第079話 凄いや
「――ワン!!」
勝敗を分けるユウキの切り札、<撃退の唸り>。これをぶつけられた聖域内の対象は、いかなる場合においても強制的に聖域外へと吹き飛ばされる。
そんな必中必殺の天術が、今発動され――
同時に、戦局を変える最後の一回が、ここに尽きた。
剛腕による拘束が嘘のように無くなり、強大な気配も同時に掻き消える。
しかしユウキは、死地を切り抜けた安堵も、切り札が無くなった憂慮も置き去りに――駆け出す。
一目散に、脇目も振らず。まさに電光石火の走り出しだった。
(急げ!! ここはまずい!!)
ちょうどユウキの体が浸かるほどの大きな水溜まりは、十中八九雨水が溜まったものだろう。部分的にくぼんでいるその箇所は、感触的に表面が粘土質であったのかもしれない。だから雨水が中々地面に浸み込まず、残っていたのだ。
ユウキはそんな聖域の汚点に侮蔑の視線さえ向けずに、置き去りにする。
水というものが電気にこれ以上にないほど相性が良いと分かった以上、いや、致命的なまでに相性が悪いと分かった以上、こんな場所で呑気に水浴びをしている場合ではない。
この環境ではユウキに全く勝ち目がないことなど、もはや誰にでも分かること。ムメイが聖域外から戻って来るまでに、なんとしてもこの場を離れる必要がある。
そして、ユウキの成すべきことは、それだけにはとどまらない。
(どうする!? どこに隠れる!? どこが最善だ!?)
形勢は完全に逆転、いやもはや盤面ごとひっくり返された。その確かな現状にも、ユウキは既に辿り着いていた。
受ける必要の無かった<狂月の漸近鬼>で残りの魂の半分近くが削られ、ダメ押しの感電でさらに数百が追加されたユウキの残存魂は――残り400強。元の10分の1。
ムメイの残り体力の少なさを考慮しても、かなり心もとない数字だ。この先の選択の是非が運命そのものを握る程の、重大な危機。
まず地上での正面戦闘だが、これに些かの勝ち目もないことなど、これまでの戦いで嫌と言うほど思い知らされている。そもそもこれだけ有利なフィールドを用意してなお、あの有様だったのだ。あれに身一つで挑むなど、もはや狂気の沙汰。みすみす死にに行くようなものだ。
ならば空はどうか。同じことだ。有利なフィールドにさらに有利なフィールドを重ねても、この有様。
必殺にして最高の作戦だと思っていたが、ムメイ相手には時間稼ぎにしかならないことがよく分かった。それも、目的の片手間に攻略される程度の。
仮に先の攻防を再び繰り返したとしても、現在のユウキの残機とムメイの残り体力を計算すれば、勝敗は覚束ない。
それは攻略の早さとかもはやそういう問題ではない。今のユウキには、つい今しがたの空の戦いではなかったものがある。それこそが――
(くっそォ……!! なんとかできないのか!?)
全身を濡らす、水。
ただの電気属性ダメージだけでもユウキの毒に匹敵するほどの脅威が、水分という凶器によって悪魔の暴力と化す。
全身が濡らされた今の状態では、数度の攻撃を受けるだけで残りの魂は消失することだろう。そこからはユウキ本来の生命力で戦うことになるが、あの痛みの中まともに戦えると思うほど、ユウキは狂ってはいない。
まず目を潰され、顔を再び剥ぎ取られ、抵抗の余地を奪われるだろう。そこからはじっくりと調理だ。回復能力の無くなったユウキは、その地獄に抗う術がない。そしてムメイと一度対峙すれば、もはやその未来は避けられない。
だからユウキが選んだのは、濡れを乾かすこと。そして完全に乾ききるまでの時間を稼ぐことだ。
そのためには――
(空に逃げるか!? いや、位置がバレる!! ボクの知らない手をまだ持っていないとは限らない!!)
空を飛べないムメイ相手に時間を稼ぐのならば、彼の手が届かない遥か空がいいだろう。しかしたった今、その空での戦いに完敗したばかりだ。また何らかの奇策で、空にいるユウキに易々と攻撃を届かせるのではないか――ユウキがそう思うのも無理はない。
ならば、身を隠した方がまだ勝算はあると考えるのも、妥当だ。ムメイには今、神の目ともいうべき絶対の探知能力がない。どうしても視覚でユウキを見つける必要がある。
どこかに身を隠し、時間を稼いで出来るだけ体を乾かす。ユウキの天力量も残りわずかだが、これは毒の放出を一時止めることで、まだギリギリ繋ぐことができる。というより、もはやそれしか勝機がない。
(絶対に見つかっては駄目だ!! 諦めるな!!)
ユウキは絶望の戦況に弱る己の心を叱咤し、走り続ける。
木々の間を縫うようにして自身の影を隠しながら、できるだけ遠くへ。
地に両手をつき、四足で駆ける姿は、まさに獣。当然その速度は、並みの獣を易々と置き去りにする。
敵の策にまんまとハマり、切り札を切ってから立ち上がるまでにかけた時間、実に1秒。その後駆け出すまでの時間に至っては、0.1秒を切る。
そしてなけなしの戦意を奮い立たし、か細い勝利の糸を目指し駆けること――7.6秒後――
絶望が、舞い戻る。
「<夜王の>――」
「っ!!」
突然眼前へと躍り出た影に――ユウキはもはや、驚くことさえしなかった。
彼は薄々分かっていたのかもしれない。ソレからは、絶対に逃げられないと。
ソレは、恐怖の具現だ。
どれだけ遠くに逃げたとしても、どこまでも追いかけ、必ず追いつく。
どこに逃げ隠れしたとしても、やはりどこまでも追いかけ、必ず見つけ出す。
敵からすれば、それは恐怖でしかない。どこまでも勝ちに貪欲。血を啜りつくしてもなお更なる血を求める――悪魔。
ソレからは、誰も逃げられない。
「<先翔蹴>」
「う"う"っっ……!!」
もはや子供の泣き声のように不細工な声をあげながら、ユウキは吹き飛ばされる。
身を隠すように走っていた木々の中から強制的に叩き出され、見渡しの良い丘の中心へ。
それは、ユウキの考えていることなど筒抜けだと、知らしめる一撃。そしてユウキの拙い勝機を叩き折る、絶望の一撃だった。
「くうぅっ!!」
やはり大地をしかと踏みしめて繰り出された蹴りは、空中のものとは威力は比べるべくもなく、ユウキの残り少ない魂をごっそりと削る。
そこに加わるは、雷の爆発的パワーと、濡れた皮膚により数倍以上の威力をもって歓迎される電気ダメージ。
たった一発の蹴りで数百の魂が喰われ、残る残機はとうとう100の大台を切る。
それでも、ユウキは丘を駈けた。
懐かしき約束の場所を。アワンとの、聖域を。
(負けられない!! 負けたくない!!)
敗北の恐怖に涙さえ流しながら、ユウキは駈ける。
土の上を転がるようにして、みっともなくても、情けなくても、最後まで勝利に足掻く。
初めて勝ちたいと思った戦い。初めて命を懸けたいと思った、戦い。
だからこそ、負けることが怖かった。子供のように、その恐怖から必死に逃げ続ける。
だが――
「遊びは終わりなんだろ?」
「っ!」
気高き若人の心にさえも、世界は平等に残酷な現実を突きつける。
音もなく正眼に現れた鬼の姿に――子の足は、ここに止まった。
瞬間――
ようやくユウキは、自身の敗北を受け入れたのだ。
***
(…………終わりだな)
ユウキを捕捉し、そしてここに捕まえた時点で、俺は決着を確信する。
どちらが勝者であるかは、目の前に立つ者の表情を見れば、一目瞭然だ。
他ならぬユウキが確信したのだ、負けたと。そして受け入れたのだ、敗北を。
だから俺も、勝ったと思わざるを得ない。心が折れてしまえば、それはもう、戦いではないから。
吸血鬼にはない呼吸を荒立たせる獣は、涙を流していた。
俺はそれを、笑わない。笑えるはずもなかった。
互いに異なる表情で、ただ見つめ合うこと数秒――
ユウキはゆっくりと、瞳を伏せた。
「…………」
「…………」
俺は静かに待つ。ユウキの準備が整うのを。
それを彼も感じていたのだろう。やがてユウキは身を起こすと、呼吸を整えるように息を吐き、精神を整えるように目元を擦る。
毒は、既に止まっていた。意味がないと悟ったのだろう。
そしてその自然な立ち姿からは、もはや逃げようという意志も感じられなかった。
だから――
聖域からは、毒に続いて雷も消え――
鬼と獣だけが、残る。
「どうして……ボクの位置が?」
「音」
心のざわめきをなんとか取り繕うような声。投げかけられた問いに、俺は特に気負わず平然と答える。
こんな時でも変わらない俺の態度がおかしかったのか、それともあまりに単純な答えに自嘲したのか、ユウキは唇の端を僅かに持ち上げた。
ユウキは<反教底位>という能力の強大さを知ったために、俺の索敵がそれに依存していると思ったのだろう。
確かにそれは間違いではないが、やはり正しくもない。俺の聴覚は生まれながらに、人間の約10倍。走る獣の足音くらいなら数十メートル先からでも聞き取れる。
飛ばされる直前までユウキがいた場所は割れているのだから、そこを基点に音を辿ればいい。ユウキの足音は水に濡れていたため、聞き取りやすかった。あれだけ忙しなく動いていれば、万に一つも聞き逃すことなどあり得ない。
「そうか……そう言えば、吸血鬼だったね」
「こう見えてな。まあお前の気持ちも分かるよ。よく言われるんだ、優し過ぎて鬼とは思えないって」
「人狼だもんね」
「誠実過ぎて、人狼にも思えないって」
「投票していい?」
ユウキの臨戦態勢は、みるみる溶けていく。死闘の中で鋭く研ぎ澄まされていた気配と合わせて。
それは悪く言えば、諦め。よく言えば、結果を受け入れる潔さ。俺は後者として受け取った。
なぜならその表情には、晴れ晴れとしたものさえある。きっと、持てる全力を尽くしたのだろう。
実際俺の目から見ても、彼は本当によくやった。自分で言うのもなんだが、初戦の相手が俺はちょっと可哀想だ。異世界転生初戦闘で最強の魔王と戦わせられた吸血鬼くらい可哀想。
勇者に救われたことといい、初戦の相手が世界最強クラスなことといい、いよいよ他人とは思えない存在だ。きっとこれが運命という奴なのだろう。
「まあお前ももう分かってるとは思うが……こっからは泥試合、いや作業に近いものになるだろう。どうする? お前が望むなら、俺は最後まで付き合うけど」
「吸血鬼は寝ないって聞いてたけど……寝ぼけられるんだね。勝負はここからだろ?」
「そうだな」
ニヒルな笑みを見せるユウキにつられるようにして、俺も笑う。
負けると分かっていても、最後まで戦いたいということだろう。良い度胸だ。本当に、この戦いの間に驚くほど変わった。
数年後では、結果は分からなかったかもしれない。それほどの大器。
だが、そんな仮定に意味はない。俺たちは今日出会い、そして今、戦っているのだから。
「でもその前に、いくつか聞かせてほしい」
「ん?」
ユウキの意志を汲み、全力でトドメを刺そうと意気込んでいた俺に、待ったがかかる。それは、戦いの続行を要求したユウキから。
野暮な時間を欲する感じの雰囲気には見えなかった。むしろ死を覚悟したような、結果を受け入れたような気配だったはず。
だから俺は少し驚くが、それこそ野暮な時間稼ぎなどとは思えなかったため、黙って先を促す。
事実、ユウキの目の色の輝きは、どこまでも真剣なものだった。
「いつから、この未来が見えていたんだ?」
だがその内容に関しては、到底俺が望んでいるものではなかった。むしろ逆だ。
「…………おいおい、勘弁してくれよ。俺はたまたま上手くハマった作戦を後からドヤ顔で解説し出すような奴が、世界で二番目に嫌いなんだ。第三者に言わせるのも見てられないのに、自分の口で言おうもんならもう最悪。せっかく決まった策も台無しだ。分かってくれるだろ?」
俺は適当な理由で煙に巻く。事実、真面目に解説するのはアホらしいからだ。別にその策にどんな狙いがあったとか、どんな意図があったとか、どうでもいい。
成功という結果だけが全て。たまたまだろうが狙い通りだろうが、勝った方が偉いのだから。
だが――
「君の気持ちはよく分かるし、恥をかかせることになることも分かってる。だけど――」
俺はユウキの行動に、目を見開く。
「ボクのこと、世界で一番嫌いで構わない。頼む、教えてほしい」
頭を下げてまでの懇願に、俺は咄嗟に言葉が出なかった。
どこまでも真摯なその姿は、これから己の命を刈る者に向けたものとは思えない。そこまでだというのか。そこまで、この戦いに――
「…………」
俺は確かに、己の生き方にそこそこのこだわりがある。もしかしたら他人から見れば、俺は結構頑固なのかもしれない。
だが不幸中の幸いか、これに心を動かされない程、俺の頭と心臓は頑なではなかった。
だから――
「<狂月の漸近鬼>の、衝突の時だ」
「っ!」
ユウキの顔があがる。
俺は一切の表情を消し、その顔と視線を平熱で迎え入れた。
「この結末を確信したのはな。ただ感電で決着をつけようと思ったのは、雷の力を授かった瞬間だ」
「あの時から……もう……」
「…………」
月からの落雷。あれに打たれた時、俺は直感した。これは、雷の力だと。
そこからは早かった。もはや何者かが導いた思うほどに、それが自然と頭に浮かんだのだ。
「雷に打たれた瞬間、頭によぎった。あの水溜まりが。その時から、どうやってあのポイントにお前を連れて行くかだけを、ずっと考えていた」
雷。そうでなくとも、電気系統の能力を手にした日本人ならば、きっと誰もが俺と同じものを連想するのではないだろうか。
それは――水。純水は電気を通さないため、不純物を含んだものに限定されるが、環境では純水を見つける方がむしろ大変だろう。
つまり自然にある水ならば、ほぼほぼ利用できる。もちろん大量の水は逆に電気を放電させる恐れがあるため、決して相性が良いとは言い切れないが、雷の感電に限った場合は別だ。体表を濡らす程の水分量ならば、やはり人体へ電気を流すための凶悪なサポートアイテムと化す。
「なぜ……なんであんな場所に水溜まりがあるって分かったんだ? ボクでさえ知らなかった」
その問いは、半ば答えを知っているような気配だった。
そのうえで分からないことがあると。その内容も既に俺は察しているが、ひとまず杓子定規の答えを返す。
俺はこういう時は、会話という体裁を優先するタイプだ。
「<反教底位>に決まってるだろ? 他に何があるんだ?」
ユウキは俺の答えを、飲み込む様に頷く。やはりその答えには辿り着いていたようだ。まあ、それしかないので当然だが。
「ボクが奪えたことから、この聖域で使っていることは分かっていた。でもそれってやっぱりボクが能力奪う前ってことになるよね? なら必然的に、雷の力を授かる前だ。理屈に合わない」
ここにユウキの疑問がはっきりと明らかになる。
つまりこう言いたいのだ。順序が逆だと。
「そうでもないさ。俺が<反教底位>を使ったのは、お前が<一触即動>で岩々や木々を見せびらかした時だ。あれを見せられたら、他にも何か用意していると考えるのはごく自然な発想だろ?」
「それについては異論ないよ。でも、ならやっぱり雷を貰う前ってことだ。電気属性に特効となる水の在処を、時間を遡って着目したってことかな? 君にそんな能力があるとは知らなかったよ」
やはり、ユウキがしっくり来ていないのは順番にあるようだ。
電気の能力を貰った後に利用できる水場がないかを探した――それならば話は分かるが、その逆は心理的に受け付けないのだろう。気持ちは分からなくもない。確かに都合が良いというツッコミも分かる。
だがまあ、閃きとは往々にして都合が良く、理屈にそぐわないものだ。ユウキだってこの戦いで数々の思考を展開してきたはずだが、気づきの大部分がおそらく勘に頼っているものだろう。
俺は別にそれを都合がいいとは思わない。むしろ自然だ。俺だって全部が全部作戦通りではないし、運に頼っている部分も数多くある。
「まあそのあたりを無理やり納得させるなら、やっぱりたまたまって言うしかないな。俺はあの時罠の有無やフィールドの状態を確認したんだが、この丘にあって唯一の水溜まりは、俺の中で着目すべきものとして分類された。それにほら、俺って記憶力いいし」
「記憶力の話を出されると、ボクも弱いな」
「そうか? なら何か理屈が欲しいなら、そういうことにしといてくれ」
実際ユウキに圧倒的有利な記憶力勝負に俺は勝った実績があるのだから、意見を通す権利くらいはあるだろう。勝敗を分けたラスト問題は記憶力全く関係ないが、まあ勝ちは勝ちだ。
俺の記憶力が良いというのも、あながち嘘ではない。現にこの聖域の方位や地理なんかは、一度の<反教底位>で全て頭に叩き込んでいた。
「なるほど、まあ理解したよ。電気系の能力を手にした瞬間、事前に把握していた水場での決着を思い描いた。ならそこにボクを導くまでは? <狂月の漸近鬼>の衝突で勝利の確信に至った根拠は?」
遅いかもしれないが、凄い頭の良い12歳だなと思う。
理解が早いし、何より話しやすい。少なくとも俺が12歳の時ここまで頭が良かった記憶はないし、さらに言えばここまで賢い12歳を見たことがない。
だから俺も、相手のレベルに合わせるようなこともなく、己の言葉で喋ることができる。
そしてやはり、俺は結論から告げた。
「俺が空で、成す術がなかったからだ」
「っ!!」
それだけで全てを悟ったわけではないだろうが、漠然とした答えには辿り着いたのだろう。俺はやっぱり頭良いなと思いながら、もったいぶらずに先に進める。
「あの瞬間……俺は確信した。これからは、空の戦いになると」
俺がユウキの体に<狂月の漸近鬼>を叩き込み、それをユウキがオート化した<霊魂奉納>でやり過ごす。
攻撃硬直と空での不自由――その致命的隙を狙い、ユウキはカウンターを繰り出し、俺は大地へと叩き落とされた。
このプロセスを確認したあの瞬間、俺はようやく、この結末を思い描いたのだ。
「お前の<霊魂奉納>のオート化を思えば、ダメージ覚悟でカウンターを狙って来ることは誰にでも予想がつく。事実、あの空での衝突の時、お前はそうした」
「まさか…………」
俺の口調から、計略と悪意の匂いを嗅ぎ取ったのだろう。
ユウキは、呆然と口ずさむ。
「わざと……避けなかったのか?」
半ば確信するように冷や汗を流すユウキに、俺は少しだけ申し訳ない気持ちになる。混ざり気なしの純粋な尊敬の眼差しで見上げてくる子供に、自身の器を自覚している大人がたじろぐ感覚に近い。
「期待を裏切るようで心苦しいが、ぶっちゃけ半々だ。空では思うように身動きが取れなかったのは事実。空での戦いを誘発するために、端から躱す気がなかったのも事実だ」
「…………」
俺が空での戦いを渇望していたのは、まごう事なき事実だ。
なぜなら水溜まりというポイントへとユウキを導くと同時、クリアせねばならないもう一つの課題があったから。
それを同時に、効率よく行える最適解が、空での戦いだった。それこそが――
「俺はなんとしても、お前を空へ送る必要があった。その理由については、いまさら説明の必要はないだろ?」
「ああ。ボクの切り札、<撃退の唸り>の残り一回を使わせるためだ。遥か上空からの、<狂月の漸近鬼>によって」
「その通りだ」
ユウキは一度、俺の<狂月の漸近鬼>を<撃退の唸り>によって無効化した前例がある。
ならば最後の一回を使わせるのに、同じ状況を作り出そうとするのは至極自然な発想だろう。
その前例は、<狂月の漸近鬼>で聖域を消し飛ばされることだけは絶対に避けたい。そのためならば切り札を切っても構わない――と、ユウキ自身が口にしているようなもの。これを狙わない手はない。
だが<浪漫非行>という翼を奪われた俺には、これを上空から発動することは正攻法では不可能。ならばどうするか、戦場を空へ変更すればいい。
そして空で戦わせようとユウキに思わせるためには、足場のない空なら俺に攻撃が通ると思わせる必要がある。空は、自身に圧倒的に有利なフィールドであると。
だから二度目の<狂月の漸近鬼>による衝突の際、俺はユウキのカウンターを快く歓迎した。
全てはユウキの視点を、空へと向けさせるため。
「あの成功体験があれば、お前は必ず空での戦いに望むと分かっていた。後は<狂月の漸近鬼>を決めるために上空を目指しながら、水溜まりの真上にポイントが重なるまで粘るだけだ」
もちろんその狙いが万が一にもユウキにバレないように、全力の戦闘によって気を逸らし続けた。自分で言うのもなんだが、あれほどの猛攻を受けては冷静な思考は保てないだろう。
ユウキはやはり<一触即動>の操作に慣れていないのか、動きも単調――というより特定のパターンがあった。
その最大のルールが、自身の動きに合わせて疑似宇宙を展開していること。つまり全体が自然とユウキについていくのだ。それに気が付いた時から、俺はユウキに攻撃を当て、彼を上方に吹き飛ばすことを目標とした。ついでにできるだけ水溜まりの真上に近づけるように角度を計算して吹き飛ばすことを。
あまりにも力技だし、目指すべきポイントを常に把握しながら空中を動き回るのはかなり苦労したが、なんとかなった。
やはり筋肉は全てを解決する。世界を救う勇者も筋肉なのだ。これこそが世界の答えだった。
「でもさ、ボクが本当に<狂月の漸近鬼>を無効化してたらどうしたんだよ。そうなると聖域外に飛ばされた君は、感電の追撃もできないんじゃないか?」
その質問は、話の本質を理解していると察するに余りあるもの。
唯一の水場を目指すことと、聖域へ向けた<狂月の漸近鬼>を発動すること。これを同時に行える方法を俺が目指していたと、理解している者の気配だ。
「もちろんお前が<撃退の唸り>を温存して、<狂月の漸近鬼>に受けて立ってくれた方が、俺にとっては都合が良い。魂も大幅に削れるし、その流れで地面に叩きつけて感電の追撃も狙えるからな。実際すぐには攻撃に移らずに、お前に考える時間を与えたろ?」
つまり今回のルートこそが、俺にとっては最善だったというわけだ。
俺は<狂月の漸近鬼>によってユウキの<撃退の唸り>の残り一回を消費させたかったのではなく、<狂月の漸近鬼>を発動したかった。これが肝だ。
つまりどっちみち、あの状況にまで到達した時点で、俺の勝ちだった。どちらを選ばれたとしても損はない。だから少しでも得になるように粘っただけだ。
「そうだね。ボクはまんまと引っかかった。でも負け惜しみのつもりはないけど、それって運じゃないか?」
「そうでもないさ。どっちみち同じだ」
「なに?」
俺はユウキの体を指さす。
意図は伝わり、ユウキは自身の体を見下ろした。大量の水分を吸い込み、重々しいものと化した毛の鎧へと。
「地面に叩きつけた段階で、お前はもうずぶ濡れだった。仮に<狂月の漸近鬼>が無効化されたとしても、俺の作戦は既に成功しているんだ」
<狂月の漸近鬼>で削れる魂の数がどれくらいなのかは知らないが、恐らく抵抗値ゼロの感電ならばそう時間をかけることなく取り戻せる程度の損失だろう。
だから別に、<狂月の漸近鬼>を無効化されて聖域外へと飛ばされても、大したデメリットにはならない。
「どちらの選択を取るにせよ、結局<撃退の唸り>の最後の一回は消費され、お前の体は濡れる。な、同じだろ?」
「…………確かにね。でもこれだけは納得できない。ボクの思考を空の戦いに誘導したのは天晴だよ。矛盾もないし、完全にしてやられた。けどあのフィールドは? ボクがあんなことをすることも予想してたって?」
ユウキが空に展開した疑似宇宙に関してだろう。
確かにああいうことをやると分かっていないと、俺の作戦は端から成立しない。どうやって<狂月の漸近鬼>を発動する足場を作るのかという話だ。
だが――
「もう一度同じことを説明させるつもりか? <反教底位>だ」
「あっ……」
「お前が洞窟や地面の中に色々と準備していることを、俺は知っていた。そして、お前が俺を空におびき寄せるためには、あの方法しかないんだよ」
「…………」
元々俺の能力だ。誰かがそれを手にした時、どんなことをするかなどそれこそ手に取る様に分かる。俺には300年の発想があるのだから。
ユウキは他人の能力を巧みに操り、最善の結果を導き出した。その成果は、まさに天才という名を欲しいままにするほどのものだ。だからこそ、俺には分かりやすかった。ユウキの敗因をあげるとすれば、それが俺の能力だったことだ。
「これは年寄りからのお節介と聞き流して欲しいんだが……<一触即動>はあんな使い方をしない方が良い」
「あんなって……物を操る能力なんだろ? それも重さの制限も、数の制限もなく。ならあれが王道じゃないか」
「だからだよ」
そう。ユウキの言ったそれこそが、答えだ。
「お前がやったのは、誰もが真っ先に頭に思い描く使い方だ。だからその力でどんなことができるのかが相手に筒抜けになるし、次にどんなことをしてくるのかも読みやすい」
「…………」
ユウキはどこまでも真剣な表情で、俺の言葉を受け止める。
ここまでの全てを、彼はその顔で聞いていた。
「だから俺は、一度の戦いでは基本一回くらいしか使わない。ここぞという時の奇襲力こそが、この能力の真価だと思ってる」
<一触即動>の強みは、物体をその質量に関係なく自由自在に操れること――ではない。相手の意識の隙間を突く、奇襲力にこそある。
つまり、何だこの能力は、どんなことができるんだ――と相手に思わせておいた方が、強い力というわけだ。もしかしたら、また不可思議な力で妨害されるかもしれない――1回の使用でそんな意識を敵に刷り込むだけでも、その後の戦いの流れは大きく変わって来る。
だから二回目は滅多に使わない。よく分からない能力であり、かつ油断ならない能力だと思わせておきたいからだ。
ユウキのやり方では、誰だって初見で分かってしまう。物を操る能力だと。
「まあ、俺が<一触即動>でできることは大抵自力でできるって理由もあるけどな。つまらない話を聞かせたな……マウントを取ったようで悪かった。忘れてくれ」
こんな話をできる機会はそうそうないので、ちょっと調子に乗ってしまった。
自分の能力を使う敵と語れる機会など、本当に中々ない。他人ならどういう風に使うのかも見れたので、かなり新鮮な体験だった。
「いや、これこそボクの聞きたかった話だ。だから悪いけど、もう少しだけ付き合ってくれない?」
「いいよ」
残り時間は3分強。いよいよ命の危機が迫ってきているが、俺は迷うことなく頷く。
ここからルルワのところに行くのにかかる時間は数十秒だろうか。だが最悪、太陽の光から身を隠せる場所に移動するだけでもいい。場所にも心当たりはある。
何より今は、ユウキともっと話したかった。
彼の話を、聞きたかった。
「この聖域について調べたという<反教底位>の発動時に詠唱が聞こえなかったのは……あれは、たまたまじゃなかったのか?」
「当然お前に聞かせないようにだ。<一触即動>で身に覚えのない岩々や木々を出された時点で、他にも何かを隠していることはほぼ確定。だからそれを見つけたと、お前に知らせたくなかった」
発動前から、十中八九あるものと決めつけていた。
だから罠索敵、そして発見の事実をユウキに悟られないように、あの時だけ無詠唱で発動したのだ。
この聖域内で詠唱なしに発動したスキルは、その時の<反教底位>一回限りだ。
「大聖堂では、<反教底位>もちゃんと詠唱していたよね? 他の技だって、全て必ず詠唱があった」
やはりユウキは、俺の種族的スキルは必ず詠唱が必要なものだと誤認していたようだ。そしてそうではないことを、今知った。
「いざという場面で、発動した事実を隠すために決まってるだろ? 実際今回のことも、<反教底位>の可否が決め手となっている。あの時使ったとお前が把握していれば、空での戦いが誘導の可能性にも思い至れたかもな」
「…………」
俺は日頃から、技を発動する時は技名を口にすることを徹底している。その理由は多々あるが、一つは、相手に詠唱が必ず必要な技だと思わせるためだ。
だから稀に無詠唱で発動する時に、それが活きる。特に<反教底位>、<一触即動>、<公序陵辱>での有用性は計り知れない。
ざっと考えられるだけでもかなりのパターンでメリットを見出せるはずだ。だから――
「時々いるだろ? 無詠唱で発動できることを鼻高々に自慢するような奴。そういう奴らって一体何考えてんだろうな。俺からすると、本当に信じられないよ。頭がおかしいとしか言いようがない」
「まあ……君からしたらそうだろうね。戦いの中で、そこまでの戦術と戦略を徹底している君からすれば……」
「技名叫んだ方が、絶対カッコイイのにな」
「関係ないのかよ」
というか、それが全てだ。
この辺り、俺は結構こだわりが強い。技名なんかかなりの時間をかけていつも考えているし、とりわけ言葉にした時のカッコよさを重視している。
<夜王の先翔蹴>なんか、よく蹴る直前と蹴る瞬間とで技名を分けているが、あれはそちらの方がカッコイイと思うからそうしているのだ。
瞬く間に敵に接近すると同時に、<夜王の>。敵が俺の存在をようやく認識し出した頃、蹴りと同時に<先翔蹴>だ。
どう考えてもこれが一番カッコイイ。たぶん共感してくれる人は多いはずだ。
馬鹿みたいな話だが、俺はこういうのは、結構馬鹿にできない要素だと本気で思っている。自分が気分よく、気持ちよく戦えるのが戦闘では一番大事なことだ。戦いは気から。これは綺麗ごとでも冗談でもなく真理だ。
俺がとにかく攻め続けることを絶対の理念としていることも、無関係の話ではない。そういった思い切りの良さと、自分の調子を自分で面倒見れる部分が、俺の欠かせない強みの一つだと思っている。
事実俺はまだ、誰にも負けたことがない。
「じゃあ最初から……ボクを聖域から追い出すつもりなんて、なかったってことか……」
「…………」
「何だよそれ……戦いにすらなってないじゃないか……」
俺は、答えない。
答えを求めた言葉ではないと、分かっていたから。そして俺が口にする答えが、正しいとも限らないから。
だからこれは、どこまでいってもユウキ次第だ。彼にしか分からない。
そんなユウキが、顔を伏せる。その姿は、ショックに打ちのめされているようだった。
もしかしたら、手抜きをされたとでも思ったのかもしれない。ユウキの立場からしてみれば、自身を聖域から追い出すことが、唯一にして絶対の攻略法と言っても過言ではない。
それを端から俺が狙いさえしていなかったというのは、これに勝る屈辱はないだろう。対等に扱われていないとさえ思うかもしれない。逆の立場なら、俺だって多少は嫌な気持ちになるだろうから。
しかし――
「君……凄いよ」
「っ!」
顔をあげたユウキの言葉は、俺の予想に収まらなかった。いや、はっきり言って予想外だった。
その表情は、子供のように爛々と目を輝かせている――というわけではない。ただ真剣に、こちらを見据える。
笑みも、歯噛みもない無表情。だからこそ如実に表れる。
ユウキの――心が。
「本当に凄いや。ボクはこんなに凄いと思う男に、今まで会ったことがないよ」
「…………」
それは、時間稼ぎでも、ましてや命乞いでもない。
相対するムメイには、それが分かった。
真っ直ぐに伝わるのは、純なる心。一流の敵への、惜しみない称賛。そして止めどなく溢れ出る――敬意。
覚醒した戦士は、己の強さを知ることで、その男の強さを真に理解する。
死闘を経た今だからこそ――
彼は最高の男を、知ってしまったのだ。




