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8. 月命日の墓前

 月命日の朝は、よく晴れた。空は高く、風は乾いて、墓参りをするには上等すぎる日和である。


 墓地は王都の北の丘にある。石畳の坂を、花をひと抱えして上る。朝の空気は洗い立てで、坂の途中の糸杉で小鳥が鳴いていた。倍注文の白い花束――ではない。あれは伯爵家の註文で、こちらは私物である。野の白い花を、仕入れ値で一束。


「お花代は、身内価格ですの」


 誰にともなく言い訳をして、墓前にしゃがむ。


 立派になった白大理石に、私の名前が彫ってある。ヴェロニカ・リンデンタール。享年二十四。安らかに眠れ、と。


 眠っていないのだけれど。


 自分の墓碑銘(ぼひめい)を読む心地というのは、説明がむずかしい。怖くはない。悲しくもない。ただ、石に彫られた「ヴェロニカ・リンデンタール」の字面が、他人の名前のようにつるりとしていて、指でなぞっても、どこにも引っかからないのである。この名前で呼ばれた四年より、「ヴェラ」と呼ばれたこのひと月あまりのほうが、よほど手触りがある。


 伯爵家の倍の花は、すでに石の前に山と積まれていた。その脇へ、野の花をことりと置く。大仰な白百合の隣で、野の花はいかにも居心地が悪そうで、それがなんだか自分のようで、少し笑った。墓前の生花が絶えない、と近ごろ噂だそうである。絶やしていないのは、主にわたくしである。


 ――そのときである。


 砂利を踏む音がして、影が伸びた。振り向いて、扇を持つ手が半拍止まる。


 夫である。


 ダンクマール・リンデンタール伯爵。供も付けず、喪章だけつけて、亡き妻の墓前に立っている。むこうも私に気づいて、石のように固まった。


 墓と、私と、夫。三者面談である。当の墓の中身が立っているのだから、これほど間の抜けた構図もない。


「あ……」


「う……」


 沈黙の間、夫の額に汗が浮くのを、私は扇の陰から見ていた。よく晴れた朝で、坂を上れば汗もかく。かくけれど、あれは坂の汗ではない。


 先に折れたのは、あちらだった。


「望みは……何か?」


「はて……?」


 私は立ち上がり、完璧な礼を差し上げた。膝を折る深さも、首の角度も、婚礼の日に教わったとおりである。教わった相手に向けて使う日が来るとは、あの日は思わなかった。


「私は故人の遠縁ですの。――よい奥様でしたそうですわね。お棺が、ずいぶん軽かったとか」


 軽かった、のところで、夫の喉が上下した。言いたいことはいろいろあるのだろう。けれど言えば、その先に続く問いは全部、ご自分の首へ帰っていく。妻が生きているなら、あの死亡届は何なのか。あの葬儀は、あの棺の中身は、何だったのか。


 夫は口を三度開いて、三度閉じ、絞り出すように言った。


「……墓に、近づくな」


「あら。どなたの墓に、どなたが、ですの?」


 返事は、なかった。夫は(きびす)を返し、坂を下っていく。その背中が、倍に積んだ白百合の山を一度も振り返らないのが、いっそ見事である。


 ……あの人は、墓に詫びに来たのだ。


 花を倍にして、石を立派にして、それで帳尻が合うと思っている。詫びる相手は石の下ではなく、たったいま目の前で礼をした女だということは、考えの外らしい。石は文句を言わないから、詫び先として都合がいいのだろう。


       ◇


 同じ日の夕、リンデンタール伯爵邸に、みすぼらしい荷馬車が着いた。降りたのは数珠と鈴を提げた祈祷師である。曰く、屋敷の井戸が夜ごと鳴くのは障りの証。当主はすがるように頭を下げ、金貨で祓いを頼んだ。祈祷師は井戸を三度回り、鈴を振り、たいそう険しい顔で「根が深い」と唸ってみせた。なお井戸が鳴くのは、滑車が古いからである。油を差せば済むことに、金貨が一枚消えていく。


       ◇


 坂の下で、日傘が待っていた。


「お参りでしたか?」


 にっこりとほほ笑む彼。


「ええ。身内の墓ですの」


 彼は倍の花の話と、坂の上の鉢合わせの話を聞いて、少しだけ黙った。日傘の柄を持ち直して、それから、傘をこちらへ傾ける。


「ヴェラ嬢。故人に、昼食のご予定は?」


「……あら」


 思わず、まじまじと見上げてしまった。生真面目な顔は、いつも通りである。いつも通りの顔で、この人は、墓参り帰りの故人を昼食に誘っているのである。


「ございませんわ。故人の予定帳は、本日、昼から空いておりますの」


「では、埋めましょう」


 彼は嬉しそうに笑った。


 丘の下の食堂で、豆のスープを二皿。湯気の向こうで市場帰りの人足たちが笑い、匙が皿に当たって鳴る。墓前の静けさから一番遠い音の中で、スープはよく染みた。塩気と、豆の甘みと、竈の煙のにおい。生きている昼というのは、こういう味がする。予定帳の今日の日付に、『昼食』と一行が増える。墓参りと同じ頁に並ぶと、その一行はずいぶん、あたたかい字に見えた。


 ――帰り際、市場の噂がもうひとつ届く。曰く、「伯爵家に、新しい縁談があるらしい」。


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