第088話 模範囚
アクレミア・シェメシュ。
現ダソス王家の第二王女である彼女は、勇者ルルワの妹にあたる。腹違いの兄妹であったアベルとは異なり、彼女はルルワと同じ腹から生まれ出た子だった。
年齢は姉より二歳下の15歳。容姿は世界一の美女と名高きルルワにも引けを取らず、むしろ非常によく似た顔立ち。
しかし、勇者然としたルルワと、お姫様然としたアクレミア――顔は同じでも、両者が醸し出す雰囲気は全く異なった。
ルルワがいっそ男が近寄りがたく感じるほどの自立した女であるのに対し、アクレミアはその姉の背を追うように達観しながらも、どこか隙がある。そんな男の庇護欲をそそる生来の空気感と信仰の象徴という立場から、このダソスでは人気と支持を集めている姫だった。
ルルワが羨望や尊敬に対し、彼女に向けられる感情はもっと近く、親愛に誓い。王家の人気に一役買っている姫。それでいてこの年で壁へと到達した、紛れもない勇者の血筋。それが、アクレミアという王女。
そんな彼女は今、15年という短い生涯において――早くも絶頂に立たされる。
未曽有の危機と言い換えてもいい。長いダソスの歴史でも、史上初にして異例中の異例。
だがこれを実行できる者は、この国にはアクレミアをおいて他にいない。それ以前に、彼女の一存ではもはやどうにもならない王が勅命。
そう、彼女は今――
吸血鬼の解放へと、望んでいた。
「――気を強く持ってください。魔の者たちは心の弱さに付けこむとされます。それも相手は、伝説の吸血鬼。人の精神を操る術に関しては、この世に右に出られる者はいません」
「「「はっ!」」」
高い声を必死に制御し、自分では威厳があると思っている声色と顔つきで、アクレミアは部下たちに今一度活を入れ直す。
これまでにもう何度となく行われてきた忠告にも、今初めて聞いたような殊勝な態度を示すのは、この国が誇る最精鋭の術師たち。
悪魔や悪霊を祓う術に長けた祓魔師。
神聖な存在から啓示を受け、正しき道へと導く預言者。
奇跡の力で悪の力を退ける聖徒。
アクレミアがトップに立つ神殿勢力の中でも、最高位司祭――司教の地位を戴く彼らは、まさに対魔物に特化したスペシャリストたちだった。
「召喚の許可を」
「許可します」
三人のうちの一人、聖徒という職業に就く男が、召喚の許可を願い出る。
事前に打ち合わせていたことなので、アクレミアはすぐに肯首した。これはここの警備兵らに共有するための方便に過ぎない。それと、組織である以上規律という建前も重要だ。
もちろん王より術使用の許可は既に貰っている。ここで何をしようとも、アクレミアたちが罪に問われることはない。
「<天使召喚・中位の能天使>」
召喚術というものがある。
その中でも最も有名であり、召喚の代表にして極致と称されるものこそが、天使召喚と悪魔召喚。
天使召喚は目的天術師の頂点たる資質、目的因しか使用が認められず、悪魔召喚に至っては根源魔術師の中でも基本四大元素の複合系、愛憎属性しか使うことができない。
つまりは、術の中でも高次元存在の召喚は、超高等技術に分類されるのだ。そして使用者が端から絞られるのは、それに比例する恩恵があるから。
異界から招かれし天使と悪魔は、人を超える力を持つ。そして彼らがどこからやってくるのかという問題も、やはり人智を超えた。
中位の能天使。
天使の階級は大きく、上位、中位、下位の三グループに分類され、細かくは9段階とされる。
その中でもこの天使は下から四番目――中位階級に属し、常人が扱える最高峰の天使の一体とされた。
能天使の力は、悪なる力からの防衛。つまり神聖な守りに特化した天使。悪属性に分類される種族から与えられるダメージはことごとく大幅軽減し、さらにどんな攻撃であろうと一撃は必ず防ぐことができる。
極めつけは、それら力をパーティ全体に付与することができる点だ。だから召喚は基本一体で構わない。天使の召喚は、その戸口の狭さと難度の高さに反比例して、コストパフォーマンスが良かった。
「では、案内をお願いします」
「「はっ!」」
慣れ親しんだ部下とは異なり、王女から直々の言葉にかなり緊張した面持ちで答えるのは、二人の警備兵だ。
どこを警備する者達であるのかという疑問はアホらしい。それは当然、アクレミアたちがこれから赴く場所に決まっているからだ。
臨時拘束区。まだ刑や罪が確定していない者達を一時的に拘置しておく場所だ。
しかし、これから向かう特別収容所は、その中でも桁違いの被疑者たちが集められた場所でもある。
要は、国でさえ慎重に判断せざるを得ないレベルのことをしでかした者達というわけだ。想定される罪が重すぎて、まだ刑を実行できないものたち。逆説的だが、ムメイという吸血鬼と同じ場所に入れられていることから、どれほどの厄介事をしでかした者達かが分かる。
「こちらです」
アクレミアたちは予め、王城の儀式場で神への祈りを済ませ、大規模天術によって様々なバフを済ませている。
ここで簡易的に行える天使召喚とは異なり、長時間の祈りと詠唱によって実行された――戦争もかくやとばかりの事前準備は、その可能性もあるとダソスが見做しているからに他ならない。
しかし表向きは解放という名目なのだから、ぞろぞろと軍を率いるわけにはいかない。
だからこその少数精鋭。この国きっての天術師たちによる、満を持した特務だった。しかし――
「で、殿下……」
「…………」
臨時拘束区に立ち入り、特別収容所内に一歩踏み込んだ瞬間、一人、二人と足が止まる。それはバラバラのようで、同時だった。揃って、その場で立ちすくむ。
不思議そうに振り返ったのは、案内の警備二人だ。彼らが意味を理解できないのは当然。なぜならムメイが収容されている最奥に当たるフロアは、本当にまだまだ先であるのだから。しかし――
(…………ありえない)
天術師の中でも、対悪属性――アンデッドだったり、悪に偏った種族であったり――に特化した職業に就く者達には、その存在の悪性の多寡を判別する術が与えられる。
どの程度の聖エネルギーを注ぎこめば対象を祓えるのか、測るためだ。
その悪のエネルギーを視覚情報で捉えられる術は、敵の力量を測る上でも大いに役立つ。この力の恩恵は、それこそ計り知れない。対象は限定されるが、戦う前に相手の強さをある程度知ることができるのだから。だが――
(…………化け物)
アクレミアはその力を、今日ばかりは喜ぶことができなかった。莫大な恩恵が、この時ばかりは弊害となったからだ。
曲がりなりにも壁へ到達したアクレミアに対し、これ以上先へ進みたくないと思わせるほどの、絶対なる悪のオーラ。
それも、この距離でこの強大さ。実物と相対した時、まだ正気を保てているかは神のみぞ知るところだろう。
まさかまだ姿すら見えていない段階で心を折られるとは、想像だにしていなかった。
チラリと周囲を伺えば、そこに何かいるのではとばかりに正面を凝視し、石のように固まる司祭たち。言葉も出せず、動くことすらままならない。脂汗を大量に滲ませ、武者震いとは別の要因で体を震わせる。
そんな彼らの子供のような姿を、アクレミアは笑うことはできなかった。むしろ誇らしく思うほど。
怯えているのは、彼らが優秀だからだ。恐怖しているのは、彼らが強者だからだ。
この絶対的距離は、ある程度高みに到達している者にしか分からない。彼らだからこそ、この絶望を感じ取ることができているのだ。
(これが……吸血鬼)
予想はしていた。だからこその、予想外。
アクレミアは己の想定を容易く超えてしまった怪物を前に、作戦の実行を改める段階にまで精神を強制的に引き戻される。
しかし――
「参りましょう。あなたがたの信じる神に、恥じない姿を」
今この場で実行することに関しては、変わらない。
吸血鬼を檻から出さない限りは、何も始まらない。物語は前に進まないのだから。
部下たちを叱咤することで、己の精神にも活を入れる。信仰を引き合いにした激励は、司祭たちの心にも確かに届いた。
当然だ。アクレミアはこれが一番効くと分かっていて、その言葉を選んだのだから。ズルいとは思うが、信仰こそが人の強さ。そして矜持を説くのは、アクレミアに与えられた当然の権利と開き直る。
しかし、絶対なる神への忠誠心で心を補強してもなお、一歩進むごとに、精神がやすりで削られていくような感覚。緊張は極限を超える。当然だがそれに近づけば近づくほどに悪のオーラは濃縮し、精神へのプレッシャーも増した。
そんな時間が10分ほど続き、アクレミアたちはようやく目的地へと辿り着く。今まで生きてきた中で最も長い道のり、そして最も長い時間だった。
「こちらです」
案内に示される前から、そこが到着地点だと、アクレミアには分かっていた。なぜなら強大なる悪のオーラ――その根源が、そこにはいたから。
近づくほどに濃くなっていた気配は今、一点に凝縮されている。それは、この世の不吉と不幸をたった一人の存在に閉じ込めたような、絶対なる悪の気配。
「なっ!? こ、これは――!?」
しかし警備たちの動揺は、アクレミアたちの見ている世界とは異なる部分からだった。アクレミアも遅れて、その現実を確認する。
眼前には、硬質な鉄の柵。
その先の無機質な空間を見渡せば、湿った石壁、錆びた鉄格子、冷たい石床。アクレミアは収容区に来るのは初めてだったが、予想を超えるものではなかった。人から外れた者達が行きつく場所にしては、思ったより綺麗だと思ったほど。
そんな広くもゆとりはない空間の床には、倒れ伏した数人の男たち。
そして最奥中央の辺りには、何かに腰掛ける男が鎮座していた。
「殿下、攻撃の許可を!」
「危険です! お下がりください!」
想定外の現状に、極限にまで達していた緊張は易々と頂点に達し、そして突破する。
吸血鬼が人間に手をあげているのだから、それも当然だろう。しかしアクレミアは、まだ許可を出さない。
人間と同じフロアに収容したのは、こういった事態を誘発するためでもあった。どちらの結果を求めていたかは定かではないが、ただ分かるのは、この現状はアクレミアにとっては都合が悪いということ。
だから、まだ吸血鬼の仕業と決まったわけではないという定型句で、アクレミアは部下たちを宥める。しかしこの様子を見れば、望み薄だが。
「ん? お客さんか?」
こちらの気配に気づき、顔をあげた男。
強大なる悪のオーラは、その男から立ち昇っていた。
「おい、進め」
薄暗い室内の最奥に陣取っていた男は、ゆっくりと歩み出てくる。いや、よく見れば違う。進んでいたのは彼ではなかった。
動き出したのは、彼が座っていた椅子だ。その椅子の正体は、人間。
つまりは――人間を椅子に使い、そして今は馬のように歩かせているのだ。この時点で、アクレミアの中で答えは一つとなる。人にあるまじき鬼畜の所業。この男こそが――
「お? よく見ればべっぴんさん。俺の弁護人であってほしいね」
ムメイ・ヤレーアハ。
勇者ルルワのペットにして、2000年振りにこの国へと訪れた――吸血鬼。
「彼らはあなたが?」
アクレミアは強い意志を保つように、背を正し、胸を張る。
相手は伝説の存在。付け入る隙を見せれば、瞬く間に精神支配の餌食だ。この絶対なる気配を見れば、油断などできるはずもなかった。
「ん? ああ……」
男は床の惨状を横目にしながら、軽く髪をかき上げる。
殺気だった術師数人を前にして、この余裕の態度。
アクレミアはそんな男の視線が逸れた隙に、彼の姿を盗み見る。
薄暗いが、まず目につくのは何より、その圧巻の容姿だ。
暗闇の中にあって光を放つような輝かしい美貌は、男性ながら妖艶な色気を放っており――例え興味が無くとも、異性であればどうあっても目を引かれることだろう。
それに加え、魂をくすぐるような美声がこの距離でも染みこむ。仮に耳元で囁かれれば、若い女であれば簡単について行ってしまうような甘い毒だ。
どこか危険な空気を放ちながらも、妖しい色気を纏う美男子。伝説通り。もはや確定的だった。
「新入りをよってたかって虐めてやがったんでね。見てられなくってさ」
「…………」
男は指し示すように、ポンポンと椅子の頭を叩く。
見下ろせば、四つん這いで蹲るのは青年――いや少年のようだった。顔が見えないので何とも言えないが、体つきから見てまだアクレミアと同年代というところだろう。
目の前のムメイも若々しいが、そんな彼よりもさらに一回り若い。吸血鬼への恐怖で逆らえないのか、それとも純粋な暴力で従わされているのか、彼は無言かつ不動で椅子の役割に徹していた。
「まあ俺もここじゃ新参なんだが、だからこそこうして友好を深めてるのさ。それに、あんたと目線を合わせて喋るには、どうしても椅子が必要だろ?」
「友好……ですか?」
この扱いは、とても友好の印とは思えない。
それどころか、人間をどのように見做しているのか、先んじて示されているようだった。人のようで、確かに人ではない。化け物の精神性を。
「痰壺や便器に使われるよりは、マシな扱いだと思わないか? 何されてもやり返さねえもんだから、親切な俺としてはやっぱりほっとけねえのよ。分かってくれるだろ?」
「…………」
そう言われると、まだ温情があると思えてくるのだから不思議だ。
つまり椅子に徹している彼は、今の今までそんな目に合わされていたということだろう。この点において、吸血鬼の非人間性を責めることはできない。なぜなら床に転がっている者達は、吸血鬼ではなく人間だからだ。
だからアクレミアは、降りるように言うべきか、迷う。
まだ同年代の子供とはいえ、ここに収容されていることを考えれば、彼も相当のことをしでかした重罪人なのだろう。
しかし檻の中にも守るべきルールがあるのは確か。収容者に手を出すことは重罪にあたる。ならばこそ上に立つ者としては、これを見過ごすわけにはいかない。
ただここで邪魔をするのが、やはりこの国においてのムメイという吸血鬼の微妙な立場。
この程度の問題は些事と握りつぶす方が、ダソスという国にとってもアクレミアにとっても、結果的には都合が良いのだ。
幸い死人は出ていないようであるし、ここには回復を行える術師も揃っている。警備の二人を口留めすれば、大ごとにはならないだろう。
虐められていた子供を助けたという表向きの大義もある。こう聞くと吸血鬼にしては良いことをしていると思えてくるのだから、不思議だ。今も尚人間を椅子にしているが。
アクレミアはヤンキーが良いことをすると――という現象を、初めて体感する。これを超える例は今後出てこないだろうと、今から確信していた。
「俺はそんなことよりも、あんたのことが気になるんだけどな。そろそろ名前くらい教えてよ。口説けないだろ?」
そんなアクレミアに対し、吸血鬼はやはり余裕綽々の態度を崩さない。
それどころか、ここぞとばかりに自ら寄ってきた獲物を品定めする。
顔から体にかけて、じっくりと舐めるように下っていく視線を、アクレミアは好きにさせた。物色と視姦を隠さない無遠慮な視線だったが、不思議と生理的嫌悪感にまでは至らなかった。むしろ少女に自然と女を意識させるような視線には、吸血鬼の真価の一端を見せつけられたと思うほど。
「流石は吸血鬼ですね。場所も相手も選ばないということでしょうか?」
「吸血鬼とはご挨拶だな。不幸な女に幸せを届けてやってるんだ。せめて天使と呼んで欲しいね」
「…………」
世界の救世主たる勇者を口説き落とした事実を、歯牙にもかけない傲慢な態度。
天術師を前に天使を侮辱する挑発的言動。美しい容姿、堂々たる気配。何より圧倒的な悪のオーラ。まさに伝説通り。
間違いなく、この男こそが伝説の吸血鬼。アクレミアは確信を超える核心へと至った。
しかしそんなアクレミアの態度に慌てた様子を見せるのは、警備兵たちだ。
彼らは先ほどまで、何かを探すように床に倒れた収容者たちを一人一人凝視していたが、途中で何かに気が付いたように、もしくは何かを見つけたようにムメイで視線は固定された。
その時の気配の大きな揺れには、流石にアクレミアも気づいたが、その後間違ったものでも見るように飛ばされる視線にまでは、気づかない。
そんな彼らは、今はこちらの気配を窺うように視線を交わし合っている。それは、互いに嫌なことを擦り付けているような姿でもあった。
だがアクレミアは、国を揺るがすほどの絶対なる個――ムメイ・ヤレーアハに意識を割かれ、それに気づかない。周囲の術師たちも同様だ。この絶大なる気配を前に一瞬でも目を逸らすことなど、できるはずもなかった。
「それに相手は選んでるつもりだよ。俺が手を出すのは……俺のことを心底求めている女だけ。今の君のようにね」
「…………やはりあなたは、吸血鬼です」
一国の王女を、それも二人目を口説く胆力と節操の無さは、まさに吸血鬼だ。
檻の中にいることなど関係ないとばかりの、匂い立つような自信。過去数々の女たちを、その能力でものにしてきたことが伺える。吸血鬼という種族に対する誇りと威厳が、その姿には現れていた。
アクレミアはさっさと用事を終わらせてしまうことにする。これ以上彼のペースに乗せられることは、危険だと。
「我々はあなたを解放しに参りました。条件付きの釈放となりますが、よろしいですか?」
「どの子が頑張ってくれたのかな? それとも、やっぱり君が? なんにせよ、誤解が解けたのならよかったよ」
その姿は、この展開を読んでいたような気配だった。
ルルワが必ず出してくれると信じていたのだろう。それともダソスが本気で事を構える気はないことまで、察していたのかもしれない。
アクレミアが一人納得している間も、警備たちの気配は揺れ動く。まるで状況の好転を信じて見守っていたら、行くとこまで行ってしまったと慌てて動き出すように。
「そうですね。今回のことは、不幸なすれ違いと言わざるを得ません。我々の手違いによりあなたをこのような場所に――」
「あ、あのぅ……」
だが流石に、これ以上見過ごす程彼らも馬鹿ではなかった。
一人が多大なる勇気を振り絞り、アクレミアに声をかける。
「どういたしましたか?」
流石に横から声をかけられて気づかない程、アクレミアも周りが見えていないわけではない。警戒を部下たちに任せて、快く応対した。
「あの……その男は、違うかと……」
「違う? どういう意味でしょうか?」
発言の意味が分からず、アクレミアは真剣に問いただす。そんな表情が怒っているように映ってしまったのか、ただでさえ慌てていた兵たちの表情は、さらに蒼褪めた。
アクレミアは怖がらせないように表情を緩め、もう一度優しく問いただす。すると、しどろもどろながらも、意味のある言葉となった。
それは、アクレミアには完全なる予想外の、衝撃の事実。いや、到底信じがたい真実だった。
「その男は、殿下の目的とされている者では……ないかと思われます。お、おい……」
肘で突かれたもう一人が用紙の束を取り出し、読み上げる。
それはここに収容された者達のデータだった。
「こちらの男は、三日目に収容されたばかりの特別拘置者です。複数の貴族令嬢らがこの男の毒牙にかかり、貴族社会では名が知れ渡っておりました。先日公爵家の御令嬢にも手を出したことが公となり、ようやく国家級不敬罪と見做されまして……」
後ろめたさ、申し訳なさを隠しもしない二人の態度に、アクレミアは反応できない。一国の王女としてはあまりにはしたなく、そして情けない姿だったが、目を見開き口を開き、呆気にとられることしかできなかった。
救いがあるとすれば、三人の部下たちも同じような姿だったことだろう。後ろに控える天使も同じだったかもしれない。全員が全員、今何が起きているのかを分かっていなかった。
「べ……別人? いえ……吸血鬼ではない?」
盛大な勘違いがやはり信じられず、アクレミアはもう一度念を押す。
なぜなら強大なる悪のオーラは、彼から放たれているのだ。今だって眼前から絶えず吹き上がっている。信じられるはずもなかった。
「吸血鬼? おたくら、さっきから何言ってんだ?」
男もようやくすれ違いに気が付いたのか、怪訝な表情を浮かべる。
そんな中、アクレミアの言葉をもっと詳細な情報を寄越せという命令と勘違いしたのか――兵士はページを捲り、慌てて言葉を続けた。
混乱は、伝染する。
「恐ろしいのが、これらは全て相手方の同意があったということです。現に、彼の解放を求める娘たちの声は今も止まらず、国もその対応には手を焼いており――」
「そ、そんなことは聞いておりません! で、では吸血鬼は!? 吸血鬼は一体どこにいるというのですか!?」
いよいよアクレミアは、動揺を隠すことができなかった。
床に倒れている者達。椅子にされている少年。そして目の前の――あまりに吸血鬼然とした色男。
この空間内にあって、答えは一つしかないはず。その答えが誤りだというのであれば、一体どこに答えはあるというのか。
混沌に支配されたこの場。それぞれの焦りは加速し、急速に交じり合う。そしてこの独特の緊張感は、幾多のすれ違いの果てにようやく――結末へと辿り着いた。
「「…………」」
警備二人の視線が、ゆっくりと動き出す。
ほぼ同時に辿り着いたのは、やはり眼前の男だ。しかし、厳密には違った。なぜならその視線を向けられたはずの男が、自分ではないとすぐに示したのだから。
偽吸血鬼男は、ゆっくりと自身の体を見下ろす。いや、もっと下を。
アクレミアたちの視線も、つられるようにその場所へ。
「…………」
そこにあったのは、椅子だ。
圧倒的強者――吸血鬼に腰掛けられた被害者。このフロアで虐められていたという、今この場にあって最も可哀そうな人間。
「…………」
目元を覆い隠す黒髪が、僅かに流れる。
こちらを見上げる赤き瞳と――今ようやく、目が合った。




