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断罪の国のアリス―Project Glass Eden―  作者: 塚田澄玻
第三章 赤森狩猟区
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第19話 鏡装 ミラー・アームズ

 ノエルの目が見開かれた。


「そんな……」

「未来に危険があるなら、未来を殺すんじゃありません」


 アリスは剣を振り切る。


「危険が現実になる前に、守る方法を探せばいい!」


 赤い光が爆発した。

 狼王が苦しげに咆哮する。

 身体を覆っていた黒い結晶が剥がれ落ち、巨体が崩れていく。

 だが消えない。


「まだ生きてる!」


 ルミナスが叫ぶ。


「それでいいんです!」

「え!?」

「この狼は、ノエルの恐怖そのものです。殺して消したら、また同じです!」


 アリスは狼王へ走る。


「ノエル!」

「何をすればいいの!?」

「未来を見てください!」

「未来?」

「あなたが一番得意でしょう!」


 ノエルが息を呑み、銀弓を構えた。

 狼王がアリスへ突進する。

 ノエルの赤い瞳に無数の未来が映った。


「三秒後、左!」


 アリスが左へ踏み込む。


「次、右前脚!」


 狼王が右前脚を振り上げる。


「ルシアン!」

「任せろ!」


 断罪剣が脚を横から叩く。

 軌道が逸れる。


「ルミナス、背中!」

「了解!」


 少年が消え、狼王の背へ現れる。

 双剣を交差させ、黒い結晶を剥がす。


「ヴェルト、胸!」

「ここで呼び捨て!?」

「早く!」

「はいはい!」


 カードが飛ぶ。


『FEAR(恐怖)――VALUE 0』

 狼王の胸を覆う赤い光が一瞬弱まった。


「違います!」

「え!?」

「恐怖をゼロにしないでください!」

「注文が細かいな!」

「恐怖まで消したら、何も学べません!」

「じゃあどうするの!?」

「価値を変えるんじゃなく、使い道を変えるんです!」

「それ僕の専門外!」

「頑張ってください!」

「無茶言うなあ!」


 ヴェルトは悪態をつきながら、もう一枚のカードを重ねた。


『FEAR(恐怖)――VALUE 100』

『WARNING(警告)――VALUE 100』


 二つの札が重なる。


「これでどうだ!」

「十分です!」


 狼王を覆う赤い光が変わった。

 敵意ではない。

 警告。

 危険を知らせる赤。

 ノエルの弓が輝く。


「アリス!」


 その声にはもう迷いがなかった。


「五秒後、胸が開く!」

「分かりました!」

「でも、その前に右から噛まれる!」

「そこはどうすれば?」

「私が止める!」


 銀弓が引き絞られる。

 赤い光が一本の矢へ集まった。


「【ROUGE HUNT ルージュ・ハント】!」


 矢が放たれる。

 狼王の右顎を撃ち抜き、巨大な頭部を強制的に逸らした。

 アリスの目の前で胸部の黒い結晶が開く。

 その奥に、小さな赤い核が見えた。


 ――FEAR.(恐怖)。


 アリスは【グラス・ヴェリタス】を突き出した。

 壊さない。

 斬らない。

 透明な刃の先端を、赤い核へ触れさせる。


「怖くていいんです」


 核が脈打つ。


「怖いから、守ろうと思える」


 狼王の動きが止まった。


「怖いから、次はどうするか考えられる」


 赤い光が剣を伝う。


「だから恐怖に、答えまで決めさせないでください」


 核が弾けた。

 狼王の巨体が無数の赤い粒子へ変わる。

 その光は空へ消えず、ノエルへ向かった。


「何……?」


 赤い粒子が銀弓を包む。

 ノエルの手から弓が浮かび上がり、形を変えた。

 弓身が砕け、赤い結晶となる。

 それらが空中で旋回し、【グラス・ヴェリタス】へ集まった。


「アリス!」ルシアンが叫ぶ。


 透明な刀身が赤く染まる。

 黒い軍装ドレスの肩へ、赤い結晶が重なった。

 右肩から腕へ、透明感を残した深紅の装甲が形成される。

 腰には獣の牙を思わせる細身の装甲板が重なり、黒いスカートの上へ赤い光の裾が広がった。

 背中から弓状の光輪が展開する。

 【グラス・ヴェリタス】の鍔が変形し、赤い結晶の弓翼が左右へ伸びた。

 アリスが剣を構えると、刀身に赤い光の弦が張られる。

 剣でありながら、弓でもある。

 赤い月を背負った黒衣のアリスの周囲へ、無数の光の矢が浮かんだ。

 文字が現れる。


 ――MIRROR ARMS.

 ――ROUGE HUNT.


「【鏡装 ミラー・アームズ】【紅狩装 ルージュ・ハント】……」


 アリスが名前を口にした瞬間、装甲が呼応するように輝いた。

 ノエルが呆然と見ている。


「私の……力?」

「違います」


 アリスは首を振った。


「あなたから奪ったものではありません」


 右目には構造が見えている。

 ノエルの【HUNTING LAW 狩猟法則】を、そのままコピーしたものではない。

 敵を未来の罪で狩る力が、危険を予測し、守るべき可能性へ道を作る力として反転している。


「あなたの力が、別の答えを選んだんです」


 ノエルの瞳から涙が溢れた。

 赤い森に残っていた狼たちが一斉に光へ変わる。

 だが、死んだのではない。

 敵意だけが剥がれ、赤い光の獣となって森の奥へ走っていく。

 黒樹からも赤黒い色が抜け、枝先に小さな赤い葉が芽吹いた。

 ひび割れた月がゆっくりと欠け、血のような赤から穏やかな夕焼けの色へ変わっていく。


「終わった……?」


 ルミナスが呟く。


「まだみたいだよ」


 泣き笑い仮面が初めて前へ出た。

 銀の杖の先で、【グラス・ヴェリタス】の刀身を示す。

 レイピアが熱い。

 握った柄の上からでも分かるほど、刀身が熱を持っている。


「何です、これ……」


 赤い光が【グラス・ヴェリタス】から溢れた。

 透明な硝子の刀身へ、鏡の破片を思わせる紋様が浮かぶ。

 菱形の鏡。

 その中央に、小さな赤い眼のような印。

 文字が現れた。


 ――FIRST MIRROR MARK.

 ――FEAR.


「【第一鏡印(きょういん)・恐怖】」


 泣き笑い仮面が読み上げた。


「鏡印《きょういん》?」

「鏡姫《きょうき》の答えを反転し、その階層が別の可能性を認めた証だよ」

「それを先に説明しておいてください」

「聞かれなかったからね」

「あなたは毎回それですね」


 アリスが睨むと、仮面は肩をすくめた。

 【グラス・ヴェリタス】の鏡印が一度だけ強く輝く。

 その瞬間、アリスの脳裏へ無数の未来が流れ込んだ。


 自分が狼に噛み殺される未来。

 ノエルの矢に心臓を射抜かれる未来。

 ルシアンが倒れる未来。

 ルミナスが再び消える未来。

 ヴェルトが笑いながら背を向ける未来。

 そして、黒い冠を戴いた自分が世界を砕く未来。


「……っ」


 アリスは額を押さえた。


「アリス!」


 ルシアンが支える。


「大丈夫か?」

「ええ……たぶん」

「たぶん?」

「分からないことを分かったと言うな、と誰かが言っていたので」


 ルシアンが一瞬黙り、それから鼻で息を吐いた。


「面倒なところだけ覚えるな」

「重要な教訓です」


 未来の映像が消える。

 七十二パーセント。その数字は消えていない。

 アリスが【黒鏡姫《くろきょうき》アストレア】になる可能性も、まだ残っている。

 だが今は、それでいいと思えた。


 恐怖は未来を決める判決ではない。

 未来を見失わないための警告なのだから。

 赤い装甲が光の粒子となって消え、【グラス・ヴェリタス】も元の透明なレイピアへ戻った。

 刀身の【第一鏡印(きょういん)・恐怖】だけが残る。


「……返して」


 ノエルが言った。


「何をです?」

「私の弓」

「あ」


 アリスは周囲を見る。

 銀弓はない。


「どうしましょう」

「どうしましょうじゃない!」

「私は奪っていません」

「さっき私の弓が砕けて、あなたの変な鎧になった!」

「変な鎧とは失礼ですね」

「私の弓!」

「落ち着いてください」

「返して!」


 ルミナスが吹き出した。


「アリス、泥棒」

「あなたにだけは言われたくありません!」

「僕は返したよ?」

「言われるまで返さなかったでしょう!」


 ヴェルトも笑い始める。


「お嬢様、鏡姫《きょうき》から武器を巻き上げるとは、俺より詐欺師に向いてるんじゃない?」

「あなたまで何を言っているんです!」

「笑ってないで探して!」


 ノエルの顔が真っ赤になった。

 その時、赤い光が彼女の手元へ集まる。

 粒子が弓の形を作り、元と同じ銀弓が現れた。

 ノエルが目を瞬いた。


「……戻った」

「良かったですね」

「最初から分かってた?」

「いいえ」

「本当に?」

「本当です」

「怪しい」

「疑う相手を間違っています」

「さっき私の魔法を壊した人が言う?」

「壊していません。改善です」

「勝手に改善しないで!」


 怒鳴りながらも、ノエルの声には以前の冷たさがなかった。

 ルシアンが断罪剣を肩へ担ぎ直す。


「で、俺たちは通っていいのか?」


 ノエルが黙った。

 赤い森の奥を見る。

 黒かった木々には赤い葉が戻り、狼の遠吠えももう聞こえない。


 やがて森の中央に一本の道が開いた。

 その先には、水面のように揺れる青い鏡が浮かんでいる。


「次の階層への道」


 ノエルが言った。


「通っていい」

「ずいぶん素直になりましたね」

「また撃つよ」

「前言撤回します」


 アリスが歩き出そうとすると、ノエルに呼び止められた。


「アリス」


 振り返る。


「何です?」


 ノエルは少し迷った。


「七十二パーセントのこと」


 アリスの表情から笑みが消える。


「あれは本物」

「そうですか」

「怖くないの?」

「怖いですよ」

「だったら、どうするの?」


 アリスは【グラス・ヴェリタス】に刻まれた鏡印へ触れた。

 熱はもうない。

 それでも、そこに【恐怖】が刻まれたことは分かる。


「覚えておきます」

「それだけ?」

「警戒します。調べます。もし【黒鏡姫《くろきょうき》】になる兆候が出たら、止める方法を探します」

「見つからなかったら?」

「その時また考えます」

「そんなのでいいの?」

「未来の答えを今の私が全部決めたら、あなたと同じでしょう?」


 ノエルは言葉を失った。

 アリスは少し考えてから続ける。


「それに、七十二パーセントなら残りがあります」

「二十八パーセント」

「ええ」

「そっちを選べると思う?」

「分かりません」


 アリスは答えた。


「でも、選べないと決まったわけでもありません」


 ノエルの目が細くなる。


「変な人」

「よく言われます」

「面倒だし」

「それは最近、一人にしか言われていません」


 アリスがルシアンを見る。


「俺を見るな」

「事実確認です」


 ノエルが小さく笑った。

 初めて見る、狩人でも鏡姫でもない十六歳の少女の笑顔だった。


「じゃあ、もしまた会って、本当に災厄になりそうだったら」


 銀弓を軽く持ち上げる。


「今度こそ私が止める」

「お願いします」

「嫌じゃないの?」

「止めるのと、まだ何もしていない私を殺すのは違います」


 ノエルはしばらくアリスを見つめ、それから頷いた。


「……分かった」


 アリスも頷き返し、青い鏡へ向かう。


「待って」


 もう一度呼び止められた。


「今度は何です?」


 ノエルは銀弓を握ったまま、わずかに視線を逸らした。


「私があの時、狼を助けたこと」


 アリスは黙って待つ。


「間違いだったと思う?」


 それはきっと、四年間誰にも聞けなかった問いだった。

 アリスは安易に答えなかった。

 正しかったと言えば、三十七人の死を軽くする。

 間違っていたと言えば、十二歳の少女が抱いた優しさを罪にする。

 どちらも、自分が決めていい答えではない。


「分かりません」


 ノエルの目が少し伏せられる。


「でも」


 アリスは続けた。


「助けようと思った優しさまで、罪にしなくていいと思います」


 ノエルが顔を上げる。


「あの時の選択には結果があります。忘れてはいけないし、責任について考え続ける必要もある。でも、誰かを助けたいと思った十二歳のあなたまで、四年間ずっと処刑し続ける必要はありません」


 ノエルの唇が震えた。

 涙は落ちなかった。

 代わりに、銀弓を握る手から少しだけ力が抜けた。


「……そう」

「ええ」

「まだ、よく分からない」

「私もです」

「そこは格好よく答えてよ」

「分からないものは、分からないので」


 ノエルは今度こそ笑った。


「やっぱり変」

「お互い様です」


 アリスは背を向けた。

 ルシアン、ヴェルト、ルミナスが先へ続く青い鏡の前で待っている。

 泣き笑い仮面だけは少し離れ、ノエルとアリスを見ていた。

 アリスが近づくと、仮面の男が囁く。


「未来は決まっていない、か」

「何か?」

「いや」


 右半分は笑い、左半分は泣いたまま、彼は青い鏡を見る。


「そうだといいね」


 アリスは眉を寄せた。


「含みのある言い方ですね」

「僕はいつだって素直だよ」

「その発言が一番信用できません」


 ルミナスが青い鏡へ手を突っ込んだ。


「冷たっ!」

「何をしてるんです?」

「次が水っぽいから」

「見れば分かります」

「海だったらどうする?」

「泳ぎます」

「泳げるの?」

「侯爵令嬢ですよ」

「答えになってないよ」


 ヴェルトが肩をすくめる。


「まあ、溺れたら騎士様が助けるでしょ」

「なぜ俺なんだ」

「鎧って沈むよね」

「ならお前が助けろ」

「俺も泳ぎ苦手」

「役立たずが二人いますね」

「お嬢様!?」


 赤い森に、久しぶりに狼の遠吠えではない声が響いた。

 アリスは青い鏡の直前で一度だけ振り返る。

 ノエルは同じ場所に立っていた。

 赤いフード。銀色の弓。

 赤鏡姫《あかきょうき》。

 けれど、その背後にはもう血のような月はない。

 夕焼け色の空の下で、彼女は弓を下ろしたままこちらを見ている。


「ノエル」

「何?」

「一つ訂正します」

「何を?」

「あなたは、赤ずきんではありませんね」


 ノエルが眉を寄せる。


「最初からそう言ってる」

「ええ。あなたはノエルです」


 一瞬だけ、少女の目が大きくなった。

 アリスはそれ以上説明しなかった。


 誰かに与えられた役割や、過去の物語だけで、その人間のすべてが決まるわけではない。

 それはきっと、自分にも言えることだった。

 死刑囚。

 侯爵令嬢。

 七十二パーセントの災厄。

 【黒鏡姫《くろきょうき》アストレア】。


 どれも自分について語る言葉ではあっても、自分の未来を決める判決ではない。


 青い鏡へ向き直る。

 透明な硝子のレイピア【グラス・ヴェリタス】。

 その刀身に刻まれた【第一鏡印(きょういん)・恐怖】。

 そして必要なら、あの赤い【鏡装 ミラー・アームズ】をもう一度呼び出せることを、アリスは感覚で理解していた。


 最初の鏡姫《きょうき》との戦いで得たものは、敵の力ではない。

 恐怖を消さず、それでも恐怖に未来を決めさせないための、新しい選択肢だった。


「行きましょう」


 アリスは仲間たちへ告げ、青い鏡へ足を踏み入れた。

 冷たい水が足首を包む。

 次の瞬間、鏡の向こうから押し寄せた大量の海水が五人をまとめて呑み込んだ。


「ちょ――聞いてな――!」


 ヴェルトの悲鳴が泡へ変わる。

 ルシアンの重い鎧が予想通り沈み始め、ルミナスだけが面白そうに笑っている。

 アリスは水中で黒髪を広げながら、眼下に広がる青い世界を見た。


 海底には、透明な街があった。

 無数の人々が歩いている。

 誰一人、言葉を発していない。

 笑い声も、怒鳴り声も、泣き声もない。


 完璧な静寂の中、巨大な三叉槍(トライデント)を持つ青髪の少女が、海底都市の最上部からアリスたちを見下ろしていた。

 その首には、小さな貝殻のペンダントが揺れている。


 少女――青鏡姫《あおきょうき》ネリッサが唇を動かした。

 声は聞こえない。

 それでもアリスには、なぜかその言葉だけが読めた。

 ――うるさい人たち。

 【赤森狩猟区《せきしんしゅりょうく》】を抜けた一行は、そのまま声のない海へ落ちていった。


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