第21話 声を失った人魚
青い波紋が海底都市を走り抜けた瞬間、アリスの耳から世界の音が消えた。
石畳を踏みしめる足音も、ルシアンが断罪剣を抜く金属音も聞こえない。
目の前ではネリッサの長い青髪が水流に揺れ、巨大なトライデントがゆっくりと持ち上がっているのに、その動きに伴う音だけが完全に失われていた。
「ルシアン、聞こえますか?」
自分の声は聞こえた。
しかし、隣の騎士は返事をしなかった。
彼は口元へ手を当て、声が出ないことを確かめると、無言でアリスの前へ立った。
ネリッサが微笑む。
「まだ喋れるのね。あなたは少し、抵抗力が強いみたい」
「私はあきらめが悪いので」
「でも、いつまで続くかしら」
トライデントの穂先がアリスへ向いた。
水が動く。
最初は小さな渦だった。ところが次の瞬間には周囲の海水が巨大な螺旋を描き、透明な建物の間から何本もの水柱が立ち上がった。
アリスは右目に魔力を込める。
――SILENT ABYSS.【サイレント・アビス】
――SOUND RESTRICTION.
【音声制限】
――REFUSAL SUPPRESSION.
【拒絶抑制】
術式を読み終える前に、水柱が槍となって襲いかかった。
「右から来ます!」
アリスが叫ぶと、ルシアンは大剣を横へ振り抜いた。
水の槍が砕け、無数の泡となって散る。
しかし二本目は砕けた水滴を吸収し、さらに太くなって騎士の頭上へ落ちてきた。
ルシアンがアリスの肩を押した。
二人が左右へ跳んだ直後、石畳が陥没する。
ネリッサはその様子を静かに眺めていた。
「声があるから、危険を知らせるのね」
「当然でしょう」
「でも、その声で誰かを傷つけることもある」
アリスが返答するより早く、ネリッサはトライデントを回転させた。
水流が地面を這い、巨大な青い蛇のようにルシアンへ迫る。
騎士は大剣を突き立てて受け止めたが、水は刃の左右へ分かれ、背後から再び襲いかかった。
そこへ銀紫色の影が飛び込む。
ルミナスだった。
【グリン】と【グリム】が交差し、水流を包む術式へ斬り込む。
しかし刃は手応えを残さず通過し、逆に水の蛇が少年の足首へ絡みついた。
ルミナスの身体が宙へ引き上げられる。
「ルミナス!」
アリスが叫ぶ。
少年は一度だけこちらを見た。
次の瞬間、ニヤニヤ笑いだけ残して身体が消える。
【バニシング・グリン】
水流が捕らえていた対象を失い、空中で弾けた。
ルミナスはネリッサの背後へ現れ、双剣を振り下ろす。
だが、トライデントの柄が二本の刃を正確に受け止めた。
「あなたも、ずいぶん騒がしいのね」
ネリッサの青い瞳が細くなる。
「声なんて出してないのに」
彼女が左手を開くと、ルミナスの身体を青い輪が取り囲んだ。
――EXPRESSION DENIED.
【感情表出禁止】
アリスの蒼い瞳に文字が浮かぶ。
ルミナスが驚いたように目を見開いた。
消えようとしている。しかし消えない。
【バニシング・グリン】を発動しようとする意思そのものが、青い輪によって押さえ込まれていた。
「そんな……!」
ネリッサのトライデントが少年の胸へ迫る。
間に合わない。
そう思った瞬間、赤いカードが二人の間へ滑り込んだ。
『ATTACK――VALUE 0』
【攻撃――価値ゼロ】
槍の穂先が一瞬だけ失速する。
ルミナスが身を捻り、辛うじて直撃を避けた。
ヴェルトがカードを構えたまま駆け寄ってくる。
声は出せないが、こちらへ向けた表情だけで、かなり腹を立てていることが分かった。
「ありがとうございます、ヴェルトさん!」
アリスが礼を言うと、彼は大げさに帽子を持ち上げた。
しかし次の瞬間、ネリッサのトライデントが地面へ触れ、ヴェルトの足元から青い鎖が噴き出した。
カードが手から零れる。
「あなたの力は、価値を変えるのね」
ネリッサは興味深そうに彼を見た。
「でも、価値が違うから争いになるのでしょう?」
ヴェルトの喉元に浮かんでいた青い輪が、胸元まで広がる。
彼は新しいカードを作ろうとした。
ところが指が止まる。
何を書けばいいのか分からなくなったように、空白の札を見つめていた。
アリスの背筋が冷えた。
単に声を封じているのではない。
ルミナスからは能力を使う意思を、ヴェルトからは価値を操作するための判断を奪おうとしている。
「ネリッサさん、やめてください!」
「どうして?」
「本人の意思まで奪う権利はありません!」
「意思があるから、人は違う答えを出すのよ」
ネリッサはトライデントを持ち直した。
「北の漁師は海を自分たちのものだと言い、南の漁師も同じことを言った。どちらも自分が正しいと信じていたから、最後には刃物を持ち出したの」
青い瞳が遠い記憶を見るように揺れる。
「私が歌っている間だけ、みんな静かになった。あの時は、ちゃんと聞いてくれていると思ったのに」
ネリッサは首元の貝殻へ指を触れた。
「でも、歌が終わればまた争った」
「それは……」
「黙って聞けば分かり合えると思っていた。でも違った。声を取り戻した途端、みんな自分の正しさを叫び始めたのよ」
アリスは彼女の表情を見た。
穏やかな声とは裏腹に、貝殻を握る指には強い力が込められている。
「だから、声を奪ったんですか?」
「そうよ。誰も相手を傷つける言葉を口にできなければ、争いは起きないでしょう?」
その瞬間、ルシアンが動いた。
大剣を低く構え、水流の隙間を縫ってネリッサへ迫る。
しかし踏み込んだ足が止まった。
青い輪が彼の右腕を包んでいる。
大剣を振り下ろそうとしても、腕が動かない。
「ルシアン!」
アリスが叫ぶ。
ネリッサは彼を見上げた。
「あなたは、命令に従うことに慣れているのね」
ルシアンの表情が険しくなる。
「だったら、命令されなければいいの。誰かに従う必要も、誰かを裁く必要もなくなるわ」
アリスの右目に、新たな文字が浮かぶ。
――OBEDIENCE.(服従)
――CONSENT.(同意)
――REFUSAL DENIED.(拒絶不許可)
「違います!」
アリスは【グラス・ヴェリタス】を抜いた。
「拒否できない同意に、意味はありません!」
ネリッサが首を傾げる。
「拒否できるから、争うのよ」
その言葉とともに、トライデントから巨大な水の刃が放たれた。
ルシアンは動けない。
ヴェルトもルミナスも、能力を封じられている。
アリスは透明な剣を構えたが、水の刃を正面から受け止めれば、背後の仲間まで巻き込まれる。
逃げるだけでは足りない。
守らなければならない。
その思考に応えるように、刀身の鏡印が熱を帯びた。
――FIRST MIRROR MARK.
――FEAR.
(第一鏡印・恐怖)
赤い光が、黒い軍装ドレスの内側から溢れ出す。
「……そうでしたね」
アリスは剣を握り直した。
赤森でノエルが教えてくれたこと。
恐怖は、未来を決める判決ではない。
危険を知り、守るための警告だ。
「【鏡装ミラー・アームズ】――」
透明な刀身に深紅の光が走った。
「【紅狩装ルージュ・ハント】!」
胸元の【第一鏡印】が輝き、赤い結晶が肩から腕へ一気に広がった。
黒い軍装ドレスの上へ、透明感を残した深紅の装甲が重なる。
腰から伸びた結晶板が水中で花弁のように開き、背後には赤い弓状の光輪が展開した。
【グラス・ヴェリタス】の鍔が左右へ広がる。
透明な剣に、真紅の光弦が張られた。
青一色だった海底都市へ、鮮烈な赤が咲いた。
ネリッサの瞳が見開かれる。
「それは……ノエルの力?」
「いいえ」
アリスは剣を引き絞った。
「ノエルが選んだ、もう一つの答えです!」
赤い光の矢が放たれた。
水の刃へ正面から衝突する。
しかし矢は水流を破壊しなかった。
代わりに、内部へ赤い光の線が走る。
アリスの左目に、三秒後の未来が映った。
水の刃は途中で三つに分かれる。
一つはルシアン。
一つはヴェルト。
最後の一つは、背後のミアへ向かう。
「三秒後、三方向へ分裂します!」
アリスは二射目を放った。
赤い矢が水流の分岐点へ突き刺さる。
水の刃が三つに割れる直前、光の弦が周囲へ広がり、それぞれの軌道を赤く描き出した。
ルシアンは未来の軌道を見て身を沈める。
ヴェルトは残ったカードを投げ、水流の勢いを一瞬だけ弱めた。
アリス自身はミアの前へ飛び込み、最後の一撃を【グラス・ヴェリタス】で受け流す。
青い水が爆発し、赤い光の破片が海中へ散った。
「間に合った……!」
アリスが息を整える。
ネリッサはトライデントを構え直していた。
「未来を読むのね」
「危険を予測するだけです」
「同じことよ」
「違います。未来を知っても、それをどうするかは私たちが決めます」
アリスは赤い弓を引いた。
無数の光の矢が背後へ浮かび上がる。
「あなたの魔法が声を奪うなら、発動する前に止めればいい」
ネリッサが微笑んだ。
「発動する前?」
トライデントが静かに持ち上がる。
「アリス。あなたは、もう私の海の中にいるのよ」
海底都市の上空で、巨大な青い魔法陣が開いた。
街全体を覆う水が、一つの術式として脈動する。
――SILENT ABYSS.【サイレント・アビス】
――SECOND PHASE.【セカンド・フェイズ】
――WILL SUPPRESSION.
【意思抑制】
アリスの左目に、無数の未来が映った。
右へ避ける未来。
左へ走る未来。
ネリッサへ矢を放つ未来。
ルシアンを助ける未来。
そのすべてに、青い輪が現れる。
「……避けられない?」
ネリッサが静かに頷いた。
「声を奪うだけなら、あなたの矢で防げるかもしれない。でも、この海そのものが私の声を聞いているの」
青い波紋がアリスの身体を通過した。
赤い装甲が軋む。
光弦が震え、浮かんでいた矢が次々と消えていく。
「私は、争いを止めたいだけ」
ネリッサは貝殻のペンダントを握りしめた。
「誰かが『嫌だ』と言わなければ、誰も傷つかない。誰かが違う答えを選ばなければ、誰も失わずに済む」
アリスは反論しようとした。
しかし声が出なかった。
喉元に青い輪が浮かぶ。
続いて、刀身の【第一鏡印・恐怖】を覆うように、もう一つの輪が広がった。
赤い【鏡装ミラー・アームズ】が光の粒子となって崩れ始める。
アリスは【グラス・ヴェリタス】を握りしめた。
まだ戦える。
そう考えたはずなのに、剣を振る理由が少しずつ曖昧になっていく。
ネリッサを止めたい。
なぜ。
仲間を守りたい。
なぜ。
自分の意思で未来を選びたい。
それは、どうしてだっただろう。
恐怖が背筋を這い上がった。
声を失うことよりも、自分が何を望んでいたのか分からなくなることの方が、ずっと恐ろしい。
アリスは最後の力で剣を地面へ突き立てた。
その手を、ルシアンが掴む。
彼も声を失っている。
それでも、握り返してきた力だけは確かだった。
ネリッサは二人を見つめ、寂しそうに目を伏せた。
「大丈夫。もう何も言わなくていいの」
青い波紋が二人を包む。
「何も望まなければ、何も失わずに済むから」
アリスの唇が動いた。
反論は声にならない。
海底都市の遥か上で、巨大な硝子の塔が青い光を放っている。
その光の下では、誰も泣かず、誰も怒らず、誰も拒絶しない。
完璧な静寂の中で、アリスは自分の胸元に手を当てた。
握りしめた【グラス・ヴェリタス】の刀身には、消えかけた赤い鏡印の熱が残っていた。
怖いと思う気持ちだけは、まだ失われていない。
けれど、その恐怖が何を守ろうとしているのか、アリスにはもう思い出せなくなり始めていた。




