第13話 チェシャ猫の条件
「ルシアン!」
アリスが呼ぶ。
騎士は一瞬だけ眉を寄せ、それから理解した。
「ルミナス・グリード」
大きな声ではなかった。
「お前の剣筋は覚えた」
光が少し広がる。
「右から入る時は【グリン】が先で、左へ抜ける時は【グリム】が先だ。俺の鎧を狙った時、三回とも脇の同じ隙間を見ていた」
闇の中に腕が浮かぶ。
「次にやったら潰す。だから戻ってこい」
ルミナスの右腕だった。
「それ観測なの?」
ヴェルトが尋ねる。
「知らん。俺が見た事実だ」
「騎士様らしいなあ」
ヴェルトは帽子を直した。
「ルミナス」
今度は彼が呼ぶ。
「姿が消えても、君がどんな迷惑な奴かは覚えてる。だから戻ってこい。一人で消えてるの、つまんないぞ」
ルミナスの顔が薄く現れる。
「……帽子屋」
掠れた声がした。
「誰が帽子屋だ」
「うるさい」
「元気じゃないか」
ヴェルトが笑った。
だがルミナスの身体はまだ透けている。
次の瞬間、再び輪郭が崩れ始めた。
「仮面さん!」
アリスが振り返る。
泣き笑い仮面は動かなかった。
「あなたも知っているんでしょう!」
「僕は――」
「昔から知っているなら、あなたが一番長く彼を観測している!」
仮面の男が黙る。
やがて銀の杖を握り直した。
「ルミナス」
その声は、今までアリスが聞いたどの声より静かだった。
「君は昔、僕の仮面を盗もうとして失敗した」
ルミナスの口元が戻る。
「三回もね」
「……二回」
「三回だよ」
「二回だって」
「ほら。覚えてるじゃないか」
ルミナスの身体が胸まで戻った。
泣き笑い仮面は続ける。
「僕は君がここへ来た日のことを知らない。君が何歳なのかも、本当の家がどこなのかも知らない」
一度、言葉を切る。
「でも、ルミナス・グリードという生意気な少年が【虚像回廊》】にいたことは知っている」
銀の杖が床を打つ。
「君が忘れても、僕は覚えているよ」
ルミナスの笑顔が崩れた。
「……ずるいよ、おじさん」
「二十九だよ」
「やっぱりおじさんじゃん」
声が震えていた。アリスは前へ出る。
あと少し。ルミナスの下半身だけが、まだ闇へ溶けている。
「アリス」
少年が呼んだ。
「何です?」
「僕、戻ったらどうなるの?」
「知りません」
ルミナスが目を丸くする。
「そこは普通、仲間になろうとか言うところじゃない?」
「あなたの人生を私に決めさせないでください」
「……変なの」
「ただし、【グラス・ヴェリタス】は返してもらいます」
「やっぱりそれなんだ」
「大事な物なので」
アリスは手を伸ばす。
「それから、もしまた消えても探します」
「見つからなかったら?」
「探し続けます」
「何年かかっても?」
「できれば数分にしてください。迷惑です」
ルミナスが笑う。
けれど、伸ばされたアリスの手には触れなかった。
「僕さ」
少年は自分の透けた身体を見る。
「誰にも見つからないの、好きだったんだ」
「ええ」
「怖い時に逃げられるし、一人なら誰にも捨てられない」
アリスは黙って聞いた。
「でも最近、消えるたびに思ってた」
ルミナスの目から涙が落ちる。
「誰か、見つけてくれないかなって」
アリスは手を伸ばしたまま答える。
「見つけましたよ」
「うん」
「ですから、次はあなたが決めてください」
「何を?」
「戻るかどうかです」
アリスは手を掴まない。
自分から選ばせる。
「私は探しました。ルシアンも、ヴェルトさんも、仮面さんも、あなたを見つけました。でも最後にこちらへ戻るのは、あなた自身の選択です」
ルミナスはアリスの手を見る。
長い沈黙のあと、少年が腕を伸ばした。
指先が触れる。
その瞬間、【NO OBSERVER】の文字に亀裂が入った。
アリスは左目を見開く。
「これは……」
自分は何もしていない。
【グラス・ヴェリタス】も手元にない。
それでも条件が崩れていく。
ルミナス自身が、「観測者のいない場所」を捨てたからだ。
「戻る」
少年の指がアリスの手を握る。
「僕、そっちに戻るよ」
【NO OBSERVER】が砕けた。
円形空間を覆う鏡が一斉に光を放つ。
底のない闇から銀紫色の光が噴き上がり、ルミナスの身体を足元から染めていく。
黒いデニム。大きめの黒紫のセーター。
銀紫色の髪。猫の耳。金色の瞳。
そして最後に、泣きながら笑う顔が世界へ戻った。
ルミナス・グリードが、アリスの手を握って立っていた。
その腰には【グラス・ヴェリタス】がある。
「返してください」
「今?」
「今です」
「感動の余韻とかないの?」
「剣を盗んだ事実は別問題です」
「ひどいなあ」
ルミナスは笑いながら剣を外し、アリスへ差し出した。
受け取った瞬間、黒い鞘が剣を迎えるように淡く光った。
「それ、似合ってるね」
ルミナスがアリスの軍装ドレスを見る。
「ありがとうございます」
「黒いし、怖いし、鏡みたい」
「最後は褒めています?」
「たぶん」
ヴェルトが二人の間へ割り込んだ。
「じゃあ、次は俺の財布」
「知らない」
「今すれ違った時、持ってったよね?」
「知らない」
「猫」
「帽子屋」
「返せ!」
ルミナスが走り出す。
ヴェルトが追う。
その横をルシアンが通り過ぎた瞬間、ルミナスがするりと手を伸ばした。
「おい」
「何?」
「俺のベルトに触るな」
「気づいた?」
「次は本当に潰す」
「騎士様、怖い」
「お前が言うな」
アリスは額へ手を当てた。
「仲間にするとは、まだ一言も言っていませんよ」
走っていたルミナスが止まった。
「え?」
「戻るかどうかを選んでくださいとは言いましたが、同行を許可した覚えはありません」
「ええ!?」
「まず盗み癖を直してください」
「無理」
「では置いていきます」
「待って!」
ルミナスが慌てて戻ってくる。
「努力するから」
「約束できます?」
「善処する」
「ヴェルトさんと同じことを言っていますね」
「それは嫌だな」
「俺も嫌だよ!」
ヴェルトの抗議を無視して、ルミナスはアリスを見る。
「一緒に行きたい」
今度は笑って誤魔化さなかった。
「理由は?」
「君たちといたら、次に消えても見つけてもらえそうだから」
アリスは首を横へ振った。
「それだけでは駄目です」
ルミナスの表情が曇る。
「見つけてもらうためだけについてくるなら、また同じになります」
「じゃあ、どうすればいい?」
「自分で見つけてください」
「何を?」
「あなたが行きたい場所を」
ルミナスはしばらく考えた。
「今は分からない」
「それなら、見つかるまで一緒に来ればいいでしょう」
少年が目を見開く。
「それ、仲間ってこと?」
「暫定です」
「けち」
「盗み癖が直れば昇格を考えます」
「何に?」
「正式な同行者に」
「仲間じゃないんだ」
「呼び方にこだわりますね」
ルミナスは笑った。
「だって、呼ばれるのって悪くないから」
アリスは一瞬だけ答えを失った。
やがて、彼の名前を呼ぶ。
「ルミナス」
「何?」
「行きますよ」
「うん」
それだけで少年は嬉しそうに笑った。
円形空間の正面で、巨大な鏡が音を立てて割れる。
その向こうに、深紅の森が現れた。
赤い空。黒い幹。
木々には巨大な獣の爪痕が刻まれ、遠くから狼の遠吠えが響いている。
泣き笑い仮面が呟く。
「【赤森狩猟区】」
「次の階層ですか」
「そうだよ」
アリスが一歩踏み出そうとした瞬間、ルミナスが腕を掴んだ。
「待って」
声から軽さが消えていた。
「どうしました?」
「何かいる」
森の奥。赤いフードを被った少女が立っていた。
手には、自分の身長ほどもある銀色の大弓。
矢はすでにつがえられている。
「伏せて!」
ルミナスがアリスを引いた。
矢が放たれる。
鏡面を突き破った赤い光が、アリスの黒髪を数本断ち切り、背後の壁へ突き刺さった。
着弾点から赤黒い蔦が爆発的に広がる。
ルシアンが断罪剣を抜き、ヴェルトがカードを構えた。
アリスも【グラス・ヴェリタス】へ手をかける。
鏡の向こうで、赤い少女が二本目の矢をつがえた。
「災厄候補、五名を確認」
冷たい声が森から届く。
「危険度判定を開始する」
ルミナスが【グリン】と【グリム】を抜いた。
先ほどまで誰にも見つからない場所へ消えようとしていた少年が、今度はアリスのすぐ隣に立つ。
「アリス」
「何です?」
「次は僕が見つけるよ」
「何を?」
金色の瞳が赤い森を見据えた。
「逃げ道」
「最初から逃げるつもりですか?」
「生き残るための選択肢は多い方がいいでしょ」
「それなら賛成です」
二人が笑う。
鏡が完全に砕け、第二階層【赤森狩猟区】への道が開いた。
その向こうで、赤ずきんが狼を狩っていた。




