第27話 もう一度、私を処刑してください
硝子の靴が床を打つたび、乾いた音が薄暗い通路へ響いた。
銀鏡姫ミレイは配役台帳を胸に抱いたまま、アリスを見つめていた。
さきほどまで浮かべていた優雅な微笑みは消え、薄紫の瞳には、触れてはならないものを暴かれた少女の怒りが宿っている。
「あなたは、王女として愛されたことがないから、そんなことが言えるのです」
アリスは否定しなかった。
侯爵令嬢として生きていた頃、彼女の周囲には多くの人間がいた。
礼儀正しく頭を下げる使用人、機嫌を取ろうとする貴族、婚約や縁談を持ちかける者たち。
しかし、罪人として告発された途端、そのほとんどが彼女から離れていった。
彼らが見ていたのは、アリスという人間だったのか。それとも、ルーヴェルト侯爵家の令嬢という肩書だったのか。
その答えを、彼女はすでに知っている。
「私は、役割によって人の態度が変わることを知っています」
アリスは静かに告げた。
「ですが、それで人間の価値まで変わるとは思いません」
「綺麗事です」
ミレイの声が鋭くなった。
「役割を失った人間が、どんな扱いを受けるか。あなたには分からないでしょう」
「……分かりますよ」
アリスが答えた瞬間、ミレイの硝子の靴が淡く輝いた。
通路の壁に埋め込まれた時計が一斉に動き始める。銀の針が逆回転し、灰色の硝子床へ幾重もの光の輪が広がった。
「でしたら、確かめましょう」
ミレイは台帳を開き、アリスの名前へ指を滑らせた。
「あなたが本当に、役割などなくても自分でいられるのかを」
足元の床が崩れた。
アリスは咄嗟に【グラス・ヴェリタス】を抜いたが、剣を振るうより早く銀の光に包まれた。
身体が宙へ浮き、視界の中で通路の壁が折り畳まれていく。
次に足が床へ触れた時、彼女は見覚えのある場所に立っていた。
王都の裁判所だった。
高い天井、赤い絨毯、貴族たちの冷たい視線。正面には裁判官の席があり、その奥には王家の紋章が掲げられている。
そして、中央には処刑台へ続く階段があった。
アリスの呼吸が止まる。
忘れたことなど、一度もなかった。
自分の言葉が誰にも届かず、罪状だけが読み上げられたあの日。
無実を訴える声を嘲笑で押し潰され、処刑台へ歩かされた時の、足元から冷えていくような恐怖。
それが今、目の前で再現されている。
右目に文字が浮かんだ。
――ROLE REASSIGNMENT.(役割再配置)
――PRINCESS → GUILTY.(王女から罪人)
銀色の舞踏会ドレスが黒い罪人服へ変わり、両手首へ冷たい拘束具が巻きついた。
胸元には赤い文字が刻まれる。
――GUILTY.(罪人)
「アリス!」
ルシアンの声が響いた。
振り返ると、彼もまた銀光に包まれていた。
白銀の儀礼鎧が黒い処刑人の鎧へ変わり、手には見覚えのある大剣が握られている。
かつて彼が失った断罪剣【ギルティ・ブレイカー】
ただし、刀身には硝子のような光が走っていた。
舞踏館が彼の記憶から再現した、処刑人のための模造品なのだ。
ルシアンの胸元に文字が浮かぶ。
――EXECUTIONER.(処刑人)
アリスはその文字を見つめた。
かつて自分を処刑しようとした男。
そして今、自分とともに真実を追う共犯者。
その二つの姿が、目の前で重なった。
「これは……」
ルシアンが剣を下ろそうとした。
しかし、腕が動かない。
銀色の糸が彼の肩から指先へ絡みつき、剣を持つ腕を強引に持ち上げていく。
ミレイの声が、裁判所の天井から降ってきた。
「罪人は裁かれ、処刑人は罪人を斬る。それが、この物語の正しい結末です」
アリスは処刑台を見上げた。
そこには、かつて自分へ下された判決文が掲げられている。
しかし、文字の一部が不自然に滲んでいた。
偽造された第三頁。
自分を罪人へ仕立て上げた、あの判決の綻び。
アリスは唇を噛んだ。
この舞台は過去を再現しているだけではない。
彼女が最も恐れ、最も拒みたい結末を、もう一度成立させようとしている。
「……ミレイさん」
アリスは静かに顔を上げた。
「あなたは、私が罪人の役割を受け入れれば満足なんですか?」
「受け入れる必要はありません。役割は、あなたの意思とは関係なく成立します」
「そうですか」
アリスは一度だけ目を閉じた。
怖くないわけではない。
あの日の恐怖は、今も胸の奥に残っている。
それでも、もう一度同じ場所に立ったからといって、同じ結末を選ぶ理由にはならない。
彼女はルシアンへ向き直った。
「ルシアン」
男の腕が震えている。
剣を下ろそうとする力と、振り上げさせようとする銀の糸が拮抗し、鎧の継ぎ目から血が滲んでいた。
「もう一度、私を処刑してください」
ルシアンの瞳が見開かれた。
「……何を言っている」
「あなたが、本当に私を斬るべきだと思うのなら」
アリスは処刑台の階段へ足を掛けた。
拘束具が鳴り、冷たい鎖が手首へ食い込む。それでも彼女は歩みを止めなかった。
「私は逃げません。ですが、誰かに命令されたからという理由なら、あなたの剣を受け入れるつもりもありません」
ルシアンは歯を食いしばった。
「……本当に面倒な女だ」
「今さらですね」
アリスは小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間、ルシアンの表情が歪んだ。
かつての処刑台でも、彼女は同じように自分を見ていた。
恐怖を隠しきれないまま、それでも無実を訴えることを諦めなかった少女。
あの時、彼は命令に従った。
判決が正しいかどうかを、自分で確かめようともしなかった。
そして今、同じ剣が再び彼女へ向けられている。
「俺は……断罪騎士だった」
ルシアンは低く呟いた。
「命令された罪人を斬り、王国の秩序を守る。それが俺の役割だった」
銀の糸が強く引かれ、剣がさらに持ち上がる。
「だが、俺が何を斬るかまで、他人に決めさせるつもりはない」
彼は左手で剣の柄を押さえ、右腕の動きを止めようとした。
しかし、配役の強制力はそれを許さない。
剣がアリスへ向かって振り下ろされる。
ルシアンは咄嗟に刃の向きを変え、自分の左腕へ押し当てた。
鎧の隙間が裂け、血が飛び散る。
「ルシアン!」
アリスが叫んだ。
彼は痛みに顔を歪めながらも、剣を止めていた。
「……俺は、お前を斬らない」
その言葉と同時に、銀の糸が彼の身体へ深く食い込む。
処刑人の役割が、拒絶を許さないのだ。
アリスは【グラス・ヴェリタス】を握りしめた。
赤い鏡装なら、剣が振り下ろされる未来を読むことができる。
しかし今、必要なのは未来の予測ではない。
彼が何を選ぼうとしているのか、その意思を確かめることだった。
「【蒼鱗装アズール・セイレーン】!」
青い光が罪人服を包んだ。
半透明の蒼い鱗が肩から腰へ広がり、背後には六枚の水鏡が翼のように展開する。
硝子の剣は青い光を帯び、三叉槍を思わせる長い刀身へ変わった。
蒼い水鏡が、ルシアンの周囲へ浮かぶ。
そこに映ったのは、彼の記憶そのものではなかった。
今この瞬間、アリスへ伝えようとしている意思。
声にならない言葉が、水鏡の表面へ浮かび上がる。
――俺は、お前を裁くためにここにいるんじゃない。
アリスは息を呑んだ。
さらに文字が続く。
――お前が自分で答えを出すまで、隣に立つためにいる。
胸の奥が熱くなった。
ルシアンの過去を消せない。
彼が奪った命も、犯した過ちも、なかったことにはならない。
それでも今、彼は自分の意思で剣を止めようとしている。
アリスは左の深紅の瞳に魔力を込めた。
銀色の術式が、処刑台の上へ浮かび上がる。
――EXECUTIONER MUST EXECUTE THE GUILTY.
【処刑人は罪人を処刑しなければならない】
アリスはその文字を見つめた。
処刑人だから斬る。
罪人だから斬られる。
そこには、本人の判断も、真実も存在しない。
しかし、ルシアンは今、役割に逆らっている。
処刑人でありながら、処刑を拒んでいる。
その矛盾が、術式の一部へ亀裂を生んでいた。
「……見つけました」
アリスは剣を構えた。
【インバーテッド】は、あらゆる魔法を無条件に消す力ではない。
相手の法則が成立するための前提を見抜き、その前提を反転させる力だ。
今、この術式が依存しているのは、処刑人が自分の役割を疑わずに受け入れるという条件だった。
だが、ルシアンは拒んだ。自分の意思で。
「処刑人だから斬るのではありません」
アリスは透明な剣を振り上げた。
「斬るかどうかを決めるのは、剣を握っている本人です!」
蒼い光が術式へ突き刺さる。
銀色の文字が震え、ルシアンを縛っていた糸が一本ずつ裂けていく。
しかし、最後の糸だけは残った。
ミレイの声が響く。
「そんなこと、許されません!役割を拒めば、物語が壊れてしまう!」
アリスは剣を握り直した。
「壊れて困る物語なら、最初から誰かを犠牲にしないでください!」
ルシアンが顔を上げた。
彼は血の滲む腕を押さえながら、残った銀の糸へ大剣を向ける。
「……俺の剣だ」
低い声が響く。
「俺が決める」
剣が振り下ろされた。
今度はアリスへではなく、自分を縛る銀の糸へ。
蒼い光と黒い刃が交差し、最後の拘束が砕け散った。
処刑台が激しく揺れる。
裁判所の壁に亀裂が走り、天井から無数の硝子片が降り注いだ。
アリスはルシアンの腕を掴み、崩れゆく舞台から飛び降りる。
次の瞬間、巨大な処刑台が音を立てて崩壊した。
◇
気づけば、二人は再び灰硝子舞踏館の大広間に立っていた。
アリスの衣装は元の銀色のドレスへ戻り、ルシアンの鎧も白銀の儀礼鎧へ変わっている。
ただし、彼の左腕には傷が残っていた。
アリスはすぐに駆け寄り、布を裂いて傷口を押さえた。
「無茶をしすぎです」
「お前に言われたくない」
「私は、自分を斬っていません」
「処刑してくださいと言っただろう」
アリスは返す言葉を失った。
ルシアンは小さく息を吐く。
「……面倒だ」
しかし、その声には先ほどまでの苦しさがなかった。
アリスは傷口を押さえながら、静かに微笑んだ。
「ありがとうございます、ルシアン」
彼は答えず、視線を逸らした。
その向こうで、ミレイが立ち尽くしていた。
銀色の瞳が震えている。
「……どうして」
彼女は呟いた。
「どうして、役割を拒んでも、あなたたちは消えないの……?」
アリスはミレイへ向き直った。
「私を罪人と呼ぶことはできます」
胸元に残っていた(GUILTY)の文字が、淡く明滅している。
「でも、あなたの言葉だけで、私が罪人になるわけではありません」
アリスは一歩踏み出した。
「そして、ルシアンを処刑人と呼んでも、彼が必ず誰かを斬るわけではないんです」
ミレイは後退した。
その足元で、硝子の靴が乾いた音を立てる。
細い亀裂が、踵から爪先へ走った。
ミレイはそれを見下ろし、初めて恐怖に顔を歪めた。




