第055話 アワン・コロノス(5)
「――エバ……王には伝えてくれたか?」
「ええ、伝えました」
二人だけとなった病室は、一転して静かだった。
アダは取り繕うことなく、そのままの姿をさらす。まるで電池が切れた人形のような姿を。
アダもアワン達と同じだ。誰かのために、自分の心を、全てを――偽っていた。
「そうか……なら、悪いが明日は手を貸してくれ」
アダがエバへと頼んだのは、王城への登城許可。
つまりは王への謁見だ。この体では辿り着くのにどれほどの時間と手間がかかるかは分からないが、父親とはいえ一国の王をこんな場所に来させるわけにはいかない。
そんなアダの憂慮と配慮は、杞憂に終わる。
「その必要はない」
扉が開かれた瞬間、エバがゆっくりと立ち上がる。
アダは信じられなかった。まさか、そんなことがあるはずないと。
「話があるということで参った」
「…………陛下」
それは、アダの実の父と母。
つまりはコイラスの王と、王妃だ。
「そのままでよい。楽にしろ」
「エバ」
手で差し止める王の善意をそのまま受け取ることはなく、アダはエバに助けを求める。
直ぐに動いた彼女に背を支えられながら、アダは何とか体を起こした。少し動くだけでも、全身が悲鳴をあげる。
彼でなければ、その悲鳴が体だけではなかっただろう。大の大人でも泣いて許しを請うほどの激痛の中、アダは狂うことも無く、なんとか意識を保っていた。
「真面目なのがお前の美点だったが……欠点でもあるな」
「誰が言ってるのかしら」
「むぅ……」
それは王と王妃ではない、父と母の顔だった。
ただ息子を心配して足を運んだ、親の姿だ。だからアダも、その優しさを仇で返すことはよくないと、ここにきて改まるのをやめた。
「話があるんだ」
「いきなりだな。もっと世間話をしてもいいだろう」
王は中年とはいえ、まだまだ現役だ。
腰が悪いと言うことも無く、今もその姿には王の威厳というものに溢れている。今のアダよりはよっぽど若々しく、体躯も立派だと思えるほどに。
しかし凛々しい顔つきの中――瞳だけは、人の輝きを宿す。息子の変わり果てた姿に、目を細めることで内心を隠した。
「時間がないんだ」
「っ!?」
それが、面会時間の事などではないことを察せない者は、この場にはいなかった。
父は静かに目を伏せ、母は口元を覆い隠し、妻は不気味なほどの無表情を貫く。
それぞれ思うことはあれど、想いだけは同じだった。
「そうか……それで?」
立ち直れない二人の中で、ただ父だけが、息子に問いかける。
彼は、時間を無駄にはしなかった。
「アワンのことだ」
「…………」
その名前が出た時、室内の一部の気配が揺らぐ。
しかしそれに気が付く者は、いない。あるいはアダが正常であれば、彼女たちの存在に気が付くことができたかもしれないが。
欲か悪くか、この場には、平静を保てる者は一人もいなかったのだ。
「今……コロノスはどうなっているんだ?」
本題を切り出しておいて、その話に踏み込まず、さっそく寄り道をし出した息子に父は狼狽えなかった。
話が脱線していないことを、分かっていたからだ。
「支援に名乗りを上げてくれたロフォス家主導で復興が進んでいる。領地の権利問題に関しては保留だ。お前抜きでは進められまい」
コロノス家の所有に関しては、アダの生死がこれ以上に無いほど重要となる。なぜならコロノス家とは、アダがエバを迎えるために作られた貴族家なのだから。
権利問題で言えば、当然領地を筆頭に全ての所有権は自動的に妻であるエバへと移るところではあるが、それは一般的な話においてだ。コイラスは血こそが重要視される国。それも王家含めた御三家においては、一層王族の血が不可欠。
エバにはそれが流れておらず、家族で唯一王家の血が流れているのはアワンのみ。
だがアワンはまだ幼過ぎて、跡を継ぐことはできない。そしてそれ以前の問題がアワンには残っているため、この問題は3年間宙づり状態にあるのだ。
「こちらも聞きたい。件の敵についてはどうなった? 本当に死んだのか?」
王はこのタイミングしかないと、切り出す。書面でも口頭でも何度も確認したことだが、最後にもう一度アダの口から聞いておきたかった。
「死んだ……と思いたい。僕が直接息の根を止めたわけではないから断言はできないけど……あの傷で生きていられるとは思えない」
アダの最後の記憶は、毒で倒れた自分と、出血多量で倒れたユウキ。つまり相打ちだった。
その後ロフォス家の援軍によってアダは九死に一生のところを救い出され、毒の手当てを受けた。その時点でアダは完全に意識を失っていたため、ユウキがその後どうなったのかは分からない。
ロフォス家が言うには、その後ユウキは再び暴れまわり、逃走したそうだが、その姿を見た誰もが口を揃えて言っている。あの重傷では、生きてはいまいと。つまりはアダと同じ考えだ。
「だが……こう言ってはなんだが、お前も瀕死の重傷から3年生き永らえた。違うか?」
「その通りだ」
そう、あれだけの近距離、それも直接接触で肉体に回った多量の毒にも、アダは曲がりなりにも抵抗できている。
常人であれば即死の猛毒でも、壁を越えた存在ならば延命を図れるのだ。
つまり同じだけの強さを持つユウキも、生きていないとは到底断定はできない。
「でも、もし彼が生きてるのなら、アワンのところにまた来そうなものだけど」
「傷を治しているのかもしれない。相当の深手を与えた。あれではすぐには動けないよ」
生死不確かなユウキの最接近を警戒して、アワンとレイラはコロノス領ではない、全く別の場所に現在住んでいる。
そして復興中のコロノス領からユウキの目撃情報はあがっていない。事件直後は大々的な捜索が行われたが、手掛かりすら見つからなかった。まるで違う世界に忽然と消えてしまったかのように。
「もしアレが生きていれば……どれだけの脅威になる? 英雄としての言を聞かせてほしい」
「信じがたい脅威だ……。現時点で、一都市なら簡単に落ちる。ひょっとすれば、国にさえ手が届くかもしれない」
「それは……今か?」
「今だ」
壁付近にまで到達した者は、小都市に匹敵する戦力と言われる。
レベル50の壁に到達した者は、大都市に。そしてレベル50を超えた達成者は、国一つに匹敵する。
ユウキは戦闘というものを全く知らず、おそらくは今まで一度も戦ったことすらないというレベル。
動きは素人、スキルは一つ、身体能力任せの粗雑な暴力。
それでもアダの目から見て、ユウキの個人戦力は現時点で国に手が届くレベルだった。
そして――
「信じがたいのは、その才能の大きさだ。彼はおそらく特異点。神に育てられている」
「…………」
既に報告で上げた内容だけに、驚きは少ない。
しかし、緊張が室内を満たす。
特異点とは、簡単に言えばレベル1の状態で生まれてこない者のことだ。
生物は本来、生まれた瞬間は一律でレベル1。これは勇者であってもどこかの吸血鬼であっても当てはまる絶対の法則。
だが非常に稀に、この法則に当てはまらない例外が世界に生まれる。それがユウキのような特異点。腹の中で神か悪魔かに手ずから育てられたと言われる、奇跡の子供だ。
「それもあの年で壁付近にまで到達していた。おそらくあの能力も腹の中で神が与えたものだ。どれだけの膨大な才能……恐ろしいのは今じゃない」
「どれほどのものになる?」
アダは塾考し、答える。
適当なことは言えない。だからこその本心だった。
「12使徒は確実。僕の読みなら、いずれ魔王の席も奪うだろう」
「っ!?」
それも、下手をすれば数年で。
それだけの才能をアダは感じ取った。率直に言えば、あんな化け物は見たことがない。あれを超える才能はこの世に存在しないと断言できるほどに。
「生きていないことを願うしかあるまいな」
「生きていたとしても、時間は稼げるはず。すぐには動けないよ」
相当の術師でもあの傷を全快させるのは不可能だろう。
仮に生きていたとしても、復活には膨大な時間がかかるはずだ。
「まあいい……それでアワンについて話とは?」
話は逸れていないとは思っていたが、存外長い寄り道となる。
そして王の問いかけは、まるでどんな内容かを既に分かっているようだった。
アダは自身の生存というまやかしの希望で繋いできた問題に、ようやく取り掛かる。
「彼女とユウキの関係を……どうかなかったことにしてくれ」
「不可能だ」
重い言葉が、要求という名の懇願を断ち切る。
そこには、父親の顔はなかった。あるのは、一国の王の顔だ。
「やっぱり……公表するつもりなのか?」
「当然だ。それが最も人のためになる」
「…………」
父は、アダよりも真面目な男だった。どこまでも厳格な、現実主義者。
それが分かっていたアダには、王の考えがよく分かっていた。そちらの方が正しいということも。
「一夜にして数万人が死んだ事件。お前の生存によってなんとか引き伸ばしに成功しているが、やはり時間の問題。お前の死が公のものとなれば、この議題は再び立ち返るだろう。その時は、もう誤魔化せぬ」
「…………」
「英雄の死には、民衆が納得できるだけの理由が必要だ。民の心のよりどころと、平穏を取り上げた責任を、我々は果たさねばなるまい」
「…………」
何も言えない。言う資格がない。
今回の事件、何も知らない者達からすれば、なぜかコロノス領に敵が出没し、その敵は英雄アダが長期間の活動不能に追い込まれるほどの強敵だった――となる。
それほどの化け物が突然人間の世界に出没する。そんな懸念を残したままでいいはずがない。それ以前に、突然理不尽に巻き込まれた被害者たちに嘘をついていいはずがないのだ。
アダは彼らの命と自由を奪ってしまった罪を、償わなければならない。せめてその理由くらいは、正直に伝える責任がある。
しかし――
「今回の事例は、今後の人類のために活かす。二度とこのようなことが起こらないよう、全てをありのままに伝え、教訓とする。せめてそれくらいしなければ、私は王として、死んでいった者達に顔向けができない」
アワンがユウキを救ったことから、アダが彼を見逃したことまで――全て。
当然最も責められるべきは大人であるアダだ。しかし市民感情は、決してアワンを許さないだろう。
こういったどす黒く、瞬間的な感情の矛先は、馬鹿な子供へと行くものだ。人間は相手が子供だろうと、間違っている相手にはとことん容赦がない。それは、ユウキを殺そうとしたアダ自身が証明してしまっている。
それでも――
英雄と、勇者の威光を同時に消しすことが分かっていても、人のためにということだろう。
本来見習うべき姿だ。息子と孫娘を不幸にし、延いては王の権威を落とすことになったとしても、人の死を人のためにする。まさしく、王の姿。
それでも、それが分かっていてもなお――
アダは、自分を止められなかった。
「アワンは……まだ未成人だ。彼女には……未来がある」
「然り。死んでいった者達にも、未来があった」
自分だけ特別扱い。そんなことは、人の社会では許されない。
しかし、やはり分かっていても、アダは叫ばずにはいられなかった。
「誰に責任があるか、分かっているんだろう!? 子供を守るのが親の務めじゃないのか!?」
叫ぶことが許される体ではない。それでも、全力で想いを声にする。
乾燥した喉が引っ張られ、切れる。口内を満たした血の味を、アダは噛み締めた。
「ごほっ……! ごふっ……!」
殆ど血の痰を吐きだし、呼吸を整える。
エバが口元を布でふき取り、背を摩ってくれる中、アダはずっと、自身の力の無さを嘆いていた。
そんな彼が最終的に選んだ方法は、泣き落とし。つまりは、人の情に訴えること。
娘のためならば、今の自身の弱った姿さえ、アダは利用した。
「勇者になるのが……あの子の夢なんだ」
「…………」
血を吐きながら、涎を拭いながら、アダは語る。
それはここでだから言えること。今のアワンやレイラの前では、決して語れない内容だ。
だが、アダは最後の最後に、自身の本心を打ち明ける。
「僕じゃない。きっとアワンが……」
それはもしかしたら――願いだったのかもしれない。
「この世界を救う、勇者だ」
勇者になるのが夢だった男は、娘にその願いを託す。
それが娘の命を救うことになり、また――アワンにとって呪いとなることも知らずに。
そんな情を、王は実利として受け取った。
いや、無理やり捻じ曲げたのだ。
「彼女がお前を超えると? ここで負った負債を、未来の彼女は賄えるというのだな?」
ここで全てを明らかとすれば、世界に教訓を与えることができる代わりに、アワン一人の未来が潰える。人一人と世界の人間であれば、それは当然後者の方が重要だ。
しかしアワンがいずれ世界を救う勇者となるのであれば、話は別。この世界、これから生まれる全ての人間たちの命が救えるというのであれば、今回の件を隠すことにも意義が生れた。
より多くの人の命を救うために、いずれ勇者となるアワンを生かすことに。
「僕は信じてる」
「…………そうか」
死にかけの男の、真っ直ぐな瞳。
そんな息子の視線を受け、王は――親になった。
「ならば、私も信じよう」
「陛下!!」
立ち上がったのは、王妃である彼女だ。
これまでは静観していた母が、男たちの私情に割り込む。だが、その抗議の声を、夫は意にも解さなかった。
「今回の件は、全てお前一人が行ったものとする。英雄の名も、その功績も、これまでのお前の全てを――返上して貰う」
「…………ありがとう」
話がまとまりかけていることに焦り、とうとう王妃は立場をかなぐり捨てた。
彼ら彼女たちにも役職はあれど、やはりどこまでも人。
人である限り、情という不純物は、切っても切り離せない。
「あなた!! これまでアダが、一体どれだけの努力をしてきたと思っているの!? どれだけの想いでここまで辿り着いたと!! あなたも見て来たはずでしょう!?」
「…………」
それは、息子のことを一番に愛する、母の姿。
才能の無いアダが、どれだけの想い、覚悟、努力の果てにここまでたどり着いたのか、一番近くで見てきた者の声だった。
「なぜあの子の代わりに!? 命を失って、名誉まで取り上げるの!? じゃあこの子のこれまでは――!!」
「黙れ!!」
そんな差し出口を、王の言葉が一喝する。
出過ぎたことをしているのは、王妃である彼女だ。王と王妃では、権力が全く異なる。
しかし、間違っているのはどちらかという問題であれば、答えは出なかった。
「子を守るのが、親の務めだ」
「…………」
「私は王である前に……親だ」
常に正しくあれる人間などいない。
人間である限り、誰もが間違う。
誰もが少しずつ間違えて始まった事件は、こうして全員がその罪を分け合う形で、終わりを迎えるのだ。
「最期に聞いておきたい。悔いはないか?」
父親の言葉に、アダが心から安堵し、これで後顧の憂いなく逝けると穏やかな気持ちにさえなっている頃――
その問いはやってきた。
「ああ……ないよ。何一つない」
アダはすぐに答える。
それは――用意しておいた答え。誰に聞かれても、そう答えると彼は決めていたのだ。
しかし現実は、どこまでも思い通りにはいかない。
「…………」
穏やかな顔さえ浮かべていたアダの表情は、突然変わる。
本当に、思い通りにはいかなかった。
「うっ! くっ……!」
気付けばアダは、大粒の涙を流していた。
3年かけて少しずつ奪われた体力、削られていった精神。そして何より肉親に囲まれたこの空間が――最後に彼を子供へ帰した。
「勇者に……なりたかった!!」
子供がいないこの場所では――父親は、ただの男へ。
「子供の頃からの夢だったんだ!! いつかなれると思ってた!! もう少しだった!!」
ただの男は――少年へ。
「勇者は、僕の夢だったんだ!!」
夢半ばで散る命は、英雄の仮面を最後に投げ捨てる。
子供のように泣く男は、自身のそんな姿を恥じるように、悔いるように――頼み続けた。
「聞かないでくれ……忘れてくれ……」
それは、英雄が最後に見せた弱音。
体と心が限りなく弱っていたからこそ見せた――素顔。
彼は最後まで、聞く者達に忘れてくれ、言わないでくれと頼みながら、涙を流したのだった。
この数日後、アダ・コロノスは死亡する。
親として、娘の罪を全て被った男は、勇者にも英雄にもなれずして、こうして終わったのだった。
***
「――お母さん」
「あっ……アワン、どうしたの?」
アワンが部屋に入り、声をかけた途端、エバは取り繕うように動き始める。
それに気が付いていないふりをして、アワンはいつものように用件だけを短く告げた。
「レイちゃんと、お父さんのとこ行ってくるね」
「そう……行ってらっしゃい」
アワンはそれだけ言うと、扉を閉めた。大きく揺れ動く部屋の気配には、見て見ぬふりをして。
アダの死から三日、エバは泣き続けている。部屋から出て来ず、アワンたちが顔を見せれば何でもないようなフリをするが、だからこそ分かりやすかった。
アダが闘い続けた三年間、エバは一番気を張り、正気を保っていたように見えた。だからこそアダの死で、ずっと張り詰めていたその糸が切れたのだ。
そして今は糸なき人形かのように、変わり果てた姿を見せる。取り繕う元気もないほどに、追い込まれていた。
「レイちゃん……行こう」
「…………うん」
アダの死と共に、コイラスには今回の事件の概要が伝えられた。
人外の子供を、アダが匿っていたという偽りの真実を。アワンの罪を、そっくりそのままアダが請け負った形だ。
これによりアダの名誉は地に落ち、国葬も不可能となった。
しかしこの事件は、意外にも長くはこの世に残らない。人々の期待は、既に次なる英雄へと移っていたからだ。
この頃、隣国ダソスの王女が女神の啓示を受け、勇者と定められた。
それはアダやアワンが昔、ダソス王家主催の舞踏会に招かれた際に顔を合わせた少女でもある。
過去の勇者の血を受け継ぐ者とは異なる、本物の勇者。その誕生に、世界は浮足立っていた。
さらにその兄は若くして英雄の壁に辿り着いた傑物であり、この兄妹の躍進に、世界の視線は集まった。
ハリボテの英雄を、良くも悪くも、過去のものとしたのだ。
「ごめん」
「…………」
唐突な謝罪の言葉に、家を出ようとしたアワンは留まる。
開きかけの扉が、ゆっくりと閉まった。
「ごめんね」
「レイちゃんのせいじゃないよ」
いつもの奴だろうと思った。
レイラはあれから、こうして何度も謝る。そうしなければ心を保てないのだ。
それがアワンにも分かっていたから、アワンは毎回その謝罪に律儀に答えていた。
しかし――
「私……一緒には行けない」
「え?」
それは、アワンの思ってもいなかったことだった。
一瞬、体調でも悪いのかと本気で思うほどに。しかしそんな能天気な考えは、レイラの表情を見て消え失せる。
これまで見たことがないような、その絶望の表情に。
「私……もう無理。無理なの……耐えられない」
「…………」
数年間の蓄積が、ここに決壊する。
彼女も限界だったのだ。そしてそのきっかけが何にあるのかを、アワンは間違えなかった。
『勇者に……なりたかった!!』
あの日、あの時――アワンとレイラはアダの病室にいた。
全てを聞いていたのだ。
『僕じゃない。きっとアワンが……この世界を救う、勇者だ』
その言葉が、アワンを死ねなくさせた。
アダを見捨て、この地獄で生き続けることを強いたのだ。
そして――
「私はもう……勇者になれない。なりたくない……」
アダの死と言葉は、もう一人の娘から、夢を取り上げた。
「ごめん……ごめんね……」
「…………」
数日後、レイラは消える。
貴族の屋敷でメイドとして仕えてきた彼女は、エバの推薦状を手に、別の主人への元へと奉公に向かった。
***
アワンはアダの墓ではなく、気づけば別の場所へとやってきていた。
そこはアワンという少女が始まった土地。アワンの故郷であり、もう二度と帰れない場所でもある。
「…………」
アワンは、歩く。
この街を駆ける時、いつもそばにいた少女は、今はいない。
アワンは、一人だった。
『もう! 遅いよレイちゃん!』
『アワン様が早いんです~』
記憶の中の少女たちが、アワンを追い抜いて駆けていく。
楽しそうに、二人は笑っていた。
それを呆然と見送ると、アワンは周囲を見渡す。
戦場の本拠地となったここは、3年経った今も復興の手は伸びていない。
なぜか、人がいないからだ。
ここに住んでいた者達は、全員いなくなった。誰も住まなくなった場所は、修復する意味がない。
人の世界は、人がいるからこそ、必要なのだから。
『テイアおばさんいる!? アワンだよ! あーわーん~だよ!』
『あら~アワンちゃん来てくれたの? お友達?』
肉屋を通り過ぎる。
こちらへ手を振ってくれるテイアを、アワンは素通りした。
目に入れないよう、真っ直ぐに前だけを見つめ続ける。
『お、アワンちゃんどした!?』
『イオスおじさん!』
側面に急停止した馬車から、イオスが声をかけてくる。
アワンはまるで聞こえていないかのように、ただ前だけを見つめ続けた。
その目は――どこまでも深く、暗く、沈む。
『お姉ちゃん、良い男捕まえたねぇ! きっと幸せにしてくれるよ!』
『はい。私もそう思います』
馬車に乗るカップルが、アワンに乗れと手招きする。
その快い善意を、やはりアワンは無視した。
アワンはもう、その馬車には乗れないから。
ただひたすら、歩き続ける。
人がいない街を、戻れない過去を、歩き続ける。
『材料も器具も揃ってる。レイちゃんは助手ね! 手順は覚えなくていいから、私の指示通り動いて!』
『はい、アワン先生!』
やがて辿り着いたのは、アワンの家だ。やはりもう二度と帰ることはない、家。
門の無い屋敷に入り、瞬く間に厨房へと辿り着く。まるで転移でもするように、気づけばそこにいるのだ。
誰かがまだ住んでいるかのように綺麗な場所には、先ほどアワンを追い越していった二人がいた。
楽しそうに、幸せそうに、笑っている。それが当たり前だった。
『ケーキとかお花とか成功とか、そんなんじゃないよ! 大事な日に、レイちゃんがここにいて、笑ってる! それが一番大事なことなんだから!』
『大事な人がいてくれることが、一番幸せなんだよ? だから、いてくれるだけでいいの』
だが、誰かが泣いている時もあった。
そしてそんな時、泣いている家族を、自分なりに慰める少女がいた。
「…………」
泣いているアダを、家族三人が包み込む。
誰かが泣いている時は、家族がいた。誰かが笑顔にし、そして最後は、皆が笑っていた。
『今日はみんな泣いたね!』
『ええ、でも今はみんな笑ってる。だから幸せね』
『うん!』
「…………」
みんな、笑っていたのだ。
『僕は必ず、7人の魔王をこの手で打ち滅ぼし、世界を救ってみせる!!』
『私もおんなじ! お父様の夢は私の夢だよ! 私も勇者になって、世界を救うから!』
楽しそうに夢を語り合う家族から、アワンは目を逸らす。
もう、誰もいない。アワンがこんなふうに笑えることは、もう二度とないのだから。
『じゃあ、皆で勇者になろうよ! 競争だね!』
『ああ! 競争だ!』
***
気付けばアワンは、そこにいた。
自分がどれだけの時間をかけ、どんな道を辿ってここまでたどり着いたのか、分からない。
冷たい風が吹き抜け、アワンの顔を冷やす。
そこは――約束の丘。アワンとユウキの――聖域だった。
天候は良くない。今にも雨が降り出しそうな空模様。
それでよかった。いや、それが良かった。
アワンは膝を抱え、ただそこに座る。それだけで良かった。
「…………」
『悪い霊なんていないよ。ここには、怖いものはもうこないから』
『ほんと?』
『うん。ここは聖域なんだよ?』
呆然と眺める場所にいるのは――子供だ。
小さな少女と、さらに小さな少年。
手を繋ぎ、やはり笑っている。
『ここは私とあなただけの場所。二人だけの世界。私がそう決めたの。だから、誰もここには来れないんだよ?』
『ほんとう!? 凄いや! やっぱりアワンは神様だ!』
『うん!』
気付けば、空が泣きだしていた。
まるで時間の経過を示すように、一滴の雫から始まり、次第に数は増え、やがて数えきれないほどとなる。
雨の音が、やけに大きく聞こえる日だった。
『私があなたに、名前をつけてあげる』
『ほんと!? やった! やったぁ!』
雨は、少女の体を濡らす。
彼女の心情を思えば、追い打ちのような酷い仕打ち。しかし、アワンは快くそれを受け入れた。
心を震わせるような冷たさも、鼓膜を破るような大きな音も、全身を襲う濡れも――全てがありがたかった。
『あなたの名前は、”ユウキ”。とても勇気のある子だから』
『ユウキ! 凄いや! ボクの名前だ!』
「うっ……! うぅ……!」
3年間、アワンは泣けなかった。
被害者ではなく、絶対的な加害者であるという意識が、彼女から涙を奪った。
そして、そんな加害者を支えようと健気に頑張り続ける家族。3人の前では、間違っても泣くことなど許されなかったのだ。
しかし――
「うぐぅっ……! う"う"う"っ……!」
ここには、誰もいない。
もう、アワンだけだ。誰も、帰っては来ない。
もう、帰ってこない。
『ボクは勇者になるんだ!! 約束したんだ!!』
『子供の頃からの夢だったんだ!! いつかなれると思ってた!! もう少しだった!!』
『私はもう……勇者になれない。なりたくない……』
「うあああっ! あ"あ"あ"あ"っ……!!」
全て――アワンが奪った。
夢も、約束も、幸せも、命も――全て。
少女の絶叫と、悲鳴のような涙は、一生終わることが無いとさえ思えた。
雨が降る限り、陽が沈まない限り、いや――もはや彼女はここから出られないとさえ思うほどに。
だが、少女の狂気を止めたのは――
それを上回る狂気だった。
もはや彼女に楽な道も、幸せな未来も許されないとばかりに――
夢と、約束が――アワンに諦めることを許さなかった。
「…………ならなきゃ」
少女は涙で大きく腫らし、それと同じくらいに色濃いクマが刻み込まれた目元を、擦りあげる。
構わず涙はあふれ出るが、もう彼女は下を向いてはいなかった。
異質な覚悟は、その表情に現れる。もう逃げられないと、二度と泣き言は許されないと。
揺れる瞳と引き攣る頬が、少女の狂気を示した。
『勇者になる!! それが僕の夢だ!!』
『私もよ。お父様の夢は私の夢。アワンの夢も、私の夢だわ』
『私は……なりたいよ。だって、私たちの夢でしょ?』
『アワンの夢は、ボクの夢だよ。ボクもきっと、勇者になるから。約束』
『うん、約束。一緒に勇者になろう』
みんなの夢だった。
だけどもう、誰もいない。アワンしか残っていない。
みんなの夢を叶えられるのは――
もう、アワンしかいないのだ。
「勇者にならなきゃ!! 私が!!」
止まらない涙を流しながら、心が壊れる音を聞きながら、それでも少女は顔をあげる。
投げ出すことなど許されない。諦めることなど許されない。
みんなから夢を取り上げた罪を、みんなの夢を叶えることで返す。
――約束したから。
***
時は二年後。少女の舞台は移り変わり、彼女は王都へと乗り込む。
学園への入学を果した少年少女たち。希望を胸に英雄を志す若人たちの中にあって、彼女は違う。
絶望を胸に秘めた彼女だけが、別の場所を見ていた。
「私はいずれ、7人の魔王を討ち滅ぼす者!! この世界を救う――」
約束を――果たすために。
「勇者です!!」




