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断罪の国のアリス―Project Glass Eden―  作者: 塚田澄玻
第五章 灰硝子舞踏館
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第28話 ガラスの靴を脱ぐ

第28話 ガラスの靴を脱ぐ


 銀鏡姫《ぎんきょうき》ミレイの足元で、硝子の靴が軋んだ。

 踵から爪先へ走った亀裂は、細い蜘蛛の巣のように広がっていた。

 ミレイはドレスの裾を持ち上げ、傷ついた靴を確かめると、信じられないものを見るように顔を強張らせた。


「……どうして、壊れるの?」


 誰に尋ねるでもなく呟いた声は、舞踏館のざわめきに呑まれそうなほど小さかった。

 アリスは彼女へ歩み寄ろうとしたが、背後で硝子の割れる音が響き、足を止めた。


 大広間の壁に並ぶ銀時計が、一斉に逆回転を始めていた。

 長針が短針を追い越し、数字が文字盤から剥がれ落ちる。

 床に映っていた貴族たちの姿が揺らぎ、胸元の配役表示が次々と書き換わっていった。


 ――KNIGHT → SERVANT.(騎士→使用人)

 ――PRINCESS → JESTER.(王女→道化師)

 ――GUILTY → NOBLE.(罪人→貴族)


 騎士の鎧が給仕服へ変わり、貴婦人のドレスに道化師の鈴が現れる。

 先ほどまで罪人として衛兵に追われていた男が、豪華な上着をまとった途端、周囲から恭しく頭を下げられた。


 誰も、その変化を不思議に思わない。

 役割が書き換わるたび、人々の表情も振る舞いも、それに合わせて変わっていく。


「……なんて悪趣味な仕組みだ」


 ルシアンが低く吐き捨てた。

 アリスは彼の左腕へ目を向けた。

 処刑人の配役に逆らった時の傷は、応急処置をした布の下でまだ血を滲ませている。


「無理はしないでください」

「お前が無茶をしなければな」

「それは約束できません」

「だろうな」


 ルシアンは苦々しく笑い、大剣を握り直した。

 その時、舞踏館の奥から軽やかな鈴の音が響いた。


「お嬢様、少し困ったことになっているようだね」


 ヴェルトが人混みを抜けて現れた。

 道化師の衣装はそのままだが、胸元の(JESTER)という文字が不規則に点滅している。

 その後ろでは、ルミナスが給仕服の袖を乱暴にまくっていた。


「困ったどころじゃないよ! さっきまで使用人通路しか通れなかったのに、今度はどの扉も勝手に開くんだ。しかも、僕のことを王子様って呼ぶ人までいた!」


「よかったじゃないか。ついに君の魅力が認められたんだろう」

「詐欺師に言われても嬉しくない!」


 ルミナスが耳を伏せると、ヴェルトは肩をすくめた。

 アリスは二人のやり取りを聞きながら、舞踏館全体に生じている変化を考えた。

 配役は絶対ではない。

 ルシアンが処刑人としての役割を拒み、自分の意思で剣を止めたことで、術式の根幹に亀裂が入ったのだ。

 しかし、完全に崩壊したわけではない。

 むしろ、秩序を失った配役が暴走し始めている。


「ミレイさん」


 アリスは階段の前で立ち尽くす少女へ向き直った。


「この舞踏館を止める方法を、あなたは知っているんですね?」


 ミレイは答えなかった。

 硝子の靴を見つめたまま、震える指でドレスの裾を握りしめている。


「……止める?」


 やがて、彼女は顔を上げた。


「どうして、止めなければならないのですか?」


 アリスは周囲を見渡した。

 役割が変わるたび、戸惑う暇もなく別人のように振る舞わされる人々。

 笑いたくないのに笑い、頭を下げたくないのに膝を折る者たち。


「ここにいる人たちは、自分の人生を選べていません」

「選ぶ必要などありません!」


 ミレイの声が大広間に響いた。

 その瞬間、逆回転していた時計が一斉に止まる。


「選ぶから、間違えるのです。自分にふさわしくないものを望むから、傷つくのです。最初から役割が決まっていれば、誰も迷わずに済むでしょう?」


 アリスは彼女を見つめた。

 ミレイの言葉には、怒りよりも切実な恐怖が滲んでいた。


「……あなたは、迷うことが怖いんですね」


 ミレイの肩が揺れた。


「違います」

「王女でなくなった時、どうすればいいのか分からなくなるのが怖いんじゃありませんか?」

「違うと言っているでしょう!」


 銀色の光が床を走り、アリスの足元へ鋭い硝子片が突き出した。

 ルシアンが即座に大剣を振るい、迫る刃を叩き折る。

 破片が飛び散る中、アリスは一歩も退かなかった。

 ミレイは荒い息をつき、胸元を押さえていた。


「……私は、ただの使用人でした」


 その声は、先ほどまでとは違っていた。

 舞踏館の支配者ではなく、誰にも見てもらえなかった一人の少女の声だった。


「朝から晩まで働いて、床を磨いて、食器を洗って……誰かの靴が汚れれば、私が拭きました。でも、誰も私の名前を呼ばなかった」


 ミレイはゆっくりと顔を上げた。


「ある夜、舞踏会が開かれたのです」


 彼女の背後に、淡い銀色の光景が浮かび上がった。

 古い舞踏館。

 華やかな衣装をまとった貴族たち。

 そして、その隅で床を磨く、灰色の服を着た少女。


「私は、舞踏会を見ているだけで幸せでした。綺麗なドレスを着て、誰かと踊る人たちが羨ましかった。でも、私には関係のない世界だと思っていたんです」


 光景が変わる。

 少女の前に、一足の硝子の靴が現れた。


「その夜、鐘が鳴った時、私の役割が変わりました」


 灰色の服が銀色のドレスへ変わり、少女の足元に硝子の靴が輝く。

 周囲の貴族たちが振り返った。

 誰もが微笑み、彼女へ道を開ける。

 階段の上から、一人の王子が手を差し伸べた。


「初めて、名前を呼ばれました」


 ミレイの瞳が潤んだ。


「初めて、綺麗だと言われました。王子様は私と踊ってくださって、皆が祝福してくれた。あの夜だけは、私が世界で一番幸せな人間だったんです」


 アリスは黙って聞いていた。

 その幸福が偽物だったとは思わない。

 誰かに認められ、名前を呼ばれた喜びは、確かにミレイ自身のものだったはずだ。

 しかし、光景はそこで終わらなかった。


 再び鐘が鳴る。

 銀色のドレスが灰色の服へ戻り、硝子の靴が足元から消えた。

 王子は彼女の前を通り過ぎた。

 声を掛けても振り返らない。

 貴族たちは彼女を押しのけ、床に落ちた食器を拾うよう命じた。


「翌日、誰も私を覚えていませんでした」


 ミレイは唇を噛んだ。


「昨日まで私を愛してくれた人たちが、私を見ようともしなかった。王子様でさえ、私が誰なのか分からなかったんです」


 銀色の光景が消えた。


「だから、私は願いました。もう二度と、あの役割を失いたくないと」


 ミレイの足元で、硝子の靴が強く輝いた。


 ――【MIDNIGHT ROLE 午前零時の配役】


「願いは叶いました。私は王女のままでいられるようになった。この舞踏館では、誰もが与えられた役割に従い、決められた幸福を手に入れることができるのです」


 アリスは静かに首を振った。


「でも、あなた自身は幸せですか?」


 ミレイの表情が凍った。


「……何を」

「あなたは王女でいたいんですか。それとも、王女でなければ愛されないと思っているんですか?」


 ミレイは答えられなかった。

 硝子の靴が、さらに強く軋む。

 細い亀裂が広がり、彼女の足首へ銀色の光が絡みついた。

 ミレイは痛みに顔を歪めたが、靴を脱ごうとはしなかった。


「……脱いでください」


 アリスは彼女の足元を見つめた。


「その靴を」


 ミレイは激しく首を振った。


「できません!」

「どうしてですか?」

「これを脱いだら、私は何者でもなくなってしまう!」


 その叫びに、アリスは胸を締めつけられた。

 自分も、かつて侯爵令嬢という立場を失った。

 罪人として処刑され、名前さえ奪われかけた。

 けれど、その後も自分は生きていた。

 赤森でノエルと出会い、鏡海でネリッサの声を聞き、ルシアンたちとともに歩いてきた。

 失った役割の代わりに、誰かから新しい役割を与えられたわけではない。

 自分で選び続けてきたのだ。


「何者でもなくなるんじゃありません」


 アリスはミレイへ手を差し伸べた。


「そこから、あなたが何者になるかを決められるんです」


 ミレイの銀色の瞳が揺れた。

 差し出された手を見つめ、ゆっくりと指を伸ばす。

 しかし、その指先が触れる寸前、舞踏館の鐘が鳴り響いた。


 午前零時。銀時計の針が、すべて真上を指した。


 ――【MIDNIGHT ROLE 午前零時の配役】

 ――FINAL PERFORMANCE.【最終演目、開幕】


 床が激しく震えた。

 巨大な銀時計が大広間の中央からせり上がり、天井を突き破るように伸びていく。

 歯車が幾重にも噛み合い、壁と床が折り畳まれ、舞踏館そのものが巨大な時計仕掛けの劇場へ変貌していった。


「ミレイさん!」


 アリスが駆け寄ろうとする。

 しかし、銀色の針が床から伸び、ミレイの身体を絡め取った。

 彼女は悲鳴を上げながら宙へ引き上げられる。

 硝子の靴が砕けることなく、逆に足首へ深く食い込んだ。

 銀色の光が全身を包み、ドレスが巨大な硝子の装甲へ変わっていく。

 背後には無数の時計盤が重なり、頭上には王冠を模した歯車が形成された。


 アリスの右目に、赤い警告が浮かぶ。


 ――ROLE SYSTEM COLLAPSE.

 【配役機構、崩壊進行】


 ――FORCED ENDING ACTIVATED.

 【強制結末、起動】


 ミレイの瞳から涙が零れた。


「……嫌……」


 かすれた声が、巨大な時計の内部から響く。


「私は、ただ……愛されたかっただけなのに……!」


 次の瞬間、巨大な硝子の王女が両腕を広げた。

 無数の銀時計が一斉に回転し、舞踏館のすべての扉が閉ざされる。

 アリスは【グラス・ヴェリタス】を構えた。

 その背後で、ルシアンが大剣を抜き、ヴェルトがカードを広げ、ルミナスが双剣【グリン】と【グリム】を握る。

 ハロルドだけが、少し離れた場所から巨大な時計を見上げていた。


「……やはり、こうなるか」


 仮面の奥で、彼が小さく呟く。

 アリスはその声を聞き取れなかった。

 彼女の視線は、時計の中心に囚われたミレイへ向けられていた。


「……必ず、助けます」


 銀色の針が、処刑の刃のように振り下ろされた。


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