第35話 アリスを作った者たち
――ASTRAEA SUCCESSOR : ALICE.
【アストレア継承者:アリス】
中央端末に表示された文字は、どれほど見つめても変わらなかった。
黒鏡姫アストレアの継承者。
その名前の隣に、自分の名前が記されている。
アリスは硝子板へ伸ばしかけた手を止めた。
赤森狩猟区でノエルに告げられた、七十二パーセントという数字が頭から離れない。
世界を滅ぼす災厄になる未来。
あの時は、起こり得る未来の一つに過ぎないと信じていた。
けれど、誰かが何年もかけてその未来を実現しようとしていたのなら、話は違ってくる。
「……続きを見せてください」
アリスが告げると、ハロルドは中央端末を見つめた。
「この先は、僕が知らない記録も含まれているはずだ」
「それでも、見ます」
彼女は自分の声が思いのほか硬いことに気づいた。
「私の名前があるんです。知らないままでいるわけにはいきません」
ハロルドはそれ以上止めなかった。
アリスが硝子板に触れると、黒い紋章が左右へ開き、封印されていた記録の一覧が現れた。
――ASTRAEA SUCCESSION PROGRAM.
【アストレア継承計画】
――SUBJECT LINEAGE MANAGEMENT.
【継承対象血統管理】
最初に表示されたのは、古い家系図だった。
幾世代にもわたる貴族の名前が細い線で結ばれ、その一部には黒い鏡を模した印が付されている。
印のある人物は、いずれも特定の魔力反応を示していたらしい。
家系図の末端に、アリスは見覚えのある名前を見つけた。
パウリーネ・フォン・ルーヴェルト侯爵夫人。
数年前に亡くなった、母の名前だった。
「……お母様?」
アリスは思わず身を乗り出した。
母の名前の横には、見知らぬ項目が記されている。
――BLACK MIRROR FACTOR:POSITIVE.
【黒鏡姫因子・保有】
――AWAKENING STATUS:DORMANT.
【覚醒状態・未発現】
「黒鏡姫の……因子?」
ヴェルトが隣から記録を覗き込んだ。
「魔力特性の一種だろう。ただ少なくともこの記録には、お母様が黒鏡姫として覚醒したとは書かれていないね」
アリスは頷くこともできなかった。
母は、魔法を得意とする人ではなかった。
幼い頃、アリスが魔力の扱いに失敗して花瓶を割った時も、母は魔法で直そうとはせず、一緒に破片を拾ってくれた。
怪我をしないようにと手を包んでくれた温もりを、今でも覚えている。
その母が、黒鏡姫アストレアへ繋がる因子を持っていた。
「……お母様は、知っていたんでしょうか」
アリスが呟くと、ハロルドは慎重に答えた。
「この資料だけでは分からない。因子を持っていても、本人が自覚していなかった可能性はある」
アリスは次の記録を開いた。
そこには、両親の婚姻に関する書類が保存されていた。
王国の正式な婚姻証明書。
父と母の署名。
そして、その下に添付された王家の内部文書。
――ROYAL MARRIAGE OBSERVATION:APPROVED.
【王家婚姻観察・承認】
――SUCCESSION COMPATIBILITY:CONFIRMED.
【継承適合性・確認】
アリスの指先が冷たくなった。
「……これは、何ですか?」
ハロルドが記録へ目を凝らす。
「二人の婚姻が、継承計画の対象として管理されていたということだ」
「管理……?」
「婚姻そのものに王家が関与していた。少なくとも、成立を把握し、計画上の条件に適合すると判断していたことは確かだ」
アリスは父と母の署名を見つめた。
母は、父との出会いを話す時、いつも少し恥ずかしそうに笑っていた。
父は口数の少ない人だったが、母が話している間だけは、仕事の手を止めて耳を傾けていた。
あの二人が結婚した理由まで、王家の研究者たちは計算していたのだろうか。
「……お父様とお母様は、自分たちが研究されていることを知っていたんですか?」
「記録には書かれていない」
「では、結婚を命じられたんですか?」
「それも、ここからは断定できない」
ハロルドの答えは慎重だった。
だが、アリスには、その慎重さがかえって恐ろしく感じられた。
何一つ確かなことが分からない。
それなのに、王家が両親の婚姻に関わっていたという事実だけは、消えずに残っている。
次の項目には、侯爵家の爵位に関する記録があった。
――NOBLE RANK ADJUSTMENT:AUTHORIZED.
【貴族位階調整・認可】
――HOUSE LOUVELT:MARQUISATE STATUS GRANTED.
【ルーヴェルト家・侯爵位授与】
アリスは息を呑んだ。
父の家は、もともと侯爵家ではなかった。
王国への長年の功績が認められ、父の代で侯爵位へ昇格したと聞かされていた。
幼い頃、父が叙爵式の話をしてくれたことがある。
王国への忠誠と努力が報われたのだと、誇らしげに語っていた。
しかし、その叙爵にまで研究計画の認可印が付されている。
「……お父様の爵位も?」
アリスは記録を確かめた。
昇格の理由として記された功績は、王国の公文書と一致している。
だが、内部文書には別の目的が添えられていた。
――SUBJECT PROTECTION AND SOCIAL POSITION STABILIZATION.
【継承対象保護および社会的地位の安定化】
アリスは、ようやく理解した。
王家は、父の功績を評価しただけではなかった。
黒鏡姫の因子を持つ母が嫁いだ家を、継承計画に適した立場へ引き上げていたのだ。
父の努力が偽物だったわけではない。
母が父を愛していなかったと決まったわけでもない。
それでも、家族が誇りにしていた出来事の裏側に、研究者たちの意図が存在していた。
「……私が生まれる前から、全部」
アリスの声が震えた。
「私が生まれる前から、王家は私の家族を調べていたんですね」
誰も答えなかった。
アリスはさらに記録を開いた。
今度は、幼い少女の映像が現れた。
白い検査着を着せられ、背もたれの高い椅子に座っている。
黒い髪。右が青く、左が赤い瞳。
映像に表示された文字を読む。
それは九歳の頃のアリスだった。
『目の前にある硝子玉を見てごらん』
白衣の研究者が、机の上にひび割れた硝子玉を置いた。
『この硝子玉は、もう元には戻らない。割れたものは割れたままだ』
幼いアリスは、しばらく硝子玉を見つめていた。
『……でも、割れたから、光が外へ出られるんじゃないですか?』
研究者の手が止まる。
『どういう意味かな』
『中に閉じ込められていた光が、外へ出られるようになったんです。だから、壊れたことが全部悪いわけじゃないと思います』
次の瞬間、硝子玉の亀裂から赤い魔力が流れ出し、少女の指先へ集まった。
硝子玉は修復されなかった。
ただ、内部の魔力を閉じ込めていた術式の前提が揺らぎ、外へ流れ出すことを許されたのだ。
『……反転反応を確認。対象は術式の根本条件へ干渉している』
研究者が記録板へ何かを書き込む。
映像はそこで途切れた。
アリスは、しばらく動けなかった。
あの部屋にいた記憶はない。
九歳の頃、体調を崩して屋敷の外へ出ることを禁じられた時期はあった。
家庭教師の授業を休み、母が枕元で本を読んでくれたことも覚えている。
だが、白い検査室も、研究者の顔も、硝子玉を前にした会話も思い出せなかった。
「……どうして、覚えていないんですか」
アリスは硝子板に触れた。
映像の下に、別の項目が現れる。
――MEMORY ACCESS:RESTRICTED.
【記憶アクセス・制限】
――SUBJECT AWARENESS:SUPPRESSED.
【被験対象の認識・抑制】
アリスは、その文字を何度も読み返した。
「……私の記憶まで?」
ヴェルトが記録を確かめる。
「研究施設に関する記憶へのアクセスが制限されている。実際に消去したのか、思い出せないよう封じたのかは、ここからでは分からない」
「どちらでも同じだろう」
ルシアンの声には怒りが滲んでいた。
「本人の知らないところで、記憶に手を加えたんだ」
アリスは二人の言葉を聞いていた。
けれど、意味が頭に入ってこなかった。
父と母の結婚。
侯爵家の爵位。
自分が生まれたこと。
幼い頃に受けた検査。
忘れていた記憶。
それらがすべて、一つの計画へ繋がっている。
――ASTRAEA SUCCESSION PROGRAM.
【アストレア継承計画】
アリスは、硝子板の上部に表示された名前を見つめた。
研究者たちは、自分を人工的に造り出したわけではない。
母が自分を産み、父と母が育ててくれた。
その事実まで否定する記録はない。
しかし、王家はその過程へ介入し、自分が黒鏡姫アストレアへ至るように、家族の人生を利用していた。
「……どうして」
アリスの唇から、掠れた声が漏れた。
「どうして、そんなことをしたんですか?」
ハロルドは答えなかった。
アリスは彼を振り返った。
「あなたは、この計画に関わっていたんですよね?」
「……ああ」
「それなら、教えてください。どうして、私の家族を利用したんですか?」
「アリス、僕が知っている範囲では――」
「知っている範囲なんて、聞いていません!」
自分の声が記録室へ響いた瞬間、アリスは息を呑んだ。
これほど大きな声を出したのは、いつ以来だろう。
断罪された時でさえ、彼女は最後まで言葉を選ぼうとしていた。
怒りも恐怖も胸の奥へ押し込み、誰かが話を聞いてくれることを願っていた。
けれど、今は違った。
「私が何をしたというんですか!」
アリスは硝子板へ手を伸ばした。
「私は、ただ普通に生きていただけです。お父様とお母様の娘として、あの家で暮らしていただけなのに……!」
指先から魔力が溢れた。
【グラス・ヴェリタス】の硝子刃が、鞘の中で激しく震える。
記録室の天井に吊り下げられていた硝子板が、一斉に軋んだ。
「アリス、落ち着け!」
ルシアンが近づこうとした。
しかし、床に走った魔力の亀裂が彼の足を止めた。
中央端末から赤い警告が発せられる。
――INVERTED RESPONSE:UNCONTROLLED.
【反転反応・制御不能】
――ARCHIVE STABILITY:CRITICAL.
【記録領域安定性・危険域】
アリスは警告を見ていなかった。
目の前にあるのは、家族の人生を記した書類だった。
父の努力も、母の愛情も、自分の幼少期も、すべて研究計画の一部として分類されている。
そのことが、どうしても許せなかった。
「……返してください」
アリスは震える声で言った。
「私の家族を、返してください……!」
次の瞬間、記録室の壁面が大きく震えた。
書架に収められていた禁書が、見えない手に引き抜かれたように宙へ飛び出す。
厚い革表紙の本が次々と開き、無数の頁が吹雪のように舞い上がった。
硝子板が砕け、記録された文字が赤い光となって空間を漂う。
ヴェルトが帽子を押さえながら叫んだ。
「お嬢様、いったん端末から離れるんだ!このままでは記録領域そのものが崩れる!」
ルミナスがアリスへ駆け寄ろうとしたが、飛び交う禁書に行く手を阻まれた。
「アリス! 聞こえてる!?」
アリスには、仲間たちの声が遠く感じられた。
胸の奥で、何かが壊れていく。
これまで信じていたものが、次々と研究記録へ置き換えられていくようだった。
母が微笑んでくれた理由。
父が自分を褒めてくれた理由。
屋敷で過ごした穏やかな日々。
すべてに、別の意味があったのではないか。
そう考えることを、止められなかった。
「……アリス!」
ルシアンの声が、すぐ近くで響いた。
彼は飛び交う硝子片を大剣で払い、アリスの前へ踏み込んだ。
「俺を見ろ!」
アリスは顔を上げた。
ルシアンの左腕には、傷口から滲んだ血が広がっている。
それでも彼は、剣を構え直そうとはしなかった。
「ここに書かれているのは、連中が何をしたかだ。お前の家族が何を思って生きていたかまで、決められたわけじゃない」
「……でも」
「仕組まれていた部分はあるだろう。だが、お前があの鏡姫たちに何を言ったかまで、誰かが決めたのか?」
アリスは息を呑んだ。
ノエルへ、未来は決まっていないと伝えたこと。
ネリッサへ、自分の願いを伝える勇気を示したこと。
ミレイへ、与えられた役割ではなく、自分自身で選ぶことを勧めたこと。
あれらの言葉は、誰かに命じられたものではない。
アリス自身が、彼女たちを救いたいと思って選んだ言葉だった。
「……私は」
アリスは震える息を吐いた。
「私は、あの人たちを助けたかったんです」
「分かっている」
ルシアンは静かに頷いた。
「だから、今ここで全部を疑うな。少なくとも、お前が何を選んできたかは、俺たちが見ている」
アリスは、ゆっくりと目を閉じた。
荒れ狂っていた魔力が、少しずつ収まっていく。
宙に舞っていた禁書が床へ落ち、砕けた硝子片が乾いた音を立てた。
記録室には、破壊された書架と散乱した頁だけが残った。
アリスは両手を見つめた。
指先はまだ震えている。
「……ごめんなさい」
ルシアンは首を横に振った。
「謝る必要はない。ただ、次に暴れるなら先に言え。巻き込まれる側にも準備がいる」
その言葉に、アリスはかすかに息を漏らした。
笑ったのか、泣きそうになったのか、自分でも分からなかった。
ヴェルトが散乱した記録を調べ始める。
「……お嬢様、これを」
彼の声は、いつになく真剣だった。
アリスが近づくと、床に落ちた一枚の硝子板が淡く光っていた。
先ほどの暴走で、封印されていた記録の一部が露出したらしい。
――MATERNAL FINAL RECORD.
【母体最終記録】
アリスの胸が強く脈打った。
「……お母様の?」
ヴェルトは頷いた。
「音声記録が残ってる。ただし、保存状態は良くない。再生できる部分は限られている」
アリスは硝子板を拾い上げた。
そこには、母の名前が記されていた。
数年前、病で亡くなった母。
その最終記録が、なぜこの施設に残されているのだろう。
アリスは震える指で再生を選択した。
硝子板に、薄暗い部屋の映像が浮かび上がる。
白い寝台。閉ざされた窓。
そして、誰かに向かって必死に訴えている女性の姿。
アリスは息を止めた。
母だった。
病床で見た時よりも顔色が悪く、長い髪は乱れている。
それでも、その瞳には強い意志が宿っていた。
映像の中で、母が何かを言っている。
最初は音声が乱れ、言葉を聞き取れなかった。
やがて、途切れ途切れの声が聞こえてくる。
『……あの子は、何も知らないんです』
アリスの指先が震えた。
『お願いです。あの子だけは……』
母は、画面の外にいる誰かへ手を伸ばした。
その表情には、アリスがこれまで見たことのないほど切実な恐怖が浮かんでいる。
そして、最後の言葉だけが、はっきりと記録されていた。
『アリスを逃がしてください』




