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断罪の国のアリス―Project Glass Eden―  作者: 塚田澄玻
第四章 鏡海回廊
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第20話 海の底の街

 海へ落ちた瞬間、アリスは反射的に息を止めた。

 頭上で青い鏡が閉じ、大量の海水が黒髪と軍装ドレスを押し広げる。

 足元には底知れぬ深みが続き、遥か下方には、透明な硝子細工を積み上げたような街が広がっていた。


 隣ではルシアンが重い鎧に引かれて沈んでいる。

 ヴェルトは必死に手足を動かし、ルミナスだけが水中で身体を回転させながら、まるで空を飛ぶように楽しんでいた。

 アリスはルシアンへ手を伸ばしかけ、奇妙なことに気づいた。

 苦しくない。

 試しに少しだけ息を吸うと、冷たい水が肺へ流れ込む代わりに、澄んだ空気が胸を満たした。


「……水中で呼吸できる?」


 声も出た。もっとも、響き方は普段と違い、硝子の器を通して聞いているように柔らかい。


「お嬢様! 泳げるなら先に言ってよ!」


 ヴェルトが情けない声を上げる。


「泳いでいません。落ちているだけです」

「それは俺も同じなんだけど!」

「だったら落ち着いてください」

「無茶を言うなあ!」


 やがて五人は街の外れにある白い砂地へ降り立った。

 ルシアンの鎧が鈍い音を立てたものの、舞い上がった砂は水中とは思えない速さで沈んでいく。


「面倒な場所だな」


 ルシアンは鎧の関節を確かめながら立ち上がった。


「呼吸はできる。声も届く。だが、水の抵抗はある」

「都合のいい部分だけ陸地に似せた世界、ということでしょうか」


 アリスは【グラス・ヴェリタス】の柄へ触れ、右目に魔力を込める。

 視界に浮かんだ術式には、水圧を緩和する条件と、呼吸を成立させる条件が重なっている。そのさらに奥には、街全体へ伸びる青い光の線があった。


 ――BREATH PERMITTED.

 ――SOUND RESTRICTED.


「呼吸は許可する。でも、音は制限する……?」


「よくできてるねえ」


 いつの間にか隣へ来ていた泣き笑い仮面が、銀の杖で海底を軽く叩いた。


「ここは第二階層、【鏡海回廊《きょうかいかいろう》】。赤森《せきしん》とは違う意味で、とても平和な場所だよ」

「あなたがそう言うと、むしろ警戒したくなります」

「信用がないなあ」

「積み重ねの結果です」


 アリスは男から視線を外し、海底都市へ歩き出した。


 街は美しかった。

 青白い硝子で造られた尖塔が海底から伸び、建物同士を繋ぐ透明な回廊には、小魚の群れが光の帯となって泳いでいる。

 街路には真珠色の石畳が敷かれ、窓辺では海藻に似た植物がゆったりと揺れていた。

 住民たちも普通に生活している。

 商店では客が品物を選び、広場では子供たちが遊び、運河に架かる橋では若い男女が肩を寄せ合っていた。

 ただし、誰も喋っていなかった。


「静かな街ですね」


 アリスが言うと、ルシアンも頷いた。


「人は多いのにな」


 市場へ近づくにつれて、違和感は強くなった。

 魚を売る店主が客へ値札を示す。客は首を横に振り、指で別の数字を作った。

 店主は不満そうに眉を寄せたが、口を開くことなく値札を書き直した。

 別の店では、買い物籠を抱えた女性が商品を落としてしまった。

 周囲の人々は拾うのを手伝い、女性は丁寧に頭を下げる。

 その間、衣擦れも足音も聞こえない。


「ねえ、帽子屋。ここで商売したら儲かるかな?」


 ルミナスがヴェルトの帽子を覗き込んだ。


「冗談じゃない。値段の交渉もできない街で、俺がどうやって――」


 そこで声が途切れた。

 ヴェルトは口を動かしたまま、怪訝そうに自分の喉へ手を当てる。


「ヴェルトさん?」


 アリスが呼びかけても返事はない。

 男は慌てて何度も口を開閉し、やがてカードを取り出した。


『声が出ない!』


「大げさですね。喋れないだけで死ぬわけではないでしょう」


 アリスがそう言うと、ルミナスが腹を抱えて笑い始めた。しかしその笑い声も途中で消え、少年は驚いたように口元を押さえた。

 ルシアンが即座に大剣の柄へ手を掛ける。


「アリス、下がれ。術式が発動している」


 アリスの右目に青い文字が流れた。


 ――UNNECESSARY EXPRESSION.

 ――SILENCE.

「不要な表現を、沈黙させる……」


 ヴェルトとルミナスの喉元には、薄い青色の輪が浮かんでいた。

 二人が声を出そうとするたび、輪が水紋のように広がっている。

 アリスは【グラス・ヴェリタス】を抜こうとしたが、ヴェルトが激しく首を振った。

 彼はカードへ新しい文字を書き込む。


『街全体を相手にするつもり?』


 確かに、今ここで術式を斬れば何が起きるか分からない。赤森で学んだばかりの教訓を、早速忘れるわけにはいかなかった。


「分かりました。まずは調べましょう」


 アリスが剣から手を離すと、ヴェルトは大げさに胸を撫で下ろした。

 その時、近くで硝子の器が割れた。

 小さな少女が、店先に置かれた荷物へ躓いたらしい。

 転んだ拍子に膝を擦りむき、青い石畳へ赤い血が滲んでいる。

 少女は口を大きく開いた。

 泣き声は聞こえなかった。

 駆け寄った店主が少女を抱き起こす。

 少女は痛みに顔を歪めながらも、必死に涙を拭い、申し訳なさそうに頭を下げた。


「……痛いと言うこともできないんですか」


 アリスが呟くと、少女がこちらを見た。

 十歳ほどだろうか。短い青灰色の髪に、大きな琥珀色の瞳を持っている。

 少女はアリスの黒い軍装と透明な剣を珍しそうに眺め、それから小さな貝殻を取り出した。

 貝殻の内側へ指を滑らせると、淡い文字が浮かぶ。


『あなたたち、外から来たの?』

「ええ。私はアリス。こちらはルシアンです」


 少女は微笑み、貝殻へ別の文字を書いた。


『ミア』

「よろしくお願いします、ミア」


 アリスが手を差し出すと、ミアは少し戸惑ってから握り返した。

 小さな手は冷たかった。


「この街では、みんな声を出せないんですか?」


 ミアは頷く。


『声があると、けんかになるから』

「誰がそう決めたんです?」

『ネリッサさま』


 アリスは顔を上げた。


 街の中心には、他の建物より遥かに高い硝子の塔が立っている。

 その頂上に、青い髪を長く漂わせた少女の姿があった。

 巨大な三叉槍(トライデント)。

 半透明の鱗を重ねた青い戦装束。

 首元で揺れる、小さな貝殻のペンダント。

 赤森を抜けた直後、海底都市を見下ろしていた少女だ。


「青鏡姫《あおきょうき》ネリッサ……」


 アリスが名を口にすると、塔の上の少女がこちらを向いた。

 距離があるはずなのに、その青い瞳と正面から目が合った気がした。


 次の瞬間、周囲の海水が静かに割れた。

 ネリッサは水の階段を降りるように、何もない空間を歩いてくる。

 長い髪が青い光を引き、トライデントの穂先から零れた水滴が小さな真珠となって消えていった。

 住民たちは一斉に道を開け、深く頭を下げる。


「外から来た人たちね」


 ネリッサの声だけは、海水を通さず直接耳元へ届くように澄んでいた。


「ずいぶん騒がしいと思ったら、あなたたちだったの」

「私たちはまだ何も壊していませんよ」

「声を出しているでしょう?」

「会話は破壊行為ではありません」

「ここでは違うの」


 ネリッサはミアの膝の傷へ視線を落とした。

 トライデントの石突きが地面へ触れると、青い光が少女の脚を包み、擦り傷がゆっくりと塞がっていく。

 ミアが嬉しそうに頭を下げた。


「ほら。誰も怒鳴らないし、誰も責めない。痛くても泣き叫ばず、困ったら周りの人が助けてくれる」


 ネリッサは街を見渡した。


「ここには喧嘩がない。罵る人も、泣き叫ぶ人も、誰かに『嫌い』と言う人もいない。地上より、ずっと平和でしょう?」


 アリスはすぐには答えなかった。

 実際、街には争いが見当たらない。店主は客に怒鳴らず、通行人は互いに道を譲り、子供が転べば大人が助けている。

 見た目だけなら、理想的な街だった。


「少なくとも、静かなことは確かですね」

「静かなのはいいことでしょう?」

「場合によります」

「どうして?」

「黙っていたい人が黙っているのと、喋りたい人が喋れないのは違いますから」


 ネリッサの微笑みが、わずかに薄れた。


「喋れるから、余計なことを言うのよ」


 その時、市場の奥で人だかりができた。

 年配の女性が、一人の男に腕を掴まれている。

 男は女性が抱える小箱を指差し、何度も手を差し出していた。

 女性は首を横に振った。小箱を胸へ抱き寄せる。

 それでも男が手を伸ばすと、女性は口を開き、何かを必死に訴えようとした。

 声は出ない。

 次に、女性の腕がゆっくりと動いた。

 本人の意思に反していることは、苦痛に歪んだ表情を見れば明らかだった。

 震える手が、小箱を男へ差し出す。


「待ってください!」


 アリスは二人の間へ割り込んだ。

 女性の手を押さえると、青い文字が右目へ流れ込んでくる。


 ――REFUSAL DENIED.

 ――HARMONY PRESERVED.


「拒絶が……許可されていない?」


 男は不満そうに眉を寄せたが、アリスが剣の柄へ手を掛けると、すぐに後退した。

 女性は小箱を抱き直し、涙を浮かべながら何度も頭を下げた。

 ネリッサはその様子を静かに見ていた。

 アリスが振り返る。


「彼女は嫌がっていました」

「嫌がるから、争いになるの」

「だから、嫌がること自体を許さないんですか?」

「その方が誰も傷つかないでしょう?」


 アリスは女性の震える手を見た。

 小箱を守れたことに安堵しながらも、女性はまだ声を出そうとしている。

 しかし喉元には青い輪が浮かび、言葉が生まれる前に消されていた。

 ネリッサがトライデントを軽く持ち上げる。


「この街ではもう、誰も『嫌だ』とは言わない」


 その言葉を聞いた瞬間、アリスはようやく理解した。

 ここで奪われているのは、声だけではない。

 他人と違う答えを持つことも、その答えを相手へ示すことも、そして自分の望まない未来を拒むことさえ、この街では争いの原因として処理されている。


 アリスは【グラス・ヴェリタス】の柄を握り直した。


「ネリッサさん。一つ確認させてください」

「何?」

「この街の人たちは、自分の意思で沈黙を選んだんですか?」


 ネリッサは答えなかった。

 代わりに、海底都市を覆う巨大な青い魔法陣が、ゆっくりと回転を始める。

 アリスの右目に、新しい文字が浮かんだ。


 ――SILENT ABYSS.【サイレント・アビス】


 その奥で、もっと深い場所へ繋がる術式が脈打っている。

 ネリッサはトライデントを構え、穏やかな声で告げた。


「あなたも、静かになれば分かるわ」


 アリスは透明な剣を鞘から抜いた。

 赤森では、未来の罪を理由に命を奪おうとする少女と戦った。

 今度は、争いをなくすために、人から拒絶する権利を奪った少女が目の前にいる。

 どちらも誰かを守ろうとしているのに、その方法は守られる側の選択を認めない。


「いいえ。分かるためには、まず聞かなければならないことがあります」


 アリスはネリッサの青い瞳を見据えた。


「この街の人たちが、本当は何を言いたかったのか。それを確かめるまでは、黙るつもりはありません」


 ネリッサのトライデントから、音のない青い波紋が広がった。

 街を行き交う人々が一斉に足を止める。

 アリスの耳から、ルシアンが剣を抜く音さえ消えた。

 静寂が、海底都市を完全に包み込もうとしていた。


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