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吸血鬼転生~最強なのに太陽の光で死ぬ俺は、唯一の希望”処女の血”を吸わせてもらうため、お姫様勇者のペットへと成り下がる~  作者: 兄貴
第一章 約束の丘の祓魔姫

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第081話 鬼治血


『アワンの意思だ』


『二人の命よりも、俺は二人の意志が大事だ。いつか死ぬその日まで、皆で心から笑って――生きていたいから』


『彼女を間違いにしないために――俺は今、お前と戦ってるんだ』


『お前がこの世に生まれてきたことは、絶対に間違いじゃない』


『なんでって……友達だろ?』


 大切なのは、命よりも意志。

 人には心があるから、その命に価値が生まれる。


 偽りの命、偽りの心を持つ――吸血鬼ならではの独自的死生観。

 譲れない信念の名のもとに、友をその手にかけることで、大人の責任をようやく果たした男。

 そしてアワンという少女の未来を獲得し、これからは、そんなかけがえのない仲間たちと共に、この世界を笑って生きていくはずの男は、今――




「…………死にたい」




 ――死にたくなっていた!!




「死のう」


 死!!


 もうかれこれ三十分以上は同じような自問自答を繰り返している男こそ、皆さんご存じ俺だ。これからも死のうとか死にたいとか言ってる奴がいたとしたら、当然のごとく俺だと思って欲しい。情けない話だし誠に遺憾ではあるのだが、そんな奴は十中八九俺だ。


 俺が俺である理由の説明の前に、まずはここに至るまでの状況からだが――俺が森以来の死ぬ死ぬ詐欺を敢行できていることからも分かる通り、今の俺は生きている。

 つまりは太陽の脅威からなんとか逃れ切れたということだ。俺はこういった点だけはゴキブリ並みにしぶとい。

 これからもゴキブリみたいな生命力でギリギリを生きている奴がいたとしたら、それは軒並み俺だと思って欲しい。速いし黒いし小さいし何やっても死なないしで、ほんとにゴキブリみたいな俺だったが、どうかこれからも温かく見守って欲しい。あとゴキブリ言い過ぎだ。


 そんな1匹見つけたら100匹いること俺だが、どうやって太陽の脅威から逃れられたのかと言えば、答えは単純。大地の下に逃げた。

 つまり今の俺がいるのは、土の中というわけだ。それも光が一切届かないような、地表から数メートルという世界で、今も幼虫みたいに丸まっている。

 呼吸の必要ない吸血鬼だからこその緊急避難所。本来は聖域の洞窟に逃げ込もうとか考えていたため、本当に緊急も緊急の避難所だった。

 こうして不本意にも成虫から幼虫への逆不完全変態を遂げている俺だが、お前は完全に変態だろという本当に不本意なツッコミには耳を塞ぎながら、そろそろ回想の方に入っていこうと思う。俺だってなぜ幼虫になったのか、なぜ変態になったのか、言い訳くらいはしておきたいからだ。

 

 時間は、ルルワの血が完全に無くなる直前の――1分のタイムリミットにまで遡る。

 突如として空へと浮かび上がった聖域。その遥か上を取った俺の高度は、おそらく上空1万メートル付近にまで到達していたことだろう。

 そんなまさに神の領域とも言うべき場所から落とされたのが、俺の新必殺技<赤天の霹靂(アルナ・ショファル)>。

 残りの全魔力を注ぎ込んだ超大規模雷は、おそらく地球で観測された歴史上最大規模の記録を易々と塗り替え、満を持して異世界へ。

 現にその雷は、ユウキを聖域もろとも消し飛ばし、高度一万メートルからそのままコイラスの大地へと下った。

 まあ何はともあれ、こうしてコロノスに続いた悪夢。そしてユウキとの長い長い戦いは、終幕を迎えたというわけだ。


 そしてここからが本題。これで一件落着かと思いきや、そこから大変だったのが勝者のはずの俺だった。

 なぜならあの時の俺には翼がなく、とにもかくにも時間がない。その時には消滅までの残り時間は、一分の大台を切っていた。

 厳密な死へのカウントダウンは、数にして実に42回。

 普通に考えれば、死だ。太陽に焼かれてそのまま空で灰となる。

 なぜなら高度一万メートルから大地まで、42秒で帰ることなど、常識的に考えて不可能だからだ。その最大の理由が、空気抵抗。重力が定める、落下速度の上限値の存在。


 だがそこは異世界から紛れ込んだゴキブリ。生命力と運だけは神でも悪魔でも計り知れない。300年間しぶとく生にしがみついてきた男は、森の外でも一味違った。

 自分から嬉々として死地に飛び込んでおいて、みっともなく生に足掻くという個人完結型マッチポンプ吸血鬼こと俺は、まず自身の落下姿勢を極限まで絞った。

 両腕を体側面に密着させ、つま先をピンと伸ばし、頭から空へと落ちる姿――まさにペンギンの入水。吸血鬼なのに空を飛べない俺には、ペンギンはまさに言い得て妙の例え。

 出来るだけ空気抵抗の影響を受けない形で、終端速度を少しでも引きあげる。しかしこれだけでは、到底42秒以内の帰還など叶わない。


 そこに加わったのが、雷の力。そして背中を押したのが、世界の力。

 超大規模落雷<赤天の霹靂(アルナ・ショファル)>の影響の中でも特筆すべきその温度で、瞬間的に空気が膨張。続いて空気密度が極端に低下。

 つまり俺の落下ルートに限り、瞬間的に空気抵抗が下がり、それによって終端速度が引き上がったのだ。俺が最短最速で大地まで帰る道が、意図せず出来上がっていた。

 そこに駄目押しとばかりに加わったのが、運よく自然発生した下降気流ダウンバースト。これに背中を押される形で、俺は不可視の落下トンネルへと飛び込んだというわけだ。

 その姿は、ファーストペンギンならぬファストペンギン。氷の上じゃなくてもスベれるのかというまさに氷のようなツッコミが耳に痛いが、実際そういう心境だったのだから仕方がない。裸一貫の覚悟で、俺は頭から生還トンネルへと飛び込んだのだ。

 ちなみに北海道に野生のペンギンはいない。某祭りのCMで北海道の氷の上をペンギンがテクテク歩いていたのを見て、日本の野生にもペンギンがいるのか~などと純粋な子供心を輝かせていたのは、今となっては良い思い出だ。

 俺にもそれくらいカワイイ時代はあった。今は自分がペンギンになった。違った、ゴキブリだった。

 

 こうして、残り時間42秒ギリギリで大地に駆け込み入水したファストペンギンこと俺は、当然ながら(?)ほぼ無傷。今更大型ダンプの最速クラッシュ程度の威力で悲鳴をあげるような俺の体ではない。そんな脆さでゴキブリを自称するほど、俺も厚顔無恥ではないつもりだ。顔から大地に突っ込んでも無傷なくらいには厚い顔だが。

 そんな恥知らず害虫こと俺は、聖域遊覧飛行によってできた大型のクレーターに小さなクレーターを重ねながら、流れるようにペンギンからモグラへと移行。

 死に物狂いで大地を掘り進み、太陽の光の届かない地面の下へと逃げたのだった。


 そして、今に至る。 

 人間→吸血鬼→ゴキブリ→ペンギン→モグラ→幼虫という、輪廻転生型完全変態を遂げ、現在土の中で一人丸くなっているのが、俺だ。

 この世界の物理法則が前世地球と全く同じなのかは俺にも分からないし、そもそも物理学というものが存在するのかすら定かではないが――何はともあれ、俺は常識では不可能なレベルの最速帰還を遂げることに成功したのだ。

 これがおおよその顛末。あまりにも主人公にあるまじき情けない姿は、もはやご愛嬌だろう。

 それはいいのだ。俺が情けないのなんかいつものことだ。俺自身正直見飽きてるし、何なら見せ飽きてもいる。

 ならば何に対し、俺がこんなにも落ち込んでいるのかと言えば――


『やるよ。ちょうど餞別を悩んでたとこだ』


 酔った勢いで、弟分に高級時計をあげてしまったことだ。


(んもおぉぉっっ!! 馬鹿野郎おぉぉっっ!!)


 俺は正味30分ほど前の酒の場での過ちをまた思い返し、何度でも思い返し、そして何度でも頭を抱える。

 正直もう、このまま土の中で永遠に丸まっていたいほどだった。


 <反教底位パラダイス・ロスト>、<一触即動タッチ・アンド・ムーブ>、<浪漫非行イカロス>、<日神月歩ムーンウォーク>――。

 俺の代名詞とも言うべき4つの強能力。<公序陵辱イリーガル・ムーブ>と<美意識過善カロカガティア>を除いた種族的能力の全てを――


 永遠に、失ってしまった。


(…………死のう)


 悶絶しながら土の中で暴れまわれば、再び膝を抱えて丸まり、幼虫と化す。


 やってしまった。またカッコつけてしまった。

 その程度の損失俺は気にも留めない男です――みたいな顔を見せてしまった。凝りもせずまた大物ぶってしまった。

 だってあんなにカッコイイって言ってくれるんだもん。キラキラした目で見てくれるんだもん。かっこ悪いとこ見せれないじゃん。「頼む!! 返してくれぇぇっっ!!」――なんて言えるわけないじゃん。死に際にそんなカッコ悪い姿見せられたら、俺なら死んでも死にきれない。

 本当は言いたかった。今からでも入れる保険はありますか?って聞きたかった。全額返金保証対応はなかったか、最後まで確認したかった。何かの間違いで一部でも返金されないものかと、ギリギリまで粘りたかった。

 だが俺は結局、いつもの通りに見栄を取ってしまった。カッコつけて生きていく――それが俺だった。


(この痛みは……そうだ。高校の頃財布をトイレに忘れて、2万円スられた時と同じ痛みだ……)


 本屋に行くとなぜか大便がしたくなる。その現象の渦中にあった俺は、本をレジに持って行く過程で自身の財布が見当たらないことに気付いた。

 10分後だったか。慌ててトイレの個室に戻った時には、財布だけがそこに残り、中身の札は全て抜き取られていたのだ。

 あの時からだ。俺が明確に人間を嫌いになったのは。悪事を働くならいっそ財布ごと持って行けよ、なんだその中途半端な優しさは――と思ったのは。


 あの頃はそんな人間は絶対に間違っている。当然死刑になるべき極悪人だと思っていたものだが、大人になるとそうでもないことが分かった。

 人の目がない時は、人間そんなものだ。いつでも正しい奴の方が明らかな少数派。

 俺だってルルワが完全に眠っている時なんかはたまに悪人、いや悪の吸血鬼になったりもする。やっぱりそれはただの吸血鬼だが、俺は今のところやや善よりの吸血鬼と自負しているため、相対的に悪に感じるのだろう。

 恋人なのでギリセーフという見方もできるかもしれないが、自分をペットと誤魔化さなければギリアウト判定になるようなこともしている。主審が俺なので、ジャッジは少々厳しめかもしれないが。

 まあ何が言いたかったか、人間なんてそんなものだ。状況や環境に応じて気まぐれに善になったりもすれば、気まぐれに悪になったりもする生き物。つまるところ――

 

 ユウキはやっぱり、悪くない。

 そもそも俺自身で決断したことなのだから、責任の所在はやはりどこまで行っても俺にある。しかし――


(もういっそ全部持ってってくれよ……名前考えるのにどれだけ時間かけたと思ってんだよ……)


 分かっていても、ままならないのも人だ。

 いつまでもウジウジしている人間を見ると人は苛立つが、そんな自分にもウジウジしている時間は必ずあるという矛盾。

 どれだけ割り切っても、萎える精神自体は中々どうにもならない。

 

 とりわけ俺には時間の重みがあった。

 どれも自信作だった。300年の大作にして力作。それぞれ、300年の思い入れのあった能力。

 だからいざ失えば、こうして30分土の中で塞ぎこんだりもする。300年森で塞ぎこむ奴に比べれば、よっぽどマシだと己を慰める。

 そんな奴はやっぱり俺しかいないので、全く慰めにはなっていないが。


「――ん?」


 そんな時――

 人外の聴覚が捉えたのは、大地を踏む足音。

 僅かに、しかし確かに捉えたその気配に、俺の生は三度刺激される。やはり俺の死ぬ死ぬ詐欺を終わらせられるのは、彼女しかいない。

 それは、俺がずっと待っていた女。そして、いつも必ず俺を迎えに来てくれる女だ。


「――なっ!? 何よこれ!?」


「聖域が!?」


 聞こえてきた声が二人分だったことで、俺はようやく胸を撫でおろす。

 その瞬間だけは、能力を失ったことなど本当にどうでもよかった。


(…………やったんだな)


 二人がここにいるということは、そういうことだろう。

 まさか失敗しましたなどと報告に来るはずがない。まだ解決していないのなら、彼女たちは最後まで現場で足掻くはずだから。

 つまり二人は、一件落着したというのにいつまでも凱旋しない迷子のペットを探しに来たというわけだ。

 祝勝会の面子に自分の名前が入っていたことに、俺は心から安堵する。存在そのものを忘れられていたら、冗談ではなくこの物件への永住を考えていたところだ。

 

「どこなの!? ムメイ!!」


「ムメイさん!!」


 真剣を帯びた声は辛うじて届くが、遠い。これは俺の聴覚だから聞こえるのであって、俺が今叫んだとしても、ルルワたちにはおそらく聞こえないだろう。

 勘だが、それだけの距離をまだ感じる。なんなら俺は土の中だし。


(100m以上はあるのか? 分からん)


 <反教底位パラダイス・ロスト>があればどこにいるのかがすぐに分かり、<一触即動タッチ・アンド・ムーブ>があれば何かを操ってここにいると伝えることができる――が、それらはもうない。

 まさかこんなにも早く、お手本のように不便さを感じるとは思わなかった。

 失って初めて、その多大なる有用性が改められる。普通の人間はこんなに不便な体で過ごしているのかと、そんなふうに思ってしまうほどに。


「この辺りの地面、焦げてない? やっぱりさっきの雷鳴……」


「雷が落ちたってことですか? でも、ここまでの規模の落雷……自然界には存在しませんよ」


「そうよね。丘ごと無くなってるし……」


(…………)


 二人の言葉に、俺は戦闘後初めて――失った力ではなく、新たに得た力に視点を向ける。


 ――雷。

 俺はこの力を、地球の雷そのものであり、俺が知る雷以上の威力は引き出せないものと自然に考えていたが――結果だけを見ると、そうでもないらしい。

 現に俺が最後に出した雷は、明らかに規模が異世界だった。なんせ半径50m級の大地そのものが吹き飛んだのだから。こんなことは、常識ではあり得ない。


 圧倒的なエネルギーにして、天の災害と言われる雷ではあるが、世界全体から見れば、雷でさえやはりちっぽけな力の一つに過ぎない。

 実際地球で観測された歴史上最大規模の雷でも、大地に落ちた時、そこまでの影響を世界にもたらすわけではない。人間に直撃することは稀な上に、当たったとしても死人は精々一人か二人。


 だから雷の強みは、どこまで行っても超々瞬間的、かつ超々局所的な、圧倒的出力(パワー)にこそある。瞬間的威力でこれを超えるものは自然界にも中々存在しないだろうが、影響は持続しないのだ。局所集中こそが、雷の強さの本質。

 地球上最強の存在でも雷に当たれば即死だが、対して対象が赤ん坊であっても、数万人を一気に殺し尽くすことはできない。

 つまり対個人に関しては無敵に近い力だが、やはりその力は酷く限定的なものとなるということだ。

 

 総じて――総エネルギー量は環境でも中の上といったところ。範囲は最低。一点突破の火力に限れば、自然界でもトップクラス。それが雷。


 しかし――


(俺は……違う)


 今回の<赤天の霹靂(アルナ・ショファル)>は、純然たる威力に関してはどうか分からないが、範囲は通常の雷とは桁が違った。

 仮に雷の性質自体は地球のものと同じであったとしても、規模、範囲、操作からなる実質的な脅威に関しては、魔力の運用次第で全く違った結果に結びつけることも可能ということ。つまりは――


(活かすも殺すも、俺次第)


 自然発生的な雷とは違い無尽蔵のエネルギーだが、肉体に集約された雷をどれだけ引き出せるかは、俺の魔力コントロールにかかっている。一点突破の火力に甘んじる潜在意識は勿論、限定的な状況化でしか使えない今の現状では全くお話にならない。

 狙った対象に雷を当てる、範囲を広げる、規模を拡大する、それらを完全に操作、制御する。課題は多いが、だからこそやるべきことははっきりしている。

 一刻も早く使いこなせるようにならなくてはならない。今のままではまさに吸血鬼に聖水、完全なる宝の持ち腐れだ。


「ルルワさん、あそこ!! 穴があります!!」


「っ!」


 思ったよりも長く思考していたのか、俺が声で呼びかけるよりも前に、穴を発見される。おそらくというか間違いなく俺の穴だろう。生きていたユウキが同じく穴を掘って地面に隠れているとは思えない。

 主役も宿敵もゴキブリのようにしぶとく生き永らえた末に、双方土の中で丸まって決着とか、もの凄く嫌だ。恥ずかしいを通り越して虚しい。どうかカッコ悪いのは俺だけであってほしい。


「ムメイ!! いるの!?」


「キィ!!」


 本当に有難いことに、穴を掘っていたのは俺だけだったようだ。

 頭上から聞こえてきた声に、俺は反射で声を返す。一発で俺だと分かる返事を。


「ルルワさん!! このキィは!!」


「間違いない!! ムメイのキィだわ!!」


 他にどんなキィがあるのだろうか――そんなことを思った時には、仮設住宅が振動に大きく揺れ、穴の中に土が押し寄せてくる。

 乱暴なノックは、誰かが穴の中に飛び込んできた証拠だろう。犯人は二人に絞られるし、この躊躇の無さを思えば一人にまで絞られるが、相変わらずせっかちと言うか躊躇いがないというか。

 俺も焦っていたので豪快に掘ったつもりだが、それでも人一人が飛び込むには本能的な恐怖を抱かざるを得ないくらいの狭い穴のはずだ。おそらく直径は1mにも満たないだろう。俺なら絶対入りたくない。


「ムメイ、どこにいるの?」


「やっぱりルルワか。分かってたよ」


 斜め上から聞こえてくる声に、答える。

 周囲に散乱していた意識が、こちらに注目したのを肌で感じた。胸を撫でおろすような、多大なる安堵の気配も。


「そうね。姿は見えなくても、心はいつも繋がって――」


「揺れ凄かったから」


「埋められたいの?」


 もう埋まってると内心で言葉を返す間にも、ルルワが豪快に土を掘り返す音が聞こえてくる。

 そんな俺たちの現在の位置関係はどういう感じかと言えば、この穴は太陽の光を完全に防げるようにL字型となっているため、Lの直角部分に掘った土が溜まり、その上にルルワが落ちてきたという感じだ。

 Lの横穴は5m程度。縦穴も5m程度だろう。横穴の入り口はルルワが落ちてきた土によって塞がれているため、完全な暗闇状態が維持できている。

 ルルワはその形状を把握して、俺が出れるように土を掘り返しているのだ。


「光入らない?」


「やっぱり……ね!」


 素手で掘り起こすのは時間がかかるだろうと思ったが、そうでもなかった。

 ルルワはものの数分ほどで、ドアにまで手をかける。豪快な手の動きで分かったが、堀った土は穴の外へと投げ飛ばしているようだ。縦穴も最低5mはあるはずなのだが、やはり凄まじい腕力。穴の外にいるアワンが土を被っていないか、そして穴掘り職人ルルワにドン引きしていないかが非常に気になるところだ。


「ふぅ……やっぱりまた全部使っちゃったのね。あなたまさか、私の血を軽油か何かだと勘違いしてるんじゃないでしょうね?」


 穴の入り口に手が入り、ドアの全てが乱暴に取り払われる。

 そして、身を屈めて覗き込んできた巨人の顔が見えた瞬間、俺は本能的な恐怖を抱いて後ろへと下がった。これは純然たる光への恐怖であって、決して他に意味はないと思いたい。


「失敬な。ちゃんとハイオクくらいには思ってるよ」


「身の丈にあってないわよ。精々レギュラー満タンね」


「満タンじゃなかった」


 いつも通り、自動車のない異世界でなぜこんな話ができるのかと不思議に思いながら、俺はガス欠の車の如くその場から動かない。

 オンボロ中古車の様子を一度確認したルルワは、上にいるアワンに無事であることを伝えてから、再び穴の中を覗き込んだ。


「何やってるのよ。早く出てきなさい」


「死ぬじゃん」


「もう夕方よ? じきに日も沈むわ」


「あっ、そうなんだ」


 俺は常に暗闇を見通す目なので、こういうのは気づきにくい。まさかもうそんなに時間が経っていたとは。体感30分程度と思っていたが、俺は思ったより長く土の中でウジウジしていたらしい。まさにウジ虫だ。


「私の体で壁になってるから、入り口までなら大丈夫。ほら、おいで」


「うぅ……」


「もう、どうしたのよ……」


 おいでおいでと、ハイハイする赤ちゃんを招く様な手ぶりに、脱出欲が刺激されないと言えば噓になるが――やはり俺は、もう少しだけここにいたかった。

 なぜなら、合わせる顔がない。4つもの能力を敵にプレゼントしました――なんて言ったらどうなるか。アワンの居場所を作ったはいいが、肝心の俺の居場所がそこに残っているのか。<月夜見ツクヨミ>の件も合わせて、二人への後ろ暗さが留まることを知らない。


「どうしたんですか!?」


 様子のおかしさに気が付いたのだろう。縦穴を覗き込むような声が、頭上から届く。おそらくルルワの土攻撃から、一時避難していたアワンが帰ってきたのだ。

 その数分間の間に、彼女が誰を探していたかなど、もはや考えるまでもない。きっと俺のことと同じくらいに、アワンは彼のことを心配していただろうから。

 その気持ちを押して、俺のところに一番に来てくれたのだ。本当に有難いと思うと同時に、彼女の気持ちを思うと切なかった。

 

「何か嫌なことがあったみたい!! 丸くなって震えてるわ!! 頭も抱えてる!!」


「そんな!? 一体何があったんですか!?」


「割とよくあることよ!! 彼ナイーブなの!! ちょっとのストレスでこうなっちゃうわ!!」


「ウサギみたい!!」


 5mの縦穴を行き来する大声。俺はその内容に耳を傾けながら、視線だけは正面へ。

 そこにあるのは、再び穴から顔を出すことで、横穴の入り口に差し出すように残されたルルワの半身だ。引っ張り上げられたスカート丈から見えるしなやかな太ももと、その隙間の絶対領域が視線を誘う。

 女性はこういった部分無防備だが、そういった男の視線を鋭敏に察知するのも女という生き物だ。ルルワは後者。これは俺の匍匐前進を誘うためにわざとやっている感じがした。だって明らかに見せ餌って感じだし。

 そんな俺はというと、餌に誘われて2mは前に進んだ。完全変態の名に偽りなしである。


「私で良ければ、悩み聞きますよ!! 恋愛相談乗ります!!」


「なんで恋愛に問題があると決めつけるのよ!! まだ分からないでしょ!?」


「今の相手は相性良くないです!! 新しい恋を探しましょう!!」


「まだ相談してないわよ!?」


 私に代わったら出てきてくれるかも――そんなアワンの提案をガン無視して、再び穴を覗き込んだのは、やはりルルワだ。

 しかも今度は、頭ごと突っ込む勢いで入って来る。上のアワンから見たら、今のルルワはかなりマヌケな格好なのではなかろうか。土の中で丸まってる俺が言えたことではないが。


「どうしたの? 彼女の私が話を聞いてあげるわよ。彼女の私が」


「キィ……キィ……」


「怒らないわよそんなことじゃ。私があなたのこと嫌いになると思う?」


「キュキュッ! キュイ!」


「いい子いい子」


 溢れんばかりの母性に、ハイハイが加速する。

 それは、一人の吸血鬼にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だった。

 まさかアームストロングも、名言をこんなふうに汚されるとは思ってもいなかっただろう。俺の飛躍の先にいるルルワもアームストロングということで、ここはひとつ穏便に手を打って欲しいものだ。


「なんて言ってますか!?」


「安心して!! 『ルルワ! 好き!』――って言ってるわ!! やっぱり恋愛は問題なかった!!」


「ルルワ!! 腹筋!?」


「そこで待ってて!! もう一つ穴を用意するから!!」


(…………凄い仲良くなってる)


 さっきから黙って聞いていたが、やり取りの気安さが半端ではない。

 少なくとも今までは、ここまで馴れ馴れしい会話はしていなかった。他ならぬアワンが遠慮気味だったからだ。

 しかし――


(終わったんだな……)


 二人の仲たがいから始まった戦い。だからこそこの姿は、戦いの終わりを告げる何よりの証明だった。

 俺はようやく心からの笑みを浮かべると、心行くままにハイハイを敢行する。もう土の中に未練はなかった。やはり俺の居場所は、穴の外にある。

 そんな羽化直前の俺が、ちょうど入り口付近に差し掛かった時、再び穴に入ってきたルルワの顔とバッティングする。

 それは冗談ではなく、もう少しで顔がぶつかりそうな勢いだった。


「…………」


「…………」


 二人して息を飲む。俺は必要ないが、その時ばかりは確かに、息を飲んだ。

 その後のルルワの表情の変化は、近くということもあってか、俺の目にはやけに精細に映る。

 瞳はこぼれんばかりに見開き、頬には用意されていたようにサッと赤みがさす。

 息を飲む呼吸音と、飲み込む唾の音さえ聞こえるような近距離。無呼吸、無温度の俺にはそんなものはないが、だからこそやはり、ルルワの変化は顕著だった。

 鼻先さえ霞めるような距離で、ルルワの潤んだ瞳が、ゆっくりと見えなくなる。その代わりに見えたのは、長いまつげの震えだ。

 瞼が閉じ、視線は瑞々しい唇へ。それは場所が場所なら俺でも理性が決壊する程の、乙女の顔だった。

 だが――


(え? ここで?)


 流石にこの顔を見せられて意図を察せないほど、俺は鈍い吸血鬼ではない。

 だって明らかなキス待ち顔だ。可哀想なくらいに震えているし、目も当てられないくらい真っ赤だし、唇も若干突き出ている。

 キスを迎える気100%の表情。女性不信にして女性恐怖症の俺をもその気にさせるような、完璧で究極なキス顔だった。しかし――


(穴の中なんだが……)


 ミミズみたいに土の中にいる男と、モグラみたいに穴を掘って顔を突っ込む女。

 これでは捕食にしか見えない。仮に唇が繋がったところで――穴の中にいるミミズを食らうモグラ女以上の何かは見いだせないことだろう。

 どう好意的に見てもロマンチックには程遠い。別に情事の風情にこだわるほど俺はロマンチストのつもりはないが、かといってこれで良いと思うほど浪漫に欠けるわけでもなかった。

 何よりこれがファーストキスになるルルワが一番可哀想だ。あとそんな現場に立ち会うことになるアワンも不憫だ。

 だから――


「ごめん、出たいんだけど」


「…………」


 瞬間、表情は一変する。

 つい先ほどまで恋する乙女バージンロード裸足で爆走――みたいな感じだった甘々な雰囲気は、盗んだバイクで走り出す17の夜みたいな冷え冷えの空気へと。

 とりわけガソリンの入ってなかったバイクを見る目は、ゴミのようだった。まさに虫を、ゴキブリを見るような目。俺の体が冷え冷えなのも、ボディを温めるガソリンが入っていないからだと思いたい。

 いい加減自動車なのかゴキブリなのかはっきりしろという感じだが、もはや言ってる場合ではなかった。

 愛が憎悪に裏返る瞬間に、初めて立ち会った気がした。


「なんで出られると思ってるの?」


「……え?」


「森から出してくれた女なら、穴からも出してくれると思ってたの?」


 一度寝たくらいで彼氏面するな――みたいなニュアンスで凄いことを言い出すのは、賢者タイムのような無表情を見せる女だ。ちなみにまだ一度も寝ていない女でもあるので、賢者になる余地はない。彼女はおそらく(?)女に該当するはずなので、そもそも賢者タイムはない。


「あなたは出れないわ。私が埋めるもの」


 現実逃避していた心は、最後通告に震えあがる。

 これまでチラチラと見え隠れしていた包丁の全貌が、ここにきて完全顕現した。


「アワン!! 助けてくれアワーン!!」


「大丈夫。あなたが寂しくないように、一緒に埋めて上げる」


「逃げてくれアワーン!! 俺のことは構うな!! 生きてくれぇ!!」


 俺のことは構わず、先に行け。

 まさか異世界名セリフの一つをこんなところで消費するとは思ってもいなかった。ほんとに思ってなかった。しかも、無駄遣いだった。

 

「いっ!?」


 刺突特化の戦士がその性能をフルで活かせる得物は、包丁。その事実を今一度確認し、俺の背中に冷たいものが走った時――

 

 彼女は、来た。


「ムメイさん!! 私を呼びましたか!?」


 そう、彼女こそが勇者。

 弱き者を助ける、強き者。俺がずっと待っていた、俺の勇者。

 その名は――


「アワーン!!」


 一寸先も見えないような暗闇に飛び込む勇気。

 己よりも強い悪に立ち向かう覚悟。

 弱き者を助けるために。彼女が今、この戦場へとやってきたのだ。


「ちょっと、なんであなたも入って来るのよ!?」


「ムメイさんが助けを呼んでいたので」


「私の上に落ちるって分かってたでしょ!?」


「助けに来たので」


 狭い穴の中で格闘する正義と悪。しかし途中で何らかの折り合いがついたのか、肩を寄せ合いながら二人は穴を覗き込む。

 狭い穴で押し合うように、また手を取り合うように、彼女たちはそこにいた。

 

「はぁ……いい加減出てきなさい。もう日も暮れたわ。流石にそんなマヌケな格好じゃ吸血できないでしょ?」


 確かにその通りだ。そんなマヌケな格好で記念すべきファーストキスを遂げようとしていた女もいたが、間違いなくその通りだ。


「ムメイさん、帰りましょう」


「…………」


 森で塞ぎこんでいた時、俺を迎えに来てくれたのは、ルルワだった。

 しかし今は、二人いる。ルルワの隣に、アワンがいる。

 俺がこの穴から出なかったのは、待っていたからかもしれない。


 ルルワとアワンが、ここに来るのを。


「ああ、今――」


 彼女たち二人に出迎えられる幸せに感じ入りながら、俺はようやく、暗闇を抜け出す。

 そして入り口付近に差し掛かり、今、彼女たちの元へと――


「早くしなさい。鬼治血おちち飲ませてあげるから」


「ちょおっー!? アワンいるってぇ!!」


 先ほどのキスの件の意趣返しか、ルルワがとんでもないことを暴露する。思わず天井に頭をぶつけるほどの衝撃に、俺は動揺のままに叫んだ。


「何恥ずかしがってるのよ。あなたが名付けたんでしょ? この方が治りが良い気がするって、あなたが言ったんじゃない」


「だからだよ!!」


 最悪だ。

 例えるなら、妻の尻を撫でた瞬間を娘に目撃された父親の感覚に近い。家庭内で威厳を保つためには、そこだけは絶対に見せてはいけない禁忌の領域。今回ルルワはそれを犯してしまった。絶対にやってはいけないことを。

 

「あんなに鬼治血おちち鬼治血おちち言わせたがってたくせに……。赤ちゃんみたいに抱っこしないと飲んでくれないくせに……」


「罠だ!! これは罠だ!!」


 絶対に罠だ。事実無根だ。記憶力の良い俺が覚えていないのだから間違いない。アワンクイズにも出題されなかった。たぶんケインがレイラ相手にやってるんだ。そうに違いない。ケイン「っ!?」

 

 などという現実逃避もそこそこに、俺は再び頭を抱える。

 間違ってもアワンの顔を見れなかった。たぶんだが、彼女は俺のことを少しは尊敬してくれていたはずだ。少なくとも絶対に嫌ってはいなかった。そこには人間的な好意すらあったはずだ。

 しかしここにきて、最低最悪の情報が露呈する。

 こういうのはラブラブなカップル間だからこそ許されるのであって、他の人間が聞けば眉を顰めるに決まっているのだ。しかも彼女はまだ若い。そういった性的な面に対し潔癖の気があっても何らおかしくはない。男の性欲に理解があるルルワとは違うのだ。彼女はまだ若すぎる。つまりは――


 確実に、嫌われた。


 やってやったぜとばかりに晴れやかな笑みを浮かべるルルワと、対照的に再び穴に隠れだそうとする俺。

 そんな中、体を震わせ、顔を伏せるのがアワン。

 どう見ても、噴火前の火山を思わせる姿。どんな罵詈雑言が飛び出るかと待ち構えていた俺たちに、彼女は独特な噴火を見せる。


 飛び出したのは、マグマではなく冷や水。

 方向は、俺とルルワの頭上へと。


「今回の鬼治血おちち……私にやらせてください!!」




***




 地上に出ると、確かに日は落ちていた。

 閑散とした大地を冷ややかな風が吹き抜け、雲がかった月が遠慮がちに顔を見せる。夜の世界は、吸血鬼である俺を静かに歓迎した。


(月光は大丈夫なんだよな……)


 太陽光が反射したものと言われる月の光では、ルルワの血がない俺でもダメージを受けない。太陽の直接光に限るのかと思ったが、アベルは太陽のエネルギーで俺にダメージを与えていた。

 この辺りのルールを明確化しておきたいところだが、やはり文献が残っているルルワの母国に行かないことには何ともならないそうだ。

 正直今の俺は、手探りで生きているに等しい。運が良くて世界に生かされているとも言える。

 しかし今日からは、その運が少しだけ増すことになる。なぜなら――


「ここでいいのか?」


「はい……ここがいいです……」

 

 永遠に失われた聖域。繰り抜かれた大地の上に立つのは、ここの持ち主の一人だった少女だ。

 落ち着ける場所に戻ってから吸血することもできると提案したが、他ならぬ彼女が、ここで行うことを選んだ。

 そこにどういった意味が、どのような覚悟があるのかは俺にも分からない。分かるのは、俺に否はないということ。俺にとって大切なのは、やはり彼女の意志だから。

 しかしすんなりと飲み込めない者も、この場にはいた。


「…………別に無理することないのよ? これは私の役目なんだから」


 それは、傍目にも感情が先行した説得だった。

 彼女――ルルワの気持ちも俺は分かっているが、穴から出るまでにもう一通り行われていたはずの二人の会話を、俺は黙って見守る。


「いえ、今回に限っては、これは私の務めです。ユウキと戦わなくてはならなかったのは、本来私。ムメイさんは私の代わりに戦ってくれたんですから」


「でも……今回は私の血もあるのよ?」


「だからこそです」


 両者ともに、感情による説得。

 しかし今回ばかりは、ルルワに勝ち目はなかった。


「今だからこそ、私の血を、ムメイさんに受け取って欲しいんです」


「…………」


「…………」


 感情に込められた、覚悟が違った。

 個人の我儘にとどまらないだけの強い想いが、そこには込められていた。


『あなたに血を吸わせてあげてって頼みに行ったの。そしたら、断られた』


 あの夜の、ルルワとの会話を思い出す。

 俺に血を飲ませることを、頑なに拒んだという少女の言葉を。


 そして――彼女は今、ここにいる。

 俺の前に立ち、俺と向き合い、俺と顔を合わせている。

 真剣を通り越し、並々ならぬ思いが込められた瞳が、俺を見上げた。


「あなたが無事明日を迎えられるように、笑って未来へ行けるように……」


『気安く名前を呼ばないでもらえますか?』


「私の血で、あなたを朝に送り出したい」


「…………」


 少女――アワンの覚悟を、俺は受け取る。

 そして噛み締めるように、瞳を閉じた。曲がる口元は、どんな表情を見せているのか、俺にも分からない。


 目を閉じれば、瞼に焼き付いた映像が浮かび上がる。そこに映っていたのは、冷たい表情をした少女だ。

 笑ってはならないと己に課すように、世界がそれを許さないとばかりに、苦しい顔をしていた。

 誰にも心を許してはならない。自分はこの世界で幸せになってはならない。そんな気配を漂わせる、不幸な少女だった。

 ずっと彼女は、一人苦しんでいた。


 目を開く。

 そこには、記憶と同じ顔立ちをした、それでいて記憶とは全く異なる顔をした少女。

 やはり、彼女はそこにいる。目を閉じる前と、同じ顔をしている。

 彼女は――

 

「《《アワン》》」


 俺は、アワンの名を呼んだ。

 呼ぶなと言われた、彼女の名を。


『名前で呼んでくれない?』


「はい、ムメイさん」


 アワンも、俺の名を呼んだ。

 読んで欲しいと頼んだ、俺の名を。


「…………」


 俺たちの想いは固いと悟ったのか、ルルワは目を伏せ、一歩引き下がる。

 俺はそんな彼女に感謝の視線を送ると、改めてアワンと向き直った。


「力を、貸してくれるか?」


「はい!」


 人外の化け物への献血を、一度拒否した少女は――今度は自分の意志で、化け物に血を吸わせる。

 人を救うための尊き血を。神に捧げるための尊き血を。自らの意志で――今、差し出す。


「あっ……」


 一歩踏み出すだけで、ぐっと距離は近くなった。俺の方から近寄られたことに驚いたのか、アワンがか細い声をあげる。

 アワンはルルワと違い、俺と10cmほどの身長差があるため、どうしても俺が見下ろす形となった。

 そんな距離感が、当人の望む望まないに関わらず、男女のそれを演出する。


 潤んだ瞳が、俺が見上げる。満月のような輝かしい光を放つ瞳は、吸血鬼に魅入り、そして吸血鬼を魅せる。

 艶やかな赤髪と見間違うほどに上気した頬。緊張からか、呼吸は浅く乱れていき、にじみ出る発汗が少女の肢体を艶めかしいものと化す。

 興奮と緊張は一気に沸点を超え、アワンの瞬く間に出来上がってしまった。


「ふっ、ふっ……んっ……」


 肩に手をかければ、びくりと体が弾み、彼女のしなやかな両手は、自身の身を守る様に胸の前で組まれる。

 ギュッと力強く握り込まれ、無意識に縦にピンと伸びる体。

 それは神に祈るような姿であり、また海に身を投げる直前を思わせるような甚だしい緊張感。

 肩に置いた手から、無い並みならぬ震えが伝わる。尋常ならざる身の強張りも、そして沸騰したような体温も。全てが正常ではなかった。


「んっ……んっ……」


 どこまでも震えている少女は、キュッと閉じられた口で、必死に呼吸を整える。その声は、獣欲を誘うような甘美な音色だった。

 羞恥に悶え、緊張に震え、そして恐怖に立ち向かわんとする健気な少女。

 そんな彼女のぎゅっと閉じられた瞳から、浮き上がった涙が雫となってこぼれ落ちそうな頃――

 ようやく俺は、処女の首元へと――


「ねえ、なんかおかしくない?」


 辿り着く前に、冷や水はかけられた。


「おかしいって?」


 俺はアワンを解放し、頭から冷や水をぶっかけてきたルルワへと振り返る。

 そこには腕を組み、むっつりと不満顔を見せる最愛の恋人の姿があった。


「なんで吸血前からハアハア言ってるの? あとなんでそんな体温上がってるの? 震え過ぎじゃない?」


「俺?」


「黙れ。あと今からキスするみたいな空気辞めてくれる? 絶対その上目遣いとか、甘ったるい空気とかいらないから」


 ピシャリとシャットアウトされた俺は、行き場の無くなった視線を彼女へと落とす。アワンも、同じような顔でこちらを見上げていた。

 

「緊張してたんだよな?」


「緊張してました」


「緊張してたってさ」


「うるさい。さっと出してガプッとやりなさいよ。ただの食事なの。この行為にそれ以上の意味なんてないの。あなたも、餌以上の感情持たないで」


 中々凄いことを言うルルワだ。

 大切な仲間を餌とは。それに、俺がこの世界で生きていくための尊い行為だと言うのに。


「酷いです」


「酷いってさ」


「はぁ……」


 まあ、ルルワが不機嫌になるのも分かる。

 彼女にとって、吸血という行為は特別だ。俺との信頼関係や心を結ぶ、一種の神聖な儀式と捉えていても不思議ではない。

 俺だって本音を言うなら、彼女だけにしたいところだ。アワンには悪いが、ルルワが本当に嫌だと言うのなら、今からだって俺は断るつもりだ。

 しかし――


(今のところ、半月に一度のペース……。ルルワ一人では今後持たない……)


 遅かれ早かれだ。

 効率を考えれば、どう考えたってルルワとアワンの二人、交互に血を貰った方が良いに決まっている。いざという時貧血でルルワが動けませんでは、実利的にも感情的にも困る。今の俺は、彼女にかなり無理をさせている。

 この負担をアワンが半分担ってくれるというなら、有難いことだ。ルルワの体調面から見ても、俺の生存確率から見ても。

 ルルワもそれが分かっているから、感情を棚に上げ、見届けようとしてくれているのだ。その気持ちが分からない俺ではなかった。


「――そもそも私をムメイさんの非常食として同行させたのは、ルルワさんじゃないですか」


「むぅ……」


「あなた処女? ってセクハラ、私忘れてませんからね」


「セクハラぁ?」


 と、そんなことを考えている間にも、二人は再び説得の応酬をしていたようだ。ただの言い合いとも言うが。


「おっ、女の子同士なんだから別にいいじゃない!」


「セクハラに男も女もありません。相手が嫌がるかどうかです。今のルルワさんが嫌がっているのと同じです」


「うぐぐ……」


「あんまり我儘言ってると、ムメイさんに愛想尽かされますよ?」


「キィ……!!」


「鳴いた……」


 なるほど。これがムメイのものではないキィか。

 これに比べたら、俺のキィは幾分マシではなかろうか。


「はははっ!」


 俺はそんなやりとりに、思わず笑ってしまう。

 感動的な場面かと思っていたが、そうでも無さそうで。つられるように、二人も遅れて笑った。みんな笑っている。きっとこれが、一番大事な事なのだろう。


「ルルワさんはもう何度となく出し入れしているから平気なんでしょうけど……私は初めてなので怖かったんです。ゆっくり、優しくしてほしいと思うのはいけないことですか?」


「これは天然なの? どっちなの!?」


「うーん……ギリ天然?」


 有識者から見れば、狙っているとも狙っていないとも取れる微妙なところだが、これまでの彼女を見ていれば、そもそもそういった知識全般に疎そうだと思う。アワンの天然力を鑑みても、ここはグレーで通していいだろう。


「だから私は首からの吸血でお願いします。ルルワさんみたいに、おっぱいから吸われるのは流石に怖いので」


「これはどっち!? 天然!?」


「人狼!!」


 完全に黒だ。流石に鬼治血おちちから授乳を結びつけるのは叡智に過ぎる。

 この道300年の有識者であり、完全変態でもある俺の目は誤魔化せない。

 だから――


「え? 鬼治血おちちじゃないんですか?」


「…………」


「…………」


 その言葉には、俺は絶句した。

 続けて視界に入った、クスリともしていないその表情を確認し、目の前が真っ暗になったような感覚を覚える。

 そして思い出す。先ほどの、アワンの姿を。


 並々ならぬ緊張、異常なまでの動悸。

 そして胸元を押さえる挙動。

 まさか――


 ルルワと、顔を見合わせる。

 こんなことで笑えなくなるとは、思ってもみなかった。


 俺たちはこの日、ホンモノを知る。

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