第34話 プロジェクト・グラス・エデン
王国を守るために造られたものが、いつから人間を支配するための装置になったのだろう。
アリスは王族の認証を受けた中央記録室の硝子板に映し出された映像を見つめながら、そんな疑問を抱いていた。
映像の中では、城壁の外側を黒い軍勢が埋め尽くしている。
砲撃によって外壁が崩れ、避難する人々が狭い街路へ押し寄せていた。
城門の上に立つ兵士たちは必死に応戦しているが、敵の数は減る気配がない。
記録の日付は、アリスが生まれるよりもずっと前のものだった。
「これは、北方諸国との戦争の記録ですか?」
「それだけじゃない。王国が滅亡寸前まで追い込まれた、第三次境界侵攻の記録だ」
ハロルド・アルテミス・グランフェルドが答えた。
仮面を外した第一皇子の横顔は、以前よりも疲れて見えた。
彼が王族であり、この施設の研究に関わっていたと知ってから、アリスはその言葉を以前のように受け取れなくなっている。
それでも、ここまで来た以上、聞かなければならなかった。
「鏡界は、その戦争と関係があるんですね」
「ああ。もともとは王国を外敵から守るための防衛施設だった」
ハロルドが記録板に触れると、戦場の映像が縮小し、その背後に巨大な地下施設の断面図が現れた。
王城の地下から幾重にも広がる硝子の回廊。
魔力導管が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、中央には巨大な鏡を思わせる装置が据えられている。
「当時の王国には、長期戦を支えられるだけの魔力資源がなかった。通常の魔晶石だけでは防衛結界を維持できず、国境の都市が次々と失われていた」
「それで、鏡界を造ったんですか?」
「当時の開発者は、罪人の負の感情を魔力へ変換する技術に目をつけた。恐怖、憎悪、後悔、絶望。そうした感情が放出する魔力を回収し、防衛結界へ供給する仕組みだ」
アリスは断面図に表示された収容区画を見つめた。
罪人を閉じ込め、その苦しみを王国のために利用する。
国を守るという目的があったとしても、そこに収容された人々が何を感じていたのかを考えると、胸の奥が冷えた。
「……罪人なら、どれほど苦しめても構わないということですか?」
「そう考えた者もいただろう。だが、創設当初の記録には、感情の強制抽出を禁じる規定もあった。罪人の収容と魔力回収を結びつけること自体に問題はあったが、少なくとも、苦痛を増幅させるための施設として設計されたわけではない」
ハロルドは記録を切り替えた。
防衛結界が展開され、王都へ迫っていた黒い軍勢を押し返していく。
硝子のような光の壁が城壁を包み込み、砲撃を受け止めていた。
「鏡界が王国を救ったのは事実だ。あの時、結界がなければ王都は陥落していた」
「でも、今の鏡界は違います」
アリスが告げると、ハロルドは頷いた。
「……その通りだ」
記録板に新たな計画書が開いた。
――PROJECT GLASS EDEN.
【プロジェクト・グラス・エデン】
その下には、王家の認証印が二つ並んでいる。
一つはハロルドのもの。
もう一つは、第二皇子レオンハルト・ディア=ノクス・グランフェルドのものだった。
「外敵から王国を守るための施設を、人間の行動を研究する場所へ改造したのは、僕たちだ」
ハロルドは静かに言った。
「最初は、防衛結界を維持するために、感情と魔力の関係を詳しく調べる研究だった。だが、レオンハルトはそこから別の可能性を見いだした」
「……人間の感情を操ることですか?」
「感情だけじゃない。判断、行動、社会的な役割、他者との関係。人間が何を選ぶかを決める条件そのものだ」
硝子板に、複数の研究区画が浮かび上がった。
それぞれの区画には異なる紋章が刻まれ、内部には街や森、宮殿を模した環境が構築されている。
アリスは、その中に見覚えのある景色を見つけた。
赤い森。
青い海。
銀色の舞踏館。
ノエル、ネリッサ、ミレイと出会った鏡界だった。
「……あの人たちが暮らしていた場所まで、研究のために?」
「鏡界は、実在した人々の記憶と魔力を基に構築されている。彼女たちの苦しみも、君と交わした言葉も、本物だ。ただし、その環境には研究者が定めた支配原理が組み込まれていた」
ハロルドは視線を落とした。
「僕は、研究の初期段階でその仕組みを承認した。人間が災厄を避けるために必要な選択を理解できれば、犠牲を減らせると考えていたんだ」
「それで、どうなったんですか?」
「研究は、災厄を避ける方法を探すものから、災厄につながる選択そのものを排除するものへ変わった」
アリスは彼を見つめた。
「……選択を排除する?」
ハロルドは頷いた。
「犯罪が起こる前に、犯罪へ向かう欲望を取り除く。反乱が起きる前に、不満を修正する。別離による悲しみが生まれる前に、人間関係を固定する。レオンハルトは、それを理想の統治だと考えた」
ルシアンが低い声で呟いた。
「人間を、命令どおりに動く人形にするつもりか」
「本人はそう思っていない。彼にとっては、人間を不幸な選択から解放することなんだ。……それを、【完成世界コンプリート・エデン】と呼んでいた」
アリスは唇を噛んだ。
誰も間違えない世界。
誰も争わず、誰も悲しまない世界。
言葉だけを聞けば、美しい理想にも思える。
けれど、その世界では、何を望むかさえ自分で決められない。
「……【完成世界コンプリート・エデン】」
ハロルドは苦しげに息を吐いた。
「【プロジェクト・グラス・エデン】の正式な最終目標は、【完成世界コンプリート・エデン】の構築だ。人間が正しい選択だけを行い、予測された災厄が発生しない世界。そのために、鏡界は七つの支配原理へ分割された」
アリスは、硝子板の奥へ続く通路を見た。
その先には、まだ開かれていない研究区画がある。
「……その七つを、確かめる必要がありますね」
彼女が歩き出すと、仲間たちも後に続いた。
通路の先には、分厚い黒硝子の扉が立ちはだかっていた。
扉の表面には封鎖を示す赤い紋章が浮かび、取っ手も鍵穴も見当たらない。
ルシアンが大剣を肩へ担ぎ直す。
「正面突破しかない」
ヴェルトが即座に振り返った。
「騎士様は扉を見ると蹴破らなきゃ死ぬ病気なの?」
「ほかに方法があるのか」
「僕は天井から行くに一票」
ルミナスが軽やかに跳び上がり、天井の換気口を指さした。
アリスは三人を見比べた。
「その前に確認します。どうして誰も鍵を探そうとしないんですか?」
三人が沈黙した。
ルシアンは大剣を下ろし、ヴェルトは何事もなかったように帽子の位置を直した。
ルミナスだけは天井を見上げたまま、聞こえなかったふりをしている。
アリスは小さく息を吐いた。
「……皆さん、少し落ち着いてください」
そう言って扉の脇を調べると、壁面に埋め込まれた小さな認証盤が見つかった。
その下には、古い王家の紋章が刻まれている。
「ハロルドさん、これを開けられますか?」
ハロルドは認証盤を確かめた。
「旧式の王族認証だ。僕の権限が残っていれば、開くはずだが……」
彼が指先を触れると、紋章が淡く輝いた。
――ROYAL AUTHORIZATION:ACCEPTED.
【王族認証・承認】
黒硝子の扉が、低い音を立てて左右へ開いた。
ヴェルトがルシアンへ顔を向ける。
「ほら、蹴破らなくても開いたよ」
「……面倒だ」
「それ、今使う言葉じゃないと思うけど」
ルミナスの指摘に、アリスは思わず笑いそうになった。
重苦しい研究記録を見続けていたせいか、ほんの短い掛け合いが、胸の奥に残っていた緊張を少しだけ和らげてくれた。
だが、扉の向こうへ足を踏み入れた瞬間、その表情は消えた。
そこには、巨大な円形の記録室が広がっていた。
天井から吊り下げられた無数の硝子板が、ゆっくりと回転している。中央には七つの円環が浮かび、それぞれ異なる色の魔力を放っていた。
アリスが近づくと、円環の一つが赤く輝いた。
――PRINCIPLE 01:FEAR.
【第一原理・恐怖】
続いて、青い円環が光る。
――PRINCIPLE 02:DESIRE.
【第二原理・欲望】
銀色の円環が、その後に続いた。
――PRINCIPLE 03:ROLE.
【第三原理・役割】
アリスは、三つの円環を見つめた。
赤森狩猟区で、ノエルは未来の災厄を恐れていた。
鏡海回廊で、ネリッサは自分の欲望を伝えられずにいた。
灰硝子舞踏館で、ミレイは与えられた役割に縛られていた。
彼女たちが苦しんでいた理由が、今、研究計画の一部として並べられている。
残る四つの円環が、順に光を放った。
――PRINCIPLE 04:INFORMATION.
【第四原理・情報】
――PRINCIPLE 05:TRANQUILITY .
【第五原理・安寧】
――PRINCIPLE 06:JUSTICE.
【第六原理・正義】
――PRINCIPLE 07: LOVE.
【第七原理・愛】
「……情報、安寧、正義、愛」
アリスは、残された原理を読み上げた。
「人間を支配するために、こんなものまで分類したんですか?」
「七つの原理は、それぞれ異なる方法で人間の判断を制御する。情報を管理すれば、人は与えられた事実に従う。安寧を保証すれば、苦痛を避けるために現状を受け入れる。正義を定義すれば、異なる考えを排除できる。愛を固定すれば、人は大切な相手のためだと信じて自由を手放す」
ハロルドの説明を聞きながら、アリスは七つの円環を見つめた。
恐怖も、欲望も、役割も、情報も、安寧も、正義も、愛も、本来は人間が生きるために必要なものだ。
それらを利用して人間を縛るという発想に、アリスは強い嫌悪を覚えた。
「……人を幸せにするために、人が幸せを選ぶ自由を奪うんですね」
ハロルドは答えなかった。
代わりに、中央の記録装置が起動した。
七つの円環から伸びた魔力の線が、一点へ集まり始める。
ヴェルトがその動きを見上げ、表情を険しくした。
「……おかしいな」
「何が?」
ルミナスが尋ねる。
「七つの原理が、それぞれ独立しているなら、こんな構造にはならないはずだ。すべての魔力経路が中央へ集まっている。つまり、この七つは何か一つを完成させるための部品ってことか」
アリスは中央を見た。
そこに、黒い鏡を思わせる紋章が浮かび上がった。
――BLACK MIRROR PRINCESS:ASTRAEA.
【黒鏡姫アストレア】
その名前を見た瞬間、アリスの心臓が強く脈打った。
「……アストレア?」
忘れられるはずがなかった。
赤森狩猟区で、ノエルがアリスへ矢を向けた理由。
あの時、ノエルは未来に起こり得る災厄を見たと言った。
アリスが黒鏡姫アストレアとなり、世界を滅ぼす未来。
その確率は、七十二パーセント。
ノエルは、その未来を防ぐためにアリスを殺そうとしたのだ。
アリスは当時、未来は決まっていないと訴えた。
けれど、今、その名前が研究計画の中心に刻まれている。
「……あの未来は、偶然の予測じゃなかったんですか?」
アリスの声が震えた。
ルシアンが彼女を振り返る。
「どういうことだ」
「赤森狩猟区で、ノエルさんは私が黒鏡姫アストレアになる未来を見たんです。世界を滅ぼす災厄になる可能性が、七十二パーセントあると……」
ルシアンの表情が険しくなった。
アリスは黒い紋章を見つめた。
「私は、そんな未来にはならないと信じていました。でも、もし研究者たちが最初から私をアストレアにしようとしていたのなら……」
言葉が途切れる。
未来の災厄は、偶然生まれるものではない。
誰かが、その未来へ向かう道を作っているのかもしれない。
ハロルドが端末へ近づいた。
「……その名前は、初期計画の資料にもあった」
アリスは振り返った。
「知っていたんですか?」
「詳細までは知らない。七原理を統合する計画が存在したことは聞いていたが、実際に完成したとは思っていなかった」
「それなら、なぜ私に教えてくれなかったんですか?」
ハロルドは答えられなかった。
アリスは唇を噛み、再び端末へ向き直った。
黒い紋章の下に、新たな文字が現れている。
――SUCCESSION PROGRAM:ACTIVE.
【継承計画・進行中】
そして、計画書の最終頁が開いた。
――ASTRAEA SUCCESSOR : ALICE.
【アストレア継承者:アリス】




