第33話 第一皇子ハロルド
銀の杖を握って佇む泣き笑い仮面の男に、ルシアン・ヴァルハートが静かに剣を向けた。
「……その仮面を外せ」
王国処刑記録保管庫に、低い声が響いた。
ルシアンの右手には大剣が握られ、切っ先は仮面の男の胸元へ向けられている。
左腕の包帯には新しい血が滲んでいたが、彼は構えを崩さなかった。
泣き笑い仮面は銀の杖を床につき、静かに首を傾げた。
「どうしたんだい、ルシアン。君がそんな顔をするなんて珍しいね」
「二度は言わん。仮面を外せ」
普段なら面倒事を避けたがる男の声音に、冗談の余地はなかった。
アリスは二人の間に立ちかけ、足を止めた。
「ルシアン、どういうことですか?」
「こいつの正体を確かめる」
ルシアンは黒い書物を持ち上げた。
「お前の処刑命令書に、王族の認証符号が残っていた。王国第一処刑人だった俺は、王命が偽造されていないか確認するため、王族ごとの符号を覚えさせられていた」
「それが、仮面さんと?」
「符号の持ち主は、十年前に死んだことになっている」
泣き笑い仮面の杖を握る指が、わずかに動いた。
ルシアンはそれを見逃さなかった。
「王国第一皇子、ハロルド・アルテミス・グランフェルド。王太子レオンハルトの兄だ」
沈黙が落ちた。
アリスは思わず泣き笑い仮面を見た。
いつも軽口を叩き、危険な場面でも余裕を失わず、何かを知っているようで決して核心を語らない男。
彼が、王国の第一皇子だというのか。
「……冗談にしては、ずいぶん趣味が悪いね」
ヴェルトが帽子のつばを押さえた。
「王族なら、もっと立派な格好をしていてほしかったな」
泣き笑い仮面は答えなかった。
やがて、ゆっくりと右手を上げる。
白い指先が、泣き笑いの仮面に触れた。
「……できれば、もう少し後にしたかったんだけどね」
小さな留め具が外れる音がした。
仮面の下から現れたのは、整った顔立ちを持つ青年だった。
銀灰色の髪は額へ柔らかくかかり、淡い金色の瞳には、長い間眠れずにいた者のような疲労が滲んでいる。
左のこめかみから頬へかけて、古い火傷の痕が細く残っていた。
ルシアンが息を呑んだ。
「……殿下」
その呼び方に、ハロルドは苦く笑った。
「やめてくれ。もう、その名で呼ばれる資格はない」
アリスは彼の素顔を見つめた。
仮面を外しても、見知らぬ人間になったわけではない。
声も、立ち姿も、銀の杖を握る癖も変わらない。
それなのに、今まで知っていた男が、遠くへ離れていくように感じられた。
「……本当に、第一皇子なんですか?」
「ああ。ハロルド・アルテミス・グランフェルド。それが、僕の本当の名前だ」
「どうして、死んだことになっているんですか」
問いかけるアリスの声は、自分でも驚くほど硬かった。
ハロルドは一度目を伏せた。
「十年前、王宮の研究棟で火災が起きた。公式には、僕はその事故で命を落としたことになっている」
「実際には?」
「生き延びた。そして、王宮へ戻らなかった」
ルシアンの剣先が、わずかに揺れた。
「戻らなかった、だと?」
「そうだ」
「王国は殿下の死を悼み、国葬まで行った。陛下も、レオンハルト殿下も、あの火災であなたを失ったと……!」
「知っているよ」
ハロルドは静かに答えた。
「そのすべてを知ったうえで、僕は死んだままでいることを選んだ」
ルシアンの表情が険しくなる。
「理由を聞かせてもらおう」
ハロルドは中央の硝子板へ視線を向けた。
「【PROJECT GLASS EDEN】。あの研究計画に、僕も関わっていたからだ」
アリスは息を呑んだ。
ノエルの恐怖を増幅し、ネリッサの願いを歪め、ミレイを与えられた役割へ閉じ込めた研究。
その計画に、目の前の男が関わっていた。
「……あなたが、鏡界を作ったんですか?」
「僕一人で、というわけではない。元を正せば代々の王家が創設に関わっていたと言えるだろう。だが、その後の研究を支援し、王族として必要な権限を与えたのは事実だ」
ハロルドは逃げずに答えた。
「当初の目的は、王国が迎える破滅的な未来を回避することだった。戦争、飢饉、魔力災害。人間が恐怖や欲望に突き動かされることで、何度も同じ過ちを繰り返す。その仕組みを理解できれば被害を減らせると考えたんだ」
「それが、どうして人間を実験材料にする話になるんですか」
「研究が進むにつれて、目的が変わった。人間の感情を理解するのではなく、管理する方向へね」
ハロルドの声には、後悔が滲んでいた。
「恐怖を取り除けば、人は危険を避けられる。欲望を抑えれば、争いは減る。役割を与えれば、社会は安定する。そうした理屈が積み重なり、やがて人間の意思そのものが、計画にとって邪魔なものになった」
アリスは拳を握った。
「……ノエルさんたちは、そのために苦しめられたんですね」
「そうだ」
「あなたは、それを知っていたんですね」
ハロルドは答えるまでに、少し時間を要した。
「すべてではない。だが、知らなかったとは言えない」
その言葉が、アリスの胸へ深く刺さった。
ハロルドは彼女たちとともに鏡界を歩いてきた。
ノエルが恐怖に怯える姿も、ネリッサが誰にも理解されずに苦しむ姿も、ミレイが自分の役割から抜け出せずにいる姿も、見ていたはずだった。
それなのに、彼は何も語らなかった。
「……どうして、教えてくれなかったんですか」
アリスの問いに、ハロルドは顔を上げた。
「君たちを混乱させたくなかった」
「それは、私たちのためですか?」
アリスは一歩近づいた。
「それとも、あなた自身が責められたくなかったからですか?」
ハロルドは答えなかった。
その沈黙が、どんな弁明よりも雄弁だった。
ルミナスが尻尾を強く振った。
「僕たち、ずっと一緒に戦ってきたじゃないか。危ない時は助けてくれたし、アリスが倒れそうになった時だって……」
少年は言葉を詰まらせた。
「それも全部、計画だったの?」
「違う」
ハロルドは即座に否定した。
「君たちを助けたいと思ったことに、嘘はない」
「でも、最初から知ってたんでしょ!」
ルミナスの声が震えた。
ヴェルトが少年の肩へ手を置く。
「……少し黙っていよう、ルミナス。今は、お嬢様が聞くべきことがある」
アリスはハロルドを見つめた。
彼が差し出した透明なレイピア、【グラス・ヴェリタス】。
この剣がなければ、アリスは鏡界を生き抜けなかった。
だが、もし最初から彼女をここへ導くために渡されたものだったとしたら。
「……この剣も、計画の一部だったんですか?」
ハロルドの視線が、アリスの腰にある細剣へ落ちた。
「【グラス・ヴェリタス】は、術式の前提へ干渉する君の力を引き出すための剣だ。僕は、君なら鏡界の仕組みを変えられる可能性があると知っていた」
「それなら、私が鏡姫たちを救うことも?」
「そこまでは分からなかった」
ハロルドは首を振った。
「君が何を選び、どんな答えを出すのか。僕には最後まで見通せなかった」
アリスは彼の言葉を聞きながら、胸の奥に冷たいものが広がっていくのを感じた。
ハロルドは銀の杖【ラスト・ページ】によって未来の結末を垣間見ることができる。
それでも、彼女が鏡姫たちへ何を語り、どのような選択をするかまでは分からなかったという。
ならば、彼は何を期待して自分を助けたのだろう。
アリスはゆっくりと口を開いた。
「あなたは私を助けたんですか。それとも、ここへ連れてくるために生かしたんですか?」
ハロルドの表情が変わった。
初めて、彼は視線を逸らした。
長い沈黙の後、答えが返ってくる。
「……最初は、後者だった」
アリスは、胸を強く殴られたような衝撃を覚えた。
ハロルドは続けた。
「君が【インバーテッド】を持つ可能性を知った時、僕は計画を止めるために、その力が必要だと考えた。だから君を生かし、鏡界へ導いた」
「……私を、利用したんですね」
「そうだ」
言い訳をしないことが、かえって残酷だった。
アリスは唇を噛んだ。
ハロルドとともに歩いた時間が、次々と思い出される。
危険を知らせてくれた声。戦闘の後に交わした軽口。
仲間を失いそうになった時、彼が差し伸べた手。
それらの記憶まで、すべて疑わなければならないのだろうか。
「……それでも、途中からは変わったんだ」
ハロルドが言った。
「君がノエルを救い、ネリッサの声を取り戻し、ミレイに自分の人生を選ばせた時、僕は初めて気づいた。君は僕が考えていた以上に、誰かのために戦える人間だった」
「今さら、そんなことを言われても……」
「分かっている。信じてもらえるとは思っていない」
アリスは目を閉じた。
怒りと悲しみが胸の内で渦巻いていた。
だが、その奥に、別の感情があった。
自分の人生を奪った者たちへの怒り。
何も知らないまま処刑され、鏡界を彷徨うことになった理由を、必ず突き止めたいという思いだった。
アリスは目を開けた。
「……あなたを許したわけではありません」
ハロルドが顔を上げる。
「ですが、私が知るべきことを、あなたの都合で隠させるつもりもありません」
アリスは【グラス・ヴェリタス】の柄に手を添えた。
「私は、自分がなぜ断罪されたのかを知りたい。誰が私の処刑を決め、何のために鏡界へ送り込んだのか、その真実を確かめたいんです」
彼女は仲間たちを見渡した。
「ここから先、ハロルドさんの言葉を無条件に信じることはできません。それでも、真実を知るために必要なら、私は彼と一緒に進みます」
ルシアンが大剣を下ろした。
「……お前がそう決めたなら、俺は従う」
ヴェルトは帽子を被り直し、苦笑した。
「お嬢様が一番厳しい裁判官になりそうだね。僕としては、もう少し穏便に済ませたいところだけど」
ルミナスは不満そうに耳を伏せたまま、アリスの隣へ立った。
「……僕は、まだ許してないからね」
ハロルドは小さく頷いた。
「それでいい」
彼は仮面を手に取ったが、すぐには顔へ戻さなかった。
アリスはその様子を見つめた。
「……その仮面は、もう必要ないんじゃありませんか」
ハロルドは少し驚いたように目を見開いた。
「そうかもしれないね」
彼は仮面を外套の内側へしまった。
その時、中央の硝子板が低く唸り始めた。
王族の認証符号が青白く輝き、複雑な術式が空中へ展開する。
――ROYAL AUTHORITY CONFIRMED.
【王族権限、確認】
――ACCESS LEVEL UPDATED.
【閲覧権限、更新】
ハロルドが眉を寄せた。
「……まだ、僕の認証が残っているのか」
硝子板には、新たな記録が表示されていた。
――PROJECT GLASS EDEN.
【プロジェクト・グラスエデン】
――CURRENT ADMINISTRATOR.
【現行管理責任者】
続いて、一人の名前が浮かび上がる。
――LEONHARDT DIA-NOX GRANFELD.
【レオンハルト・ディア=ノクス・グランフェルド】
アリスは、その名を見つめた。
現在の王太子。
ハロルドの弟であり、王国の未来を担うとされる人物。
「……王太子レオンハルトが、この計画を?」
ハロルドは硝子板を見つめたまま、静かに答えた。
「弟は、この計画をまだ終わらせていない」
その声には、これまで聞いたことのない深い疲労が滲んでいた。
アリスは【グラス・ヴェリタス】を握り直した。
自分を断罪した王国の奥に、何が隠されているのか。
その答えが、ようやく姿を現し始めていた。




