第089話 出所
「…………」
第一印象は、頭から影を被ったような男。
太陽の光を背負ったようなルルワに対し、彼はそこにいて、そこにいないような――そんな存在だった。
黒よりも黒いような黒髪に、血を閉じ込めたような赤き瞳。
生物としてはありえない程に悪い血色と、病人のように暗い表情。
希薄な存在感と、皆無の生気は――まさに死人だ。
始祖カインの伝説とは、あまりに乖離した容貌。
アクレミアのイメージとも、対極にあるような姿だった。しかし――
確信。
アクレミアは彼こそが吸血鬼であると、確信した。
なぜ今まで気がつかなかったのかと、本気で己を疑うほどに。
その最たる理由は、やはり――
(こんな気配は……今まで見たことがない)
例えるなら、オオオォォォだろうか。
それとも、ゴゴゴゴゴゴだろうか。
幻聴が耳を掠めるほどに濃密な気配が、そこに渦巻いている。まるでこの世の全ての悪意が、人の形をしているようだった。
これほどの悪には、未だかつて出会ったことがない。
(これが……)
ムメイ・ヤレーアハ。
ダソスに再来した、伝説の吸血鬼。
「なんだよ吸血鬼って! 本当なのか!?」
「…………」
弾かれたように彼――ムメイから離れた男が、狼狽えた声をあげる。アクレミアはそんな偽吸血鬼たる男の言葉には返事も返さなければ、もはや視線すら向けない。
無論この対応は、恥をかかされたことへの意趣返し――などではない。非常に紛らわしくはあったが、己の勘違いの責任を擦り付けるほど、アクレミアは恥知らずではなかった。むしろそんなことをすれば、恥の上塗りである。
だから彼を無視したのは、そんな理由からではないのだ。ただ、目を逸らせなかっただけだ。
アクレミアはその存在から、一時も目を離せなかった。
その男――ムメイは、椅子ではなく吸血鬼であるという真実が発覚し、己の上に座る者がいなくなった途端、静かに動き出した。
厳戒態勢を取るこちらなど見向きもせず、自ら部屋の隅へと移動し、両膝を抱えるようにして縮こまったのだ。
そこが定位置であるかのように角に収まり、できるだけ目立たないように小さく丸まる。目は開いているが、その虚ろな赤き瞳は、どこを見ているのかも分からない。
生物とは思ない程に生命力というものが感じられず、なにより存在自体があまりに静かだった。しかし――
(間違いない。彼が……)
今のアクレミアたちは、悪の存在に対し、これ以上にないほどに優位な状態。なぜなら、これ以上は成すすべがないというレベルの完璧な準備と対策を施しているからだ。
にも関わらず、その気配だけで気圧されてしまう。
ただそこに座っているだけで、静かなる圧力。まだ戦闘にもなっていないというのに、押し寄せるのは圧倒的なプレッシャー。物理的な圧迫感が精神にまで到達し、みるみる心を弱らせていく。
今にも弱音を溢してしまいそうなほどだ。もし戦場で相対した場合は、アクレミアの第一声は「無理」になるだろう。それを口にする時間があるのかどうかも、ほとほと怪しい。
(これはもう……どうにもならない。わたくし一人の力では……)
かといって、国家の戦力を動員したところで、焼け石に水となる未来しかみえなかった。それこそ魔王の一人でも引っ張ってこなければ、お話にならないというレベルの絶対なる脅威。
アクレミアはイメージではなく、その肌で、具体的かつ正確な戦力差を感じとる。そのうえで、正攻法ではお手上げと断定した。だからこそ――
(お姉さまは……一体どうやって……)
唯一にして絶対なる、疑問。そして矛盾。
こんな化け物を、人が飼い慣らせるとは思えない。
人間なんかの命令を素直に聞いてくれるような存在では絶対にない。
例え勇者と言えど、魔王に首輪などつけられるはずが――
「おい……おい! 答えろよ! 吸血鬼ってどういうことなんだ!? こいつが本当にそうなのか!?」
王女への言葉としてはあまりに無礼な物言いに、兵士たちが声を荒げるが、他ならぬアクレミアが止める。吸血鬼ではないただの一般人だと分かった今、彼は本来口を利くことも許されない立場であるが、今は非常事態だ。
話を聞ける者が、この場には彼しか残っていないのだから。
「…………その質問にお答えするには、先にわたくしの質問に答えて頂く必要があります。もちろん、あなたに是非はございません」
「好みのタイプか?」
「違います」
アクレミアはムメイから目を逸らさず、横の壁あたりにまで後退した男に語り掛ける。ムメイはやはり、つまらなそうな顔で正面をボーと眺めていた。
この余りの反応の無さは、人間に興味がないのか、そもそも言葉を理解できないのか――どちらでもあるような気がした。
知的生物というより、野生動物――それも小動物に近い気配に、アクレミアは逆に気を引き締める。知恵はないはないで、非常に厄介だ。
「彼は7時間ほど前にここに入ったはずですが、今この時まで何をしていましたか?」
予め定められていた監察期間は7時間。臨時監察拘留としても異例の短さは、やはり両局面の堪忍袋と国の胃痛を天秤にかけた上での慎重な判断によるもの。
検討に健闘を重ねて、7時間。この時間でダソスは吸血鬼に関するあらゆる問題へアプローチする必要があった。その一つが、収容所内でのムメイの行動にある。
「何をしてたって……何もしてねえよ? 入ってすぐ今みたいに端っこで丸まってた。あとはさっき言った通りだ」
「そちらについて詳しくお願いします。念のために忠告しておきますが、これらは国家レベルの重要聴取です。公的機関を介していないからと言って油断はしないように。偽証をすれば罪が増えますよ?」
「じゃあ正直に言ったら罪を減らしてくれ」
「…………考慮します。それで?」
王女を相手に、それも椅子にしていたのが吸血鬼という事実が発覚した直後にも、この能天気。つい先ほどまで大きく取り乱していたようだったが、落ち着くのも早かった。
流石に複数の貴族や公爵家の令嬢にまで手を出すだけはある。命知らずというか、大した度胸だ。
「別に説明されんでも大体察しはつくだろ? 見るからに弱そうなチビが入ってきたんだ。そりゃ可愛がられるに決まってる。それとも、王女様には下々の遊びは分からないか?」
「余計な言葉は慎むことをお勧めします」
「可愛げがないな。こりゃ男と遊んだことも無さそうだ」
「…………」
アクレミアはこの時初めて、ムメイから目を逸らす。
男は視線を受け、観念するように肩を竦めた。
「最初は普通に小突くくらいだったが、こいつが抵抗しないどころか声も出さねえもんだから、逆に関心を買っちまった。そんでサンドバックコースだが、これまた面白いことに何やっても傷つかねえの。んなもんおもちゃにされるに決まってるだろ?」
男の話を聞けば、最初はちょっとしたお遊びだったらしいが、ムメイが何をされても無関心なものだから逆に興味を引かれてしまったらしい。
アクレミアの想像できる限りのあらゆる暴力行為が試された後に、便器に顔を突っ込まれたりもしたそうだ。こちらも平然と耐えるものだから、いよいよ完全に目を付けられてしまったと。
(命知らずですね……)
意図して同じ檻に入れたとはいえ、事情を知っているとやはり肝が冷える。本来命がいくつあっても足りない愚行だ。
攻撃は、レベル差があり過ぎて全く通らなかったのだろう。アンデッドは呼吸が必要ないため、水責めも意味を為さない。
多少の不快感を抱きながらも納得しつつあったアクレミアに、想像に及ばない話が舞い込んだのは、それからすぐのことだった。
「そんなこんなで遊んでたんだが、催した奴がいてさ。まあ割とイケる顔だし、薄眼で見れば女に見えなくもないだろ? それとも、男として好みだったのかは俺にも分からねえが」
「?」
催した。先ほど口にしていた便器代わりにされていたという話だろうか。
アクレミアが納得から遠いところをさ迷っている頃、周囲の兵たちは話を理解したのか、皆一様に顔を顰める。
男はそんな兵士たちの姿に共感するというように大きく頷くが、アクレミアの表情を見て僅かに目を見開いた。
悔しいが、こういった気づきの早さから、女慣れを感じさせる。願わくば、女心も分かって欲しかったが。
「…………お姫様にはまだ早かったかな? 要はこいつを掘ろうとした奴がいたってことだよ。だから俺がボコって止めたってわけ」
「…………」
遅れて、大きく顔を歪める。
犯罪者が収容される場所では割とよくあることと知識では知っていたが、実際に耳にすると不快感が凄まじかった。重大な何かを汚された気分だ。
王女になんて話を聞かせるのかと決して理不尽とまでは言い切れない怒りを抱くが、偽証するなと言った手前文句はつけずらい。
「な、椅子の方が幸せだろ?」
「なるほど。そこまでは見過ごせず、助けてあげたというわけですね」
「見過ごせずっていうか、見てられねえっていうか……他人のセックス見せられるだけでも地獄だろ? それを野郎同士とかどんな拷問だよ。刑を受けるにはまだ早いっての」
「…………」
話が終わったような気配に、アクレミアは今度こそ男を意識外へと追い出す。
そして全意識は、再びムメイへと。
(何を考えてるの?)
感情どころか、知性すら感じられないような気配。表情は常に固定され、瞳にも生気の色がまるでない。死体を冷凍保存したようだ。
さらには、生者に対する悪意、吸血衝動、捕食欲求、他生物への残虐性も皆無。どころか、興味関心すら感じ取れない。本当に何を考えているのかが全く分からなかった。何も考えていないと思いたいくらいだ。
(お姉さまの命令を忠実に守っている? 命令だから反抗しない?)
何らかの知性や感情がある者であれば、ここで行われたようなことは到底受け入れられるはずがない。そこに吸血鬼であるかは関係ないだろう。人間だって全力で抵抗する。
しかし彼は、この場でのあらゆる行為を受け入れた。それも、自分よりも圧倒的に弱い存在からの恥辱にだ。その気になれば、簡単に殺せるというのに。
このことから、彼にはそもそも選択権がないのだと逆説的に推察できる。
これがもし知恵あるものだったならば、主人である勇者に迷惑がかからないように、この国での己の立場を弁えて――など様々な理由が思い浮かぶが、おそらくそれはないだろう。
なぜなら、吸血鬼が人間からここまでのことをされて、黙っていられるとは思えないからだ。それも相手は、人間の中でも最底辺の犯罪者。魔王をこの位置に当て嵌めると非常に分かりやすい。いくら政治的な思惑や意味がある行為だったとしても、絶対にプライドが許さないはずだ。
アクレミアだって、仮に国のため、人々のためと言われても、そんな扱いは絶対に受け入れられない。絶対なる強者が、そんな立場に甘んじれるはずもなかった。
つまりは――
(死霊使いの力で縛られている。術は正常に機能していると考えていい)
先の考えと全く矛盾するようだが、そうとしか考えられなかった。
おそらく人間に危害を加えるな――そういった絶対命令が与えられているのだろう。だから抵抗できなかったのだ。
ルルワが死霊使いの力に特化しており、さらにその対象をムメイという個人にまで絞っていると考えれば、絶対に不可能とも言い切れない。勇者の力はまだまだ解明されていないことも多い。魔王に首輪をつけることも、もしかしたらできるのかもしれない。
結論ありきで自身を納得させるような思考だったが、もはやアクレミアにそうとしか考えられなかった。
まさかムメイ本人の意思で椅子やおもちゃの立場を受け入れていた――などという答えは、発想にすら上がらない。
なぜなら、あり得ないからだ。これほど強大なオーラを放つ巨悪が、人間に遜るどころか、人間のおもちゃの立場を進んで受け入れるなど。彼女の辞書に、そんな常識はなかった。
「それで、聞くこと聞いたら用済みってことはねえよな? 吸血鬼のことを知ってしまったからには……とか」
「ご心配なく。吸血鬼の情報は遅かれ早かれ広まるでしょう。彼は勇者のペット。あなた一人の口を封じたところで、もはや隠し通せるものではありません」
というより、もう噂は各国に広まっている。
ロータル大谷から吸血鬼の使役についての情報が届いた時は、ダソスを筆頭に世界が揺らいだものだが、それと同時に伝えられた魔人イコラオス撃破の情報が、良い緩衝材となった。
それほど、300年以上から君臨した伝説の魔人を打ち滅ぼした功績は大きい。
それから一月と経たずに二人目の使徒を撃破だ。これが大混乱を熱気に昇華し、緩やかな緊張へと世界を移行させた。慎重に見守らざるを得ないと、世論を無理やり落ち着かせたのだ。
だからなおのこと、吸血鬼を使役した勇者をどう扱うか、ダソスの動向に注目が集まっている。
「勇者って、世界一の美女ってあの? まじ? 羨ましいぜ、もう一匹募集してねえかな……」
「…………」
「ちょうど次は王族狙おうかと思ってたとこだ。なあお前、繋がりあんなら紹介してくれよ」
「…………」
無視。
興味を引かれて然るべき内容にも、この反応の無さ。そもそも言語を理解できていないのだろう。
男もそう判断したようだ。つまらなさを隠しもせず肩を竦める。
「彼女は諦めた方が良いと思いますよ? 望みがないので」
「分かってねぇなぁ……そういう女を堕とすのが、醍醐味なのさ。障害が多いほど恋は燃えるんだよ」
「…………」
それについては同意するところだが、ルルワをものに出来るかという話は全くの別問題だ。
アクレミアからしてみれば、あの姉が恋だとか愛だとか言っているのは、全く想像できない。たぶん自分に釣り合う男がこの世界にいるとすら思っていないだろう。仮に好きな相手ができたとしても、勇者の役目を優先して潔く諦めそうだ。
「まあ安心したよ。というかこんな危ないもん人間と同じ檻……いや国に入れんな。俺が言えたことじゃないが、付き合う相手は選んだ方がいいぜ」
「耳が痛いですね」
本当に彼が言えることではないが、本当に耳が痛かった。
再び会話を打ち切ると、アクレミアはその場から移動し、ムメイの正面に立つ。ムメイはそんなアクレミアの動きを目で追うようなこともせず、ただただ空を眺めていた。
「ムメイ・ヤレーアハ様ですね」
「…………」
反応はない。
やはり言葉自体が分かっていない様子。それとも、主人であるルルワから、他者との意思疎通を禁じられているのか。
もしそうなのであれば、この収容所内での態度と合わせても、主人の命令にはどこまでも忠実。絶対の忠誠心を感じさせる。術に抗うような気配もない。
「こいつ……喋れるのか? いやその前に、言葉分かんの?」
定かではないが、アクレミアのやることは変わらない。
与えられた命は、吸血鬼の解放。この任には、間違っても失敗など許されない。そのためにアクレミアが選抜されたのだから。この国で唯一ルルワと同じ立場である、アクレミアが。
「わたくしはあなたを解放しに参った者です。あなたを、この檻から出します」
「…………」
やはり無反応。人間の言葉は難しくて分からん――そんな顔がそこにはあった。
それでもなおアクレミアが言葉による説得を試みるのには、当然ながら理由がある。
仮に無理やり出したとしても、ムメイは抵抗しないかもしれない。いや、これまでは何をされても無抵抗だったのだ。今回だけ嫌がる可能性は非常に低いだろう。
しかし、そんな選択をするわけにはいかない。今後曲がりなりにも友好関係を作ろうとしている相手というのもあるが、無理やり入れて無理やり出したなんて事実は間違っても残せないのだ。
アクレミアは自分が指名された意味を、ちゃんと理解していた。
2000年前、吸血鬼に出し抜かれた王家の姫ミアは、勇者だった。
そしてミアと同じ立場にあるのは、ルルワだけではない。同じく王家の姫であり、勇者の血を引くアクレミアには、その歴史を払拭する義務と責任がある。
吸血鬼に翻弄されているようでは話にならないのだ。むしろ、この絶好の機会を活かし、王家の威信と力を今こそ見せつけ――
「キィ」
「「「っ!?」」」
そんな時だった。
吸血鬼が、鳴いたのは。
「「「…………」」」
室内のありとあらゆる視線が、吸血鬼へと向かう。当然だ。初めてレスポンスがあったのだから。
まるで全く未知の生命体と初めて意思疎通が成功したような快挙。静かなる興奮と独特の緊張が、空間を支配する。
そんな中、吸血鬼はなおも不動を貫く。
それどころか、まるで自分じゃないと言わんばかりの憮然とした表情だ。これまでと全く同じ姿、気配で、どことも分からぬ場所を眺め続けていた。
そうなれば、全ての視線はアクレミアへと集まる道理だ。一体何が起こったのか、これからどうするのか。そんな見えない圧力を含んだ複数の視線に、アクレミアは――
「…………なるほど」
「「っ!?」」
深く、頷いた。
「「…………」」
言葉を理解できたのか――そんな無言の気配にも、アクレミアは堂々たる態度を貫く。真っすぐに吸血鬼だけを見つめ、目を逸らさなかった。それはまるで、誰とも目を合わせないようにするかのように。
当然アクレミアに、吸血鬼の言葉が分かるはずもない。それどころか、なぜ今鳴いたのかすらよく分からなかった。
しかし、語り掛けたのはアクレミアだ。言葉を交わせるのか、それ以前に言語を理解できるのかすら分からない。その前提の上で尚、話しかけた。そして吸血鬼は、それに答えたのだ。
ならばここで「…………分からん」――などと言うことが、許されるだろうか。否、許されるはずがない。繰り返すが、アクレミアには勇者ミアの過去の汚泥を雪ぐ義務があるのだから。
恥の上塗りをしている余裕などないのだ。吸血鬼に翻弄される姫であってはならない。むしろ、上回るだけの素養を見せつけねば。
「そうですね……あなたの言う通りです。人に名を訪ねるならば、まず自分から名乗るのが礼儀。失礼を致しました」
アクレミアの余裕の態度に、幾多の尊敬の視線が集まる。
その間も、自分は吸血鬼よりも上位の存在であると、アクレミアは自身に言い聞かせ、それを絶対なる気配で示し続けた。
「まずは自己紹介を。わたくしの名は、アクレミア・シェメシュ。ダソス王国の第二王女にして、今は恐れ多くも、聖女の称号を預かっております」
「…………」
瞬間、初めてムメイが反応を見せる。
それは非常に僅かな動きだったが、アクレミアはその気配を見逃さなかった。
何が琴線に触れたのかは分からないが、興味を示したように瞳が開き、光を宿すように瞳孔が広がる。
そしてゆっくりと顔が上がり――今、アクレミアを見た。
「「…………」」
初めて目にしたアクレミアの顔に、ムメイの関心が集まる。それは、間違いなく食いついていると確信させるだけの凝視だった。
だがしばらくして、その視線はゆっくりと動き出し、今度は胸元で固定される。
そして――力なく、下へと落ちた。
「キィ……」
「…………」
その鳴き声の意味は、なぜだかアクレミアにも理解できた。
まるでため息でもつくような気配、やれやれと言わんばかりの空気。
何か言いたいことでもあるというのか。どの部分が気に入らなかったのか。はっきり言ってみろと思うが、当然表には出さない。
細かく痙攣するこめかみの動きを気合だけでなんとか沈め、アクレミアはにこやかに微笑んだ。
「ご理解いただけたかと思いますが、わたくしはあなたの主人と血を同じくする者です。決して怪しい者ではございません」
「…………」
「あなたの解放は、あなたのご主人様の意志でもあります。お姉さま――いえルルワは、上であなたの帰りをきっと待っておりますよ。出てきてはいただけませんか?」
「…………」
無視。
あっという間に元通りだ。もう興味はないと言わんばかりに、ムメイはアクレミアを視界から追い出した。
ルルワの名も出してみたが、反応はない。アクレミアの言葉は嘘ではなく、もうすぐルルワとアワンは出迎えに来る頃だ。
王家の娘二人が、ちゃんと吸血鬼をコントロールできていると示すためにも、それまでには何としてでもムメイをここから出しておきたかった。
だが簡単に釣れるのは、変わらずもう一人の男のみ。
「あーあ、全然なってねえな。ほんとなってない。んな口説き方で男が釣れるわけねえだろ」
「…………」
こちらはやれやれという空気と、呆れるようなため息を隠しもしなかった。物を知らない子供を見るような目で、アクレミアのことを見ている。
挑発に乗るほどアクレミアは子供ではなかったが、彼の経歴を思い出し、誘いに乗ることにする。決して馬鹿には出来ない実績だ。むしろこの状況では、渡りに船かもしれない。
「どうすればいいのですか?」
「何そんなとこで突っ立ってんだよ。まずはあんたも檻の中に入る」
「は?」
素直な問いへの答えは、予想だにしないものだった。
少なくとも、アクレミアの教科書には載っていない。
「は、じゃねえよ。あんたほんとに愛を知らねえんだな。いいか? まずは同じ場所まで自分から落ちなきゃ。あなたがいれば場所はどこだろうと構わないって――そういう姿勢を見せるんだよ。檻の中なんかおあつらえ向きだぞ? 俺なら喜ぶくらいだぜ」
アクレミアは自然と話に引き込まれ、男に視線を向ける。
だから気付かなかった。ムメイの視線も、男に向かっていたことに。
「檻から男を出したいなら、自分もまず檻の中に入る。そんで出てきてくれるまであんたも檻の中で過ごす。一生の覚悟でな。あとは落ちるまでひたすら愛を伝えまくるんだ。そしたら男はこう考え出す。『こんな檻の中じゃ、彼女は幸せになれない。一緒に出るしかない』ってな。要は覚悟のぶつけあい、根競べさ。なんにせよ……暗闇に飛び込む度胸がなきゃ、光なんか掴めるはずもねえのさ」
なんだその根性論は。女への理解が低い男の妄想としか思えない。
まず自分も犯罪者の立場に落ちてまで男を待つような女はいない。それも犯罪者の男をだ。檻での生活など以ての外だろう。それを一生の覚悟とか、笑い話にもならない。
「そんな馬鹿な事をする女が、この世にいるとは思えません」
同じ女として、断言できる。そんな女はこの世にいないと。それどころか、男と女が逆になったとしてもいないだろう。夢を見過ぎだ。
だが、アクレミアの確信の表情に、男はつまらなそうな顔を見せる。
馬鹿にするような笑いではなかった。むしろ、その視線は同情すら帯びていた。
「馬鹿ね……だから恋なのさ」
それは、悔しいが、アクレミアより遥か高みにいる者の言葉だった。
このことから、先の話に男も女も関係ないことがよく分かる。少なくとも彼は、そう見做していることが。
「愛に喧嘩も売れねえような小娘に、恋する女を馬鹿にする資格はねえよ」
「…………」
愛。そして、恋。
アクレミアはそれを知っていた。だが彼の言う通り、立ち向かわなかった。
見透かされている。これ以上なく。
アクレミアは、馬鹿にはなれなかったから――
「一人に絞ることもできない男には、愛を語る資格はあるのですか?」
「こりゃ一本取られた。参ったよ」
だから、その程度の負け惜しみしか言えなかった。
そんな時――
「っ!」
何かに反応するように、ムメイの顔が動く。
唐突に動いた彼の視線は、斜め上方のあたりを見ていた。
(なに……?)
まるでその方向から誰かに呼ばれたような反応。
それから数秒と経たず、彼は立ち上がった。そして――
「ん? おっ? ちょ、なんだよ!?」
男を、まるで荷物のように肩に担ぎ、檻の入口へと向かってきた。
大の男一人を軽々持ち上げる筋力に驚く暇もなく、ムメイは施錠された門の前へと辿り着く。
そして、錠の鍵穴を指さしたのだ。
「キー」
***
「――太陽……。こんなに眩しかったのか……」
「…………」
両手を広げ、空を仰ぐのは――偽吸血鬼。
間の悪いことに、吸血鬼と同じ檻の中に居合わせてしまった、あまりに吸血鬼然とした男だ。今も紛らわしいことを言っている。本当に紛らわしい。
そんな男がなぜ太陽の光を浴びられているのかと言えば、ムメイが檻から出る条件が、彼も一緒に出すことだったからだ。かなり面倒な手続きが求められたが、なんとか通すことができた。
後の複数貴族家との間に残った問題は、全て丸投げだが。
そんな棚からぼた餅で出所できた男の隣に並んで、静かに太陽の光を浴びるのが、本物の吸血鬼。
二人の男たちは今ようやく、本物の自由を掴んだ。だが――
「中も外も変わらねえ。俺にとっちゃ、少し檻が広くなっただけさ……」
吸血鬼は、太陽の光を眩しいとばかりに手を翳す。眩しくてこれ以上見ていられない。そんな情緒を感じさせた。
「馬鹿言ってんじゃねえよ! やっと出られたんだぜ俺たち! こっからやり直すって、お前も言ってたじゃねえか! 今度こそ真っ当に生きるんだろ!?」
そんな吸血鬼の肩を、偽吸血鬼は掴む。
迫真の気配で向かい合う男たちを、アクレミアは横から眺めていた。
「枷は外れた……。ただ……鎖が俺を、離してくれないんだ……」
「ムメイ!!」
(…………なんなの?)
何の会話なのか、これは。そもそも、喋れたのか。
なぜこの男は平然と吸血鬼とお喋りできているのか。それぞれ三日と7時間という短い収監で、なぜこんな空気が醸し出せるのか。
何もかも理解できない。もう何も考えたくないくらいだ。
アクレミアが現実から逃避している間にも、舞台のような現実は続く。
「見ろよ……迎えも来てない。当然だよな? こんなろくでなし……誰も待ってちゃくれねえよ」
「お前が迎えに行けばいいじゃねえか」
「どの面下げて……俺は、俺はあいつらを裏切ったんだ!!」
物凄く、感情豊かだ。
さっきまでのあの感じはなんだったのか。人間の言葉は難しくて分からん――みたいな顔は。
凄い喋るし、何なら下手な人間よりもいい表情をする。こんなに喋れるとは思っていなかった。喋れるなら最初から喋れと思う。
「おい……あれ……」
「え?」
男が彼女たちの存在に気が付き、ムメイの肩を揺する。
それは、希望への狼煙。
ムメイが顔をあげると――光が差し込んだように、彼の瞳が輝いた。
二人とも今初めて気が付いたかのような反応をしているが、この二人が外に出た時には、彼女たちはもうそこにいた。ムメイがその存在を確かに確認していたことも、アクレミアは見ていた。
「ああ……あ"あ"っ!!」
だから、まるでもう二度と会えないと思っていた人間に巡り合えたかのように、膝から崩れ落ちるムメイの姿に、言葉が出ない。
さっきからずっとそこにいただろと、当たり前のことを思った。
「待ってて……くれたのか!! 俺なんかを……!!」
地に両手をつき、ムメイは頭を抱えるようにして蹲る。
全身を震わせて喜びを表現する男に、女は柔らかく微笑んだ。
「お帰りなさい」
ルルワが迎えるようにムメイへと抱き着き、それにアワンが続く。
吸血鬼の魂を震わすような叫びが、収容区に轟いた。
そんな――誰がどう見ても感動の再会に、アクレミアは力なく、上を向く。
上を向くしかなかった。
(…………もう分からん)
たった7時間ぶりの再会。
人が変わったように情緒豊かな吸血鬼。
アクレミアはもう、考えるのを辞めた。




