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断罪の国のアリス―Project Glass Eden―  作者: 塚田澄玻
第四章 鏡海回廊
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第22話 帰りたい場所

 自分が何を望んでいたのか、思い出せない。


 その事実に気づいた瞬間、アリスは胸の奥が冷たくなるのを感じた。

 目の前には青鏡姫《あおきょうき》ネリッサがいる。

 透明なトライデントを手にした少女は、海底都市を包む静寂の中で、穏やかな微笑みを浮かべていた。


 戦わなければならない。

 そう考えることはできる。

 しかし、なぜ戦うのかと自分に問いかけると、答えが霧の向こうへ遠ざかってしまう。

 アリスは【グラス・ヴェリタス】を握り直そうとした。

 指に力が入らない。

 剣が手から滑り落ちかけたところを、ルシアンが支えた。

 彼も声を失っている。けれど、その表情には明らかな焦りがあった。

 ネリッサが二人を見つめる。


「もう抵抗しなくていいの。ここでは誰も、あなたたちに何かを強制しないわ」


 アリスは反論しようとしたが、唇が動くだけだった。

 強制しないと言いながら、拒絶することを許さない。

 その矛盾を指摘したかったはずなのに、何が矛盾しているのかさえ曖昧になり始めていた。

 ネリッサがトライデントを下ろす。


「休みなさい。静かにしていれば、苦しいことも忘れられるから」


 青い光が二人の足元へ広がった。

 その瞬間、ルシアンが動いた。

 アリスの身体を抱え上げると、海底都市の路地へ向かって走り出す。

 ネリッサは追わなかった。

 ただ、遠ざかる二人を見送りながら、首元の貝殻へ指を添えていた。


  ◇


 ミアが案内してくれたのは、市場から離れた場所にある小さな硝子造りの家だった。

 窓の外には青い海藻が揺れ、天井から吊るされた貝殻の灯りが室内を淡く照らしている。

 ルシアンはアリスを椅子へ座らせると、扉の前に立って外の様子を確かめた。

 ヴェルトとルミナスも無事に合流していた。

 もっとも、二人とも声は戻っていない。

 ルミナスがヴェルトの帽子を奪い、頭へ載せる。

 ヴェルトは抗議するように両手を振り回したが、少年は口だけで笑いながら帽子を返さなかった。

 やがてヴェルトはカードを取り出し、大きな文字を書きつけた。


『返せ!』


 ルミナスはその下へ別の文字を書き加える。


『やだ』


 ヴェルトがカードをひったくり、さらに書き込んだ。


『俺の帽子だ!』


 ルミナスはしばらく考えたあと、カードの裏へ『知ってる』と書いた。

 アリスは思わず笑いそうになった。

 しかし、笑う理由を考えた途端、その感情が薄れていく。

 面白いと思った。

 確かに、そう感じたはずだ。

 けれど、何が面白かったのかを思い返そうとすると、うまく言葉にならない。

 アリスは自分の手を見つめた。

 指先が小さく震えている。

 ミアが心配そうに近づき、貝殻の文字盤を差し出した。


『だいじょうぶ?』


 アリスは首を横に振りかけて、動きを止めた。

 大丈夫ではない。

 そう伝えたいのに、否定する意思が喉元の青い輪へ吸い込まれていく。

 代わりに、アリスは文字盤へ指を滑らせた。


『少し、休ませてください』


 ミアは頷き、温かい飲み物を用意してくれた。

 貝殻の器から立ち上る湯気は、海水の中なのに消えず、淡い光を帯びながら天井へ昇っていく。

 アリスは器を両手で包んだ。

 温かい。

 その感覚だけは、まだ確かだった。


  ◇


 しばらくして、ルシアンが紙と筆記具を持ってきた。

 アリスの前へ置き、自分の剣を指差す。

 それから彼女のレイピアに刻まれた【第一鏡印・恐怖】へ視線を向けた。

 何かを確認したいらしい。

 アリスは紙へ書いた。


『鏡印は残っています。でも、鏡装を呼び出そうとすると、何のために使うのか分からなくなります』


 ルシアンは眉を寄せ、紙を受け取った。


『ネリッサの魔法は、声だけを奪うものじゃない』


 アリスは頷く。

 声が出ないだけなら、筆談すればいい。

 だが、何を書こうとしていたのか分からなくなれば、筆談さえ意味を失う。

 ヴェルトが横から紙を覗き込み、別の一枚へ書いた。


『俺はカードに値段をつけられなくなった』


 続いてルミナスが書き加える。


『僕は消えられなくなった。消えたいと思っても、その理由が分からない』


 アリスは二人の文字を見つめた。

 能力そのものが消えたわけではない。

 能力を使うための意思が、奪われている。

 ネリッサは人々を黙らせているのではない。

 何かを望み、選び、拒絶する心を沈めているのだ。

 その時、ミアが小さな木箱を抱えて戻ってきた。

 中には古い貝殻や硝子片が詰められている。

 少女は一つの硝子片を取り出し、アリスへ見せた。

 青い光が内部で揺れていた。


『これ、ひろったの』

「……?」


 アリスが首を傾げると、ミアは貝殻の文字盤へ指を滑らせた。


『帰りたい場所があるの』


 その文字を見た瞬間、アリスの胸がわずかに痛んだ。

 帰りたい場所。

 自分にも、あったはずだ。

 侯爵邸の長い廊下。

 朝になると庭師が手入れする白い薔薇。

 書斎の窓辺で本を読む父の横顔。

 いつもの食卓。

 何も知らずに過ごしていた日々。

 アリスはそれらを思い出し、懐かしさに胸を締めつけられた。


 けれど同時に、処刑台の冷たい石の感触が蘇る。

 自分の罪を告げる判決文。

 差し替えられた三頁目。

 そして、剣を振り下ろすはずだったルシアンの姿。


 あの世界へ帰りたい。

 そう思う。

 だが、帰れたとして、すべてを忘れて以前の生活へ戻れるだろうか。

 アリスは紙を引き寄せた。

 最初に書こうとしたのは、『家へ帰りたい』という言葉だった。

 しかし、筆先が止まる。

 帰りたい。

 確かにそうだ。

 けれど、それだけではない。

 アリスはゆっくりと文字を書き直した。


『私は、帰りたいのではありません』


 ルシアンが顔を上げる。

 アリスは続けた。


『帰って、続きをしたいんです』


 書いた瞬間、胸の奥で何かが動いた。

 冤罪を晴らしたい。

 父に会いたい。

 判決文の三頁目に何が書かれていたのか、確かめたい。

 自分を処刑台へ送った者が誰なのか、知りたい。

 そして、誰かに決められた罪人としてではなく、自分自身の人生を生きたい。

 その一つ一つが、沈みかけていた心を水面へ引き上げていく。

 アリスはさらに書いた。


『私は、まだ終わっていません』


 文字を書き終えた時、【第一鏡印・恐怖】が鼓動するように小さく熱を帯びた。

 青い輪が一瞬だけ揺らぐ。

 アリスは驚いて顔を上げた。

 ルシアンも気づいたらしい。

 彼は紙を見つめ、しばらく考えてから筆を取った。


『俺もだ』


 それだけだった。

 けれどアリスには、十分だった。

 ルシアンにも帰る場所がある。

 王国。

 断罪騎士として過ごしてきた場所。

 百人以上の命を奪った過去。

 そこへ戻り、向き合わなければならないものがあるのだろう。

 アリスは紙の余白へ書き加えた。


『では、帰るまでは共犯ですね』


 ルシアンは小さく息を吐き、筆を動かした。


『面倒だ』


 アリスは声を出さずに笑った。

 今度は、その理由が分かった。


  ◇


 ミアが再び文字盤を差し出した。


『わたしも、帰りたい』


 アリスは少女を見る。

 ミアは窓の外を指差した。

 海底都市の向こうには、巨大な青い塔が見える。

 そのさらに奥、暗い海の底へ続く道があった。


『前は、あそこにいたの』


 ミアは指で文字を続ける。


『でも、どこだったか、わすれちゃった』


 アリスは胸が痛んだ。

 帰りたいという願いだけが残り、帰る場所の記憶が失われている。

 ネリッサの魔法は、願いを消すだけではない。

 願いに結びついた記憶まで、少しずつ沈めているのかもしれない。


「……」


 アリスは何かを書こうとした。

 しかし、その前にミアが硝子片を差し出した。

 内部の青い光が強くなり、小さな映像が浮かぶ。


 海辺の町。

 夕暮れの港。

 漁船が並ぶ桟橋。

 そこに、二人の子供が立っていた。

 一人は青い髪の少女。

 もう一人は、黒髪の少年。

 少年は少女の手を握り、何かを必死に訴えている。

 音は聞こえない。

 しかし、唇の動きだけははっきりと見えた。


 ――ネリッサ、一緒に逃げよう。


 アリスは息を呑んだ。

 青い髪の少女は、今より幼いネリッサだった。

 少年の表情には、恐怖と焦りが浮かんでいる。

 それでも彼は少女の手を離さなかった。

 映像が揺らぐ。

 少年がもう一度口を動かした。


 ――カイ。


 その名前が、硝子片の表面へ浮かび上がる。

 アリスは文字を指でなぞった。

 カイ。

 ネリッサの過去にいた少年。

 そして、彼女が今も首から下げている貝殻のペンダント。

 あの二つが無関係とは思えなかった。


 アリスはルシアンへ硝子片を見せた。

 彼は映像を確かめると、静かに頷いた。

 ヴェルトも覗き込み、何かを書こうとして手を止める。

 ルミナスは珍しくふざけず、青い光を見つめていた。

 アリスは紙へ新しい文字を書いた。


『ネリッサは、何を失ったのでしょう』


 誰も答えられなかった。

 けれど、今度はその沈黙が恐ろしくなかった。

 答えが分からないなら、探せばいい。

 まだ知らないことがあるなら、確かめればいい。

 それが自分の選びたい道だと、アリスは思い出し始めていた。


 窓の外では、青い海が静かに揺れている。

 遠くの塔の頂上で、ネリッサが一人、貝殻のペンダントを握りしめていた。

 その唇が小さく動く。


「……カイ」


 海底都市の誰にも届かない声だった。

 そして彼女自身もまた、その名前を呼んだ理由を、忘れようとしていた。


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