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断罪の国のアリス―Project Glass Eden―  作者: 塚田澄玻
第六章 禁書領域アポクリファ
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第32話 処刑人の名簿

 王国処刑記録保管庫の扉が開いた瞬間、ルシアン・ヴァルハートは、忘れたはずの匂いを思い出した。


 濡れた石畳と、刃に塗られた防錆油。

 そして、処刑台へ引き出される囚人たちが身につけていた、粗末な麻布の匂いだった。

 実際に血が流れているわけではない。目の前にあるのは、黒い書架が整然と並ぶ静かな部屋にすぎなかった。

 それでも、天井から降り注ぐ青白い光と、中央に据えられた石造りの台座が、かつて幾度となく立った処刑場を思い起こさせた。


「……ルシアン?」


 アリスの声に、ルシアンは我に返った。


「問題ない。進むぞ」


 そう答えて歩き出したものの、左腕に巻いた包帯の下では、先ほどの戦闘で開いた傷が鈍く疼いていた。

 室内には数百冊の黒い書物が並び、その背表紙には処刑された者の氏名と日付が刻まれている。

 奥の壁には巨大な硝子板が埋め込まれ、王国の紋章とともに銀色の文字が浮かんでいた。


 ――ROYAL EXECUTION ARCHIVE.

 【王国処刑記録保管庫】


「王国って、処刑した人間の記録をこんな場所に集めていたの?」


 ルミナスが耳を伏せながら尋ねた。


「王都にも処刑台帳はある。だが、ここまで詳しいものは見たことがない」


 ルシアンは最も近い書架から一冊を抜き取った。

 表紙に記された名前を見た途端、指が止まる。

 エドガー・リース。王国軍の元補給官。軍需物資の横流しと反逆の罪で処刑された男だった。

 ルシアンは、その顔を覚えていた。

 処刑前夜、男は妻と娘に手紙を書かせてほしいと願い出た。規定では認められない要求だったため、ルシアンは断った。

 翌朝、男は最後まで家族の名前を口にしながら処刑台へ上がった。

 記録には、罪状だけでなく、その時の会話まで残されていた。


 ――執行者、ルシアン・ヴァルハート。

 ――対象者、家族への書簡作成を要求。

 ――執行者、規定に基づき却下。


 ルシアンは頁をめくった。

 そこには処刑時の魔力反応、対象者の心拍、執行者の剣速まで記されていた。


「……俺の記憶より詳しいな」


 乾いた声が漏れた。

 次の本も、その次の本も、彼が処刑した人間の記録だった。

 王国に反逆した騎士、禁術を使用した魔術師、貴族の財産を奪った盗賊。

 その中には、裁判で無実を訴え続けた者もいた。


 ルシアンは王国第一処刑人だった。

 百人を超える罪人を、自分の剣で処刑してきた。

 その全員が無実だったわけではない。人を殺した者も、村を焼いた者もいた。

 だが、罪状の真偽を疑うことなく命令に従った事実も、同じように消えることはなかった。


「……随分と、丁寧な仕事をしてきたらしい」


 ヴェルトが隣へ来た。

 普段なら冗談の一つも挟む男が、今回は何も言わなかった。

 ルシアンは書物を閉じ、次の棚へ向かった。

 そこには処刑記録とは別に、銀色の留め具が付いた書物が並んでいた。


 ――TRANSFER COMPLETED.

 【移送完了】


 ルシアンは一冊を開いた。

 処刑対象者の名前と、王都での執行日が記されている。

 しかし、その下にある記録が奇妙だった。


 ――PUBLIC STATUS:EXECUTED.

 【公的記録・処刑済】


 ――ACTUAL STATUS:TRANSFERRED.

 【実際の処理・移送】


 移送先には、【PROJECT GLASS EDEN(プロジェクト・グラス・エデン)】の文字があった。


「……どういうことだ」


 ルシアンは別の書物を確認した。

 そこにも同じ記載がある。

 王国では処刑済みとされた人間が、実際にはこの施設へ送られていた。

 しかも、記録にある移送日は、公的な処刑日の前日だった。


「ルシアン、何か分かったんですか?」


 アリスが近づいてくる。

 彼は書物を差し出した。


「王国の処刑記録には、二種類あるらしい。実際に処刑された者と、処刑されたことにして別の場所へ送られた者だ」


 アリスは記録を読み、表情を強張らせた。


「……その人たちが、鏡界の実験に使われた可能性があるということですか?」

「分からん。だが、少なくとも王国は、処刑を人間の移送のために利用していた」


 ルシアンは拳を握った。

 自分が剣を振るった相手の中には、確かに死んだ者がいる。

 一方で、処刑人として立ち会うことを命じられなかった事件もあった。

 書類上では執行済みとされ、王命によって詳細を伏せられていた案件だ。


 あの時、なぜ疑わなかったのか。

 王国の命令だから正しいと信じていたのか。

 それとも、疑えば自分の剣が何をしてきたのか、考えなければならなくなるからだったのか。


「俺は……何も知らなかった」


 呟いた言葉は、言い訳にしか聞こえなかった。

 アリスはしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。


「知らなかったことと、責任がないことは違います」


 ルシアンは彼女を見た。

 その青と赤の瞳には、慰めも軽蔑もなかった。


「あなたがしたことは、消えません。でも、だからといって、これから何をするかまで決まっているわけではありません」


 ルシアンは答えなかった。

 処刑台へ向かう前、命乞いをした者たちの声が脳裏に蘇る。

 助けてほしいと叫ぶ者もいれば、王国への忠誠を最後まで誓う者もいた。

 彼らの言葉を聞きながら、ルシアンは一度も剣を止めなかった。

 それが自分の役目だと信じていたからだ。

 だが、今は違う。

 少なくとも、違うと証明しなければならない。


 その時、保管庫の奥で連続する鐘のような音が響いた。

 天井の硝子板が赤く染まり、書架の間から細い銀線が伸びてくる。


 ――EXECUTIONER IDENTIFIED.

 【処刑人、識別】


 ――ROYAL COMMAND REINSTATED.

 【王命、再適用】


 ルシアンの足元に円形の術式が浮かび上がった。

 銀線が両脚へ絡みつき、続いて右腕を拘束する。


「……何だ、これは!」


 ルシアンが大剣を引き抜こうとした瞬間、左腕の傷へ鋭い痛みが走った。

 包帯の下で血が滲み、指先の感覚が薄れていく。

 術式は彼の魔力反応を読み取り、過去の執行記録と照合していた。


 ――EXECUTION ORDER CONFIRMED.

 【処刑命令、確認】


 中央の硝子板に、アリスの名前が浮かび上がる。


 ――ALICE VON LOUVELT.

 【アリス・フォン・ルーヴェルト】


 ――STATUS:CONDEMNED.

 【身分・死刑囚】


 ――EXECUTIONER:LUCIAN VALHART.

 【執行者・ルシアン・ヴァルハート】


「……ふざけるな」


 ルシアンは奥歯を噛み締めた。

 右腕が勝手に動こうとする。

 大剣の柄を握り、アリスへ向けて刃を構える動作が、筋肉の奥から強制されていた。


「ルシアン!」


 アリスがレイピアを抜く。

 ヴェルトもカードを構えたが、ルシアンは低く叫んだ。


「近づくな! こいつは俺の執行記録を使って、身体を動かしている!」


 銀線がさらに強く締まり、操り人形のように彼の右腕を引き上げた。

 過去に繰り返してきた動作が、意思とは無関係に再現される。

 処刑台へ上がり、罪状を確認し、剣を振り下ろす。

 百回以上繰り返したその手順を、身体は覚えていた。

 ルシアンは歯を食いしばり、剣を床へ突き立てた。

 金属音が響き、床の白い石材に亀裂が走る。


「俺は……もう、王国の処刑人じゃない!」


 術式が赤く明滅した。


 ――ROLE DEVIATION DETECTED.

 【役割逸脱、検知】


 銀線が締まり、ルシアンの膝が折れた。

 左腕の傷から血が流れ、床に赤い滴が落ちる。

 アリスが駆け寄ろうとしたが、ルシアンは首を振った。


「来るな、アリス。俺がここでお前に剣を向けたら、今までと何も変わらない」

「でも、そのままでは……!」

「分かっている!」


 ルシアンは荒い息を吐いた。

 王国の命令に従えば、身体は楽になるだろう。

 剣を振り下ろせば、術式は彼を正しい処刑人として認める。

 かつての自分なら、迷わずそうしていた。

 命令に従うことが責任を果たすことだと信じ、判断を王国へ預けていた。

 だが、それこそが彼の罪だった。


 ルシアンは右腕へ力を込め、剣の切っ先を床へ押しつけた。

 銀線が皮膚へ食い込み、骨が軋む。

 それでも、彼は剣をアリスへ向けなかった。


「俺が斬った連中の名前を、全部覚えているわけじゃない。顔も声も、忘れた奴がいる」


 ルシアンは苦痛に顔を歪めながら続けた。


「だが、忘れたからといって、殺した事実が消えるわけじゃない。俺はその罪を背負って生きる。だからこそ、これ以上、誰かの命令で剣を振るうつもりはない!」


 右腕の筋肉が震え、銀線が一本ずつ裂けていく。

 しかし、術式の中心から新たな拘束が伸び、彼の身体を押し潰そうとした。

 その時、アリスが一歩踏み出した。


「ルシアン。あなたが選んだことを、私は信じます」


 レイピアの刀身で銀色の鏡印が輝いた。


「【銀刻装シルバー・ミッドナイト】!」


 時計盤の光輪が背後に浮かび、銀の装甲がアリスの身体を包む。


 ――SELF-SELECTED ROLE.

 【自己選択配役】


「私が選ぶ役割は、【守護者】です」


 アリスは【グラス・ヴェリタス】を構え、ルシアンへ伸びる銀線の前に立った。

 彼の過去を消すことはできない。

 彼が負うべき責任を肩代わりすることもできない。

 それでも、今この瞬間、自分の意思で剣を止めようとしている人間を守ることはできる。

 アリスは銀色の光を剣へ集め、拘束術式から放たれた攻撃を受け止めた。

 衝撃が腕へ伝わり、足元の床に亀裂が走る。


「ルシアン! あなたの剣は、誰のものですか!」


 ルシアンは顔を上げた。

 目の前には、かつて自分が処刑するはずだった少女が立っている。

 その少女が、今は自分を守るために剣を振るっていた。

 ルシアンは大剣の柄を握り直した。


「……俺のものだ」


 銀線が激しく震える。


「俺が振るい、俺が責任を負う。王国にも、過去の俺にも、二度と預けるつもりはない!」


 彼は大剣を引き抜き、身体を縛る銀線を斬り払った。

 術式の中心が砕け、保管庫を満たしていた赤い光が消える。

 ルシアンは片膝をついたまま、荒く息を吐いた。

 左腕は痛み、全身に力が入らない。それでも、右手に握った剣だけは離さなかった。

 アリスが近づき、彼の前に膝をつく。


「……大丈夫ですか?」

「面倒なことになった」


 ルシアンは苦笑した。


「王国にいた頃より、今の方がずっと剣を振るう理由を考えなきゃならん」

「それでいいと思います」


 アリスは静かに答えた。


「私も、誰かに決められた正しさだけで生きるつもりはありませんから」


 ルシアンは彼女を見つめた。

 その言葉に、かつての死刑囚の面影はなかった。

 自分の人生を取り戻すために戦う、一人の少女がそこにいた。

 ルシアンは大剣を支えに立ち上がった。


「……だったら、最後まで付き合ってやる」


 アリスが微かに笑う。


「頼りにしています」


 その時、中央の硝子板に新たな文字が浮かんだ。


 ――EXECUTION RECORD UPDATED.

 【処刑記録、更新】


 銀色の光が収束し、一冊の黒い書物が台座の上へ現れる。

 表紙には、アリスの名前が刻まれていた。


 ルシアンが頁を開くと、そこには彼女の処刑命令書が収められていた。

 罪状、執行予定日、処刑人の指定。

 そして、命令の最下部に刻まれた王族の認証符号。

 ルシアンは、その紋章を知っていた。

 かつて王宮で、何度も目にしたものだった。


「……そんなはずはない」


 アリスが顔を上げる。


「どうしたんですか?」


 ルシアンは答えず、書物を持つ手に力を込めた。

 その認証符号は、現在の王太子レオンハルトのものではない。

 すでに死亡したとされる、第一皇子に与えられたものだった。


 ルシアンはゆっくりと振り返った。

 視線の先には、半分が笑い、半分が泣いている仮面をつけた男が立っている。

 仮面の男は何も言わなかった。

 ただ、銀の杖を握る指先が、わずかに強張っていた。


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