第36話 正しい目的
『アリスを逃がしてください』
母の声が途切れた後も、アリスは硝子板を握り締めたまま動けなかった。
映像の中で母が訴えていた相手は映っていない。
けれど、あの必死な表情だけは、記録が終わった今も瞼の裏に焼きついていた。
数年前、母が亡くなった時、アリスは病室で最後の別れを告げたと思っていた。
あの頃の母は、長い病に疲れ果て、声を出すことさえ難しかった。
アリスは枕元で手を握り、もう苦しまなくていいのだと自分に言い聞かせた。
だが、目の前の記録には、病死したはずの母が王宮の施設で助けを求める姿が残されている。
「……続きを、見せてください」
アリスの声に、ヴェルトが硝子板の操作を確かめた。
「お嬢様、記録の後半は封印されてる。解除すれば、施設の管理系統に検知される可能性があるが……」
「構いません」
アリスは顔を上げた。
「お母様に何があったのか、知りたいんです」
ヴェルトはそれ以上止めず、【マッド・ディール】を発動した。
硝子板に表示された封印の認証値が一時的に揺らぎ、破損した記録の奥から新たな文書が現れる。
――SUBJECT:PAULINE VON LOUVELT MARQUISE.
【対象:パウリーネ・フォン・ルーヴェルト侯爵夫人】
――ASTRAEA FACTOR:DORMANT.
【アストレア因子・未覚醒】
――UNAUTHORIZED DISCLOSURE:CONFIRMED.
【機密情報の無許可開示・確認】
アリスは息を呑んだ。
続いて表示されたのは、母が王家の研究計画を知り、娘を施設の管理下から逃がそうとした経緯だった。
母は自分の体内に黒鏡姫の因子が存在することを知った後、アリスの幼少期検査について調べ始めていた。
記憶への干渉や継承計画の存在を突き止め、娘を王都から離そうとしていたらしい。
その行動は、研究施設によって察知されていた。
――ROYAL DISPOSAL ORDER:EXECUTED.
【王宮処分命令・執行済】
――OFFICIAL CAUSE OF DEATH:ILLNESS.
【公式死因:病死】
アリスは文字を読み返した。
一度では意味が分からなかった。
――病死。
その言葉の上に、王宮処分命令という文字が重なっている。
「……処分?」
誰も答えなかった。
アリスはハロルドを見た。
「これは、どういう意味ですか?」
ハロルドの表情が強張った。
「アリス……」
「お母様は、病気で亡くなったんですよね?」
アリスは一歩近づいた。
「私は、そう聞かされていました。お父様も、屋敷の人たちも、みんなそう言っていたんです」
ハロルドは視線を逸らさなかった。
その沈黙だけで、アリスは答えを悟りかけていた。
それでも、本人の口から聞かなければならなかった。
「……本当のことを、教えてください」
ハロルドは長い沈黙の後、口を開いた。
「君の母上は、継承計画の存在を知った。研究者たちが君を将来のアストレア継承者として管理していると気づき、王都から逃がそうとしたんだ」
「それで?」
「計画の機密を知り、継承対象を連れ出そうとした者として、王宮の管理部門に拘束された」
「……それで?」
アリスの声が低くなった。
ハロルドは、ようやく言った。
「……処分された。……病死という記録は、……王宮が用意したものだ」
アリスは何も言えなかった。
母の葬儀。
白い花に囲まれた棺。
最後まで病気と闘ったのだと説明した医師。
あの時、自分は母を救えなかったことを悔やんでいた。
もっと早く異変に気づいていれば、別の医師を呼べたかもしれない。
もっと傍にいれば、苦しみを和らげられたかもしれない。
そんな後悔を、何年も抱えていた。
けれど、母を奪ったのは病ではなかった。
娘を守ろうとした母を、王宮が殺したのだ。
「……あなたは、知っていたんですか?」
アリスは尋ねた。
ハロルドはすぐには答えなかった。
「処分命令の詳細を知ったのは、後になってからだ」
「でも、計画のことは知っていた」
「……ああ」
「私がお母様の因子を受け継いでいることも?」
「知っていた」
アリスは唇を噛んだ。
「それなのに、あなたは私を助けてくれたんですか?」
ハロルドの目が揺れた。
「……君には、生き延びてほしかった」
「本当に、それだけですか?」
彼は答えなかった。
アリスは腰の【グラス・ヴェリタス】へ手を伸ばした。
「この剣を、私に渡したのも?」
ハロルドは静かに頷いた。
「意図的だった」
アリスの指先が止まる。
「君の【インバーテッド】は、鏡界の支配原理に干渉できる。七原理を突破し、計画の中枢へ到達するには、その力が必要だった」
「……私を、覚醒させるために?」
「そうだ」
その答えを聞いた瞬間、アリスはハロルドの頬を平手打ちした。
パン!乾いた音が、静まり返った記録室へ響いた。
ハロルドの顔が横へ向き、唇の端から血が滲む。
ルシアンがわずかに身じろぎしたが、二人の間へ入ろうとはしなかった。
アリスは手の平を押さえ、ハロルドを見つめた。
「……あなたも、王太子レオンハルトと同じです」
声は震えていた。
けれど、目を逸らすことだけはしなかった。
「正しい目的なら、他人の人生を使っていいと思っている」
ハロルドは殴られた頬に触れようともせず、アリスを見返した。
「……否定できない」
「あなたは、私を助けてくれたと思っていました」
アリスは続けた。
「誰も私の話を聞いてくれなかった時、あなたは手を差し伸べてくれた。だから、何か事情があるんだと信じようとしていたんです」
胸の奥が痛んだ。
「でも、あなたは最初から、私に何をさせたいのか決めていたんですね」
ハロルドは目を伏せた。
「……すまない」
「謝らないでください」
アリスは首を振った。
「今は、謝ってほしくありません」
彼女は一歩下がった。
ハロルドとの間に生まれた距離が、これまでの旅で積み重ねてきた信頼を切り離していくように感じられた。
その時、中央端末が赤く輝いた。
――ARCHIVE LAW:ACTIVATED.
【記録律アポクリファ)】、起動。
天井に吊り下げられた無数の硝子板が、一斉に回転を始める。
破損した書架から禁書が浮かび上がり、頁を開いたまま空中へ並んだ。
――PRINCIPLE 04:INFORMATION.
【第四原理・情報】
――ROOT LAW:THE RECORD IS THE TRUTH.
【根本律:記録こそが真実である】
記録室全体に、冷たい声が響いた。
『未承認情報の閲覧を確認。記録された役割から逸脱する対象を検出しました』
ルシアンが大剣を抜いた。
「……来るぞ」
床に描かれた文字が光り、彼の足元へ集まる。
――SUBJECT:EXECUTIONER.
【対象:処刑人】
――AUTHORIZED ACTION:EXECUTION.
【許可行動:処刑】
ルシアンの右腕が、本人の意志とは無関係に動いた。
大剣の切っ先が、アリスへ向けられる。
「……っ!またこれか」
ルシアンは歯を食いしばり、剣を押し戻そうとした。
左腕の傷が開き、包帯へ血が滲む。
「俺は……もう、誰かの命令で人を殺さない!」
しかし、【記録律アポクリファ】は彼の現在の意志を認めなかった。
かつて処刑人だったという記録だけを根拠に、彼へ処刑を命じている。
ヴェルトの足元にも文字が現れた。
――SUBJECT:FRAUD.
【対象:詐欺師】
――TRUST VALUE:ZERO.
【信頼値:零】
ヴェルトが【マッド・ディール】を発動しようとすると、指先に浮かんだ魔力が霧散した。
「……なるほど。俺が何を言っても、何を示しても、最初から信用されない仕組みか」
彼は苦笑したが、額には汗が浮かんでいた。
ルミナスの身体が、薄く透け始める。
――SUBJECT:UNREGISTERED.
【対象:未登録存在】
――EXISTENCE STATUS:INVALID.
【存在状態:無効】
「……まずいな」
ルミナスは自分の手を見つめた。
輪郭が揺らぎ、床に落ちていた影が消えていく。
「僕、また誰にも見えなくなるみたいだ」
アリスは彼へ手を伸ばした。
「ルミナス!」
呼びかけに応じて、少年の輪郭が一瞬だけ戻る。
だが【記録律アポクリファ】の文字が再び彼を覆った。
最後に、アリスの足元へ黒い文字が浮かび上がった。




