第29話 私は、私を演じる
第29話 私は、私を演じる
銀時計の長針が、処刑の刃となって降ってきた。
アリスは【グラス・ヴェリタス】を構え、刀身の第一鏡印へ意識を集中させた。
「【紅狩装ルージュ・ハント】!」
深紅の結晶が両肩から腕へ広がり、腰の装甲が花弁のように展開する。
背後に赤い光輪が生まれ、透明な剣が弓へ変形した瞬間、左目に三秒後の光景が映った。
長針が床を貫き、その衝撃で砕けた硝子片がルミナスの背後へ飛ぶ。
回避した先には短針が待ち構え、逃げ場を失った少年が銀の刃に呑み込まれる。
「ルミナス、右へ跳ばないで!」
アリスは赤い光の矢を放った。
矢は長針の根元を射抜き、巨大な銀の刃を横へ逸らす。
ルミナスは警告に従って前方へ飛び込み、床を滑りながら双剣【グリン】【グリム】で迫る歯車を弾いた。
「助かった! でも、これ全部壊すの!?」
「壊すだけでは終わりません!」
アリスの言葉を証明するように、砕けた長針が銀の粒子へ変わり、時計盤へ吸い込まれた。
直後、同じ形の刃が再び生み出される。
舞踏館そのものが、配役を守るための処刑装置になっていた。
巨大な硝子の王女が両腕を広げる。
その中心に囚われたミレイは、涙を流しながら微笑んでいた。
顔は苦痛に歪んでいるのに、口元だけが王女らしい優雅な形を保っている。
「……皆様、どうぞ最後までお楽しみください」
本人の意思とは思えない声が響いた。
アリスは奥歯を噛みしめた。
ミレイ自身もまた、(王女)という役割に縛られている。
その時、空中へ四つの配役表示が現れた。
――LUCIAN/EXECUTIONER.(ルシアン/処刑人)
――VELT/TRAITOR.(ヴェルト/裏切者)
――LUMINUS/INVISIBLE SERVANT.(ルミナス/不可視の存在)
――ALICE/GUILTY PRINCESS.(アリス/断罪令嬢)
ルシアンの白銀鎧が黒く染まり、大剣を握る腕がアリスへ向けられた。
ヴェルトの手元ではカードが勝手に裏返り、仲間へ刃を向けるように並び替わっていく。
ルミナスの身体は輪郭から薄れ始めた。
「……また、この役か」
ルシアンが歯を食いしばる。
ヴェルトは自分の手首を押さえた。
「裏切り者とは、俺の評判をよく調べているね。もっとも、今夜はその役を引き受ける気がないんだけど」
ルミナスが何かを叫んだ。
しかし、声が届かない。
彼の姿が薄れ、足音さえ消えていく。
アリスは赤い光の矢で迫る歯車を撃ち落としながら、彼らの配役を見つめた。
恐怖を予測するだけでは、仲間を救えない。
必要なのは、彼らが本当は何を望んでいるのかを、役割の向こう側から取り戻すことだった。
アリスは弓を下ろした。
深紅の装甲が光の粒子となってほどける。
その一瞬、鏡装の切り替えによって防御が薄くなった隙を狙い、銀の短針が横薙ぎに迫った。
「アリス!」
ルシアンが大剣を振るった。
配役は彼にアリスを斬らせようとしていたが、彼は剣の軌道を強引に変え、短針へ叩きつける。
衝撃で左腕の傷が開き、血が鎧を濡らした。
それでも、彼は退かなかった。
「やれ。俺が時間を稼ぐ」
アリスは頷いた。
「【蒼鱗装アズール・セイレーン】!」
蒼い鱗が肩から腰へ広がり、背後に六枚の水鏡が翼のように展開した。
透明な剣は三叉槍を思わせる長い刀身へ変わり、青い光が舞踏館を満たしていく。
水鏡は、仲間たちが伝えようとしている意思を拾い上げた。
ルシアンの鏡には、短い言葉が浮かぶ。
――俺は、斬らない。
ヴェルトの鏡には、普段の軽薄な笑顔とは違う、切実な意思が映った。
――俺は、仲間を裏切らない。
そして、姿を失いかけたルミナスの鏡には、震える文字が現れた。
――僕を、見つけてほしい。
アリスの胸が熱くなった。
彼らは皆、過去に与えられた役割を背負っている。
処刑人だった男。
他人を騙して生きてきた詐欺師。
誰にも見つけてもらえなくなることを恐れる少年。
しかし、その過去が今の選択を決めるわけではない。
「ルシアンは、誰かを斬るためだけに剣を握っているんじゃありません!」
アリスが叫ぶと、水鏡が青く輝いた。
ルシアンの腕を縛る銀糸が裂ける。
「ヴェルトは、裏切ることを選んでいません!」
ヴェルトのカードが反転し、仲間へ向かっていた刃が砕けた。
「ルミナスは、ここにいます!」
アリスは消えかけた少年へ手を伸ばした。
「私は、あなたを見ています!」
蒼い水鏡がルミナスの姿を映し出す。
輪郭が戻り、金紫の瞳が大きく見開かれた。
「……アリス!」
少年の声が、今度は確かに届いた。
その瞬間、舞踏館の時計が激しく震えた。
アリスの深紅の左目に、巨大な術式が浮かび上がる。
――A ROLE DEFINES THE SELF.
【役割が人を定義する】
アリスは息を呑んだ。
これが【MIDNIGHT ROLE 午前零時の配役】の根幹だった。
役割が先にあり、人間はそれに従って形を変える。
王女は愛され、使用人は仕え、罪人は処刑される。
その前提が、すべての強制を生み出している。
しかし、アリスはまだ剣を振るわなかった。
この術式を反転させるには、ミレイ自身の選択が必要だった。
「ミレイさん!」
アリスは巨大な時計の中心へ呼びかけた。
「あなたは、王女でいたいんですか!」
硝子の王女が震えた。
銀色の瞳がアリスを見下ろす。
「……王女じゃなくなったら、誰も私を愛してくれない!」
ミレイの叫びとともに、無数の銀針が降り注いだ。
ルシアンが大剣で正面を防ぎ、ヴェルトは【マッド・ディール】のカードを床へ投げつける。
――IMPACT/VALUE 0.
衝撃の価値を一時的に下げられた床が、銀針の一撃を受け止めた。
その隙にルミナスが【バニシング・グリン】を発動し、観測の隙間を縫って時計の歯車へ跳び移る。
双剣が噛み合う歯を斬り裂き、巨大な時計の回転が一瞬だけ鈍った。
アリスはその隙を逃さず、蒼い翼を広げて跳躍した。
時計盤の中心へ向かいながら、ミレイへ手を伸ばす。
「私も、罪人にされました!」
アリスの声が、銀色の空間へ響く。
「名前を奪われ、信じていた人たちに背を向けられました。けれど、私は罪人として生まれたわけではありません!」
ミレイの瞳が揺れる。
「あなたも同じです。王女になる前から、あなたはミレイさんだったはずです!」
「……でも、私は……」
「王女でなくなったら、誰もあなたを見てくれないかもしれません」
アリスは言葉を選ばなかった。
安易な慰めでは、彼女の恐怖を越えられない。
「それでも、あなたを見てくれる人が現れた時、その人は《王女》ではなく、あなた自身を見てくれるはずです!」
ミレイの頬を涙が伝った。
足元の硝子の靴が、苦しげに軋む。
アリスは手を伸ばしたまま、動かなかった。
無理やり靴を脱がせることはできるかもしれない。
しかし、それではまた誰かがミレイの役割を決めることになる。
彼女自身が選ばなければ、意味がない。
「……怖いです」
ミレイが震える声で呟いた。
「王女じゃなくなったら、私は何をすればいいのか分からない……」
アリスは微笑んだ。
「分からなくてもいいんです。私だって、まだ分からないことばかりですから」
ミレイはしばらくアリスを見つめていた。
やがて、ゆっくりと膝を曲げる。
硝子の靴へ手を伸ばした。
「……私は」
細い指が、靴の縁を掴む。
「もう、誰かに決めてもらうのは嫌です」
銀色の光が激しく抵抗した。
靴が足首を締めつけ、ミレイの顔が苦痛に歪む。
それでも、彼女は手を離さなかった。
「私は……私でいたい!」
硝子の靴が脱げた。
その瞬間、アリスの左目に浮かんでいた術式が反転する。
――THE SELF DEFINES THE ROLE.
【人が役割を定義する】
「【インバーテッド】!」
蒼い光が巨大な時計を貫いた。
銀の針が砕け、歯車が連鎖するように崩壊する。
時計盤の中心から無数の亀裂が走り、硝子の王女を覆っていた装甲が剥がれ落ちていった。
ミレイの身体が宙へ投げ出される。
アリスは蒼い翼を広げ、落下する彼女を抱きとめた。
二人が床へ降り立った瞬間、舞踏館を覆っていた銀色の光が、夜空へ舞い上がる星屑のように消えていった。
◇
静寂の中で、ミレイが目を開けた。
灰銀のドレスはそのままだが、足元にはもう硝子の靴がない。
彼女は裸足で床へ立ち、恐る恐る一歩を踏み出した。
誰も、その歩き方を決めなかった。
「……歩ける」
ミレイは小さく笑った。
そして、もう一歩踏み出す。
その姿を見たアリスの手元で、第三の鏡印が輝いた。
――THIRD MIRROR MARK.
――ROLE.
【第三鏡印・役割】
銀色の光がアリスの身体を包む。
黒い軍装ドレスの上へ、時計仕掛けを思わせる銀の装甲が形成されていく。
肩から腕へ伸びる細い歯車模様が輝き、背後には巨大な時計盤の光輪が浮かんだ。
《グラス・ヴェリタス》は細身の銀剣へ姿を変え、刀身には無数の銀線が走っている。
――SILVER MIDNIGHT.
【銀刻装シルバー・ミッドナイト】
アリスの左目に、新たな術式が浮かんだ。
――SELF-SELECTED ROLE.
【自己選択配役】
この鏡装は、他人へ役割を押しつける力ではない。
自分が何をする者でありたいかを選び、その役割に合わせて、今ある力の使い方を変える。
守ると決めれば、防御へ。
探すと決めれば、観察へ。
ただし、選んだだけで持たない力が生まれるわけではない。
アリスは銀の剣を見つめ、静かに頷いた。
「……私が、決めるんですね」
その声に応えるように、銀の光輪が一度だけ輝いた。
やがて鏡装が消え、アリスは元の黒い軍装ドレスへ戻った。
大広間では、人々が戸惑いながら互いの顔を見つめていた。
騎士だった男が鎧を脱ぎ、使用人だった女性が初めて堂々と顔を上げる。
誰もが自分の意思で歩き、話し、笑おうとしている。
ミレイは彼らを見つめた。
「……私は、これから何をすればいいのでしょう」
アリスは微笑んだ。
「まずは、好きなことをしてみたらどうですか?」
ミレイは少し考え、やがて小さく頷いた。
そして、誰も演奏していない舞踏館の中央で、裸足のまま踊り始めた。
決められた振り付けではない。
不器用で、少しぎこちない。
それでも、彼女は心から笑っていた。
アリスたちは、その姿を静かに見守った。
◇
舞踏館を出る前、泣き笑い仮面が銀時計の残骸を見上げていた。
「怖いものを知り、望むものを知り、自分が何者かを決める……」
仮面の奥から、低い声が漏れる。
「まるで、誰かを完成させるための順番みたいだね」
アリスが振り返った時、彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
「何か言いましたか?」
「いいや。次の階層が気になっただけさ」
ハロルドは銀の杖を軽く振った。
舞踏館の奥に、新たな扉が現れる。
アリスたちはミレイへ別れを告げ、その扉をくぐった。
しかし、次の瞬間、アリスは足を止めた。
そこは、これまでの鏡界とはまるで違う場所だった。
白く冷たい壁。
規則正しく並ぶ照明。
消毒薬のような匂い。
長い廊下の両側には、番号の刻まれた扉が並んでいる。
そして、その一つに、黒い文字が記されていた。
――PROJECT GLASS EDEN.
【プロジェクト・グラス・エデン】
――SUBJECT 03:ROLE.
【被験対象03・役割】
アリスは息を呑んだ。
鏡姫たちの世界は、誰かによって作られたものなのか。
そして、自分が手に入れた鏡印は、何のために用意されていたのか。
アリスはゆっくりと振り返った。
泣き笑い仮面の男が、白い廊下の入口に立っている。
「……仮面さん」
アリスは【グラス・ヴェリタス】の柄へ手を掛けた。
「あなたは、最初から知っていたんですね?」
泣き笑い仮面は答えなかった。
ただ、仮面の笑う側をわずかに傾けた。
白い廊下の奥で、機械の起動音が響いた。




