第38話 幸福な棺
禁書領域の扉が閉じると、それまで背後から聞こえていた書物の擦れる音も、魔力装置の低い唸りも、何もかもが途絶えた。
アリスはしばらく立ち止まり、振り返らずに白い息を吐こうとした。
けれど、口元からは何も生まれなかった。
雪が降っている。
見上げれば、灰白色の空から細かな雪片が絶え間なく舞い落ち、枝葉を失った木々の間をゆっくりと漂っていた。
足元には新雪が積もり、遠くまで続く森を一面の白に染めている。
それなのに、寒くなかった。
アリスは手袋を外し、掌に雪を受けた。雪片は肌へ触れると静かに消えたが、冷たさも水滴も残さない。
試しに雪を踏みしめても、靴底が柔らかく沈むだけで、革靴が濡れることはなかった。
「……ここも、鏡界なんですね」
誰に聞かせるでもなく呟いた声が、木々の間へ吸い込まれていく。
禁書領域で負った細かな傷は、まだ手の甲に残っていた。
ルシアンたちと【記録律アポクリファ】を破った時の疲労も、本来なら身体の奥に蓄積しているはずだった。
だが、痛みも疲れも感じない。
アリスは傷口を指で押してみた。皮膚には確かな凹凸があり、傷そのものが消えたわけではない。それでも、痛覚だけが取り除かれたように何も感じなかった。
その事実が、降り積もる雪よりも冷たく思えた。
背後には、もう禁書領域の扉が見えない。
振り返った先にあるのは、白く霞んだ木立だけだった。
アリスは腰の《グラス・ヴェリタス》へ手を添えた。硝子の柄には、先ほど獲得した【第四鏡印・情報】が淡い光を宿している。
母の死の真相を知ったばかりだった。
王宮は、母が病で亡くなったという記録を残していた。
しかし実際には、アストレア継承計画から娘を逃がそうとした母を、王宮自身が処分していた。
何年もの間、アリスは母を病から救えなかったことを悔やんでいた。
もっと早く病状に気づいていれば。もっといい薬があれば。
けれど、母を奪ったのは病ではなかった。
その事実を思い出すたび、胸の奥が締めつけられるはずなのに、今は奇妙なほど心が静かだった。
怒りが消えたわけではない。悲しみを忘れたわけでもない。
ただ、それらの感情が、厚い硝子の向こう側へ遠ざけられているようだった。
「……こんなところで、落ち着いている場合じゃないのに」
アリスは自分に言い聞かせ、森の奥へ歩き出した。
木々の間には細い道が続いていた。
誰かが雪を踏み固めた形跡はなく、動物の足跡さえ見当たらない。
風が吹いても枝は揺れず、雪片だけが一定の速さで降り続けている。
やがて、白い木立の向こうに何かが見えた。
最初は、雪を被った岩だと思った。
だが、近づくにつれて、それが人ひとりを収められるほどの大きさを持つ、透明な硝子の棺だと分かった。
棺は一つではなかった。
木々の間に規則正しく並び、森の奥まで途切れることなく続いている。
雪を被った蓋の下には、それぞれ一人ずつ、人間が横たわっていた。
老人も、若い女性も、粗末な衣服を着た男もいる。身分も年齢も異なる人々が、静かな寝息を立てていた。
アリスは最も近い棺へ歩み寄った。
中に眠っているのは、四十歳ほどの男だった。
痩せた頬には深い皺が刻まれ、右手の甲には古い火傷の痕が残っている。
それなのに、男は幸福そうに微笑んでいた。
何か楽しい夢でも見ているのだろうか。唇がわずかに動き、誰かの名前を呼ぶような仕草を見せている。
棺の側面には、小さな記録板が埋め込まれていた。
――SUBJECT:CONVICT 0417.
【収容対象:罪人〇四一七】
――STATUS:TRANQUILITY MAINTAINED.
【状態:安寧維持】
アリスは眉を寄せた。
「……罪人?」
記録板へ指を触れると、硝子の表面に淡い光が広がった。
次の瞬間、アリスの視界に見知らぬ風景が重なった。
薄暗い路地裏で、男が誰かと争っている。怒号が響き、突き飛ばされた相手が石畳へ倒れた。男は倒れた相手を見下ろし、血の気の失せた顔で後ずさる。
場面が変わる。
牢獄の中で、男は鉄格子を握り締めていた。面会に来た妻は泣きながら首を振り、幼い娘は母親の背後へ隠れている。
さらに場面が変わると、男は一人きりの牢房で膝を抱えていた。手の甲の火傷を押さえ、何度も家族の名前を呟いている。
その記憶は、突然途切れた。
代わりに現れたのは、陽の差し込む小さな食堂だった。
男が木製の椅子に座り、妻と娘に囲まれて食事をしている。娘が焼きたてのパンを差し出すと、男は笑って受け取り、妻も穏やかに微笑んだ。
誰も男を責めない。
失われた時間も、犯した罪も、そこには存在しなかった。
男は幸福そうだった。
アリスが指を離すと、風景は消え、再び白い森が戻ってきた。
硝子棺の中で眠る男は、変わらず微笑んでいる。
アリスは、その表情を見つめた。
彼が犯した罪は消えていない。傷つけられた人間がいたことも、家族を失ったことも事実だ。
けれど、夢の中で家族と食卓を囲む時間まで、無価値だと言い切れるだろうか。
男が本当に望んでいるのなら、わずかな安らぎを得ることまで否定する理由はない。
アリスは棺の蓋へ手を置いた。
硝子越しに、男の右手が見える。
古い火傷の痕は、今もそこに残っていた。
夢の中では、その痛みを感じていないのだろう。
しかし、傷が治ったわけではない。
アリスは自分の手の甲を見た。
先ほど押しても痛みを感じなかった傷と、同じだった。
「……目が覚めたら、どうなるんでしょう」
問いかけても、答える者はいなかった。
眠る男が自ら目覚めたいと望んだ時、この棺は開くのだろうか。
もし、もう一度家族に会いたいと願って眠り続けるのなら、その選択を誰が決めるのだろう。
アリスは棺から手を離した。
その時、背後から柔らかな声が聞こえた。
「その方は、とても幸せな夢を見ています」
アリスは振り返った。
白い木々の間に、一人の少女が立っていた。
雪と見紛うほど白い長髪が背中へ流れ、薄い硝子細工のような装飾を施した衣装が、淡い光を反射している。
瞳は透き通った氷の色をしていたが、その眼差しには敵意も警戒もなかった。
少女は静かに棺へ近づき、眠る男の顔を覗き込んだ。
「この方は、眠る前、毎晩泣いていました。自分のしたことを悔やみ、失った家族を思い出して、眠ることさえできなかったんです」
「……あなたは?」
アリスが尋ねると、少女は穏やかに微笑んだ。
「私はセラフィナ。この白雪柩庭園を預かっている者です」
白鏡姫セラフィナ。
アリスはその名前を、禁書領域で見た七原理の記録と結びつけた。
【第五原理・安寧】
ここは、人間から苦痛を取り除くために造られた鏡界なのだ。
「あなたが、この人たちを眠らせているんですか?」
「はい」
セラフィナは迷わず答えた。
「ここへ来る方々は、みんな傷ついています。後悔している人も、誰かを憎んでいる人も、自分自身を許せない人もいます。でも、眠れば、その苦しみから解放されるんです」
彼女は男の棺へ手を添えた。
「この方も、もう泣かなくなりました」
その声には、確かな喜びがあった。
アリスは、少女が眠る人々を道具として扱っていないことを感じ取った。
セラフィナは本当に、彼らを救ったと信じている。
「……この棺は、どうすれば開くんですか?」
アリスが尋ねると、セラフィナは不思議そうに首を傾げた。
「開ける必要があるのですか?」
「目覚めたいと思う人もいるかもしれません」
「目覚めれば、また苦しみます」
セラフィナは静かに答えた。
「失ったものを思い出して、後悔して、自分を責めてしまう。せっかく安らかに眠っているのに、どうして起こさなければならないのでしょう」
「でも、その人が自分で望んだら……」
「望まなくてもいいんです」
セラフィナは微笑んだ。
「ここでは、苦しいことを考えなくてもいいんですよ」
アリスは言葉を失った。
セラフィナは続けた。
「私は誰も傷つけていません」
その言葉には、嘘も誇張も感じられなかった。
少なくとも、セラフィナ自身は誰かを傷つけているつもりなどないのだろう。
アリスは周囲の棺を見渡した。
無数の人々が、幸福そうに眠っている。
誰も泣いていない。
誰も怒っていない。
誰も、助けを求めていない。
けれど、誰一人として、自分の意志で目覚めている者もいなかった。
「……あなたは、ここにいる人たちが本当に幸せだと思っているんですね」
「はい」
セラフィナは嬉しそうに頷いた。
「苦しみがなければ、人は幸せになれます。悲しいことも、怖いことも、もう思い出さなくていいんです」
アリスは反論しようとした。
しかし、言葉が出てこなかった。
母の最終記録が、脳裏をよぎったからだ。
『アリスを逃がしてください』
あの声を聞いてから、アリスの胸には、消えることのない痛みが残っていた。
母がどれほど恐ろしい思いをしたのか。
最後の瞬間、何を考えていたのか。
自分がその場にいなかったことを、どれほど悔やんでも取り戻せない。
もし、その苦しみを感じなくて済むのなら。
もし、母が生きている夢を見られるのなら。
アリスは、そんな考えが浮かんだ自分に驚いた。
セラフィナは彼女の表情を見つめ、少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「あなたも、とても傷ついているんですね」
「……そんなことは」
「無理をしなくていいんです」
セラフィナはアリスへ手を差し伸べた。
「ここでは、もう頑張らなくてもいいんですよ。誰かを救おうとしなくても、何かを選ばなくても、あなたは幸せになれます」
その声は、雪のように静かだった。
「少しだけ、休んでいきませんか?」
アリスは差し出された手を見つめた。
断罪されてから、どれほどの時間が過ぎただろう。
追われ、戦い、誰かを救おうとし、そのたびに新しい真実を突きつけられてきた。
母の死の真相を知った今でさえ、立ち止まることは許されないと思っていた。
けれど、ここでは誰もアリスを責めない。
戦わなくてもいい。
誰かを信じるべきか悩まなくてもいい。
ただ、眠ればいい。
その誘惑が、思いのほか甘く感じられた。
セラフィナが小さく手を振ると、白い木々の向こうに柔らかな光が灯った。
雪の中から、見覚えのある扉が現れる。
深い飴色の木材。
真鍮の取っ手。
上部には、ルーヴェルト侯爵家の紋章が刻まれていた。
アリスは息を呑んだ。
屋敷の玄関扉だった。
幼い頃、何度も開け閉めした扉。
学校から帰った時も、庭園で遊んだ後も、必ずこの扉を通って家族のもとへ戻った。
「……どうして、これが」
アリスが呟くと、セラフィナは穏やかに答えた。
「あなたが、帰りたい場所だからです」
扉の向こうから、食器の触れ合う小さな音が聞こえた。
焼きたてのパンの香りが漂ってくる。
そして、懐かしい女性の声がした。
「アリス、朝ご飯が冷めてしまうわよ」
アリスの胸が、大きく脈打った。
母の声だった。
何年もの間、もう二度と聞くことはないと思っていた声。
病死したと信じていた母が、実際には王宮によって処分されていたことを、アリスは知っている。
あの声の主が、現実の母ではないことも分かっていた。
それでも。
もう一度だけ、会いたかった。
もう一度だけ、あの人に名前を呼んでほしかった。
アリスは【グラス・ヴェリタス】の柄から手を離した。
そして、雪の中に現れた扉へ歩み寄る。
真鍮の取っ手へ伸ばした指先は、わずかに震えていた。
この先にあるものが夢だと分かっていても、母の声がもう一度聞こえるのなら。
アリスは、その願いに抗えなかった。




