第16話 72%の恐怖
赤い矢と【グラス・ヴェリタス】が激突した瞬間、アリスの両腕に痺れが走った。
受け流せない。
そう判断した時には、矢に込められた力が透明な刀身を滑り、身体ごとアリスを押し返していた。
黒いブーツが赤土を削る。
「アリス!」
ルシアンが横から割り込み、古い断罪剣を地面へ突き立てた。
アリスの背中を左腕で受け止め、そのまま二人分の勢いを殺す。
「ありがとうございます」
「礼は後だ。次が来る」
黒樹の枝に立つノエルは、すでに二本目をつがえていた。
今度は矢尻が三つに分かれている。
「散って!」
ルミナスが叫ぶ。
放たれた一本の矢が空中で三本に分裂した。
アリスは右へ跳び、ルシアンは正面の一本を大剣で叩き落とす。
ヴェルトはカードを投げ、三本目の軌道へ【VALUE:0】を刻んだ。
矢が失速する。
その隙にルミナスが消えた。
次に姿を現した時には、ノエルの背後へ回っている。
「取った!」
【グリン】と【グリム】が左右から走る。
ノエルは振り返らなかった。
銀弓を背後へ回し、二本の短剣を弓身だけで受け止める。
「えっ」
「遅い」
ノエルが身体を沈めた。
ルミナスの腹へ肘が入る。
「ぐっ!」
小柄な身体が浮いたところへ、弓の下端が跳ね上がった。
顎を狙った一撃をルミナスは首を捻って避け、そのまま空中で身体を消す。
ノエルが即座に弓を引いた。
「そこ」
誰もいない空間へ矢を放つ。
赤い光が弾け、ルミナスが空中から転がり落ちた。
「痛っ!」
「ルミナス!」
「平気! 掠っただけ!」
左肩の布が裂け、薄く血が滲んでいる。
アリスはノエルを見る。
「今、見えていたんですか?」
「見えない」
「では、なぜ?」
「出てくる場所が分かる」
ノエルは当然のことのように答えた。
「消える前の姿勢、視線、足の向き、攻撃したい場所。全部見れば、次にどこへ出るかくらい分かる」
「この子、嫌い」
ルミナスが即答した。
「珍しいですね。あなたと同じことを言う人がいるなんて」
「アリス、どっちの味方?」
「今のところルミナスです」
「今のところ!?」
「のんびり話している場合か!」
ルシアンの怒声が飛ぶ。
復活した赤い狼が左右から迫っていた。
ルシアンが正面を引き受ける。
大剣の一撃で先頭の狼を吹き飛ばし、その死骸を後続へぶつけて進路を塞ぐ。
ヴェルトのカードが狼たちの足元へ刺さり、赤土へ【VALUE:1000】という数字が浮かんだ。
「何をしたんです?」
「地面の価値を上げた!」
「それで?」
「高価なものは簡単に手放せない!」
狼たちの足が赤土へ沈んだ。
「無茶苦茶ですね」
「魔法なんて言った者勝ちだよ!」
「後で詳しく聞きます」
「お嬢様、それ絶対に粗探しする顔だよね!?」
アリスは返事をせず、ノエルへ走った。
狼を倒しても終わらない。
森そのものが蘇らせる。
ならば、この階層の法則を支えているノエルを止めるしかない。
「来ると思った」
ノエルが弓を向ける。
アリスの右目に、矢の術式が浮かんだ。
――TARGET.
――FUTURE POSITION.
「未来位置……」
ノエルは今のアリスを狙っていない。
三秒後にアリスがいる場所を射っている。
アリスは進路を変えた。
矢も曲がる。
「追尾まで?」
「違う!」
ルシアンが狼を斬りながら叫ぶ。
「お前がそっちへ動くことまで読まれてる!」
アリスは足を止めた。
矢が目前を通過する。
黒髪が風に揺れた。
「なるほど」
予測された未来から外れればいい。
だが、ノエルの二射目はすでに別の未来を狙っている。
右へ避ける。
左へ踏み込む。
止まる。
後退する。
アリスが選択を変えるたびに矢が飛び、その先を塞いでいく。
「どうして……」
避けながら、アリスは理解した。
「私の選択肢を減らしている?」
「そう」
ノエルが答える。
「未来は無限じゃない。選択肢を削れば、最後に一つになる」
矢が左右の黒樹へ突き刺さる。
赤い蔦が伸び、逃げ道を塞ぐ。
正面にはノエル。
背後から狼。
右には炎のような赤い結界。
左だけが開いている。
「そこへ行けば――」
アリスは動かなかった。
直後、左の空間を銀矢が通過した。
「やっぱり」
ノエルの眉がわずかに動く。
「行くと思いました?」
「八十六パーセント」
「外れましたね」
「十四パーセントを引いただけ」
「それを外れたと言うんです」
アリスは【グラス・ヴェリタス】を構え直す。
「あなたは確率を未来そのものだと思いすぎています」
「違う」
ノエルの声が低くなる。
「確率だから殺すの」
アリスの足が止まった。
「確実になってからじゃ遅いから」
ノエルが弓を下ろした。
戦闘が途切れたわけではない。
背後ではルシアンが狼を食い止め、ヴェルトが援護し、ルミナスが木々の間を駆けている。
それでもアリスには、赤鏡姫の言葉だけが妙に鮮明に聞こえた。
「さっき、三十七人死んだと言いましたね」
ノエルの瞳が揺れる。
「誰が死んだんです?」
「関係ない」
「あります。あなたはその三十七人を理由に私を殺そうとしている」
「話したら死んでくれる?」
「いいえ」
「なら話す意味がない」
「あなたが間違っているかもしれないと判断する材料にはなります」
ノエルの表情から感情が消えた。
「やっぱり、嫌い」
「奇遇ですね」
アリスは一歩進む。
「私も、説明なしで処刑しようとする人は嫌いです」
ノエルの弦が軋んだ。
しかし、矢は放たれなかった。
「……十二歳だった」
赤い森を風が抜ける。
「四年前」
ノエルの視線が、アリスではなく遠い黒樹へ向いた。
「森で狼を見つけた」
赤い景色が揺らぐ。
鏡のように。
ノエルの記憶が、森そのものへ投影された。
幼い少女がいる。
今より小さな身体。
赤いフードはまだ新しく、手に持つ弓も普通の狩猟弓だった。
その足元に、一頭の狼が倒れている。
前脚を罠に挟まれ、腹から血を流していた。
『殺しなさい』
老婆の声がした。
記憶の中に、一人の老女が現れる。
白髪。
皺だらけの手。
優しそうな顔。
その手には狩猟用のナイフが握られている。
『傷ついた狼は危険だよ。生き延びれば、人里へ来るかもしれない』
『でも、おばあちゃん』
幼いノエルが狼を見る。
獣は唸る力すら失っていた。
『まだ何もしてないよ』
現在のノエルが目を閉じた。
「私は殺さなかった」
記憶の中の少女が罠を外す。
狼はしばらく動かなかった。
やがて立ち上がり、足を引きずりながら森へ消えていく。
『これでいい』
幼いノエルが笑う。
『だって、悪い狼じゃないかもしれないもん』
景色が変わった。
夜。
炎。
叫び声。
アリスは息を呑んだ。
村が燃えている。
何十頭もの狼が家々の間を走り、人を襲っていた。
普通の狼ではない。
巨大な身体。
赤黒い毛。
結晶化した骨。
今、アリスたちを襲っている狼と同じものだった。
「戻ってきたんですか」
「一頭じゃなかった」
ノエルの声には抑揚がない。
「群れを連れてきた」
幼いノエルが炎の中を走る。
『おばあちゃん!』
家の前に老女が倒れていた。
腹部が赤く染まっている。
その前に、一頭の狼が立っていた。
右前脚に古い傷。
罠で裂けた跡。
ノエルが助けた狼だった。
『いや……』
少女の手から弓が落ちる。
『そんなの、嘘……』
狼が老女へ近づく。
幼いノエルは動けない。
『ノエル!』
老女が叫んだ。
『射ちなさい!』
震える手で弓を拾う。
矢をつがえる。
だが狙いが定まらない。
『でも、私が――』
『今は撃ちなさい!』
弦が放たれた。
矢は狼の肩へ刺さった。
致命傷にはならない。
狼がノエルへ向き直る。
老女が最後の力で獣の後脚へナイフを突き立てた。
『走って!』
記憶が赤く染まった。
アリスは最後まで見なかった。
見なくても分かった。
「三十七人」
ノエルが言う。
「村にいた四十二人のうち、三十七人が死んだ」
記憶が消える。
再び赤い森へ戻る。
「おばあちゃんも?」
「死んだ」
ノエルは答えた。
「私が助けた狼に殺された」




