第077話 コイラスの英雄
時は現在へと巻き戻り――怪物たちの戦いは、いよいよ最終局面へと移行していた。
聖域から上空数十メートルを超える空には、光差す小宇宙が広がっている。
空を我が物顔で飛行する矮躯を中心に展開される太陽系は、各々好き勝手な公転軌道を空に描き、その周りには種類豊富にして、大小様々な衛星が伴う。
まさに宇宙を模倣したような光景。しかし子供の空想という注釈はつく。
その中心に居座るは、星間ガスとでも言わんばかりに毒々しい色を噴かす獣。その周囲を公転、いやもはや荒天とも言うべき不細工な惑星たちが顔を並べる。
つまりその実態は――
ユウキの<一触即動>によって空に浮かされた岩々、木々、木片、金属板、鎖、縄、鉄くず――数にして数百にも及ぶ物体。
それら混沌たちの、漂遊だった。
大きく様変わりした聖域。その一風変わった空を駆けまわるのは――
自由奔放に天を遊ぶ惑星、衛星たちの影に隠れるようにして空を飛ぶ獣と――
それを追いかけるようにして、大地なき空を翔け上がる鬼だった。
ここに行われる最終試合。それは犬妖精と吸血鬼、人外の化け物たちによる――終わりの見えない追いかけっこ。
戦場は――空へ。
「ははは! 凄い凄い!!」
「…………」
ユウキは最高速度を維持しながら、空中を飛び回る。即席で創り出した小宇宙。その天体の影に隠れるように、障害物で阻むようにして空の間を縫う。
そんなユウキを追いかけるのは、当然ムメイだ。浮遊する岩々や木々を足場に、空を蹴り進む。
そう――これはまさに、鬼ごっこ。鬼であるムメイがユウキを捕まえる。ただそれだけの戦いだ。
(狙いは分かってるよ)
現状――ユウキは確信していた。戦いは最終局面に突入していると。
そして、お互いがそれを分かっていると。
ムメイの狙いは、十中八九ユウキを聖域内から追い出すことだろう。
当然根拠のない考えからではなく、これにははっきりとした理由がある。ムメイの立場になって、目線に立って考えるのが肝心だ。
まず第一に、ユウキの中にあとどれだけの魂があるのかが分からない。
流石に<霊魂奉納>の仕様が変化していることには、既に気が付いているだろう。詠唱がなくなり、攻撃しても傷がたちどころに治るのだから当然だ。勘が良ければ、その具体的な内容についてもおおよそ悟っているかもしれない。
だがこの時、際限なく魂を消費し続けるユウキの姿を見て、ムメイはどう思うだろうか。ユウキが彼の立場なら、きっとこう考える。削り切られない自信があるのだと。
ムメイの物理攻撃力の高さを目の当たりにしてなお発動し、むしろ積極的にダメージを受け入れている。それは魂の容量が桁違いだからと。
ユウキがオート切り替え直後にムメイの大技を誘ったのは、そういった理由からだ。
<狂月の漸近鬼>の威力のほどは、ユウキもその目でしかと確認している。それを知って尚受けた。むしろ誘った。この事実を一番最初に作り出したかった。
あの攻防でムメイは確信したはずだ。一撃は貰うことを前提に、確実に攻撃を当てることを目的としていると。疑似的不死身を利用した、相打ち覚悟、玉砕覚悟のカウンター。
つまり差し引きプラスになるからこそ、そういった戦法を積極的に取り出したのだと。でなければ正面からの激突を自ら選ぶはずがない。あの状況で<狂月の漸近鬼>が来ると予想できない馬鹿はいない。
もちろん、実態は異なる。
<狂月の漸近鬼>で削られた魂の数は、軽く見積もっても1000以上。残量の4分の1ほどが一気に削られた計算だ。
ユウキも、空中で身動きの取れなくなったムメイへとすかさずカウンターを繰り出したが、与えたダメージはお世辞にも釣り合いが取れているとは言えない。
これには、そういった結果も覚悟のうえで臨んだはずのユウキも、驚かされたものだ。一騎当千とはいうが、まさかあんなリスクもない、普通に連発できるような力技がここまでの威力とは。まさに一人災害。
最初に<撃退の唸り>の一回を使ってまで無効化したのは、英断だった。あそこで出し惜しんでいれば、やはり聖域は跡形もなく吹き飛ばされていただろうから。
つくづく恐ろしい力。この聖域で戦うことができていなかったらと思うと、背筋が凍る。おそらく戦いの形にすらなっていなかったのではないか。
しかし繰り返すが、先の攻防によってムメイに与えた印象は大きいはず。自ら献上した大ダメージ。その程度気にも留めないような攻めの姿勢。
仕様変更後の初撃にして、戦いに絶大なインパクトを刻むあの衝突は、ムメイの作戦方針に必ず響いてくる。
その上に畳みかけるのが、毒への対処法が消失したという絶対の課題。
アワンの力は頼れず、街に広がった毒はもうどうにもならない。そしてあちらには、大切な仲間であるルルワとアワン。彼女たちはムメイと違い、毒の脅威に長時間耐えられるとは思えない。
つまり毒源であるユウキを、ムメイが何が何でも叩くしかなくなった。そして討伐に時間をかけるメリットはなく、時間をかけて討伐できるのかも分からない。
ゆえに――
(ボクを捕まえて、この聖域から追い出すしかない)
そのための鬼ごっこ。今こうなっている現状こそが、ムメイの目的と、ユウキの読みが正しいことを証明していた。
「鬼さんこちら! 手の鳴る方へ!!」
ユウキの逃げは、そこにある宇宙内を彷徨うのではない。実際にはユウキを中心に、この宇宙がついてきている。
そしてユウキは操作能力を扱いながら、聖域内の空を少しずつ移動しているのだ。波のように上昇下降を繰り返し、聖域内を彷徨うように右へ左へ蛇行していく。
だから終わらない鬼ごっこ。逃げ回る範囲は聖域内限定と決められてはいるが、制限などあってないようなものだから。
そんな圧倒的不利な条件にも文句ひとつ言わず、黙々とユウキを追いかける存在は――本来の用途とは異なる拙い足場を頼りに、着実にユウキとの距離を詰める。
そして、さらなるハンデまで要求する余裕を見せた。
「目隠しはいらないのか!?」
「ボクは鬼じゃないんだよ!! 君と違ってね!!」
ユウキが<一触即動>を使用してまで、足場にもなる太陽系を展開した狙いは当然、ムメイを空へとおびき寄せるため。
ムメイの神がかった身体能力。そこからなる圧巻の運動性能は、起点となる大地があってこそ。脚力によるしっかりとした踏み込みが行えなえなければ、その脅威は半減。
先の空での攻防でそれははっきりと分かった。ムメイはここでは何もできないと。
つまり空でも大地と遜色ないレベルで行動できるユウキが――いや、下手をすれば地面の上よりもいい動きができるユウキこそが、この戦場では圧倒的に有利。
しかし、いややはり、ただ一つ誤算があるとすれば――
「そうかい……」
「っ!?」
相手が、その程度のハンデをものともしない――怪物だったことだ。
「<愚者の>――」
不規則――ユウキをして完全なアトランダムと言わざるを得ない動きを見せる衛星たちを踏み台に、空で加速する影。
射程距離に捉えた――そう言わんばかりに動きそのものが変わり、小宇宙を自由自在、縦横無尽に駆けまわる。
それは適当な動きのようで、そうではない。着実にユウキに近づくための段階的な加速、かつ助走。
そして翼も足も取り上げられ、大地と空を同時に失ったはずのその存在は――
労せず、太陽へと辿り着いた。
「<逃罪手>!!」
「<一触即動>!!」
だが――その手は、届かない。
至近距離で大砲が撃ち出されたような衝撃も、ユウキの体には届かなかった。
ユウキが操作し、即席の壁となった厚い金属板が悲鳴をあげ、大きくへしゃげる。
金属純硬度で最上に位置する強金属アダマントが、パンチ一発でこの有様。だがその衝撃の余韻に浸る暇はない。ユウキのチャンスは、この瞬間にしかないのだから。
「ちっ!」
己の攻撃を受け止め、拳が深く食い込んだ金属版を足蹴に、ムメイは即座に距離を取ろうとする。空中に浮く板を蹴り空を自在に移動する姿は、まさに器用としか言いようがない。
しかし吸血鬼が空中で美しい宙返りを披露する時には、ユウキは既に前に出ていた。
「<岩裂>!!」
「ぐっ!」
離脱を図ったその瞬間を狙い撃ちにしたユウキの攻撃は、直撃する。とある理由から、電撃の鎧を纏っていないムメイ。その肉体から僅かな鮮血が吹きあがり、宇宙を汚す。
それは、この場所が誰のものであるかを見せしめる一撃。
そしてこの戦場での有利がどちらにあるかを証明する、一撃でもあった。
「ふっ!!」
「<日神月歩>」
しかし、流石と言うべきか。ムメイも攻撃を当てられるのはこの瞬間しかないと、痛みを噛み殺してカウンターを繰り出す。
だが当然、ユウキは想定済みだ。空に足場のないムメイは、ユウキが接近してきたこのタイミングを狙うしかない。だからこそ、回避を念頭に攻撃を繰り出したのだ。
「なんていい能力なんだ!! まるで空を手にしたようだ!!」
ムメイの初速を上回るほどの回避性能。<浪漫非行>と併用すれば、空では敵なしの力だ。
ユウキは全能感に酔いしれながら、落下していくムメイを見下ろす。この力の、先代保有者を。空を奪われ、空から落ちていくことしかできない男を。
「っ!」
だが、太陽を目指す男は、まだ足掻き続ける。
ちょうどよく後方を通過していく大木に、目を向けることもなく腕を引っかけると、即座に飛び乗り、今度は別の大岩へと飛び移る。そして空を不規則に漂う惑星の上から、ユウキを睨み上げた。
驚くことにこの間、ムメイは一度もユウキから目を離していない。まるで辿り着くまでのルートを計算するように真っ直ぐにこちらを見上げ、またすぐに動き出す。
ユウキが苦労して生み出した小宇宙が、ムメイの手にかかれば子供の遊び場だ。
(ほんと化け物だなぁ……こんなのがあっちには7人もいるのか? 冗談だろ?)
<一触即動>で操る疑似惑星は、宇宙空間のように、ゆったりと空を漂っているというわけではない。常人では一つを追うのでさえ苦労する速度。これら全ての動きを把握するなどもってのほかだ。
しかしムメイは、次何がどこにやってくるのか分かっているように巧みに利用し、着実にユウキへと距離を詰めてくる。
現にムメイはまだ、一度も地面に降り立っていないどころか、足を取られるようなミスさえしていない。たったの一度もだ。
本当に、凄まじい運動センス。360度視界が見えているかのような空間把握能力と、未来を知っているかのような立ち回り。そして物体の動きを全て予測しているかのように無駄のない動き。
簡単にやってのけているが、かなり難しいことだ。少なくともユウキには絶対に出来ない。
(こいつに勝てる奴ってこの世にいるのか? もしかしてほんとに世界最強なんじゃないのか?)
こうしている今も、空中に射線を描くような凄まじい移動速度。冗談ではなく、軌道が数秒は空に残るほどだ。ユウキはその影を追うので精一杯。
障害物に当たるような気配は微塵もない。数百には及ぶ物体の動きを、確実に見切って移動している。
本当に身体能力、そして身体操作技術に関しては神ががっている。体に神が宿っていると本気で思いたいほどだ。
神速で舞い戻り、再びユウキに肉薄しつつあるムメイが――笑う。その笑みは、楽しくて仕方がないという歓喜の表れ。
だからユウキも、笑った。気持ちは全く同じだったから。
「せっかく空を奪ったのに、俺に足場を作ってどうするんだよ!?」
「こうするんだよ!!」
ここでユウキは初めて、ムメイが足場とする予定の大岩を操作する。ムメイを空へと誘うためにわざわざ用意した、足場を。
突然未来に裏切られたムメイは、そのまま見えない何かに足を引っ張られるようにして、空を落ちていくしかない。超人的な身体能力も、足蹴にできる物質がそこになければ無力だった。
「ははは! また最初からだ!!」
「嫌がらせかよ!!」
地続きではない道を翔け上がっていたムメイは、再び下の方へ。だが文句ひとつ言わず、どころか想定の範囲内だとでも言うように、再び同じ動きを繰り返す。
慣れてきたのか、動き出しに全く迷いがない。いや、元々ムメイに迷いなどと言うものは一切なかった。
目的は最初から一つに決まっている。そう言わんばかりの迷いの無い動きに、ユウキはやはり笑みを深めた。
(分かってるよ……使わせたいんだろ?)
ムメイがユウキへとどうしても接近したいのは、捕獲のため――ではない。それはこのフィールドでの最初の一撃が、明確な攻撃であったことからもよく分かる。
その最大にして唯一の理由こそが、今となってはユウキの正真正銘最後の切り札と化した――<撃退の唸り>。これを使わせること。
これがあるのとないのとでは、話が大きく変わって来るからだ。
ムメイが最終的に目標としているのは、ユウキをこの聖域から追い出すこと。しかしユウキを捕まえて聖域に引きずっていく時、この能力があったら? ムメイは聖域外に飛ばされて、また最初からやり直しだ。
そして一度でも大地に降り立ってしまった場合、ユウキが再びムメイのために足場を用意してくれるとは限らない。何かの間違いで空での停滞をユウキが選んだ場合は、ムメイにはもうなすすべがないのだ。
だからこの空というフィールドに移り変わった時点で、ムメイの目的はただ一つ。ユウキの残り一回の<撃退の唸り>を使用させること。
これを消費させないことには、ユウキを捕まえても意味がないからだ。
そのきっかけとしてまず攻撃を当て、戦闘の流れを引き寄せた上で、最終的には大技を叩き込もうとしている。
ユウキが残り一回の<撃退の唸り>を使わざるを得ないほどの必殺技を。今はそのための準備時間といったところだろう。
(使わないけどね!!)
ムメイが再び、段階的な加速に入る。ここに至るまで、僅か数秒という時間。
縦横無尽かつ自由自在の空中歩行を経て見舞われるのは、これまでの彼の代名詞――蹴り、ではなく拳。
攻撃を防がれた時、その障害物に足を取られることを警戒した結果だろう。少しでも足取りが狂えば、即座にミスへ繋がる。緊迫したこの空では、どこまでも正しい考えだった。
「<愚者の逃罪手>!!」
「<岩裂>!!」
繰り出された大型の弾丸を回避し、斬撃を浴びせる。鮮血が舞い、毒の煙が立ち昇る。
ユウキは全く同じやり口で攻撃を防ぎ、そしてヒットアンドアウェイで着実にムメイへとダメージを与えた。
ここでは、雷の力も使えない。
雷のパワーを用いた移動では、衝撃で足場そのものを破壊してしまう恐れがあるからだ。そして浮遊する物体がなくなると、ムメイは空にはいられない。ユウキを捕まえられない。
かといって攻撃の、インパクトの瞬間にだけ雷の力を発動するようなことはできないのか、それもしてこない。
つまりこのフィールドでは、ユウキは雷の脅威に怯えることなく、ムメイの体に着実なダメージを刻むことができる。そこに加わる毒のダメージ。この攻防を繰り返していけば、遠からずユウキの勝ちだ。
やはりこの戦場、この空では、ユウキが圧倒的に有利。そしてここに誘われた時点で、ムメイにはもう打つ手がない。
しかし――
ムメイは防御に使われた金属板を器用に蹴り飛ばすと、再び助走確保へ。一箇所に留まることなく動き続け、加速する。
攻撃が当たるまで、何度でも繰り返す。無言の宣言を、確かにユウキは汲み取った。
「馬鹿の一つ覚えか!? もっと他の技はないの!?」
「せめて一途と言って欲しいね」
両者は――思い思いに空を舞う。
決着の時は、刻々と近づいていた。
***
「――<風裂>」
「ちぃ!」
目で捉えられない不可視の刃を、ケインは地を転がるようにして躱す。
そのままの勢いで建物の影に隠れ、土の汚れもそのままに駆け出す。
選択は逃げの一手。宣戦布告を経てなお、ケインは変わらずナトゥから逃げ続けていた。
「私に勝つんじゃなかったの!?」
「うるせえ!!」
嘲笑の声に、ケインは八つ当たりの怒声で返す。
だが、ナトゥの気持ちも分かるというもの。あれほどの啖呵を切った後にこの体たらくでは、笑うなと言うほうが無理からぬ話だった。
だが当然ケインも、今更腰が引けたわけではない。
逃げているというのに、わざわざ自分の位置を知らせるような真似をしていることがその証拠だ。ナトゥが間違っても別の場所に行ったりしないように、ケインは常に自分へと彼女の注意を引き付けていた。
ならばなぜ彼が、このようにしてナトゥから逃げ続けているのかと言えば――
(あんのトロ女!! トロトロと何やってんだぁ!!)
レイラがまだ、このコロノスの大地の上にいるからである。
時間は再び少しだけ遡り、現在はレイラがアワンらと合流する前。つまりレイラがちょうど満身創痍に突入している頃。
既に東ブロック全域から人々が避難を完了した中で、ケインが未だナトゥに正面から立ち向かえないのは、そう言う理由からだった。
つまりは未だ東の大地の上にただ一人残っているレイラを、自身の能力に巻き込まないようにするためである。
(せっかく魔力割いてまで術かけてやったってのに!! どんだけ走れねえんだあの乳女!!)
ケインの想定では、もうとっくに着いていてもおかしくない頃だ。いや、着いていないとおかしい。
現に彼女よりも後に駆け出した騎士たちは、とっくに東ブロックからの脱出を果している。彼女だけだ。誰もいなくなった領地でまだチンタラやっているのは。
(あ、歩いてる!? まじかあいつ!? 歩いてるよなこれ!?)
ケインは特殊な魔術により、コロノスの大地の上を歩いている存在の動きを、振動によって追跡することができる。
汚染源に指定され、走り出したレイラの居場所を探知したのもこの力によるものだ。ムメイは<反教底位>がなければこの状況は詰みだったと考えていたが、実はそうでもない。
もちろん全体の中から指定人物を見つけ出すことは、その対象のことを知っていなければできないが、アワンを通じてユウキのことを見つけ出すことだってケインにはできた。
が、まあ結果はそう変わりはしない。もしあの時点でアワンに憑依したユウキ、そして汚染源と化したレイラを押さえたとしても、汚染源はすぐに別の者へと移り変わっていたのだから。
(あんのトロ女~~!! 終わったらマジで覚えてろよ!?)
赤ん坊もかくやという速度でノロノロと大地を進むレイラに、ケインは決して理不尽とも言い切れない苛立ちをぶつける。
もちろんレイラは全くふざけておらず、常に全速力――あくまで自分なりの――ではあるが、その速度がまさに牛歩の歩みと言うのも、決して間違いではなかった。
「<風裂>」
「くっ!」
詠唱が聞こえた瞬間、背を預けていた屋台から、ケインは飛び出す。
再び大地を転がれば、視界に見えたのは真っ二つと化した屋台。木造とは言え、まさに屋台骨が断絶される結果に、ケインは本能的な怖気を抱く。あんなものを受けては、自分でもただでは済まないだろうと。
(これ以上時間稼ぎは無理か……俺の体ももう限界だ)
走らずとも勝手に息が上がる肉体。少し走るだけで、息苦しさは比例を超えて募る。それも、大地上では様々な面で補正がかかるはずのケインがだ。
それ以前に、もう体が思うように動いてくれない。まるで関節がさび付いたように曲がり難く、肉体そのものは頭から泥水でも被ったように重い。
痛みも尋常ではなく、開いた口からは勝手に涎がこぼれ落ちるほどだ。それほどケインの体は、既にケインという持ち主の手を離れていた。
(くっそ、もうこれしかねぇ)
ケインはなんとか体を起こすと、たたらを踏みながら立ち上がる。
正眼には、落ち着いた足取りで近づいてくるナトゥの姿が。毒を全身から振りまいておきながら、当人は全くその影響を受けていないという理不尽の権化。
余裕綽々の表情で歩を進める姿は、どこまでもケインと対照的だ。まあまだ一撃も与えていないのだから、当然ではあるが。
「降参だ。降参する」
「…………」
ケインは剣を収め、上げるなと力なき訴えを繰り返す両腕を、持ち上げる。それはプライドの問題ではなかった。もはやこの程度の動きをすることもシンドイと訴える体が、無言の悲鳴をあげたのだ。
ケインの、まさに全身全霊をかけた白旗を前に、ナトゥは――
「嘘が下手ね」
当然のごとく――見破る。
ケインも当たり前かと思い、遣る瀬無く笑った。
「何を考えているの? いくらあなたが馬鹿だからと言って、全くの考えなしってわけでもないんでしょ?」
話を聞いてくれそうな気配に、ケインは即座に考えを撤回する。
嘘偽りなく、正直に行こうと。たぶんそっちの方が自分に合っているし、上手くいきそうだと。
「まあな。ちょっと話を聞いてみたくなった。お前の話を」
「私の?」
「ああ、お前の」
嘘ではなかった。
確かにレイラが移動を終えるまでの時間稼ぎではあるが、内容は決して建前ではない。ケインは最後に、ナトゥの本音を聞きたかったのだ。
「俺がした提案じゃ……不足だったのか? 俺たち四人でパーティを組んで、勇者に力を貸すって未来じゃ」
「…………」
ケインはもったいぶらず、単刀直入に始める。
そして攻撃の気配の無くなったナトゥを前に、ぶらんと両腕を垂れ落とした。だがやはり、ナトゥからの追撃はない。
「不足ね。不満でもあったわ。だって死ぬもの」
意外にも、ナトゥはケインの問いに答えてくれる。いや、意外でもなかった。ナトゥはケインを欲しているのだ。殺そうとしているわけではない上に、自分が圧倒的に優勢。口が軽くなるのは致し方なく、また余裕があるのも当然だった。
「そりゃ戦ってりゃ死ぬこともあるだろうよ……でもそんなこと言ったら、この世界じゃ生きていけねえだろ?」
「そうね、生きていけない。だからこの世界から抜け出すんでしょ?」
「はぁ?」
ケインはこの時だけは戦いを忘れ、ナトゥの言葉に集中する。言葉のおかしさとは違い、彼女の顔はいつになく真剣だったからだ。
いつもの高慢な笑みは消え、瞳に暗い輝きさえ宿る。それはやはり、ケインがまだ知らないものだった。そして知っておいて損はなかったと、この先考えるものでもあった。
「逆に聞くけど……本当に人間が勝てると思ってるの? ここから逆転できる未来があると思う?」
「…………」
ケインは押し黙る。その気迫とは異なる独特な気配に、口を開けなかった。例えるなら、絶対に自分は間違っていないという頑固さ。軽々しい批判を許さないという頑なさがそこにはあった。
「無いでしょ。今この国を荒らしているのは、南領域最強と言われる12使徒だけど、まだなりたての子供。末席に加わったのはここ数年の話。たった一人で一国がこの状態なのよ? あの女一人でなんとかできたと思う?」
「…………」
あの女とは、勇者ルルワのことを言っているのだろう。ケインも間違えなかった。
そしてケインの答えは、ナトゥと同じだ。確かにルルワ一人では、いや、そこにケインたちが加わったとしても、この状況をなんとかできるとは思えなかった。
今この国が曲がりなりにも何とかなっているのは、ムメイという吸血鬼がいるからだ。それも、ケインには分かっていた。
「ユウキ様が言うには、12使徒とか40試練って、北領域への警告の意味で積極的に呼称されるようになったらしいわ。つまりビビらせるための看板ってわけ。まあ納得よね……普通に考えておかしいもの。そんな大それた通り名と情報が、こっちにまで伝わってるんだから」
「…………何が言いたいんだ?」
そう口では言いながら、ケインにはナトゥの言いたいことがはっきりと分かっていた。
いや、今日初めて気が付いたわけではない。ケインはずっと前から気づいていたのかもしれない。気づいていながら、ずっと見て見ぬふりをしてきたのだ。
「つまり空いた穴をすぐに塞げる程度の希少性ってこと。私やあなた程度の存在なら、たぶん向こうには掃いて捨てるほどいるんじゃないかしら? もしかしたら12使徒級の戦力も、その辺にゴロゴロ転がってるのかもね。だってあっちから逃げてきたユウキ様でさえ、あの強さだもの」
「…………」
逃げてきた――そう言われると、大したことがないと思ってしまうから不思議だ。だが確かに、よく欠員が出る40試練は、すぐに補充される。ケインが生れてからの数十年でさえ、数人がもう入れ替わった。
もしかしたらつい最近欠けた12使徒でさえ、すでに穴は埋まっているのかもしれない。少なくとも、否定できる根拠はない。
「だが、こっちにも強者はいる。それこそ……あの吸血鬼とかそうだろ」
12使徒に出た欠員で思い出した。あの吸血鬼は、南領域最強の一人を打ち破っているのだと。だがそんなものは慰めにもならないと、まさに吹けば飛ぶように一蹴される。
「だから吸血鬼でしょ? 人間じゃないわ」
「…………」
そうだった。彼は向こう側からやってきたのだ。つまりユウキと似たような立場。
(強い奴が向こうに飽きてこっちに来る……とかだったらいいんだけどな)
望み薄だろう。生存権を追われるのは、やはりどの時代も弱者だ。もしくはそこで受け入れられない何かがあったから。もし揺るがない暴力を持っていれば、そんな影響は根元から一掃できる。
こっちに来たのは、向こうで通用しなかった者達。そう考えるのは生物学的にも正しい見解だった。
「ユウキ様とこれだけの時間戦いになってるんだから、あの吸血鬼も化け物であることは認める。でもだからなに? それで7人の魔王に勝てるの?」
「…………」
だからナトゥの言うことは、どこまでも正論だ。
ケインでさえ納得してしまうほどの。
「そもそもあっちから来た吸血鬼が12使徒と同程度に強いって時点で、私の仮説は当たってるってことにならない? あんなのがその辺プラプラ歩いてるような世界なのよ? 人間がどうにかできるの?」
「だが…………ルルワ様は、あいつをペットにしてるだろ」
「それ本気で言ってないわよね?」
「…………」
やっぱり違うのか。薄々おかしいとは思っていた。
なんかペットにしては飼い主より偉そうだし、なんか勝手に人の言葉とか喋り出すし――ケインもなんとなくおかしいな、とは思っていたのだ。本当になんとなくだが。
「私はずっとイライラしてたわ。馬鹿な人間どもに。能天気なあの子に」
「!」
ここにはいない誰かへ向けた怨嗟。その対象も、ケインはやはり間違えなかった。
「7人の魔王を討ち滅ぼす? 世界を救う? 夢を見るのは勝手だけど、周りを巻き込まないで欲しいわ。あんなこと言われたら、まるで私たちが間違ってるみたいじゃない。正しいことを言っている私たちが」
「正しい?」
正しいのは、アワンだろう。
悪に立ち向かおうとする心は正しい。この時点でアワンには、絶対の正義がある。
だが、ナトゥはそうは思っていないらしい。その答えは、ムメイが語った善悪論とはまた様相が違ったものだった。
「そうよ。何で正論を言っている私が悪いみたいになるわけ? だって勝てるわけないでしょ。みんな心の中では、そう思ってるわ。だけど言えない。周りに間違ってると思われたくないから。自分は正しい人間だと思いたいから」
「…………」
それは善悪を論じたムメイとは、根本からして違う。
もっと人間的な、俗物的問題に着目した持論だった。
「でも本心では、みんなできるなら、自分だけでも助かりたいと思ってる。他は死んでもいいから、自分だけは生き残りたいって。でも自分の手は汚したくない。正義側で気持ちよくなりたい。この世はゴミクズ共で溢れている」
それはやはり――真理だった。
やはり自己を正当化するための方便ではあるし、言ってしまえばそれは同族嫌悪という感情でもあるのだが、少なくとも彼女の言うことは間違ってはいなかった。
「だから……一人だけ助かろうってことか?」
「そうよ。でもそれってそんなに悪いこと? 私は努力して、このチャンスを掴み取った。この地獄で生き残れる資格を。何がいけないの? いざ私と同じ立場になったら同じように助かろうとするくせに、否定だけは一丁前。恵まれた人間に嫉妬しているだけのくせに、正義面して糾弾する。そういう奴ほど自分にだけはとことん甘い。ほんとにもう嫌なのよ、人間の世界は」
「…………」
ようやく、ケインにも分かった。
ナトゥは人間の世界と、人の社会に見切りをつけたのだと。あちら側の戦力と天秤にかけ、絶対に勝てないと悟った。いつか地獄がやってくるのなら、これを回避するために動かなければならない。
だから早いうちからあちら側についておこうと考えた。そのためにユウキに手を貸し、そして彼の庇護を対価として臨んだのだ。
「一生ペットの生活でいいのか? あいつの言いなりだぞ?」
「プライドが許さないって? 勘違いしているようだけど、あの御方はとても寛大よ。壁を越えさせてくれたのも当然あの方。今回の結婚について大反対したら、私のために生贄を用意してくださったわ。わがままは言ってみるものね」
「…………」
ナトゥの急激な心変わりには、そう言う理由があったのかと、一人納得する。
だが、納得できない点もあった。
(たぶん属性的に相性が良かったから、生かされただけだろうな)
風で毒の脅威を広げることができるナトゥは、ユウキから見てかなりの利用価値があったのだろう。せっかくレベル50まで育てたのだから、殺さず最大限利用した方がお得というのもある。殺すのは今回の事件で使い切ってからでも遅くない。おそらくはその程度の気まぐれによるものだと思われる。
ケインの見立てでは、ユウキが約束を守るかは五分。直接相対した感覚的には、ナトゥに対する執着というものは、あまり感じられなかった。
(だが流石に壁超えた奴の命まで投資したんなら、生かす方向なのか?)
生贄を用意するとか簡単に言っているが、つまりはレベル50を超えた達成者の
命をナトゥは奪ったということ。これは簡単なことではない。
そんなことができている時点で、ナトゥの説の信憑性に拍車がかかってしまう。壁を越えた存在など、向こうでは珍しくもなんともないという馬鹿げた仮説が。
だが、ケインは横道に逸れた思考を強引に引き戻す。
そして、最後の質問を繰り出した。
「一人きりになるんだぞ? それで本当に……幸せなのか?」
「幸せに決まってるじゃない。生きられるんだから」
即答。迷いなき答え、迷いなき心。
生きてこその、人生。生きてこその、世界。
それこそが彼女の幸せ。たとえ人の世界が、無くなったとしても――
「…………そうか」
ケインはようやく、本当の意味でナトゥと決別する。
善とか悪ではない。ケインはナトゥの世界では、決して幸せになることはできない。それが分かった。
だから最後に、もう一度だけ問う。
女々しいし、ここまできて未練がましいことこの上ないが――ケインにとってはやはり、彼女は仲間だった。だからこそ多大な責任があると自覚しているが、だからこそ確かな情もあった。
「本当に、考え直してくれないんだな?」
「考え直すのはあなたでしょ? この世界にもう未来はないわ。こんな機会もね」
「…………」
もしかしたら、ナトゥの言うことは正しいのかもしれない。
遠からず、人類は一人残らず殺されてしまうのかもしれない。
ならば彼女の選択と決断は、純粋な生存戦略の一つ。
理由はどうであれ、ナトゥがケインを助けようとしてくれたことも、事実だ。
なにも殺すことはないんじゃないか。命を懸けてまで戦うべき相手なのか――
それら全てを、ケインは握りつぶす。
「やっぱり……お前じゃ、アワンには勝てないよ」
もう――心を決めなければ。
優しい男ならまだしも、自分に甘い男になるのだけは、ケインも御免だった。
「話聞いてなかったの? あの子一人がどうとか、もうそういう次元の話じゃないのよ。まさか本気であのお花畑がこの世界を変えられると思ってるの? そこまで馬鹿じゃないわよね?」
苛立ちを含んだナトゥの声は、彼女がどれだけアワンのような人間が嫌いなのかを如実に表す。
自分とは真逆のアワンが、許せないのだろう。彼女の輝きが強ければ強いほど、己の醜さが浮き彫りとなってしまうから。
少なくともケインは――そうだった。
『無理だろ』
昔はケインも、そうだった。
ナトゥと変わらない。いや、全く同じだ。
『現実をなんも理解しないで、子供みたいなこと言ってんなよ』
現実ばかり見て、夢を見れなかった。その方が楽だったからだ。
自分は理解できている。そういう立場になって、頑張っている人間を馬鹿だと思う方が、ずっと簡単で、楽だった。
でも――
『夢とか恥ずかしいからやめてくれ。身の程知らねえ奴が一番見ててキツイから』
今は、違う。
「俺は――!!」
自分なんかには、重い夢だ。身の丈に合わない夢。
だけど、アワンが教えてくれた。立ち向かう勇気を。
少しの衝撃で今にも倒れだしそうな体を、なんとか気力だけで保ち、ケインは声を張り上げる。
文字通り血を吐くような声。悲鳴のような叫び。
だがケインは今ここに――勇気ある者となった。
「俺は、勇者になる男だ!!」
馬鹿げた夢を、叫ぶ。
それは――アワンを信じる心であり、ナトゥへの決別。
それがケインの選んだ、生き方だ。そして進みたいと思った、未来だった。
「…………」
ナトゥの多い言葉に対し、あまりに少なく、簡潔な言葉。
しかし、だからこそその言葉は、彼の想いをこれ以上になく表す。少なくともナトゥは、決別の意志をはっきりと受け取った。
「…………本当に呆れたわ。狂信って怖いわね。馬鹿で弱い奴ほど何かに縋る。見苦しくて見ていられない」
ケインの宣言が響き、嘆息したナトゥが一歩を踏み出したと時――レイラが東ブロックの大地からようやく消え去ったことを、ケインは感知する。
本当にようやくだ。ようやくこの大地から誰もいなくなり――
ここはケインとナトゥ――二人だけの世界となった。
瞬間――ケインは武者震いに合わせるように、高ぶる魔力を、詠唱の声と共に外へと解き放った。
ずっと待っていたこの時間。一秒たりとも無駄にはできないと。
「<大地震>!!」
「なに!?」
瞬間――揺れ出すのは、大地だ。
ケインとナトゥが立つ地面が、大きく揺れ出す。脅威はそこだけに収まらない。今コロノスの大地、その全てが揺れていた。
「地震!?」
――<大地震>。
ケインの最大の切り札にして、唯一の混沌術。
その実態は、地震。その強大なるエネルギーは、マグニチュードにして7を超える。
つまりは――
瞬間的な火力と局所的な威力では、ユウキの毒の脅威を上回るほどの――
未曽有の大災害である。
「きゃあっ!?」
あまりの大地の震動に、ナトゥはバランスを保つことができず、顔から崩れ落ちた。ナトゥだけではない。獣の放逐によって一変したコロノスの景色は、再び一変する。
木造の住宅は次々に倒壊していき、窓ガラスは当然のように全て砕け散り、各地で大小さまざまながけ崩れが起きていく姿――まさに災害。
そしてそんな中、両の足で立つことを許されるのは、唯一ケインのみ。彼以外の全てが、破壊の力に飲み込まれていく。
「なにを!? なにを考えているのよ!? この国がどうなってもいいっていうの!?」
身を伏せ、必死にバランスを保とうとするナトゥの顔からは、血が流れていた。打ち付けられた額の肌は捲れ、それだけでもかなりのダメージを伺わせる。
しかし、止まらない。ケインは大地の震えを、叫びを、怒りを――止めなかった。
「…………」
彼の欲望は――郷土愛。つまりは愛国心にある。
国を思う心が、強さへと結び付く。ではこの破壊はどういうことなのか。国を自らの手で壊すことが、彼の愛なのか。否――
「誰もいない国は、国じゃねえんだよ!! 今ここは……俺の国じゃない!!」
ケインの真なる欲望――それは、自国の人々を守ること。
郷土とは――人がいる場所。愛国とは――民を想う心。
だからそこに守るべき人がいない時、この力は初めて力を発揮するのだ。この国にあって、己の国たる人々がいない時にしか扱うことは許されない――禁忌の力。この皮肉を、根源の悪魔は評価した。
悪夢に侵され、人々の悲しみに満ちているこの大地は――
民衆が住むべき場所を手放し、逃げ惑っているこの大地は――
ケインの、国ではなかった。
これは――今ここにいないケインの国を、救うための力。
「<大地讃頌>!!」
大地のうねりと共に押し寄せたのは、目を見張る規模の土石流だ。
家屋や大地を巻き込みながら巨大に膨らんでいくそれは、四方から押し寄せる。そしてその脅威が目に見えてきた時には――
それは、高さ十メートルを超えるような、巨大な壁となった。
押し寄せる脅威、いや死に、ナトゥは震えあがる。
壁を越えた存在が恐怖する程の力の奔流を前に、ナトゥは地面を這いつくばりながら、ケインに訴えるしかない。
「まっ! まって!! 私を殺したら、毒はどうするの!? もう治せないわよ!?」
汚染源を止めれば、また別の汚染源へと移るという奴だろう。ナトゥを止めれば、別の人間に毒が移ることになる。
ならばナトゥを少しでもここに引き付けるのが、本来のケインの役目。しかし――
「アワンがいる。彼女がきっと、何とかする」
ケインは迷わない。
そんなケインと対比するように、ナトゥはさらなる焦りを募らせる。
「違う! 違うわ!! 毒が変わってるの!! あの子にはもうどうすることもできない!!」
ナトゥの必死の釈明にも、やはりケインは慌てなかった。
ケインは、自分のやるべきことを、見失わなかった。
「俺は彼女こそが勇者だと……ずっと信じてる」
ただ、アワンを信じる。
この国の王子としてケインのなすべきことは、己の責任を果たすことだ。
そして取るべき行動は、既に決まっていた。
「こ、降参よ!! 降参するわ!! 私は投降する!!」
「っ!?」
ケインの覚悟の強さから、その先の己の顛末を見抜いたのか、ナトゥは早々に白旗を降る。両手をあげての降参のポーズに、絶対の覚悟を固めたはずのケインの魔術は、迷いを浮かべた。
そして、一瞬にして様々な思考が脳内で展開される。それはまるで、殺さないで済む理由を見繕うかのように。
ナトゥを捕らえてユウキの情報を吐かせることができれば、かなりの利益となる。
壁を越えた個。ナトゥほどの強さを持つ人材をここでみすみす殺すのは、非常に勿体ない。
殺すよりも生かす方が、後々国のメリットとなるのではないか。
そもそも、投降を訴えている兵士を殺すのは、軍法に違反する行為だ。
気を抜けば、数々の悪魔の囁きが耳を掠める。しかし――
「馬鹿か!? 何考えてんだぁ!!」
ケインは、それらの迷いをまとめて振り払う。そして己の心を、一喝した。
ここで甘さを見せれば、歴史の繰り返しだと。これまで何のために、ケインと、そしてこの国は戦ってきたのかと。
「<大地讃頌>!!」
迷いを反映するように速度を落とした土石流は、決意の後押しにより、再び止めどなく流れ出す。濁流の脅威は、すぐそこにまで迫っていた。
(俺がやるんだ!!)
ここで一度でも見逃せば、もう取り返しがつかないような気がする。それはナトゥを生かすという事実だけではない。この国の過去と未来を一度に決めてしまうほどの、重大な何か。ケインにはそれが分かっていた。
そして、いずれこの国を背負う者として、アダの二の舞だけは避けなくてはならない。責任あるケインが、正しい決断をしなければならない。
心を、鬼にしてでも。この手を、仲間の血で汚してでも。
(ここで……終わらせる!!)
彼は、歴史に学ぶ者――
まごう事なき――賢者だった。
「<イチジクの葉>!!」
命乞いは意味がないと悟ったのか、ナトゥは即座に攻撃へと切り替える。その手の平返しの早さは、いっそ天晴なほど。そしてケインに選択は間違いではなかったと思わせるに、十分なものだった。
津波のように押し寄せる四方からの土石流を、突風が押し返す。
風の脅威が、大地の脅威を少しずつ削り、確実に威力を弱めていく。しかし、ケインがこれを予期しないわけがない。
視覚的インパクトの圧倒的な土石流は、分かりやすい囮だった。彼女の目を、意識を、上へと向かせるための。
「<大地の叫び>!!」
「っ!?」
満を持して発動されるのは、同じく大地の脅威。
――地割れ。
上に気を取られている者の足をすくう、厭らしい一手。
ナトゥの足元の大地が綺麗に裂け、そこに吸い込まれるようにして成すすべなく落下していく。
だが、彼女は風を操りし者。大地の脅威は、彼女に特効とはならなかった。
「<イチジクの葉>!!」
ナトゥは下へ爆発的な風を起こすことで、裂け目からの脱出を果す。
地割れに飲み込まれるのを回避し、さらに空へと舞い上がるナトゥの顔色は、焦燥と恐怖に染まっていた。
当然だ。地割れの隙間に挟み込まれれば、まず命はない。それほどの、大自然の驚異。母なる大地は、壁を越えた存在の命をも容易くすり潰す。
本能的な恐れが魔術にも乗ったのか、ナトゥはそのまま土石流の上を目指すことで、こちらの無害化もまとめて図った。
しかし――
「はあぁぁっっ!!」
それを読み、既にナトゥの遥か上を取っていた者が――
ここに、いた。
「――っ!?」
天高く振り上げられた大剣。敵の頭上を取り、太陽の後押しまで受けたその姿――まさに英雄。
到達者の全身全霊が、コイラスの大地を舞いあがった。
「まっ――!!」
「<大地の怒り>!!」
今度は下に意識を取られ、上への反応が遅れたナトゥ。その無防備な肉体に、大上段の一撃が叩き込まれる。
その結果は、想像にやすし。再び奈落へと叩き落とされることとなった少女を、大地は快く歓迎した。
裂けた大地が振動によって再び寄り添い合い、畳みかけるは土石流による蓋。
こうしてコロノスの大地を汚す悪霊は、その岩裂け目で、永久の罰を受けることとなる。
差し当たって彼女が待つのは――祓魔の姫による、浄化の光だろう。
その時には、この国はきっと救われている。大地に降り立った英雄は、その未来を信じ続けた。
「はあっ……! はあっ……!」
太陽の光が、血の気の失せた男の横顔を照らし出す。
勝者というにはあまりに瀕死。英雄と言うにはあまりに青臭い。
ただ生まれた国が好きなだけの、その程度の男。
だが彼は、このコロノスの地に、毒の猛威振るうこの大地に――立っていた。
「…………」
かつて――
コイラスからは、英雄が消えた。
しかし――
「レイラのやつ……ちゃんと着いたんだろうな」
英雄は、再び現れる。




