第22話 帰りたい場所
自分が何を望んでいたのか、思い出せない。
その事実に気づいた瞬間、アリスは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
目の前には青鏡姫ネリッサがいる。
透明なトライデントを手にした少女は、海底都市を包む静寂の中で、穏やかな微笑みを浮かべていた。
戦わなければならない。
そう考えることはできる。
しかし、なぜ戦うのかと自分に問いかけると、答えが霧の向こうへ遠ざかってしまう。
アリスは【グラス・ヴェリタス】を握り直そうとした。
指に力が入らない。
剣が手から滑り落ちかけたところを、ルシアンが支えた。
彼も声を失っている。けれど、その表情には明らかな焦りがあった。
ネリッサが二人を見つめる。
「もう抵抗しなくていいの。ここでは誰も、あなたたちに何かを強制しないわ」
アリスは反論しようとしたが、唇が動くだけだった。
強制しないと言いながら、拒絶することを許さない。
その矛盾を指摘したかったはずなのに、何が矛盾しているのかさえ曖昧になり始めていた。
ネリッサがトライデントを下ろす。
「休みなさい。静かにしていれば、苦しいことも忘れられるから」
青い光が二人の足元へ広がった。
その瞬間、ルシアンが動いた。
アリスの身体を抱え上げると、海底都市の路地へ向かって走り出す。
ネリッサは追わなかった。
ただ、遠ざかる二人を見送りながら、首元の貝殻へ指を添えていた。
◇
ミアが案内してくれたのは、市場から離れた場所にある小さな硝子造りの家だった。
窓の外には青い海藻が揺れ、天井から吊るされた貝殻の灯りが室内を淡く照らしている。
ルシアンはアリスを椅子へ座らせると、扉の前に立って外の様子を確かめた。
ヴェルトとルミナスも無事に合流していた。
もっとも、二人とも声は戻っていない。
ルミナスがヴェルトの帽子を奪い、頭へ載せる。
ヴェルトは抗議するように両手を振り回したが、少年は口だけで笑いながら帽子を返さなかった。
やがてヴェルトはカードを取り出し、大きな文字を書きつけた。
『返せ!』
ルミナスはその下へ別の文字を書き加える。
『やだ』
ヴェルトがカードをひったくり、さらに書き込んだ。
『俺の帽子だ!』
ルミナスはしばらく考えたあと、カードの裏へ『知ってる』と書いた。
アリスは思わず笑いそうになった。
しかし、笑う理由を考えた途端、その感情が薄れていく。
面白いと思った。
確かに、そう感じたはずだ。
けれど、何が面白かったのかを思い返そうとすると、うまく言葉にならない。
アリスは自分の手を見つめた。
指先が小さく震えている。
ミアが心配そうに近づき、貝殻の文字盤を差し出した。
『だいじょうぶ?』
アリスは首を横に振りかけて、動きを止めた。
大丈夫ではない。
そう伝えたいのに、否定する意思が喉元の青い輪へ吸い込まれていく。
代わりに、アリスは文字盤へ指を滑らせた。
『少し、休ませてください』
ミアは頷き、温かい飲み物を用意してくれた。
貝殻の器から立ち上る湯気は、海水の中なのに消えず、淡い光を帯びながら天井へ昇っていく。
アリスは器を両手で包んだ。
温かい。
その感覚だけは、まだ確かだった。
◇
しばらくして、ルシアンが紙と筆記具を持ってきた。
アリスの前へ置き、自分の剣を指差す。
それから彼女のレイピアに刻まれた【第一鏡印・恐怖】へ視線を向けた。
何かを確認したいらしい。
アリスは紙へ書いた。
『鏡印は残っています。でも、鏡装を呼び出そうとすると、何のために使うのか分からなくなります』
ルシアンは眉を寄せ、紙を受け取った。
『ネリッサの魔法は、声だけを奪うものじゃない』
アリスは頷く。
声が出ないだけなら、筆談すればいい。
だが、何を書こうとしていたのか分からなくなれば、筆談さえ意味を失う。
ヴェルトが横から紙を覗き込み、別の一枚へ書いた。
『俺はカードに値段をつけられなくなった』
続いてルミナスが書き加える。
『僕は消えられなくなった。消えたいと思っても、その理由が分からない』
アリスは二人の文字を見つめた。
能力そのものが消えたわけではない。
能力を使うための意思が、奪われている。
ネリッサは人々を黙らせているのではない。
何かを望み、選び、拒絶する心を沈めているのだ。
その時、ミアが小さな木箱を抱えて戻ってきた。
中には古い貝殻や硝子片が詰められている。
少女は一つの硝子片を取り出し、アリスへ見せた。
青い光が内部で揺れていた。
『これ、ひろったの』
「……?」
アリスが首を傾げると、ミアは貝殻の文字盤へ指を滑らせた。
『帰りたい場所があるの』
その文字を見た瞬間、アリスの胸がわずかに痛んだ。
帰りたい場所。
自分にも、あったはずだ。
侯爵邸の長い廊下。
朝になると庭師が手入れする白い薔薇。
書斎の窓辺で本を読む父の横顔。
いつもの食卓。
何も知らずに過ごしていた日々。
アリスはそれらを思い出し、懐かしさに胸を締めつけられた。
けれど同時に、処刑台の冷たい石の感触が蘇る。
自分の罪を告げる判決文。
差し替えられた三頁目。
そして、剣を振り下ろすはずだったルシアンの姿。
あの世界へ帰りたい。
そう思う。
だが、帰れたとして、すべてを忘れて以前の生活へ戻れるだろうか。
アリスは紙を引き寄せた。
最初に書こうとしたのは、『家へ帰りたい』という言葉だった。
しかし、筆先が止まる。
帰りたい。
確かにそうだ。
けれど、それだけではない。
アリスはゆっくりと文字を書き直した。
『私は、帰りたいのではありません』
ルシアンが顔を上げる。
アリスは続けた。
『帰って、続きをしたいんです』
書いた瞬間、胸の奥で何かが動いた。
冤罪を晴らしたい。
父に会いたい。
判決文の三頁目に何が書かれていたのか、確かめたい。
自分を処刑台へ送った者が誰なのか、知りたい。
そして、誰かに決められた罪人としてではなく、自分自身の人生を生きたい。
その一つ一つが、沈みかけていた心を水面へ引き上げていく。
アリスはさらに書いた。
『私は、まだ終わっていません』
文字を書き終えた時、【第一鏡印・恐怖】が鼓動するように小さく熱を帯びた。
青い輪が一瞬だけ揺らぐ。
アリスは驚いて顔を上げた。
ルシアンも気づいたらしい。
彼は紙を見つめ、しばらく考えてから筆を取った。
『俺もだ』
それだけだった。
けれどアリスには、十分だった。
ルシアンにも帰る場所がある。
王国。
断罪騎士として過ごしてきた場所。
百人以上の命を奪った過去。
そこへ戻り、向き合わなければならないものがあるのだろう。
アリスは紙の余白へ書き加えた。
『では、帰るまでは共犯ですね』
ルシアンは小さく息を吐き、筆を動かした。
『面倒だ』
アリスは声を出さずに笑った。
今度は、その理由が分かった。
◇
ミアが再び文字盤を差し出した。
『わたしも、帰りたい』
アリスは少女を見る。
ミアは窓の外を指差した。
海底都市の向こうには、巨大な青い塔が見える。
そのさらに奥、暗い海の底へ続く道があった。
『前は、あそこにいたの』
ミアは指で文字を続ける。
『でも、どこだったか、わすれちゃった』
アリスは胸が痛んだ。
帰りたいという願いだけが残り、帰る場所の記憶が失われている。
ネリッサの魔法は、願いを消すだけではない。
願いに結びついた記憶まで、少しずつ沈めているのかもしれない。
「……」
アリスは何かを書こうとした。
しかし、その前にミアが硝子片を差し出した。
内部の青い光が強くなり、小さな映像が浮かぶ。
海辺の町。
夕暮れの港。
漁船が並ぶ桟橋。
そこに、二人の子供が立っていた。
一人は青い髪の少女。
もう一人は、黒髪の少年。
少年は少女の手を握り、何かを必死に訴えている。
音は聞こえない。
しかし、唇の動きだけははっきりと見えた。
――ネリッサ、一緒に逃げよう。
アリスは息を呑んだ。
青い髪の少女は、今より幼いネリッサだった。
少年の表情には、恐怖と焦りが浮かんでいる。
それでも彼は少女の手を離さなかった。
映像が揺らぐ。
少年がもう一度口を動かした。
――カイ。
その名前が、硝子片の表面へ浮かび上がる。
アリスは文字を指でなぞった。
カイ。
ネリッサの過去にいた少年。
そして、彼女が今も首から下げている貝殻のペンダント。
あの二つが無関係とは思えなかった。
アリスはルシアンへ硝子片を見せた。
彼は映像を確かめると、静かに頷いた。
ヴェルトも覗き込み、何かを書こうとして手を止める。
ルミナスは珍しくふざけず、青い光を見つめていた。
アリスは紙へ新しい文字を書いた。
『ネリッサは、何を失ったのでしょう』
誰も答えられなかった。
けれど、今度はその沈黙が恐ろしくなかった。
答えが分からないなら、探せばいい。
まだ知らないことがあるなら、確かめればいい。
それが自分の選びたい道だと、アリスは思い出し始めていた。
窓の外では、青い海が静かに揺れている。
遠くの塔の頂上で、ネリッサが一人、貝殻のペンダントを握りしめていた。
その唇が小さく動く。
「……カイ」
海底都市の誰にも届かない声だった。
そして彼女自身もまた、その名前を呼んだ理由を、忘れようとしていた。




