第15話 災厄が存在する限り、狩りは終わらない
次の瞬間、全頭が同時に空を仰いだ。
遠吠えが重なった。
赤い月が脈打つ。
倒したはずの狼たちの身体から赤い光が立ち昇った。
「嫌な予感しかしないんだけど」
ヴェルトが呟く。
「同感です」
アリスの右目に新しい文字が現れる。
――HUNT NEVER ENDS WHILE DISASTER EXISTS.
【災厄が存在する限り、狩りは終わらない】
地面へ倒れていた狼の身体が動いた。
骨が繋がり、肉が戻る。
切断された傷まで閉じていく。
「さっき再生を止めたのに!?」
「個体の術式は止めました!」
アリスは森を見る。
「これは別です。森そのものが復活させている!」
「つまり?」
「一頭ずつ倒しても終わりません!」
ノエルだけは動じなかった。
「だから全部殺す」
銀弓を引く。
「何度でも」
その横顔を見た瞬間、アリスは違和感を覚えた。
怒りではない。憎しみでもない。
ノエルの瞳にあるのは、もっと切迫した感情だった。
恐怖。
狼を恐れている。
これほど圧倒的に狩れるのに、それでも彼女は狼を恐れている。
「どうして……」
アリスが問いかけようとした瞬間、森が大きく揺れた。
狼たちが止まる。
赤い瞳が、一斉にアリスへ向いた。
「何?」
ルミナスがアリスの前へ出る。
「全部こっち見てる」
ノエルも弓を下ろした。
初めて、その顔から余裕が消えている。
「そんな……」
「何です?」
答えない。
赤い月から光が降りた。
アリスの身体を包む。
黒い軍装ドレスの輪郭が赤い光の中で浮かび上がり、足元に巨大な魔法陣が展開した。
――TARGET ANALYSIS.
【標的を解析】
――FUTURE THREAT CALCULATION.
【未来の脅威を算出】
「未来……?」
アリスの右目が勝手に反応した。
森が見ているものが流れ込んでくる。
燃えている王都。
倒壊した王宮。
空を埋め尽くす黒い鏡。
泣き叫ぶ人々。
その中心に、一人の女が立っている。
腰まで届く黒髪。
黒い軍装。
全身を覆う透明な結晶装甲。
右目は青。
左目は赤。
手には【グラス・ヴェリタス】。
「私……?」
違う。
今の自分より少し大人びている。
黒い結晶の冠が頭上に浮かび、背後には無数の鏡が翼のように広がっていた。
その女が剣を振る。
世界が割れた。
空が砕ける。
街が鏡の破片となって崩れていく。
映像が消えた。
アリスの前に数字が浮かぶ。
――DISASTER PROBABILITY.
【災害の可能性】
数字が上がる。
十二。
二十八。
四十三。
五十九。
「待って」
七十。
そして。
――72%.
森が結論を出した。
――FUTURE DISASTER.
【未来の災厄】
――BLACK MIRROR PRINCESS.
【黒鏡姫】
――ASTRAEA.
アリスは息を止めた。
「アストレア……?」
聞いたことのない名前だった。
けれどノエルは違った。
その顔から血の気が引いている。
「七十二パーセント……」
「何の数字です?」
ノエルは答えない。
代わりに銀弓を引いた。
これまでとは構えが違う。
左足を半歩前へ。
背筋を伸ばし、弦を限界まで引き絞る。
銀の弓が赤く染まった。
矢じりは真っ直ぐ、アリスを向いている。
「ノエル?」
「動かないで。動けば外れる」
「当てるつもりなんですね」
ルシアンがアリスの前へ立つ。
「やめろ」
「退いて」
「理由を言え」
「その子は危険」
「今さらだな」
「未来の話をしてる」
ノエルの赤い瞳は、アリスから一度も逸れない。
「その子は将来、【黒鏡姫】になる」
ルシアンが眉を寄せる。
「何だ、それは」
「この世界を壊す災厄」
ヴェルトから笑みが消えた。
ルミナスも黙っている。
泣き笑い仮面だけが何も言わなかった。
アリスはそれに気づいた。
彼だけが驚いていない。
だが問いただす前に、ノエルが告げた。
「七十二パーセント」
「……それで?」
「十分」
アリスは目を細めた。
「何が十分なんです?」
「狩る理由として」
弓に赤い光が集まる。
森全体がノエルへ呼応し、無数の黒樹から赤い粒子が流れ込んだ。
「待ってください。私はまだ何もしていません」
「今はね」
「未来にそうなる可能性があるから殺す?」
「そう」
「二十八パーセントは?」
ノエルの指が止まった。
「何です?」
「残りの二十八パーセントです」
アリスは【グラス・ヴェリタス】を構える。
「私が【黒鏡姫】にならない可能性も、二十八パーセントあるのでしょう?」
「ある」
「では、未来は決まっていません」
「決まってなくても危険は消えない」
「だから殺す?」
「そう」
ノエルの声に迷いはなかった。
けれどアリスには見えていた。
弓を握る指が、わずかに震えている。
恐怖している。
自分ではない。
まだ起きていない未来を。
「どうして、そこまで未来を怖がるんです?」
ノエルの表情が変わった。
ほんの一瞬、十二歳ほどの幼い少女が、そこに重なった気がした。
血。
燃える家。
狼の遠吠え。
誰かを呼ぶ声。
「黙って」
「あなたは――」
「黙って!」
初めてノエルが叫んだ。
赤い光が弾ける。
森全体が揺れ、復活した狼たちが一斉に伏せた。
狩人に従う猟犬のように。
ノエルは矢尻をアリスの心臓へ向ける。
「私はもう、間違えない」
アリスは透明な剣を握り直した。
「何を間違えたんです?」
「危険を残したこと」
ノエルの頬を、赤い光が照らす。
「一度だけ、殺さなかった」
声が低くなる。
「それで三十七人死んだ」
アリスは言葉を失った。
ノエルの瞳には、もう森も狼も映っていない。
そこにいるのは、過去の自分だった。
「だから今度は、先に殺す」
弦が軋む。
「災厄になる前に」
ルシアンが断罪剣を構える。
ヴェルトの指にカードが並ぶ。
ルミナスは【グリン】と【グリム】を逆手に握った。
泣き笑い仮面だけが少し離れた場所から、すべてを見ている。
アリスは【グラス・ヴェリタス】の切っ先をノエルへ向けた。
死刑台で聞いた判決が脳裏をよぎる。
証拠より先に結論があり、結論に合うように事実が並べ替えられた裁判。
そして今度は、まだ起きてもいない未来を証拠に、自分を殺そうとする少女がいる。
「なるほど」
アリスは小さく息を吐いた。
怖くないわけではない。
七十二パーセントという数字も、【黒鏡姫】という知らない名前も、自分が世界を壊す光景も、考え始めれば足元が揺らぐほど恐ろしい。
それでも、その恐怖に判決まで委ねるつもりはなかった。
「ずいぶん気が合いませんね、私たち」
「私もそう思う」
「でも、一つだけ分かりました」
アリスの蒼い瞳に、赤い森を支配する文字が浮かぶ。
――HUNTING LAW.
【狩猟法則】
さらに、その奥で別の言葉が脈打っていた。
――FUTURE.(未来)
――DANGER.(危険)
――DISASTER.(災厄)
まだ繋がり方は見えない。
けれど必ず前提がある。
可能性を罪へ変換し、未来を現在の判決へ変える何かが。
「あなたが何を怖がっているのか、まず聞かせてもらいます」
「必要ない」
「私にはあります」
「なぜ?」
アリスは剣を構えた。
「私はもう、理由も分からないまま処刑されるのは御免なので」
ノエルの弦が放たれた。
赤い閃光が森を切り裂く。
同時に、アリスは地面を蹴った。
未来を罪と呼ぶ赤ずきんと、まだ何者になるか決めていない死刑囚。
二人の間で、最初の矢と透明な剣が激突した。




