間、部屋の隅に淡い光が灯った。
光は細い線となって伸び、硝子の輪郭を描き始める。
やがて、そこに一本の剣が現れた。
【グラス・ヴェリタス】
アリスはゆっくりと歩み寄り、その柄を握った。
手に馴染む重みが戻ってくる。
母は、剣を手にした娘を見ても、少しも怯えなかった。
「ここにいれば、もう悲しまなくていいのよ」
その声は、どこまでも優しかった。
アリスは母を見つめた。
この人は、自分が望んだ母だった。
決して怒らず、決して否定せず、どんな間違いも許してくれる。
けれど、本当の母は違った。
娘が間違えれば叱り、悩めば一緒に考え、最後には自分の足で歩けるように送り出してくれた。
アリスは剣を構えた。
「……お母様」
母は微笑んだまま、両手を広げた。
「大丈夫よ、アリス」
その姿に、アリスの胸が再び痛んだ。
斬りたくなかった。
この人が本当の母ではないと分かっていても、もう一度失うことが怖かった。
それでも、ここに留まれば、自分は永遠に母の優しさへ甘え続けることになる。
母が命を懸けて守ろうとした、自分で未来を選ぶ権利を、手放してしまう。
「……さようなら、お母様」
アリスは涙を流しながら、【グラス・ヴェリタス】を振るった。
硝子の刃が、母の胸元へ届く。
しかし、血は流れなかった。
刃が触れた瞬間、母の姿に細かな亀裂が走り、柔らかな光が溢れ出した。
母は最後まで、穏やかに微笑んでいた。
その笑顔が砕けると同時に、食堂も、庭園も、懐かしい屋敷のすべてが硝子の破片となって崩れ始めた。
アリスは剣を握り締めたまま、消えていく光を見つめた。
温もりも、幸福も、確かにそこにあった。
だからこそ、手放すことが苦しかった。
けれど、その痛みを抱えたまま歩いていくことを、アリスは自分で選んだのだ。
次の瞬間、視界が白く染まった。
冷たい光が瞼の裏へ差し込み、アリスはゆっくりと目を開けた。
透明な硝子が、目の前にあった。
白い硝子棺の中だった。
身体を起こそうとすると、頭上の蓋が静かに持ち上がった。
「……起きたか」
低い声がした。
ルシアンだった。
彼は負傷した左腕を庇いながら、右手で棺の蓋を支えていた。
その後ろには、帽子を胸に当てたヴェルトと、心配そうにこちらを見つめるルミナスが立っている。
アリスは三人の顔を見た。
何か言おうとしたが、声が出なかった。
頬には、まだ涙が流れていた。
ルシアンは、その理由を尋ねなかった。
ただ、アリスが棺から出られるように、蓋を支え続けていた。
ヴェルトも何も言わず、静かに頭を下げた。
ルミナスはアリスの傍へ歩み寄り、小さな手を差し出した。
アリスはその手を取った。
温かかった。
夢の中で触れた母の手とは違う、今ここにいる仲間の温もりだった。
「……ごめんなさい」
アリスが呟くと、ルシアンは短く息を吐いた。
「謝ることじゃない」
それだけ言って、彼は視線を逸らした。
アリスは涙を拭い、ゆっくりと棺から立ち上がった。
白い森には、変わらず雪が降っている。
無数の硝子棺の中で、人々は幸福そうに眠り続けていた。
アリスは【グラス・ヴェリタス】の柄を握った。
母を失った悲しみは、消えていない。
けれど、その悲しみを抱えたままでも、自分は歩いていける。
そう思えたことが、今は何よりも大切だった。




