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断罪の国のアリス―Project Glass Eden―  作者: 塚田澄玻
第三章 赤森狩猟区
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第17話 未来の罪

 アリスは何も言えなかった。

 簡単な慰めを口にする資格がない。

 もし自分が十二歳のノエルだったら、傷ついた獣を殺せただろうか。

 まだ誰も襲っていない。

 今後も襲わないかもしれない。

 その可能性だけで命を奪えるだろうか。

 おそらく、自分も助けただろう。

 そして村が滅びれば、自分を許せるだろうか。


「だから決めた」


 ノエルが銀弓を握る。


「危険になるかもしれないものを、危険になってから殺すのは遅い」


 赤い光が弓へ集まる。


「未来は、起きてからじゃ戻せない」


 アリスは反論できなかった。

 理屈がおかしいと思う。

 けれど、その理屈が生まれた理由は理解できてしまった。


「ノエル」


 ルシアンが狼を蹴り飛ばしながら口を挟んだ。


「一つ聞く」

「何?」

「お前があの時、狼を殺していたら、村は確実に助かったのか?」


 ノエルが彼を見る。


「助かった」

「なぜ分かる」

「群れを連れてきたのはあの狼だから」

「別の群れが来なかった保証は?」

「それは――」

「別の原因で村が滅びなかった保証は?」


 ノエルの目が険しくなる。


「何が言いたい」

「俺は判決を疑わず、人を斬ってきた」


 ルシアンの断罪剣が狼の牙を受け止める。

 刃を捻り、巨体を横へ投げる。


「後になってからなら、いくらでも『あの時こうすればよかった』と言える。だが、それを現在の罪にするな」

「あなたに何が分かる!」


 ノエルが叫んだ。

 矢がルシアンへ飛ぶ。

 大剣で受ける。

 衝撃にルシアンの足が地面へ沈んだ。


「分からん」


 それでも騎士は退かなかった。


「だから聞いてる」


 ノエルの顔が歪む。


「私は見た!」

「俺も見た」

「三十七人死んだ!」

「俺は百人以上斬った」


 ノエルが息を呑んだ。

 アリスもルシアンを見る。


「正しい判決だと思っていた」


 騎士の声は静かだった。


「今は分からん」

「だから何?」

「だから、分からないものを分かったことにして斬るのはやめた」


 アリスの胸に、その言葉が残った。

 処刑台では、判決に従うと言った男だ。

 疑義があっても、命令があれば剣を振り下ろすはずだった。

 そのルシアンが、今は自分の過去を理由に未来の断罪を止めようとしている。


「綺麗事」


 ノエルが吐き捨てる。


「そうかもな」

「次に誰かが死んでも、同じことが言える?」

「分からん」

「またそれ?」

「分からないことを、分かったと言わないだけだ」


 ノエルが歯を食いしばる。

 アリスはその横顔を見ながら、自分の中にも同じ問いがあることに気づいた。

 七十二パーセント。

 自分が【黒鏡姫《くろきょうき》】になる未来。

 もし本当なら、自分を今ここで殺せば、多くの人が助かるのかもしれない。

 その可能性を、ただ「未来は決まっていない」と言って無視していいのだろうか。


「アリス」


 ルミナスの声が近くでした。


「怖い?」


 少年はいつの間にか隣に戻っていた。


「ええ」


 アリスは正直に答えた。


「結構、怖いです」

「七十二パーセント?」

「それもあります」


 自分が世界を壊す光景。

 黒い冠。

 【アストレア】という知らない名前。


「自分で自分を信用できなくなるのが、一番怖いですね」

「じゃあ逃げる?」

「どこへ?」

「分かんない。僕、逃げるの得意だよ」


 アリスは少し笑った。


「知っています」

「じゃあ」

「でも、それでは数字が消えません」


 七十二パーセント。

 逃げても、自分の中に残る。


「確かめます」

「何を?」

「私が本当に災厄になるのか。それから、七十二パーセントという数字に人を殺す権利があるのか」


 アリスはノエルへ向き直った。


「一つ、聞かせてください」

「まだ何かあるの?」

「あなたは今も、あの狼を助けたことを後悔していますか?」


 ノエルの顔から表情が消えた。


「してる」

「では、十二歳のあなたが目の前にいたら、何と言います?」

「殺せって言う」

「狼を?」

「そう」

「泣いて嫌がっても?」

「言う」

「自分にはできないと言っても?」

「私が殺す」

「なるほど」


 アリスは蒼い瞳に魔術を込める。


「やっと見えてきました」


 森を覆う術式が、先ほどより鮮明になっている。


 ――FUTURE.(未来)

 ――DANGER.(危険)

 ――FEAR.(恐怖)

 ――HUNT.(狩り)


 それらを繋ぐ線。

 可能性が危険へ変わる。

 危険が災厄へ変わる。

 災厄が狩猟対象へ変わる。

 そこに一つの飛躍がある。


「あなたは未来を予測しているんじゃない」


 ノエルが眉を寄せる。


「何?」

「未来の可能性を、現在の事実へ変換している」

「同じこと」

「違います」


 アリスは一歩進む。


「七十二パーセントで災厄になる私と、すでに災厄になった私は同じではありません」

「なるまで待てっていうの?」

「そうは言っていません」

「なら何?」

「警戒すればいい」


 ノエルの目が見開かれる。


「監視してもいい。備えてもいい。止める方法を探してもいい。私自身にも、この未来を知らせればいい」


 アリスは自分の胸へ手を当てた。


「でも、殺すことだけが対策ではありません」

「甘い」

「そうかもしれません」

「その甘さで人が死ぬ」

「あなたのやり方でも人は死にます」


 ノエルの弓が上がる。


「災厄になる可能性のある人を、災厄になる前に殺すんですから」

「それで百人助かるなら一人を殺す」

「では一パーセントなら?」


 ノエルが止まった。


「十パーセント?」

「……状況による」

「五十パーセント?」

「危険」

「七十二パーセント?」

「殺す」

「では境界はどこです?」


 ノエルは答えない。


「誰が決めるんです?」

「私が決める」

「なぜ?」

「私が守護者だから!」


 赤い光が爆発した。

 森全体が震える。

 狼たちが一斉に伏せ、黒樹の枝がノエルへ向かって曲がる。


「この森では私が狩る! 私が危険を見つけて、私が殺す! そうすれば、もう誰も――」


 声が途切れた。

 アリスには、その先が聞こえた気がした。

 もう誰も、自分のせいで死なない。


「そうですか。やっと分かりました」


 ノエルが睨む。


「何が?」

「あなたが守りたいものです」

「知ったようなことを――」

「未来じゃありません」


 アリスはノエルを見る。


「あなたは、十二歳の自分をもう二度と間違えさせたくないんですね」


 ノエルの顔が凍りついた。


「違う」

「だから未来の危険を全部殺す。迷う前に、助けたいと思う前に、可能性の段階で消してしまえば、もう選択を間違えなくて済む」

「違う!」

「あなたが怖いのは狼じゃありません」

「黙って!」

「自分がまた間違えることです」


 ノエルが矢を放った。

 アリスは避けなかった。


「アリス!」


 ルシアンが動く。

 その前に、透明な刃が上がった。

 【グラス・ヴェリタス】が矢を受ける。

 衝撃が腕を抜け、肩まで痺れる。

 それでもアリスは立っていた。


「私は、間違えるのが怖いです」


 ノエルの目が揺れる。


「死刑台に立った時、自分の推理が全部間違っているんじゃないかと思いました。七十二パーセントと言われた今も、自分が本当に世界を壊すんじゃないかと怖い」

「だったら!」

「でも」


 アリスは剣を押し返す。

 矢が弾かれ、赤い光となって砕けた。


「怖いからといって、まだ起きていないことまで事実にはしません」


 蒼い瞳に、文字が現れた。

 今まで断片的だった術式が、一つの文章へ収束していく。


 ――A POSSIBILITY OF DISASTER IS A DISASTER.

 アリスは読み上げた。

「【災厄の可能性は、すでに災厄である】」


 赤い森が静まり返った。

 ノエルの顔から血の気が引く。


「それが【狩猟法則】の前提ですね」


 森全体がアリスを見た。

 狼。黒樹。赤い月。そしてノエル。

 すべてが一つの巨大な術式として繋がっている。

 可能性がある。だから危険。

 危険だから災厄。災厄だから狩る。

 その連鎖の根元に、十二歳の少女の恐怖がある。


「見つけた」


 アリスは【グラス・ヴェリタス】を握り直した。

 だが、ノエルは笑わなかった。

 泣きもしなかった。

 ただ銀弓をゆっくり下ろし、左手を赤い地面へ向ける。


「だったら、証明して」


 森の奥で地響きが起きた。


「何をです?」

「可能性を残しても、人を守れるって」


 赤い月に亀裂が走る。

 そこから血のような光が降り注ぎ、森の各所へ突き刺さった。

 倒した狼が起き上がる。十頭。二十頭。三十頭。

 さらに黒樹の奥から、これまでとは比較にならない巨大な影が立ち上がった。

 頭部だけで人間の背丈ほどある。

 赤黒い体毛の隙間から、黒い結晶の骨が鎧のように突き出している。

 その右前脚には、古い傷があった。

 アリスは息を呑む。


「まさか……」


 ノエルの瞳が震える。


「私が助けた狼」


 巨大な獣が目を開いた。

 赤い瞳に、幼いノエルを食い殺すような憎悪が宿っている。


「この森は、私が一番恐れている災厄を何度でも作る」


 ノエルが銀弓を構える。


「だから私は、何度でも殺してきた」


 狼王が咆哮した。

 空気が震え、黒樹の葉が一斉に舞い上がる。

 ルシアンがアリスの横へ並ぶ。


「話は終わったか?」

「大体は」

「勝てるか?」

「まだ分かりません」

「なら十分だ」


 反対側へルミナスが立つ。


「今度は消えてもちゃんと戻るから安心して」

「頼んでません」

「ひどいなあ」


 ヴェルトもカードを扇状に広げた。


「狼の値段って、いくらくらいだと思う?」

「売るつもりですか?」

「戦い方の相談!」

「真面目にしてください」

「真面目だよ!」


 少し離れた場所で、泣き笑い仮面が銀の杖を握っている。

 彼だけは戦列へ加わらない。

 その仮面の奥から、アリスへ視線が向けられていた。


「七十二パーセントか」


 小さな声だった。

 アリスには聞こえなかった。


「ずいぶん上がったね」


 赤い月の下で、狼王が地面を蹴った。

 ノエルの銀弓が引き絞られる。

 アリスは【グラス・ヴェリタス】を正眼に構えた。


 前提は見つけた。

 だが、前提を斬るだけでは足りない。

 ノエルが恐れているのは理屈ではなく、三十七人を失った記憶だ。

 それを「間違っている」の一言で否定すれば、アリスもまた他人の痛みに勝手な答えを押しつけることになる。


 だから次に反転すべきなのは、恐怖そのものではない。

 恐怖から、たった一つの答えしか選べなくなった世界だ。

 狼王の牙が迫る。

 アリスは真正面から踏み込んだ。

 まだ犯していない罪で裁かれるのは、自分で最後にするつもりだった。

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