第25話 午前零時の令嬢
銀色の鐘が鳴り響いた瞬間、アリスの黒い軍装ドレスが光に包まれた。
肩を覆っていた銀縁の装飾が細かな粒子となってほどけ、代わりに繊細な銀糸を織り込んだ白い生地が広がっていく。
腰から流れる長いスカートには幾重もの薄絹が重なり、胸元には王家の紋章を思わせる硝子細工が浮かび上がった。
アリスは思わず足を止めた。
つい先ほどまで海底都市にいたはずなのに、今は豪奢な舞踏館の中央に立っている。
高い天井には無数の銀時計が吊るされ、巨大なシャンデリアから降り注ぐ光が、灰色の硝子床へ幾千もの星を散らしていた。
その床に映る自分の姿は、どう見ても舞踏会に招かれた令嬢だった。
「……随分と趣味の悪い歓迎ですね」
アリスがスカートの裾を持ち上げると、布の内側で淡い銀光が走った。
左目に文字が浮かぶ。
――MIDNIGHT ROLE.
【ミッドナイト・ロール 午前零時の配役】
――ASSIGNED ROLE:PRINCESS.
【配役完了――王女】
アリスは眉を寄せた。
王女という役割を与えられたらしい。
しかし、王女であることを自分で選んだ覚えはない。
「おい、これはどういうことだ」
背後から聞こえたルシアンの声に振り返ると、彼もまた姿を変えていた。
黒銀の鎧は白銀の儀礼鎧へ変わり、肩からは深い青のマントが流れている。
腰にはいつもの大剣が残っていたが、柄には王家の紋章に似た装飾が加わっていた。
胸元には、銀色の文字が浮かんでいる。
――KNIGHT.(騎士)
「似合っていますよ、ルシアン」
「面倒だ」
彼は不機嫌そうに鎧の肩を動かした。
「動きにくい。戦場で着るものじゃない」
「ここは戦場ではなく舞踏館のようですから、仕方ありませんね」
「敵がいるなら戦場だ」
その言葉に、アリスは小さく笑った。
しかし、次に目に入った光景で笑みが止まる。
「ちょっと待って! 僕だけおかしくない!?」
ルミナスが両腕を広げていた。
銀紫色の髪と猫耳はそのままだが、黒紫の大きなセーターは姿を消し、代わりに白いシャツと黒いベスト、細身のズボンを身につけている。
腰には給仕用の布が下がり、胸元には銀色の文字が輝いていた。
――SERVANT.
「使用人……」
アリスが呟くと、ルミナスは耳をぴんと立てた。
「なんでアリスが王女で、ルシアンが騎士で、僕が使用人なのさ! せめて怪盗とか、もっと格好いい役があるでしょ!」
「いやあ、実に似合っているじゃないか。お嬢様への給仕は君に任せるよ」
ヴェルトが愉快そうに笑った。
もっとも、彼自身も普段の燕尾服とは違う、赤と金の派手な衣装を着せられていた。
黒いシルクハットには鈴がつき、肩からは色とりどりの布が垂れている。
胸元の文字は――JESTER.(道化師)
「詐欺師が道化師になっただけでは?」
アリスが指摘すると、ヴェルトは大げさに胸へ手を当てた。
「お嬢様、それはあまりにも残酷な評価だ。俺はもっと洗練された犯罪者でありたいんだけどね」
「犯罪者であることは否定しないんですね」
ルミナスが吹き出した。
その笑い声に、ヴェルトの帽子の鈴が勝手に鳴る。
アリスはそこで、もう一人の姿を探した。
泣き笑い仮面の男は、少し離れた柱のそばに立っていた。
いつもの黒い外套に、半分が笑い、半分が泣いている仮面。
銀の杖【ラストページ】も変わっていない。
胸元にも、配役を示す文字はなかった。
「仮面さんには、役割がないんですか?」
「さあね。舞踏会の主催者が、僕を招待客として認めてくれなかったのかもしれない」
泣き笑い仮面は肩をすくめた。
「それより、足元に気をつけた方がいい。ここでは衣装より、振る舞いの方が厄介だから」
その意味を尋ねる前に、舞踏館の奥から華やかな音楽が流れ始めた。
弦楽器の旋律に合わせ、色とりどりの仮面をつけた男女が大広間へ集まってくる。
豪華なドレスをまとった貴婦人、白銀の鎧を着た騎士、銀盆を持つ使用人。
誰もが完璧な所作で歩き、互いに微笑みを交わしていた。
しかし、アリスには奇妙に見えた。
貴婦人たちの笑顔は、角度まで揃っている。
騎士たちは同じ歩幅で進み、使用人たちは一度も顔を上げない。
まるで、誰もが決められた動作を繰り返しているようだった。
「……人形劇みたいですね」
アリスが呟くと、ルミナスが鼻を鳴らした。
「だったら、僕は勝手に動くよ」
少年は大広間へ向かって歩き出した。
ところが、扉を越えようとした瞬間、その足が止まった。
「……あれ?」
ルミナスが眉を寄せる。
右足を前へ出そうとしても動かない。
代わりに身体がゆっくりと横へ向き、壁際にある小さな扉へ歩き始めた。
「ちょっと、何これ!」
彼は必死に踏ん張った。
しかし足は止まらず、見えない糸に引かれるように使用人用の通路へ進んでいく。
アリスの右目に文字が浮かんだ。
――ROLE RESTRICTION.
――SERVANT MUST USE SERVANT ENTRANCE.
【役割制限:使用人は使用人用通路を通らなければならない】
「ルミナス!」
アリスが駆け寄ろうとすると、今度は自分の身体が勝手に動いた。
背筋が伸び、両手が優雅にスカートの裾を持ち上げる。
足が止まり、上半身がゆっくりと傾いた。
完璧な貴婦人の礼。
アリスは歯を食いしばった。
礼をするつもりなどなかった。
それなのに、身体が勝手に王女らしい振る舞いを選んでいる。
「……なるほど」
アリスは姿勢を戻し、胸元の文字を見つめた。
「役割に従わなければ、身体そのものを動かされるわけですか」
その隣で、ヴェルトが突然くるりと回転した。
「おや?」
本人も驚いたようだった。
しかし次の瞬間、彼は両手を広げ、片足で跳ねながら帽子を投げ上げた。
帽子が空中で三回転し、鈴が派手に鳴る。
周囲の貴族たちが一斉に笑った。
ヴェルトは笑顔を貼りつけたまま、アリスへ視線を向ける。
「お嬢様、助けてくれないかな。俺は今、自分の意思に反して、とても安っぽい芸を披露している」
言い終える前に、彼の身体が再び回転した。
アリスの右目に文字が浮かぶ。
――JESTER MUST ENTERTAIN.
【道化師は人を楽しませなければならない】
ルシアンが剣の柄へ手を掛けた。
しかし、彼の腕も途中で止まる。
――KNIGHT MUST PROTECT PRINCESS.
【騎士は王女を守らなければならない】
アリスのそばから離れることさえ、許されないらしい。
「……つくづく面倒だ」
ルシアンの声には、いつも以上に苛立ちが滲んでいた。
アリスは大広間を見渡した。
誰もが笑っている。
誰もが優雅に振る舞っている。
けれど、その笑顔の下に何があるのか、誰にも分からない。
その時、音楽が止まった。
大広間の奥にある巨大な階段へ、銀色の光が降り注ぐ。
階段の上に、一人の少女が現れた。
灰銀色の長い髪。
薄紫を帯びた銀の瞳。
時計の針を模した装飾が散りばめられた、灰銀のドレス。
そして、足元には透き通った硝子の靴が輝いていた。
少女はゆっくりと階段を降り、アリスたちの前で優雅に一礼した。
「ようこそ、【灰硝子舞踏館】へ」
その声は澄んでいて、どこか冷たかった。
「私は、銀鏡姫ミレイ。この舞踏館を管理する者です」
アリスは彼女を見つめた。
「管理というより、支配しているように見えますが」
ミレイは微笑みを崩さなかった。
「支配ではありません。秩序です」
彼女が指を鳴らすと、大広間の人々が一斉に動きを止めた。
「ここでは誰も、自分の役割を間違えません。王女は王女として愛され、騎士は騎士として忠誠を尽くし、使用人は使用人として仕える。それぞれがふさわしい場所にいるからこそ、争いも混乱も起きないのです」
「その役割を、本人が望んでいなくても?」
アリスが尋ねる。
ミレイは不思議そうに首を傾げた。
「望む必要があるのですか?」
「……え?」
「あなたは王女です。騎士に守られ、王子に選ばれ、幸福になる役。それ以上、何を望むというのです?」
アリスは胸元の文字へ目を落とした。
PRINCESS(王女)
確かに、誰かにとっては憧れの役割かもしれない。
けれど、自分がそれを望んだわけではない。
「私は、自分で選びたいだけです」
ミレイは静かに笑った。
「役割を選ぶ必要などありません。あなたにふさわしいものは、最初から決まっているのですから」
その瞬間、大広間の奥から悲鳴が上がった。
「違います! 私は何もしていません!」
アリスが振り返ると、一人の女性が衛兵たちに連行されていた。
年若い女性だった。
粗末な灰色の衣服を着せられ、両手を鎖で拘束されている。
胸元には赤い文字が浮かんでいた。
――GUILTY.(罪人)
「お願いです! 誰か、助けてください!」
女性は必死に叫んだ。
しかし、周囲の貴族たちは拍手を送るだけだった。
舞踏館の中央に、巨大な処刑台がせり上がる。
銀色の刃が天井から降り、女性の頭上で静止した。
アリスの胸が冷たくなる。
見覚えのある光景だった。
処刑台。
罪人という言葉。
そして、誰も疑おうとしない判決。
「……何の罪ですか?」
アリスはミレイへ尋ねた。
ミレイは穏やかに答える。
「罪は必要ありません」
「必要ない?」
「ええ。彼女は今日、(罪人)に配役されたのです。ですから、罪人として裁かれる。それだけのことです」
アリスは息を呑んだ。
ミレイは続ける。
「ご安心ください。あれは今日の配役ですから」
女性の悲鳴が響く。
銀色の刃が、ゆっくりと動き始めた。
アリスは【グラス・ヴェリタス】の柄へ手を掛けた。
右目に文字が浮かぶ。
――ROLE DEFINES DESTINY.
【役割が、運命を決める】
アリスはその文字を睨みつけた。
罪を犯していない人間が、罪人として処刑される。
その理不尽を、彼女は誰よりも知っていた。
「……その前提、間違ってますよ」
アリスは透明な剣を抜いた。
舞踏館の中央で、銀色の刃が落下を始めた。




