第37話 禁書領域の先へ
――SUBJECT:ASTRAEA SUCCESSOR.
【対象:アストレア継承者】
――AUTHORIZED DESTINY:COMPLETION.
【許可された運命:完成】
アリスの胸の奥で、魔力が強く脈打った。
七つの円環が回転し、黒い鏡の紋章が彼女の頭上に現れる。
『継承対象アリス。記録された運命に従い、【完成世界コンプリート・エデン】の中枢へ移行してください』
アリスは【グラス・ヴェリタス】を抜いた。
「……お断りします」
『対象の拒絶を確認。記録との不一致を修正します』
黒い文字が鎖となり、彼女の腕へ絡みついた。
アリスは剣で鎖を断とうとしたが、刃が触れた瞬間、文字が再び繋がった。
【記録律アポクリファ】は、剣で切れる物質ではない。
ここに存在するすべてを、記録された内容へ従わせる仕組みだった。
「アリス!」
ルシアンが叫ぶ。
彼は自分の右腕を押さえ込みながら、必死に剣を下ろそうとしていた。
ヴェルトは認証値を操作しようとしているが、信頼値を零へ固定された状態では、術式が成立しない。
ルミナスは、今にも姿を消しそうになっていた。
アリスは息を整えた。
ここで【インバーテッド】を使うには、支配原理の矛盾を示さなければならない。
記録が真実である。
その前提を、実際に起きている事実によって覆す必要があった。
アリスはルシアンを見た。
彼は処刑人だった。
それは消せない過去だ。
だが、今の彼は、自分の意志で剣を止めようとしている。
「ルシアン!」
アリスは叫んだ。
「あなたは、私を処刑するつもりですか?」
「……あるわけがない!」
ルシアンは歯を食いしばった。
「俺は、もう二度と……!」
その言葉とともに、彼は大剣を床へ突き立てた。
剣先が石床を砕き、処刑命令の文字が揺らぐ。
アリスはヴェルトへ向き直った。
「ヴェルト! あなたは、私たちを騙してここへ連れてきたんですか?」
「まさか。俺はお嬢様方を助けるために来たんだ」
ヴェルトは帽子を押さえ、笑みを浮かべた。
「もっとも、信じてもらえるかどうかは、俺の過去ではなく、これまでの行動で判断してほしいね」
彼が指先を鳴らす。
【マッド・ディール】が一瞬だけ発動し、【記録律アポクリファ】の信頼値が揺らいだ。
アリスは、姿の薄れたルミナスを見た。
「ルミナス!」
少年が顔を上げる。
「あなたは、ここにいます!」
「……うん」
ルミナスは小さく笑った。
「僕は、ここにいるよ」
アリスが彼の手を掴むと、消えかけていた輪郭が少しずつ戻り始めた。
【記録律アポクリファ】は、三人の過去を否定しているわけではない。
過去の記録だけを、その人間のすべてだと決めつけているのだ。
アリスは中央端末へ視線を向けた。
「……記録は、確かに存在します」
彼女は静かに言った。
「ルシアンが処刑人だったことも、ヴェルトが人を騙してきたことも、ルミナスが誰にも認識されなかったことも、消えません」
黒い鎖が、彼女の腕を締めつける。
それでも、アリスは言葉を続けた。
「でも、その記録だけで、今の彼らを決めることはできません」
アリスは【グラス・ヴェリタス】を構えた。
「ルシアンは、命令に逆らって私を守ろうとしている。ヴェルトは、信頼されないと決めつけられても、私たちを助けようとしている。ルミナスは、記録に存在しないと言われても、ここで私の手を握っている」
黒い文字が激しく揺れた。
アリスは、母の最終記録を思い出した。
王宮は、母を病死したことにした。
公文書には、そう記されている。
けれど、実際には母は娘を守ろうとして殺された。
記録と事実は、同じではない。
その矛盾が、ようやく明確な形を持った。
「……あなたたちは、記録を真実だと言いました」
アリスは剣を握り直した。
「でも、記録に書かれていることが、必ずしも事実とは限りません」
中央端末が警告を発する。
――ROOT LAW CONFLICT DETECTED.
【根本律の矛盾を検出】
アリスは一歩踏み出した。
「お母様は、病死したと記録されました。でも、本当は違った。私を守ろうとして、命を奪われたんです」
黒い鎖に亀裂が走った。
「そして、ここにいる仲間たちは、過去に記された役割だけで生きているわけじゃありません」
アリスは【グラス・ヴェリタス】を振り上げた。
「記録は、真実のすべてではありません!」
左目の赤い魔力が、剣身を走った。
矛盾した理が反転する。
「【インバーテッド】!」
――THE RECORD IS THE TRUTH.
【記録こそが真実である】
その文字が砕け、新たな言葉へ変わった。
――THE TRUTH IS NOT LIMITED TO THE RECORD.
【真実は記録に限定されない】
記録室を覆っていた黒い文字が、一斉に崩れた。
ルシアンの右腕を縛っていた命令が消え、彼は大剣を引き抜いた。
ヴェルトの信頼値を固定していた術式が砕け、【マッド・ディール】が再び起動する。
ルミナスの輪郭が完全に戻り、彼はアリスの手を強く握り返した。
しかし、【記録律アポクリファ】はまだ停止していなかった。
『根本律の反転を確認。記録領域の整合性を維持するため、対象を排除します』
天井の禁書が一斉に開き、無数の文字が刃となって降り注ぐ。
ルシアンが前へ踏み込み、大剣で文字の奔流を受け止めた。
「アリス! 中枢を狙え!」
ヴェルトが【マッド・ディール】で防御術式の認証値を引き下げる。
「お嬢様、今なら中央端末へ干渉できる!」
ルミナスは【バニシング・グリン】を発動し、文字の隙間をすり抜けた。
彼は天井の制御盤へ跳び上がり、双剣【グリン】【グリム】で魔力導管を断ち切る。
中央端末の光が乱れた。
アリスは床を蹴った。
銀色の鏡印が輝き、身体を覆う装甲が展開する。
「【銀刻装シルバー・ミッドナイト】!」
背後に時計盤の光輪が浮かび、銀の細剣が光を帯びた。
――SELF-SELECTED ROLE.
【自己選択配役】
「私が選ぶ役割は、【探索者】です!」
光輪が回転し、アリスの魔力がレイピアへ集中する。
魔力の流れが視界に浮かび、【記録律アポクリファ】を維持する中枢経路が一本の線として現れた。
アリスは、その線へ向かって走った。
ルシアンが最後の文字の壁を砕き、ヴェルトが防御認証を一時的に無効化する。
ルミナスが制御盤を破壊した瞬間、中央端末の黒い紋章が露出した。
「……これで、終わりです!」
アリスは【グラス・ヴェリタス】を突き立てた。
硝子の刃が黒い紋章を貫く。
【記録律アポクリファ】の中枢が砕け、円形の記録室を満たしていた魔力が急速に収束した。
――ARCHIVE LAW:TERMINATED.
【記録律アポクリファ・停止】
――PRINCIPLE 04:INFORMATION.
【第四原理・情報】
――CONTRADICTION RESOLVED.
【矛盾解決】
アリスが剣を引き抜くと、刃の根元に新たな紋章が浮かび上がった。
それは、これまでの鏡装とは異なる、小さな硝子の刻印だった。
――FOURTH MIRROR MARK:INFORMATION.
【第四鏡印・情報】
アリスは剣を見つめた。
新たな鏡姫が現れたわけではない。
誰かから力を授かったわけでもない。
ただ、記録律の矛盾を示し、その支配原理を覆した結果として、【グラス・ヴェリタス】に第四の鏡印が刻まれたのだ。
記録室は静まり返っていた。
ルシアンが大剣を下ろし、深く息を吐く。
「……終わったな」
ヴェルトは散乱した禁書を見回した。
「うん。もっとも、片づける人間には同情するけどね」
ルミナスが肩をすくめる。
「僕は手伝わないよ。どうせ誰も僕の仕事を記録してくれないし」
いつもなら、アリスはその言葉に笑っていただろう。
けれど、今は笑えなかった。
彼女は【グラス・ヴェリタス】を鞘へ戻し、ハロルドを見た。
彼は少し離れた場所に立っていた。
殴られた頬には、まだ赤い痕が残っている。
「……アリス」
ハロルドが口を開いた。
「君には、まだ話さなければならないことがある」
アリスは首を振った。
「今は、聞けません」
ハロルドは言葉を失った。
「あなたの言うことが、すべて嘘だったとは思いません。助けてくれたことも、旅の途中で見せてくれた優しさも、全部が偽物だったとは思いたくないんです」
アリスは静かに続けた。
「でも、今の私には、どこまでがあなた自身の気持ちで、どこからが計画のためだったのか分かりません」
ハロルドは何も言わなかった。
アリスはルシアンたちへ向き直った。
「……皆さんも、少しだけ時間をください」
ルシアンが眉を寄せる。
「一人で行くつもりか?」
「はい」
「この先に何があるか分からないんだぞ」
「分かっています」
アリスは頷いた。
「それでも、今は自分で歩きたいんです。誰かに導かれるのではなく、私がどこへ行くのかを、私自身で決めたい」
ルシアンはしばらく黙っていた。
やがて、大剣を肩へ担ぎ直す。
「……面倒だ」
いつもの口癖だった。
けれど、今度は引き止めるための言葉ではなかった。
「行け。ただし、無茶はするな。俺たちも後から追う」
ヴェルトが帽子を取った。
「お嬢様の選択なら、俺たちが決めることじゃないしね」
ルミナスは少し不満そうに頬を膨らませた。
「……ちゃんと戻ってきてよ」
アリスは三人を見つめた。
「ありがとうございます」
その言葉だけを残し、彼女は記録室の出口へ向かった。
背後で、ハロルドが何かを言いかけた気配がした。
けれど、アリスは振り返らなかった。
禁書領域の最奥にある扉を開くと、冷たい空気が頬へ触れた。
白い光が、足元へ広がっている。
扉の向こうには、果てしない雪原が続いていた。
空から降る雪は、音もなく大地へ積もっていく。
アリスは一歩、外へ踏み出した。
その背後で、禁書領域の扉が静かに閉じた。
雪は、彼女の黒い髪へ降り積もった。
アリスは空を見上げた。
どこまでも白い世界だった。
その美しさが、今は少しだけ恐ろしかった。
それでも、彼女は歩き出した。
誰かに与えられた道ではなく、自分で選んだ道を進むために。




