第31話 記録された真実
扉の向こうに広がっていたのは、果ての見えない書庫だった。
白い廊下とは対照的に、室内は薄暗く、天井まで届く黒い書架が幾重にも並んでいる。
棚には革装丁の書物が隙間なく収められ、背表紙に刻まれた銀文字が、呼吸するように明滅していた。
アリスは入口で足を止めた。
書物の数が尋常ではない。
王立図書館の蔵書をすべて運び込んだとしても、これほどの量にはならないだろう。
しかも、奇妙なことに紙や革の匂いがしなかった。
代わりに漂っているのは、廊下で感じた消毒薬に似た刺激臭と、微かに焦げた金属の匂いだった。
「……本当に、ここは書庫なんでしょうか」
「見た目だけなら、俺の知っているどんな図書館より立派だね」
ヴェルトは近くの棚へ歩み寄り、一冊の背表紙を覗き込んだ。
「ただし、蔵書の趣味は相当悪そうだ」
そこには書名ではなく、人間の名前が刻まれていた。
『ヴェルト・クロウ』
彼は一瞬だけ動きを止めたが、すぐにいつもの笑みを浮かべ、本を抜き取った。
「おや、俺の伝記まであるとは光栄だね。できれば本人の許可を取ってほしかったけれど」
軽口を叩きながら頁を開いた彼の指が、途中で止まった。
アリスが覗き込むと、そこには細かな文字と数字が並んでいた。
生年月日、身体的特徴、魔力適性。さらに、過去の行動が日付ごとに記録されている。
ある頁には、ヴェルトが地方貴族から宝石を騙し取った事件が記されていた。
「……これ、事実なんですか?」
「残念ながら、かなり正確だよ」
ヴェルトは笑って答えたものの、その目は笑っていなかった。
「でも、妙だな。この取引を知っているのは、俺と相手の二人だけだったはずなんだけど」
彼はさらに頁をめくった。
次の記録を読んだ瞬間、表情から笑みが消えた。
アリスには、その内容が見えなかった。
ヴェルトが本を閉じたからだ。
「……詐欺師にも、他人に読まれたくない日記くらいあるものさ」
いつもの調子を取り戻そうとする声に、わずかな硬さが残っていた。
ルシアンは別の棚を調べていた。
左腕の傷を庇いながら一冊を抜き、数頁を確認すると、低く舌打ちする。
「ここにあるのは、単なる経歴じゃない」
「どういうことですか?」
「命令を受けた時の反応、処刑前の心理状態、剣を振るう直前の魔力変化まで記録されている。俺自身、覚えていないこともある」
アリスの背筋に冷たいものが走った。
過去の出来事だけではない。
その時、何を感じ、何を考えていたのかまで、誰かが記録していたということになる。
「……気持ち悪い」
ルミナスが耳を伏せた。
「僕たち、ずっと誰かに見られていたってこと?」
「少なくとも、そう考えるだけの材料は揃っているね」
泣き笑い仮面の男は、書架の間を歩きながら答えた。
その声は落ち着いていたが、銀の杖を握る指には普段より強く力が入っていた。
アリスは彼を見つめた。
「仮面さん。あなたは、この場所を知っているんですね?」
「……知っていることと、すべてを理解していることは違うよ」
「それでも、私たちより多くを知っているはずです」
泣き笑い仮面は答えなかった。
代わりに、書庫の奥を指した。
「君が探しているものは、あちらにあると思う」
アリスは唇を引き結んだ。
問い詰めたい気持ちはあったが、今は進むしかない。
書架の間を抜けると、円形の広間へ出た。
中央には巨大な硝子の机があり、その上に三冊の書物が置かれている。
赤、青、銀。
表紙の色を見た瞬間、アリスは息を呑んだ。
最初の本には、ノエルの名前があった。
――SUBJECT 01:FEAR.
【被験対象01・恐怖】
アリスは慎重に頁を開いた。
そこには赤森狩猟区の構造、魔力の循環、狩猟区を支配する術式【HUNTING LAW 狩猟法則】の原理が記されていた。
さらに、ノエル自身の記録が続いている。
彼女が何を恐れ、どのような記憶を抱え、どんな未来を避けようとしていたのか。
それらが冷たい文章で分類されていた。
アリスは頁をめくる手を止めた。
「……ノエルさんは、実験のために作られたんですか?」
泣き笑い仮面は少し考えてから答えた。
「少なくとも、ここに書かれている限りでは、彼女の感情そのものを誰かが一から作ったわけではない」
アリスは続きを読んだ。
赤森狩猟区は、実在した少女の記憶と魔力反応を基礎として構築された領域だった。
恐怖によって未来を予測し、危険を排除しようとする心理を増幅させることで、特定の行動を引き出す仕組みになっている。
――FEAR RESPONSE AMPLIFICATION.
【恐怖反応増幅】
その文字を見た時、アリスの胸に怒りが込み上げた。
ノエルが苦しんでいたのは、単なる呪いのせいではなかった。
誰かが彼女の恐怖を利用し、逃れられない世界を組み上げていたのだ。
アリスは二冊目を開いた。
――SUBJECT 02:DESIRE.
【被験対象02・欲望】
ネリッサの記録だった。
鏡海回廊の構造、意思伝達の遮断、拒絶の抑制、欲望の衝突を制御する術式【SILENT ABYSS. 静寂の深淵】。
そのすべてが、実験項目として整理されている。
アリスは、鏡海で聞いたネリッサの声を思い出した。
誰も争わずに済む世界を作りたかった少女。
その願いが、他人の声を奪う力へ変わってしまったことを、彼女はどれほど悔やんでいただろう。
「……こんなの、ひどすぎます」
アリスは小さく呟いた。
「ネリッサさんは、ただ誰かと分かり合いたかっただけなのに」
三冊目の銀色の本には、ミレイの名前が刻まれていた。
――SUBJECT 03:ROLE.
【被験対象03・役割】
頁には、灰硝子舞踏館の配役機構と、その中核にある【MIDNIGHT ROLE 午前零時の配役】の構造が記されている。
役割の固定。
人格行動の誘導。
社会的評価の強制。
アリスは、硝子の靴を脱いだミレイの姿を思い出した。
裸足で踊りながら、初めて自分の意思で笑った少女。
その笑顔まで、誰かの実験結果として記録されるのだろうか。
アリスは三冊の本を見つめた。
「……この人たちは、研究材料なんかじゃありません」
ルシアンが隣に立った。
「分かっている」
「ノエルさんも、ネリッサさんも、ミレイさんも、ちゃんと自分の気持ちを持っていました。苦しんで、迷って、それでも最後には自分で選んだんです」
アリスの声が震えた。
「それを、こんな数字や記録だけで説明できるはずがありません」
泣き笑い仮面は黙って聞いていた。
やがて、仮面の奥から静かな声が漏れる。
「……そうだね。記録できることと、理解できることは同じじゃない」
アリスは彼を見た。
その言葉には、普段の軽薄さがなかった。
まるで、長い間その違いを考え続けてきた者の声だった。
その時、硝子の机が淡く光った。
中央に新たな文字が浮かび上がる。
――MIRROR DOMAIN RESEARCH.
【鏡界領域研究】
続いて、三つの記録が一つの線で結ばれた。
――ADAPTATION DATA COLLECTED.
【適応データ収集完了】
アリスは眉を寄せた。
「……適応データ?」
ルミナスが机へ近づく。
「もしかして、アリスが鏡姫たちを助けたことも、全部記録されてるの?」
アリスは答えられなかった。
硝子の机には、彼女が【紅狩装ルージュ・ハント】を得た時の魔力反応、ネリッサの術式を反転させた時の記録、ミレイの硝子の靴が脱げた瞬間の数値が並んでいた。
誰かが、彼女の戦いを観察していた。
そして、その結果を収集していた。
「……私たちが鏡界を進むことは、最初から予定されていたんでしょうか」
アリスが呟くと、ハロルドは答えず、机の端へ視線を向けた。
そこには、まだ開かれていない記録が一つだけ残っていた。
――MIRROR ADAPTATION CANDIDATE.
【鏡界適応候補】
アリスが指先を近づけると、文字が変化した。
――ALICE VON LOUVELT.
【アリス・フォン・ルーヴェルト】
その下に、記録作成日が表示される。
アリスは日付を見た瞬間、呼吸を忘れた。
それは、彼女が罪人として断罪されるよりも前の日付だった。
さらに、記録の末尾には短い文章が添えられている。
――EXECUTION EVENT:SCHEDULED.
【処刑事象・予定登録済】
アリスの指先が震えた。
自分の処刑は、突然起きた悲劇ではなかったのか。
誰かが、あの日を予定していたというのか。
「……どういうことですか」
アリスはゆっくりと振り返った。
泣き笑い仮面は動かなかった。
仮面の笑う側が、冷たい照明を反射している。
「私が処刑されることを、誰かが前もって知っていたんですか?」
答えのない沈黙が続いた。
その時、書庫の奥で重い金属音が響いた。
閉ざされていた別の扉が開き、暗い通路が現れる。
扉の上には、銀色の文字が刻まれていた。
――ROYAL EXECUTION ARCHIVE.
【王国処刑記録保管庫】
ルシアンの表情が変わった。
彼は無言で大剣の柄を握り、暗い通路を見つめた。
アリスはその横顔を見た。
彼が何を思い出しているのか、聞くまでもなかった。
書庫の奥には、まだ知らない真実が眠っている。
そして、その真実は、ルシアンが背負ってきた罪にも繋がっているのだろう。
アリスは【グラス・ヴェリタス】を握り直した。
「……行きましょう」
ルシアンは短く頷いた。
その背後で、ハロルドが銀の杖を静かに握りしめていた。




