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断罪の国のアリス―Project Glass Eden―  作者: 塚田澄玻
第四章 鏡海回廊
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第24話 願いに値段をつける者

 ネリッサの指先が、青い泡となって崩れ始めていた。

 泡は海底洞窟の天井へ昇り、そこに埋め込まれた無数の貝殻へ吸い込まれていく。

 少女が必死に口を動かすたび、喉元の青い輪が締まり、代わりに身体の輪郭が薄くなった。


 アリスは【グラス・ヴェリタス】を構えたまま、右目に浮かぶ術式を見つめていた。


 ――CONFLICT IS BORN FROM DIFFERENCE.

 【争いは、違いから生まれる】


 それは完全な間違いではない。

 北と南の漁師たちは互いの利益を譲れず、ついには一人の少年を死なせた。

 ネリッサが恐れたものは現実に起きているし、声を失った街が表面上の平穏を保っていることも事実だった。


 だからこそ、その前提を単純に否定するだけでは足りない。

 アリスが剣先を下ろした瞬間、背後から赤いカードが滑り込んできた。

 ヴェルトが帽子の鍔を押さえ、何かを書きつけている。


『一人の拒絶と、百人の平和。どちらが高いと思う?』


 アリスは振り返った。

 ヴェルトはいつもの軽薄な笑みを浮かべようとして、うまくいかなかったらしい。

 カードを持つ指が、わずかに震えていた。

 彼もまた【SILENT ABYSS サイレント・アビス】によって、自分の判断を失いかけている。

 それでも彼は二枚目のカードを取り出し、ゆっくりと文字を書いた。


『俺なら、値段をつけない』


 アリスが目を見開くと、ヴェルトは肩をすくめた。


『値段をつけられないものを、同じ秤に載せた時点で詐欺なんだよ』


 かつて他人の欲望を利用し、あらゆるものへ勝手な値札を貼っていた男の言葉だった。

 彼は最後の一枚へ、さらに書き加える。


『「嫌だ」と言えない相手とは、取引さえ成立しない』


 アリスは小さく頷いた。

 値段を決めることと、価値を決めつけることは違う。

 誰かの幸福を守るために、別の誰かの意思を無価値として扱う。

 その瞬間、守ろうとした平和は、誰かの犠牲を見えなくするための仕組みに変わってしまう。


 アリスはカードを受け取り、胸元へ当てた。

 赤い鏡印が、かすかに熱を帯びる。

 その時、洞窟全体が大きく震えた。

 ネリッサの身体から溢れた泡が、天井の貝殻を次々と砕いていく。

 閉じ込められていた青い光が奔流となり、海底都市へ向かって噴き出した。


 ――SILENT ABYSS.【サイレント・アビス】

 ――FINAL PHASE.【ファイナル・フェイズ】


 ――TOTAL HARMONY.

 【トータル・ハーモニー 完全調和】


 アリスの右目に文字が走る。

 洞窟の壁が透け、その向こうにある街の姿が映し出された。

 市場の店主も、橋の上の恋人たちも、広場で遊んでいた子供たちも、全員が動きを止めている。

 声を奪われるだけでは済まない。

 何かを望むことそのものが、街から消えようとしていた。


 ルシアンが大剣を抜き、洞窟の出口へ向かった。

 ヴェルトはカードを構え、ルミナスは双剣を逆手に握る。

 しかし、その前にネリッサがトライデントを振り上げた。

 少女自身の意思とは無関係に、槍の穂先から巨大な水流が噴き出す。

 洞窟の天井が砕け、海底都市へ続く水の道が開いた。

 アリスたちは奔流に押し流され、青い塔の前にある広場へ放り出された。


 そこでは、都市全体の海水が巨大な渦を形成していた。

 透明な回廊が軋み、硝子の尖塔が折れ曲がる。

 無数の魚が光の帯となって逃げ惑う中、ネリッサの身体が渦の中心へ浮かび上がった。


 青い髪が広がり、半透明の鱗が次々と剥がれて泡へ変わる。

 その背後には、街を覆うほど巨大な人魚の影が現れていた。

 ネリッサの姿を模した、水と硝子の巨像だった。


 アリスは息を呑んだ。

 このままでは、ネリッサ自身も街も消える。

 止めなければならない。

 しかし、剣を振るだけでは何も解決しない。


 アリスは【グラス・ヴェリタス】を握りしめた。

 赤森で手に入れた鏡印が、確かな熱を返してくる。

 恐怖は、未来を決める判決ではない。

 危険を知り、守るための警告だ。

 その答えを、今度はこの海で使う。


 アリスは【グラス・ヴェリタス】を掲げた。

 声は出ない。

 それでも、刀身の鏡印へ意思を向けることはできた。

 赤い結晶が肩から腕へ走り、黒い軍装ドレスの上へ深紅の装甲が展開する。

 腰の結晶板が水中で花弁のように開き、背後には巨大な弓状の光輪が浮かび上がった。


 【紅狩装ルージュ・ハント】。


 青い海底都市を背景に、赤い鏡装が鮮烈な光を放つ。

 アリスは光弦を引いた。

 三秒後の未来が見える。

 巨像の三叉槍が振り下ろされ、広場を横断する水の刃がルシアンたちを呑み込む。

 アリスは迷わず矢を放った。

 赤い光の矢が水の刃へ突き刺さり、未来の軌道を赤く描き出す。


 ルシアンはその線を見て身を沈め、ルミナスは【バニシング・グリン】で巨像の背後へ回り込んだ。


 ヴェルトがカードを投げる。

 『PRESSURE――VALUE 0』【水圧――価値ゼロ】


 巨像の水圧が一瞬だけ弱まり、ルシアンの大剣が三叉槍の柄へ食い込んだ。

 しかし巨像はその価値の変更を拒むように水流を膨張させ、カードを砕いた。

 ヴェルトが舌打ちするように口を動かす。

 アリスは二射目を放ち、巨像の腕へ赤い光の線を走らせた。

 その未来を追って、ルミナスが双剣を交差させる。

 硝子の腕が砕け、青い破片が海中へ散った。

 巨像が大きく仰け反る。

 だが、次の瞬間には周囲の水を吸収し、失った腕を再生させていた。


 アリスは左目を細めた。

 この巨像はネリッサの意思で動いていない。

 【SILENT ABYSS サイレント・アビス】が、自分の前提を守るために生み出した防衛機構だ。

 ならば、狙うべきはネリッサではない。

 その奥にある法則そのものだ。


 アリスは広場の石畳へ【グラス・ヴェリタス】を突き立てた。

 赤い光が地面を走り、青い魔法陣の一部を浮かび上がらせる。


 ――CONFLICT IS BORN FROM DIFFERENCE.

 アリスは剣先で文字を刻んだ。


『違うから争う。それは事実です』


 ネリッサの瞳が、わずかに動いた。

 アリスは続ける。


『でも、違うから話す。違うから選ぶ。違うから、一人ではできないことを一緒にする』


 ルシアンが大剣を構え直した。

 ヴェルトが新しいカードを取り出す。

 ルミナスは巨像の肩へ着地し、アリスへ向かって片手を振った。


 全員、考え方も生き方も違う。

 ルシアンは命令に従うことを疑い始めた騎士で、ヴェルトは他人を騙して生きてきた詐欺師だ。

 ルミナスは誰にも見つけられないことを恐れる少年であり、アリス自身もまた、誰かに決められた罪を拒んでここまで来た。

 意見が一致したことなど、ほとんどない。

 それでも彼らは、互いにできないことを補い合ってきた。

 アリスは最後の文字を刻んだ。


『違うことは、争う理由にしかならないんですか?』


 青い魔法陣が震えた。

 ネリッサが口を開く。

 声は出ない。

 それでも、その表情には明らかな拒絶があった。

 アリスは【グラス・ヴェリタス】を引き抜き、術式の中心へ刃先を向けた。


 左の深紅の瞳に浮かぶ文字が、反転を始める。


 ――CONFLICT IS BORN FROM DIFFERENCE.

 【争いは、違いから生まれる】


 その下へ、新しい文章が現れた。


 ――COOPERATION IS ALSO BORN FROM DIFFERENCE.

 【協力もまた、違いから生まれる】


 アリスは剣を振り抜いた。

 透明な刀身が青い魔法陣へ食い込み、赤い光が巨大な亀裂となって海底都市を駆け抜ける。

 巨像がトライデントを振り下ろす。

 ルシアンが大剣で受け止め、ヴェルトが衝撃の価値を一瞬だけ下げる。

 ルミナスはその隙間へ飛び込み、双剣で巨像の胸を切り開いた。


 アリスは赤い光弦を引き絞った。

 狙うのは、巨像の奥にある青い核。

 そこには、ネリッサが最後まで手放せなかった願いが閉じ込められている。

 争いを止めたい。

 誰も傷ついてほしくない。

 カイを失ったあの日へ戻りたい。

 その願いを、アリスは否定しなかった。

 赤い矢が放たれる。

 青い核へ突き刺さった瞬間、鏡装の光が術式の奥へ流れ込み、ネリッサを縛る青い輪が砕け散った。


「違う!」


 海底都市に、少女の声が響いた。

 ネリッサ自身の声だった。

 彼女は涙を浮かべ、アリスを見つめている。


「私は……違うって言いたかった。カイにも、みんなにも、本当は……!」


 言葉が続かない。

 けれど、その声はもう奪われなかった。

 青い魔法陣が崩れ、巨像の身体が無数の光の泡へ変わっていく。


 街の人々が一斉に息を吸った。

 市場の店主が驚きの声を上げ、橋の上の恋人たちが互いの名前を呼ぶ。

 広場の端では、ミアが小さく泣いていた。

 アリスは鏡装を解き、ネリッサへ歩み寄った。

 声が戻っている。


「ネリッサさん。あなたが守りたかったものまで、間違いだったわけではありません」


 ネリッサは俯いた。


「でも、私は……みんなの声を奪った」

「ええ。それは間違っていました」


 アリスは曖昧に慰めなかった。


「だから、これから返していくんです。あなたが奪ったものを、あなた自身の手で」


 ネリッサは震える唇を噛んだ。


「……できるかな」

「少なくとも、今のあなたには『できない』と言う権利があります」


 ネリッサは泣きながら笑った。

 その時、首元の貝殻が淡く輝いた。

 アリスの右目に、新しい文字が浮かぶ。


 ――INTENT UNDELIVERED.【届かなかった想い】

 ――MESSAGE RECOVERABLE.【伝言復元可能】


 貝殻から、少年の声が聞こえた。


『怖かった』


 ネリッサが顔を上げる。


『逃げたかった。でも、ネリッサと一緒にいたかった』


 カイの声だった。

 彼が最後まで伝えようとした、届かなかった想い。


『君が嫌だって言っても、僕は嫌じゃなかった。ちゃんと君の言葉だったから』


 ネリッサの瞳から涙が溢れた。


「カイ……」


『ごめん。……僕も怖かったんだ』


 貝殻の光が静かに消えていく。

 ネリッサはそれを両手で包み、声を上げて泣いた。

 今度は誰も、彼女を黙らせなかった。


  ◇


 青い光がアリスの周囲へ集まり始めた。

 ネリッサが涙を拭い、トライデントを差し出す。


「あなたに、渡したいものがあるの」


 槍の穂先が砕け、蒼い結晶となって【グラス・ヴェリタス】へ流れ込んだ。

 透明な刀身が青く輝く。

 黒い軍装ドレスの上へ、半透明の蒼い鱗状結晶が肩から腰、脚へと展開した。

 背後には六枚の水鏡が翼のように広がり、長く伸びた刀身は剣と三叉槍を合わせたような形へ変化する。


 ――MIRROR ARMS.【鏡装ミラー・アームズ】

 ――AZURE SIREN.【蒼鱗装アズール・セイレーン】


 新しい鏡装が完成した。

 アリスが剣を軽く振ると、六枚の水鏡が周囲へ広がり、遠くの住民たちの声を拾い上げた。

 ただし、聞こえるのは彼らが誰かへ伝えようとしている言葉だけだった。

 心の奥に隠した秘密までは届かない。

 ネリッサが微笑む。


「その力は、届かなかった意思を届けるためのもの。私がずっと、間違えて使っていた力よ」


 アリスは蒼い剣を見つめた。

 恐怖を警告へ変える赤い鏡装。

 沈黙を伝達へ変える青い鏡装。

 どちらも、鏡姫《きょうき》たちが自分の過ちと向き合った証だった。


 刀身に、新たな熱が生まれる。

 赤い《第一鏡印・恐怖》の隣へ、蒼い光が刻まれていく。


 ――SECOND MIRROR MARK.

 ――DESIRE.

 【第二鏡印・欲望】


「……欲望?」


 アリスが呟くと、背後で泣き笑い仮面が銀の杖を回した。


「声は出口にすぎないんだよ。その奥にあるのは、こうしたい、嫌だ、帰りたい、生きたいという願いだからね」


 アリスはミアを見た。

 少女は涙を拭いながら、ネリッサへ何かを訴えている。


「わたし、帰りたい場所があるの。でも、どこだったか分からないの」


 ネリッサは膝をつき、少女と目線を合わせた。


「一緒に探しましょう」

「……ほんと?」

「ええ。でも、私と一緒に行くのが嫌なら、そう言っていいのよ」


 ミアはしばらく考え、首を横に振った。


「嫌じゃない。でも、勝手に決められるのは嫌」


 ネリッサは一瞬だけ驚いた顔をした。

 そして、静かに頷いた。


「……そうね。ごめんなさい」


 アリスはそのやり取りを見つめながら、二つの鏡印へ触れた。

 欲望が違うから争う。

 だから、すべての欲望を消せば平和になる。

 その理屈は分かる。

 けれど、何も望めない世界で生きることを、幸福とは呼びたくなかった。


  ◇


 鏡海回廊の出口は、青い塔の最上階に現れた。

 ネリッサはアリスたちをそこまで見送った。


「アリス」


 呼び止められ、アリスが振り返る。


「私は、あなたと違う」

「ええ」

「……それで、いいんだよね?」


 アリスは微笑んだ。


「少なくとも、私はその方が面白いと思います」


 ネリッサも笑った。

 ルミナスが横から顔を出す。


「僕はアリスと結構似てるよ」

「どこがです?」

「顔がいいところ」

「先へ行きますよ」

「否定しないんだ!?」


 ヴェルトが声を上げて笑い、ルシアンはいつものように「面倒だ」と呟いた。

 その後ろで、泣き笑い仮面だけがアリスのレイピアを見つめていた。

 赤と青。二つの鏡印。


「……順調すぎるな」


 誰にも聞こえない声で呟く。

 アリスたちは青い鏡をくぐった。


 次の瞬間、目の前に巨大な舞踏館が現れる。

 銀色の時計が壁一面を覆い、長い針が十一時五十九分を指していた。


 アリスの軍装ドレスへ、突然文字が浮かぶ。

 ――PRINCESS.(王女)


 ルシアンの鎧には、

 ――KNIGHT.(騎士)


 ヴェルトの燕尾服には、

 ――JESTER.(道化師)


 そしてルミナスの胸元には、

 ――SERVANT.(使用人)


「……僕だけ扱い悪くない?」


 ルミナスが不満そうに眉を寄せた。

 その時、時計の針が午前零時を指した。

 舞踏館の奥で、銀色の鐘が鳴り響いた。


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