第39話 帰ってきた朝
目を覚ました時、アリスは自分がどこにいるのか、すぐには分からなかった。
薄いレースのカーテンを透かして朝日が差し込み、窓辺に飾られた白薔薇の花瓶を柔らかく照らしている。
天蓋から垂れた布には小さな花模様が刺繍され、枕元には読みかけの本が伏せてあった。
洗い立ての寝具に染み込んだ石鹸の匂いと、庭園から運ばれてくる薔薇の香り。
その二つが混ざった空気を吸い込んだ瞬間、アリスは胸の奥がゆっくりと温かくなるのを感じた。
身に着けているのは、水色の寝間着だった。
袖口には、母が選んでくれた白いレースが縫い付けられている。
ルーヴェルト侯爵邸。
自分が生まれ育った屋敷の寝室だった。
「……帰って、きたの?」
呟いた声に応えるように、扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様、お目覚めでいらっしゃいますか?」
「マルタ……?」
「はい。おはようございます、お嬢様」
扉が開き、栗色の髪を結い上げた侍女が入ってきた。両手には温かな湯を張った洗面器と、清潔なタオルを抱えている。
「今日は少しお寝坊ですね。奥様が、昨夜は遅くまで本を読んでいたのでしょうとおっしゃっていました」
アリスは息を止めた。
「……お母様は?」
「もう食堂にいらっしゃいますよ。お嬢様のお好きな林檎の蜂蜜煮を、今朝はご自分で用意なさったんです」
マルタはいつもの調子で洗面器を置いた。
「さあ、お支度をいたしましょう。旦那様もお待ちです」
母は亡くなった。
しかも病ではなく、アストレア継承計画から娘を逃がそうとして、王宮に命を奪われた。
アリスはその事実を知っている。
ここが白雪柩庭園の見せる夢であることも、忘れてはいなかった。
それでも、マルタの声を聞いていると、あの恐ろしい記録が遠い出来事のように思えてくる。
「……お願いします」
顔を洗い、髪を梳かしてもらう。
鏡台の前に座ると、マルタは慣れた手つきで黒髪をまとめ、淡い青色のリボンを結んでくれた。
「今日は、いつもの編み込みにいたしましょうか」
「はい。……あの、マルタ」
「何でしょう?」
「私、何か大切なことを忘れている気がするんです」
櫛を動かしていた手が止まった。
マルタは鏡越しにアリスを見つめ、困ったように微笑んだ。
「大切なことなら、きっと奥様が覚えていらっしゃいますよ。お嬢様が無理に思い出す必要はありません」
そう言って、櫛を再び動かし始める。
アリスは鏡の中の自分を見つめた。
黒い軍装も、戦いで傷んだ手袋もない。
右の青い瞳と左の赤い瞳だけが、変わらず彼女自身のものだった。
侍女の言葉に引っかかるものを感じたが、髪を梳かれる心地よさに、問い直す気持ちは薄れていった。
食堂へ向かう廊下も、記憶の中と少しも変わらなかった。
磨かれた床板には朝日が映り、壁には父が好んで集めていた風景画が並んでいる。
階段の踊り場に置かれた大きな時計は、規則正しく時を刻んでいた。
食堂の扉を開くと、焼きたてのパンと紅茶の香りが迎えてくれた。
「おはよう、アリス」
母が微笑んだ。
淡いクリーム色のドレスを纏い、長い髪を肩の後ろでまとめている。
頬には健康的な赤みが差し、病床で見た痩せ細った面影はどこにもなかった。
アリスは、その場に立ち尽くした。
「……お母様」
「どうしたの? そんなところに立っていないで、こちらへいらっしゃい」
アリスはゆっくりと歩み寄り、差し出された手に触れた。
温かかった。
指先から伝わる体温も、柔らかな掌の感触も、記憶にある母のものだった。
「……おはようございます」
「おはよう。よく眠れた?」
「はい」
「それならよかったわ。今日はお天気がいいから、あとで庭園を歩きましょうね」
母はそう言って、アリスの椅子を引いてくれた。
食卓の向こうでは、父が新聞から顔を上げていた。
「おはよう、アリス」
「おはようございます、お父様」
父は短く頷くと、新聞を畳んだ。
「昨日、書庫の整理をしていたら、以前お前が読みたがっていた植物図鑑が見つかった。午後に時間があれば、一緒に見てみるか」
「……覚えていてくださったんですか?」
「もちろんだ。お前が珍しい花の名前を知りたがっていたことくらい、忘れるものか」
父は少し照れたように咳払いをした。
母が小さく笑う。
「あなた、昨日もその本を探して、書庫を随分散らかしていたでしょう」
「必要な資料を確認していただけだ」
「そういうことにしておきましょうか」
二人の何気ないやり取りに、アリスは胸が締めつけられるのを感じた。
父が不器用に娘を気遣い、母がそれをからかう。
自分はその間に座り、何も心配せずに朝食を食べる。
それだけのことが、今は奇跡のように思えた。
母が小皿を差し出した。
「林檎の蜂蜜煮よ。少しだけ桂皮を入れてあるから、あなたの好きな味になっていると思うわ」
アリスは匙を取った。
柔らかく煮込まれた林檎を口へ運ぶと、甘酸っぱい香りが広がり、後から桂皮の温かな風味が追いかけてくる。
懐かしい味だった。
「……おいしいです」
「よかった。まだたくさんあるから、遠慮しないで食べてね」
アリスはもう一匙、林檎を口へ運んだ。
夢だと分かっている。
それでも、味も香りも、母の笑顔も、あまりにも確かだった。
食事の途中、アリスはふと思い出したように顔を上げた。
「お母様、私……昨日まで、どこにいたんでしょう」
母は紅茶のカップを置いた。
「昨日まで?」
「長い間、家に帰れなかった気がするんです。怖い場所を歩いて、誰かと戦って……」
「怖い夢を見たのね」
母はアリスの手に自分の手を重ねた。
「でも、もう終わったのよ。ここには怖いものなんて何もないわ」
「……でも、ルシアンたちが」
アリスが仲間の名前を口にすると、母は少しだけ悲しそうな顔をした。
「その人たちは、あなたを危ない場所へ連れていったのでしょう?」
「違います。助けてくれたんです」
「そう。では、きっといい人たちなのね」
母は優しく微笑んだ。
「でも、もう会いに行かなくていいのよ。あなたが危険な目に遭うことを、その人たちだって望まないでしょうから」
アリスは返事に迷った。
ルシアンなら、何と言うだろう。
無茶をするなと叱りながらも、最後には自分の選択を尊重してくれる気がした。
けれど、母の手は温かかった。
その温もりを振り払ってまで、今すぐ答えを出す必要があるとは思えなかった。
午前中、母と庭園を歩いた。
白薔薇の咲く小道には柔らかな陽射しが降り注ぎ、花壇の縁では小さな蝶が羽を休めている。
母は剪定鋏を手に取り、アリスへ一本の枝を示した。
「この枝は、少し伸びすぎているでしょう。ここで切ってあげると、ほかの蕾にも陽が当たるのよ」
「覚えています。昔、同じことを教えていただきました」
「あら、そうだったかしら。それなら、今日はあなたにお願いしようかしら」
アリスは鋏を受け取り、慎重に枝を切った。
乾いた小さな音がして、余分な枝が掌へ落ちる。
その拍子に、隣の蕾を一つ傷つけてしまった。
「あ……」
アリスは慌てて枝を確かめた。
「ごめんなさい。私、ちゃんと見ていなくて」
「いいのよ、アリス」
母はすぐに微笑んだ。
「あなたがしたことなら、何も間違いじゃないわ」
アリスは顔を上げた。
「……でも、この蕾は」
「気にしなくていいの。ほら、ほかにもたくさん咲いているでしょう?」
母は傷ついた蕾をそっと摘み取り、花壇の陰へ置いた。
「悲しいものを、わざわざ見つめなくてもいいのよ」
アリスは母の手元を見つめた。
かつて母は、花を切る時には理由を考えなさいと教えてくれた。
傷つけてしまった枝にも、できることがあるかもしれないと一緒に考えてくれた。
だが、その記憶を確かめようとする前に、母がアリスの髪へ付いた花びらを取り除いた。
「上手になったわね」
優しく褒められると、アリスは何も言えなくなった。
午後には、父と書庫で過ごした。
古い植物図鑑には、王国各地に咲く花の細密画が描かれていた。
父は頁をめくりながら、若い頃に訪れた地方の話をしてくれた。
「この花は北方の高地にしか咲かない。寒さに強いが、暖かい土地では根づかないそうだ」
「不思議ですね。同じ花でも、育つ場所を選ぶんですね」
「人間も似たようなものかもしれんな。無理に合わない場所へ置けば、どれほど立派な花でも枯れてしまう」
父はそう言って、少しだけ笑った。
アリスはその言葉を胸の中で繰り返した。
自分は、どこにいるべきなのだろう。
侯爵家の娘として、この屋敷で暮らしていた頃。
断罪され、国を追われ、鏡界を旅していた頃。
どちらも、自分の人生だった。
けれど、今ここにいると、もう一度だけ最初からやり直せるような気がした。
夕方が近づく頃、アリスは自室へ戻った。
窓から差し込む光が少しずつ橙色を帯び、机の上には読みかけの本が置かれている。
アリスは無意識に腰へ手を伸ばした。
そこにあるはずの【グラス・ヴェリタス】がない。
剣を探そうとして、彼女は動きを止めた。
禁書領域で知った母の死の真相も、ハロルドが自分を覚醒させるために剣を与えたことも、忘れてはいない。
ルシアンたちは、今も自分を追っているだろう。
それでも、剣を探そうとは思えなかった。
もう少しだけ、ここにいたかった。
母の声を聞き、父と本を読み、何も恐れずに眠ることができる場所に。
ここを出れば、また戦わなければならない。母を殺した王宮の真実と向き合い、誰を信じるべきか悩みながら、それでも自分の未来を選ばなければならない。
アリスは机の引き出しへ伸ばしかけた手を、ゆっくりと下ろした。
その時、扉が叩かれた。
「アリス、お茶にしない?」
母の声だった。
扉の向こうに、銀の盆を持った母が立っている。温かな紅茶と、小さな焼き菓子が載っていた。
「今日はたくさん歩いたから、疲れたでしょう。少し休みましょう」
「……はい、お母様」
アリスは微笑んだ。
そして、剣を探すことをやめた。
窓辺の小さな卓を囲み、母と向かい合って座る。
紅茶から立ち上る湯気が、夕陽を受けて淡く輝いていた。
母は何気ない話をしてくれた。庭園の薔薇が今年はよく咲いたこと。父が新しい本を買いすぎて、書庫の棚が足りなくなりそうなこと。マルタが最近、焼き菓子作りを覚えたこと。
アリスはその一つ一つに耳を傾けた。
何も起こらない時間が、こんなにも愛おしいものだったとは思わなかった。
やがて、アリスは小さく息を吐いた。
「……お母様」
「なあに?」
「私、これからどうすればいいんでしょう」
母は静かに微笑んだ。
アリスは紅茶の水面を見つめた。
「今まで、ずっと考えてきたんです。何が正しいのか、誰を信じればいいのか、どうすれば誰かを助けられるのか。でも、考えても考えても、分からないことばかりで……」
母は何も言わず、アリスの言葉を聞いていた。
「もう、疲れてしまったのかもしれません」
アリスが呟くと、母は椅子から立ち上がり、娘の傍へ歩み寄った。
そして、幼い頃と同じように、アリスの髪を優しく撫でた。
「大丈夫よ、アリス」
温かな掌が、頭を包み込む。
「あなたは何も考えなくていいのよ」
アリスは目を閉じかけた。
その言葉は、あまりにも優しかった。
もう悩まなくていい。間違えなくていい。誰かを救えなかったことを悔やまなくてもいい。ただ、ここにいればいい。
そう言われているようだった。
「もし、私が間違えたら……?」
アリスは、ほとんど無意識に尋ねていた。
母は少しも迷わず答えた。
「あなたは間違えないわ」
「でも、私が誰かを傷つけてしまったら?」
「そんなこと、考えなくていいのよ」
母の手が、ゆっくりと髪を撫で続ける。
「あなたが悲しくなることは、全部忘れてしまえばいいの。そうすれば、いつまでも幸せでいられるでしょう?」
アリスは目を開けた。
母は変わらず微笑んでいる。
その笑顔は、記憶にあるものと少しも違わない。
けれど、アリスは幼い頃の出来事を思い出していた。
大切な花瓶を割り、叱られるのが怖くて嘘をついた時、母はすぐに許してくれたわけではなかった。
割れた破片を一緒に拾いながら、どうして嘘をついたのかと尋ねてくれた。
間違いを認めることは怖いけれど、その怖さから逃げ続けてはいけないと教えてくれた。
あの時の母は、優しかった。
けれど、その優しさは、アリスを何も考えなくていい場所へ閉じ込めるものではなかった。
アリスは、髪を撫でる母の手を見つめた。
温かい。
懐かしい。
だからこそ、その言葉だけが、どうしても胸の奥へ馴染まなかった。
本当の母は、娘に考えることをやめさせる人だっただろうか。
「大丈夫よ、アリス」
温かな掌が、頭を包み込む。
「あなたは何も考えなくていいのよ」
アリスは目を閉じかけた。
その言葉は、あまりにも優しかった。
もう悩まなくていい。間違えなくていい。
誰かを救えなかったことを悔やまなくてもいい。
ただ、ここにいればいい。
そう言われているようだった。
けれど、胸の奥で、何かが小さく引っかかった。
アリスはゆっくりと目を開けた。
母は変わらず微笑んでいる。
その笑顔は、記憶にあるものと少しも違わない。
それなのに。
アリスは、母の手を見つめた。
幼い頃、自分が間違えた時、母はどうしていただろう。
泣いている自分を抱き締めてくれたことは、何度もあった。
けれど、考えることをやめていいと言われたことが、あっただろうか。
アリスは母の顔を見上げた。
穏やかな笑顔が、そこにある。
優しく、温かく、何も責めない笑顔だった。
だからこそ、ほんのわずかな違和感が、胸の奥に残った。




