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断罪の国のアリス―Project Glass Eden―  作者: 塚田澄玻
第四章 鏡海回廊
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第23話 泡になる願い

 硝子片に映った少年の名前を、アリスは何度も確かめた。

 カイ。

 その二文字を指先でなぞるたび、青い光が水面のように揺れる。

 硝子片の内部には、夕暮れの港と、幼いネリッサの手を握る少年の姿が残っていた。

 アリスは硝子片を机へ置き、紙に文字を書いた。


『この記憶を、どこで拾ったんですか?』


 ミアは少し考え、窓の外に見える青い塔を指差した。


『塔の下。古い貝がいっぱいあるところ』


 ルシアンが壁に掛けられた街の地図へ目を向ける。

 塔の地下には、海底都市の建設以前から存在する洞窟が描かれていた。

 アリスはその場所へ指を置いた。

 ネリッサが身につけている貝殻のペンダントと、カイの記憶を宿した硝子片。

 両者が繋がっているなら、洞窟には彼女が沈めた過去が残されているかもしれない。


 ただし、問題があった。

 【SILENT ABYSS サイレント・アビス】は今もアリスたちの意思を蝕んでいる。

 ミアの家に避難してから、すでに何度も目的を見失いかけた。

 アリスは紙へ書き加えた。


『忘れないように、目的を記録しておきましょう』


 ヴェルトがすぐに頷き、カードを四枚取り出した。

 それぞれに名前と目的を書く。


 アリスには『真実を確かめる』。

 ルシアンには『アリスを守る』。

 ルミナスには『仲間を見失わない』。

 ヴェルト自身には『仲間を売らない』。


 最後の一枚を見たルミナスが、わざとらしく肩を震わせた。

 ヴェルトは彼の額へカードを押しつける。

 声のない喧嘩を眺めながら、アリスは小さく微笑んだ。

 自分が何を望んでいるか分からなくなっても、書かれた言葉を見れば思い出せる。

 少なくとも、今はまだ。


  ◇


 塔の地下へ続く洞窟は、街の喧騒から切り離されたように静まり返っていた。

 壁には無数の貝殻が埋め込まれ、内部から淡い青色の光を放っている。

 貝殻の一つ一つに誰かの声が閉じ込められているようで、アリスは不思議な息苦しさを覚えた。


 洞窟の最奥には、巨大な真珠が浮かんでいた。

 表面には無数の亀裂が走り、その奥で人影が揺れている。

 アリスが近づくと、右目に文字が現れた。


 ――MEMORY ARCHIVE.(記憶の保管庫)

 ――UNSPOKEN WORDS.(語られなかった言葉)

 ――SEALED DESIRE.(封じられた願い)


 アリスは【グラス・ヴェリタス】を抜き、真珠へ刃先を近づけた。

 その瞬間、背後から声がした。


「触らないで」


 振り返ると、ネリッサが洞窟の入口に立っていた。

 青い髪が水流に揺れ、トライデントの穂先が静かに輝いている。


「そこには、もう必要のないものしかないの」


 アリスは口を開いた。

 しかし声は出ない。

 代わりに、硝子片を掲げる。

 カイの姿が浮かんだ。

 ネリッサの表情が凍りつく。


「……どうして、それを」


 アリスは紙を取り出し、文字を書いた。


『彼は、あなたに何を伝えようとしていたんですか?』


 ネリッサは答えなかった。

 その視線は硝子片の少年へ釘づけになっている。


「カイは……」


 声が震えた。


「私の幼馴染だった」


 彼女が貝殻のペンダントへ触れると、巨大な真珠が強く輝き始めた。


  ◇


 青い海が消え、夕暮れの港が現れた。

 アリスたちは記憶の中へ引き込まれていた。


 そこには二つの漁師町があった。

 北の町と南の町。

 どちらも同じ海で暮らし、同じ魚を獲っていた。

 しかし漁場を巡る争いは長く続き、互いの船を壊し、網を切り、時には人を殴ることさえあった。


 幼いネリッサは港の中央で歌っていた。

 透き通った歌声が夕暮れの海へ広がると、怒鳴り合っていた漁師たちが一人、また一人と口を閉じる。

 誰もが彼女の歌へ耳を傾けた。

 歌が終わると、少年が駆け寄ってきた。


『すごいな、ネリッサ。さっきまで喧嘩してたのに』

『みんな、ちゃんと聞けば分かり合えるんだよ』


 ネリッサは嬉しそうに笑った。

 少年――カイは少し困った顔をしたが、それでも彼女の手を握った。


『そうだといいな』


 しかし、歌が終わってしばらくすると、漁師たちは再び言い争いを始めた。

 北の漁師が南の船を責め、南の漁師が北の網を引き裂く。

 ネリッサは何度も歌った。

 そのたびに争いは止まったが、歌が終われば同じことが繰り返された。


 やがて、彼女の歌には魔力が宿るようになった。

 人々は歌を聞くと、意思に反して口を閉じる。

 それでもネリッサは、争いが止まるなら正しいことだと信じていた。


 記憶の景色が変わる。

 夜の港では、北と南の漁師たちが刃物を手に向かい合っていた。

 誰かが石を投げた。

 別の誰かが殴り返す。

 ネリッサは両者の間へ飛び出し、必死に歌い始めた。

 青い光が広がり、漁師たちの口が閉じる。

 だが、沈黙は憎しみを消さなかった。

 声を奪われた男が、無言のまま相手へ刃を振り下ろした。

 血が飛び散る。

 悲鳴さえ聞こえない。

 ネリッサは呆然と立ち尽くした。


『ネリッサ!』


 カイが彼女の腕を掴んだ。


『もう無理だ。ここから逃げよう!』

『嫌! 私なら止められる!』

『止まってないだろ!』

『まだ力が足りないだけ!』


 ネリッサは泣きながら首を振った。


『みんなが黙れば、きっと分かり合える。もう少しで――』

『違う!』


 カイの声が強くなった。


『黙ってるだけじゃ、分かり合ったことにならない!』


 ネリッサはその言葉に傷ついた。

 自分の歌を、ずっと褒めてくれていた少年だった。

 誰よりも信じてほしかった相手に否定されたことが、何より苦しかった。


『だったら、カイは逃げればいいでしょ!』


 言った瞬間、カイの顔が歪んだ。

 ネリッサはすぐに謝ろうとした。

 しかし、その前に背後で男たちが揉み合い、一人の手から刃物が弾かれた。

 刃が水面を滑るように飛ぶ。

 カイはネリッサを突き飛ばした。

 鈍い音がした。

 少年の身体が崩れ落ちる。


『……カイ?』


 ネリッサは膝をついた。

 カイの胸から血が溢れていた。


『嘘……』


 両手で傷口を押さえる。

 しかし血は止まらない。


『嫌だよ。死なないで。お願い、聞いて……』


 カイは苦しそうに息を吸った。

 そして、かすかな声で言った。


『……ごめん』


 それが最後だった。

 ネリッサの悲鳴が港へ響いた。

 次の瞬間、彼女の魔力が暴走した。

 青い光が港全体を呑み込み、人々の声が一斉に消える。

 怒鳴り声も、泣き声も、命乞いも。

 すべてが沈黙へ沈んだ。

 記憶が砕けた。


  ◇


 アリスたちは洞窟へ戻っていた。

 ネリッサはトライデントを握りしめ、俯いている。


「声があるから、人は傷つける」


 その声は震えていた。


「違うことを言うから、争う。拒絶するから、誰かが悲しむ」


 彼女は貝殻を握りしめた。


「だったら、最初から何も言わなければいい。誰も違うことを望まなければ、誰も傷つかない」


 アリスは静かに首を振った。

 紙へ文字を書く。


『あなたが一番後悔しているのは、カイに酷いことを言ったことではありません』


 ネリッサの顔が上がった。


「何が分かるの!」


 青い水流が洞窟を震わせる。

 アリスは退かなかった。


『カイが最後に何を伝えようとしていたのか、聞けなかったことです』


 ネリッサの瞳が揺れる。


「違う……」


 アリスは硝子片を掲げた。

 少年の姿が浮かぶ。

 その唇が動く。

 しかし、声は聞こえない。

 アリスの右目には、硝子片と貝殻を繋ぐ細い術式が見えていた。


 ――MESSAGE INCOMPLETE.

 ――INTENT UNDELIVERED.

 【不完全なメッセージ】【届かなかった想い】


 ネリッサが封じたのは、他人の声だけではない。

 自分が最後まで聞けなかった言葉への恐怖だった。


「やめて……」


 ネリッサの身体から青い泡が零れ始めた。

 最初は指先だった。

 半透明の鱗が剥がれ、光の泡となって浮かび上がる。


「……何?」


 ネリッサが自分の手を見る。

 指先が透けている。


 【SILENT ABYSS サイレント・アビス】の魔法陣が洞窟全体へ広がった。


 ――DESIRE SUPPRESSION.

 【欲望抑制】


 ――SELF ERASURE.

 【自己存在消去】


 アリスの背筋が冷たくなる。

 欲望を消し続けた結果、ネリッサ自身の存在まで消え始めている。

 何も望まない者は、何も選ばない。

 何も選ばなければ、その者自身の意思は世界へ残らない。

 ネリッサが口を開いた。


「嫌……」


 声が消えた。

 青い輪が彼女の喉元へ浮かぶ。

 自分で作った沈黙の法則が、ついに彼女自身へ向けられたのだ。


 ネリッサは必死に何かを言おうとする。

 カイの名前だろうか。

 それとも、消えたくないという願いだろうか。

 どちらにしても、声にはならない。


 身体から泡が零れ続ける。

 アリスは【グラス・ヴェリタス】を握り直した。

 ネリッサを倒せば、この街の沈黙は終わるかもしれない。

 だが、それでは彼女の願いまで消えてしまう。


 アリスは右目に魔力を込め、術式の最深部へ視線を向けた。

 青い文字が幾重にも重なり、一つの文章へ収束していく。


 ――CONFLICT IS BORN FROM DIFFERENCE.

 【争いは、違いから生まれる】


 アリスは息を呑んだ。

 これが【SILENT ABYSS サイレント・アビス】の前提。

 違うから争う。

 だから違いを消す。

 その結果、声も意思も願いも、すべて海の底へ沈められている。


 アリスは透明な剣を構えた。

 まだ声は戻らない。

 けれど、今度は何を守りたいのか分かっていた。


 ネリッサの身体が、さらに泡へ変わる。

 青い海の奥で、少女の願いが消えようとしていた。

 アリスは一歩踏み出した。

 違いが争いを生むことは、否定できない。

 けれど、違うからこそ生まれるものもあるはずだ。

 その答えを、今度こそ自分の意思で選ぶために。


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