第18話 まだ犯していない罪
狼王の牙が迫る。
アリスは真正面から踏み込み、【グラス・ヴェリタス】を斜めに構えた。
受け止めるつもりはない。
先ほどノエルの矢を受けただけで両腕が痺れたのだから、あれより何倍も重い巨体と正面から力を競えば、透明な剣より先に自分の身体が壊れる。
「ルシアン、右へ!」
「分かった!」
アリスが狼王の鼻先を掠めるように左へ抜けるのと同時に、ルシアンの断罪剣が右側から振り下ろされた。
狙ったのは頭ではない。
右前脚。
古い傷の残る脚へ大剣が食い込み、狼王の巨体が大きく傾く。
だが、骨を断つ前に黒い結晶が刃を止めた。
「硬いな!」
「退いて、騎士様!」
ルミナスの声が頭上から降る。
姿が消えた。
狼王がルシアンへ爪を振るった瞬間、その肩口に銀紫色の少年が現れる。【グリン】が結晶の隙間へ入り、【グリム】が同じ箇所を正確に抉った。
黒い結晶が砕ける。
「今!」
「借りるぞ!」
ルシアンの二撃目が入った。
右前脚が地面へ沈み、狼王が咆哮する。
衝撃だけで赤土が弾け、アリスたちの身体を風圧が襲った。
「お嬢様、伏せて!」
ヴェルトが五枚のカードを扇状に投げる。
狼王の周囲へ突き刺さった札に、次々と文字が浮かんだ。
『牙――VALUE 1000』
『爪――VALUE 1000』
『脚――VALUE 1000』
『尾――VALUE 1000』
『身体――VALUE 1』
「何を――」
アリスが意味を理解するより先に、狼王の動きが崩れた。
牙、爪、脚、尾。それぞれの価値が身体全体を上回ったことで、一つの生物としての均衡が崩れている。
「部品の方が本体より高価なら、まともに一つにはまとまらない!」
「相変わらず無茶苦茶です!」
「もっと褒めて!」
「褒めてません!」
狼王の巨体がよろめく。
そこへ銀矢が飛んだ。
右眼を貫く。
ノエルだった。
「左へ動く!」
叫ぶと同時に二射目を放つ。
狼王が予告された通り左へ跳び、その着地点へ三射目が突き刺さった。
赤い蔦が地面から噴き出し、巨体の脚へ絡みつく。
「次は前!」
アリスは迷わず走った。
ノエルには数秒先が見えている。
その未来予測を、今度は敵を処刑するためではなく、仲間を生かすために使っている。
「二秒後、右から尾!」
「分かりました!」
アリスは一歩だけ速度を落とした。
予告された瞬間、巨大な尾が眼前を薙ぐ。
その下を潜り、【グラス・ヴェリタス】を狼王の胸へ滑らせる。
右目に構造が浮かんだ。
――REGENERATION.(再生)
――FEAR.(恐怖)
――HUNT.(狩り)
さらに奥に、赤い森と繋がる太い術式がある。
「まだです!」
刃を押し込もうとした瞬間、狼王の身体が膨張した。
「アリス、離れろ!」
ルシアンの緊迫した声が響く。
間に合わない。
狼王の肩がぶつかった。
アリスの身体が宙へ浮く。
背中から黒樹へ叩きつけられ、肺から空気が抜けた。
「――っ!」
視界が白くなる。
落としかけた【グラス・ヴェリタス】を握り直す。
狼王がこちらを向いた。
片眼を矢で潰され、右前脚を傷つけられているのに、その傷はもう塞がり始めていた。
「倒しても戻る……」
森が蘇らせる。
ノエルの恐怖がある限り。
いや、違う。
「ノエル!」
アリスは黒樹へ手をついて立ち上がった。
「この狼を倒しても、また出るんですね?」
ノエルは矢をつがえたまま答えない。
「答えてください!」
「……出る」
「何度でも?」
「何度でも」
「あなたが怖がっている限り?」
ノエルの指が止まった。
それが答えだった。
狼王が走る。
「話は後だ!」
ルシアンが正面へ出た。
断罪剣を横に構え、狼王の突進を受ける。
轟音とともに、ルシアンの足が赤土を抉りながら後退する。
「重すぎる……!」
「騎士様!」
ルミナスが消える。
狼王の左側へ現れ、【グリン】で眼を狙う。
獣は予測していたように頭を振った。
牙がルミナスを掠める。
「うわっ!」
少年の身体が飛ばされる。
地面へ落ちる直前に姿を消し、数歩離れた場所へ再出現した。
「ちゃんと戻りましたね」
アリスが言う。
「そこ褒めるところ!?」
「重要です」
「あとで褒めて!」
狼王がルシアンを振り払った。
巨体が黒樹をへし折りながら突進する。
「ヴェルトさん!」
「やってる!」
十枚を超えるカードが舞う。
『DISTANCE(距離)――VALUE 1000』
狼王とアリスの間の空間が歪んだ。
十歩しかない距離が、一瞬だけ百歩にも引き延ばされる。
「こんなの長く保たないよ!」
「十分です!」
アリスはノエルへ走った。
「何をしてるの!」
「確認です!」
「戦って!」
「戦っています!」
ノエルの前へ辿り着く。
銀弓が反射的にアリスへ向いた。
その矢尻が胸へ突きつけられる。
「止まって」
「止まりました」
「近い」
「話を聞いてもらうには、このくらいがいいかと」
「今そんな場合じゃない!」
「今だからです」
背後で狼王が咆哮する。
ヴェルトの【マッド・ディール】が破れ、歪んでいた距離が一気に戻る。
ルシアンが再び立ちはだかった。
ルミナスも隣へ並ぶ。
二人で時間を稼いでいる。
「ノエル。この狼は、あなたの恐怖から生まれている」
「知ってる」
「なら、どうして何度も殺すんです?」
「殺さないと誰かが死ぬから!」
「殺しても終わっていません!」
ノエルが息を呑む。
「四年間、何度倒したんです?」
「……覚えてない」
「十回?」
答えない。
「百回?」
「分からない!」
「それで怖くなくなりましたか?」
「黙って!」
銀弓が震える。
「この狼が出るたびに、あなたは十二歳の夜へ戻っている。殺せば安心する。でもまた現れる。だからまた殺す。それを繰り返して、あなたはずっとあの日から出られない」
「じゃあどうすればよかったの!」
ノエルの声が森を震わせた。
「おばあちゃんが死ぬのを見てればよかった!? 三十七人が殺されても、私は間違ってないって笑えばよかった!?」
「違います!」
「だったら何!」
アリスは答えようとして、口を閉じた。
簡単な正解を言えば、ノエルと同じになる。
十二歳の少女が狼を助けたことが正しかったのか。
殺すべきだったのか。
今の自分には決められない。
「分かりません」
ノエルの目が見開かれた。
「……何?」
「十二歳のあなたが、あの狼を助けるべきだったのか、殺すべきだったのか。私には分かりません」
「じゃあ偉そうに――」
「でも、今のあなたが間違っていることは分かります」
アリスは矢尻から目を逸らさない。
「あなたは、あの日の自分が間違ったと決めつけたまま、未来のすべてに同じ答えを強制している」
「だって、間違えたから!」
「一度の結果で、これから先のすべての選択まで決めるんですか?」
ノエルの唇が震えた。
「狼を助けたら村が滅びた。だから危険は全部殺す。その答えしか選べないなら、あなたは未来を守っているんじゃありません」
アリスは胸元へ向けられた矢を、素手でゆっくり押し下げた。
「過去に未来を決めさせているだけです」
ノエルの瞳に、炎に包まれた村が映った。
「……怖いんだよ」
初めて、その声から鏡姫の硬さが消えた。
「分かっています」
「また誰かが死ぬのが怖い」
「ええ」
「私が見逃したせいで、また誰かが死んだらって考えると……殺した方がいいって思う。殺しておけば、そのせいでは死なないから」
「そうですね」
「否定しないの?」
「怖いものは、怖いでしょう」
ノエルがアリスを見る。
アリスは自分の胸に手を置く。
「私だって怖いです。七十二パーセントで世界を壊すと言われて、平気なわけがありません」
赤い月の下で、黒い軍装の裾が風に揺れる。
「だから知りたい。備えたい。止められるなら止めたい。でも、怖いから今の私を殺せという答えには同意しません」
「もし本当に【黒鏡姫】になったら?」
「その時は止めてください」
「遅いかもしれない」
「それなら、その前に警告してください」
「間に合わなかったら?」
「一緒に別の方法を探してください」
「それでも駄目だったら?」
アリスは一瞬だけ黙った。
ここで都合のいいことは言えない。
「その時は、その時の私が犯した罪について裁いてください」
ノエルの目が揺れる。
「でも今の私は、まだ何もしていません」
背後で爆音が響いた。
ルシアンの身体が地面を転がる。
「ルシアン!」
「俺はいい!」
騎士は血の混じった唾を吐き、大剣を杖にして立ち上がった。
「続けろ!」
狼王が追撃しようとする。
「行かせないよ!」
ルミナスがその眼前へ現れた。
両腕を広げる。
「こっちだ、狼!」
狼王が牙を剥く。
ルミナスは笑い、ぎりぎりまで引きつけて消えた。
獣の顎が空を噛む。
背後へ現れた少年が【グリン】と【グリム】を黒い結晶へ突き立てる。
「帽子屋!」
「誰が帽子屋だ!」
ヴェルトのカードが飛ぶ。
『WOUND(傷)――VALUE ∞』
ルミナスが刻んだ小さな傷が赤く輝き、狼王の身体を走る亀裂へ変わった。
「今だけ、その傷が世界で一番高価だ!」
「それ、意味分かんないけど好き!」
「俺も!」
狼王が暴れまわり、二人が吹き飛ばされる。
それでも、時間はできた。
アリスは蒼い瞳に、更なる魔力を注ぎ込む。
今なら見える。
ノエル。
狼王。
森。
赤い月。
無数の狼。
それらを結ぶ【HUNTING LAW 狩猟法則】。
――A POSSIBILITY OF DISASTER IS A DISASTER.
【災厄の可能性は、すでに災厄である】
その奥に、さらに深い層があった。
「……まだある」
「何が?」
アリスは目を凝らす。
【HUNTING LAW 狩猟法則】は最初から「殺せ」と命じていたわけではない。
もっと単純な言葉が、すべての根に埋まっている。
赤い光の中で、一つの命令が浮かんだ。
――PROTECT.
【守れ】
ノエルが息を止めた。
「これが最初だったんですね」
アリスには分かった。
ノエルが欲しかったのは、獲物を殺す力ではない。
もう誰も失わないための力だった。
祖母を守りたかった。
村を守りたかった。
今も、この森を通る誰かを守りたい。
ただ、三十七人を失った恐怖が【守れ】と【殺せ】の間に一本の道しか残さなかった。
「恐怖が間違っているんじゃない」
アリスは言った。
「怖かったから、あなたは危険に気づける。未来を予測できる。誰かが傷つく前に備えられる」
「でも、それじゃ足りない」
「足りないかもしれません」
「また死ぬかもしれない!」
「ええ」
アリスは否定しない。
「選択肢を残すということは、間違える可能性も残すということです」
「そんなの……」
「怖いですよ」
アリスは笑わなかった。
ここで笑えば、きっと嘘になる。
「でも、間違える可能性をなくすために、まだ何もしていない人を殺し続ける世界の方が、私は怖い」
ノエルが黙る。
「あなたは狼を恐れていたんじゃない。自分がもう一度間違えることを恐れていた。だから【HUNTING LAW 狩猟法則】に、間違えない答えを作らせた」
アリスは【グラス・ヴェリタス】を構えた。
「でも、その答えは誰かを守るための力を、誰かを先に殺す力へ変えてしまった」
透明な刀身へ赤い月が映る。
「だから、斬るのはあなたの恐怖じゃありません」
ノエルが顔を上げる。
「恐怖から、殺すことしか選べなくなった前提です」
【グラス・ヴェリタス】が鳴った。
澄んだ音が森全体へ広がる。
左の深紅の瞳に、【HUNTING LAW 狩猟法則】の構造が完全な形で展開した。
災厄の可能性。
恐怖。
危険判定。
狩猟対象。
処刑。
その連鎖の中央へ、アリスは剣を向ける。
「ノエル」
「何?」
「あなたは、本当は何がしたかったんです?」
ノエルの唇が震えた。
答えはすぐには出なかった。
狼王が咆哮する。
赤い月が脈打つ。
四年前の炎が、ノエルの瞳の奥で揺れている。
「……守りたかった」
小さな声だった。
「誰を?」
「おばあちゃんを」
涙が一筋、頬を伝う。
「村のみんなを」
もう一筋。
「今だって……誰かが死ぬのは嫌」
「では、それを答えにしましょう」
アリスが剣を振り上げる。左の深紅の瞳が矛盾を反転させる。
ノエルが息を呑んだ。
「その前提、間違っています」
【グラス・ヴェリタス】が赤い世界を斬った。
刃が切断したのは狼でも、ノエルでもない。
――A POSSIBILITY OF DISASTER IS A DISASTER.
【災厄の可能性は、すでに災厄である】
その文章だけが中央から裂けた。
赤い月に巨大な亀裂が走る。
森中の黒樹が震え、狼たちの身体から赤い光が噴き出した。
「何をしたの!?」
「まだです!」
前提が崩れた空白へ、新しい構造が流れ込む。
【インバーテッド】が世界の因果を反転する。
可能性がある。だから殺す。ではない。
可能性がある。だから見る。備える。警告する。守る。
赤い文字が組み替わっていく。
――A POSSIBILITY OF DISASTER IS A POSSIBILITY TO PROTECT.
【災厄の可能性は、守るための可能性でもある】




