第12話 親切な逃亡者
三本の爪痕は【虚像回廊】の奥へ続いていた。
鏡から鏡へ、一定の間隔で刻まれている。
途中で分岐しても必ず片方にだけ傷があり、アリスたちは一度も迷わなかった。
「親切な逃亡者ですね」
アリスが言うと、ルシアンは古い断罪剣を肩へ担いだまま爪痕を見る。
「罠ならな」
「罠を疑ってる人が先頭歩く?」
ヴェルトが尋ねる。
「罠なら俺が踏んだ方がましだ」
「騎士様、そういうところだけ格好いいよね」
「だけ、は余計だ」
軽口を交わしながらも、全員の警戒は解けていない。
アリスは最後尾を歩く泣き笑い仮面へ振り返った。
「仮面さん」
「何?」
「ルミナスは昔から、ああいう痕跡を残すんですか?」
右半分の笑顔と左半分の泣き顔を持つ仮面が、わずかに傾く。
「昔はもっと上手に消えていたよ」
「では、なぜ今回は?」
「それを僕に聞く?」
「知っている顔をしているので」
「仮面だけどね」
「誤魔化さないでください」
返事はなかった。
ただ、その沈黙だけで十分だった。
ルミナスには何かが起きている。
アリスは爪痕へ指を這わせた。
傷の深さが、少しずつ浅くなっている。
最初は硝子を明確に削っていたのに、奥へ進むほど細く、薄くなり、今では光を当てなければ見落としそうだった。
「……消えかけている?」
アリスの呟きに、泣き笑い仮面の足が止まった。
「何がです?」
「ルミナス自身が」
問い詰めるより早く、最後の爪痕が途切れた。
その先には巨大な円形空間が広がっていた。
壁も床も天井も、すべて鏡でできている。
中央だけが空洞になり、底の見えない闇が遥か下まで続いていた。
「行き止まりですね」
ヴェルトが覗き込む。
「猫は?」
「いません」
アリスは右目へ魔力を込める。
何も見えない。存在の歪みすらない。
「ルミナス!」
「ここまで誘っておいて逃げたか?」
「違うと思います」
「根拠は?」
アリスは最後の爪痕を見る。
そこだけ三本ではない。
二本しかなかった。
三本目は途中で消えている。
「痕跡を残せなくなったんです」
直後、鏡が一枚だけ笑った。
アリスは振り向く。
自分たちを映している鏡の隅に、白い口元が浮かんでいた。
猫のように吊り上がった笑顔。
「ルミナス!」
百枚を超える鏡へ次々と同じ笑顔が現れ、円形空間を取り囲んだ。
「気味悪っ」
ヴェルトがカードを構える。
笑顔が一斉に口を開いた。
『見つけた?』
無数の声が重なる。
ルシアンがアリスの前へ出た。
「姿を見せろ」
『騎士様、まだ僕を倒すつもり?』
「出口を開けるなら斬る必要はない」
『開け方、分かんない』
「お前が守護者じゃないのか?」
鏡の笑顔が一つ消えた。
『たぶん、違うよ』
「たぶん?」
『僕、この場所にいつからいるんだっけ』
もう一つ消える。
『守護者になった覚えもない。でも、僕がいると出口が開かないみたい』
アリスの中で、前提が崩れた。
「ルミナスが階層を守っているんじゃない」
鏡へ近づく。
「【虚像回廊】が、あなたを隠している?」
返事の代わりに、さらに三つの笑顔が消えた。
「仮面さん」
アリスは振り返らなかった。
「知っていることを話してください。今度こそ全部です」
長い沈黙のあと、泣き笑い仮面が答えた。
「【VANISHING GRIN バニシング・グリン】。ルミナスは自分の存在座標を、世界の認識から外せる」
「それは聞きました」
「問題は、使えば使うほど戻る座標が曖昧になることだ」
アリスは鏡を見る。
「どういう意味です?」
「人間は普通、自分がどこにいるかを疑わない。世界も、その人間がそこにいることを記録し続ける。でもルミナスは、その記録を何度も切ってきた」
泣き笑い仮面の左側から、透明な涙が落ちる。
「切りすぎたんだよ」
鏡の笑顔がまた消える。
『便利だったよ』
ルミナスの声がした。
『見つからなければ、殴られない。捕まらない。盗んでも逃げられる。嫌な奴が来たら消えればいい』
「ルミナス」
『でも最近、戻る時に考えるんだ』
笑顔が一つだけ残った。
『僕、どこに戻ればいいんだろうって』
アリスは息を呑んだ。
『ここへ来た時のことも覚えてない。誰といたのかも、何歳だったのかも、家がどこだったのかも忘れた』
「名前まで忘れていた」
『うん』
最後の笑顔が揺れる。
『誰も呼ばない名前なんて、覚えてても仕方ないでしょ』
笑顔が消えた。
鏡にはアリスたちだけが残った。
「ルミナス!」
返事はない。その時、アリスの左目が焼けるように熱くなった。
空間全体を覆う術式が浮かび上がる。
複雑な構造の中心に、一つだけ明瞭な条件があった。
――NO OBSERVER.「観測者が存在しないこと」
ヴェルトが振り向く。
「何?」
「【バニシング・グリン】の条件です」
アリスは術式を追う。
「ルミナスは、誰にも観測されていない時に存在座標を外せる。だから誰かが彼を明確に捉えている間は、完全には消えられない」
「じゃあ見ればいい」
「今は見えません」
「声は?」
「聞こえない」
「触るのは?」
「場所が分かりません」
循環している。
観測すれば戻せる。だが戻すための観測対象が存在しない。
「だから爪痕を残した……」
アリスは最後の傷を見る。
ルミナスは完全に消える前に、自分を観測できる情報を残していた。
逃げるためではない。追わせるために。
「見つけてほしかったんですね」
その言葉を口にした瞬間、すべてが繋がった。
わざわざ【グラス・ヴェリタス】を盗んだ。
姿を見せた。
名前を呼ばせた。
戦った。
消えた後にも爪痕を残した。
誰にも見つからない能力を持っている少年が、ずっと「自分を探さなければならない理由」を作り続けていた。
「面倒な人ですね」
アリスの声が震えた。
「見つけてほしいなら、そう言えばいいでしょう」
返事はない。
「アリス」
ルシアンが低く呼ぶ。
「どうする」
アリスは【NO OBSERVER】を見る。
【グラス・ヴェリタス】があれば、条件そのものを斬れるかもしれない。
だが剣はルミナスと共に消えている。
それに、たとえ条件を破壊しても意味がない。
ルミナス自身が「戻る場所がない」と思っている。
能力だけ壊せば救えるという問題ではなかった。
「観測します」
「どうやって?」
「私たちで」
アリスは鏡の中心へ向き直った。
「ルミナス!」
声を張る。
「私はあなたを探しています!」
返事はない。
「最初は【グラス・ヴェリタス】を取り返すためでした。次は、この階層から出るためです」
胸の奥にあるものを、そのまま言葉にする。
「でも今は違います」
無数の鏡に自分が映っている。
「あなたが見つけてほしいくせに、誰にも見つからない場所へ消えようとしているからです!」
鏡が微かに震えた。
「勝手に消えて、勝手に諦めて、それで誰も探さなかったみたいな顔をしないでください!」
どこかで、小さな光が灯った。
人の指先のように見えた。




