第054話 アワン・コロノス(4)
「――アワン!! 助けに来たよ!!」
「…………」
約2か月ぶりの友人との再会に、少女が歓喜の声で応えられなかったのは、現状のこの上ない悪さを察したからに他ならない。
それは――絶望の予感。
今頃、アルフレート大山に帰されているはずのユウキが、今コイラスの、ここコロノス領にまで戻ってきているという事実。変わり果てた街の惨状。
そして――
まるで頭からかぶったかのように、全身が血濡れのその姿が――
残酷なまでに、全てを物語っていた。
(そんな……ユウキ……)
きっと絵の具で遊んだのだ。ドジな彼は、誤ってそれをかぶってしまったのだ――そんな現実逃避は、リアルを超えるようなリアルが許さない。
アワンは気づいてしまったのだ。
ユウキは、人を殺したのだと。
「アワンの言う通りだったよ!」
「……ぇ?」
アワンが世界が揺れる程の絶望に叩き落とされている最中、ユウキは笑う。
それはまるで、夢が叶った少年のような輝かしい笑み。
燃え盛る炎、逃げ惑う人々、つんざく悲鳴、立ち昇る硝煙――
周囲の環境にあまりにそぐわないその態度が、種族として、生物として――
自分たちは決して相容れない次元にいるのではないかと、そうアワンに思わさせた。
「ボクの力で、悪い霊を追っ払ったんだ!」
「っ!?」
両手を天に掲げ、どこまでも純粋な喜びを表現するユウキの姿に、アワンは言葉が出なかった。
それはやはり、あまりに状況に合わない姿を受けてでもあったが、ただ単純に、言っている意味を理解できなかったからである。
ただ、どこまでも振り払えない悪い予感だけが、彼女の中に残った。
「ボクのこと虐めてた人が、ボクのこと虐めなくなったんだ! ボクが悪霊を追い払ったんだ!!」
「っ!!」
『…………殺せなかった』
その決断を悔い、どこまでも恥じ入っていたアダの姿を思い出す。
英雄の責任――その放棄。
その急激な人の心変わりが、ユウキの目には悪霊からの解放と映ったのだ。
つまりは――
「<イチジクの葉>!!」
「わっ!?」
さらなる最悪の予感を覚えようという時、状況は動き出す。
アワンに一歩ずつ近づいてきていたユウキの体が、まるで突風にでも吹かれたように吹き飛ばされたのだ。
風はアワンのすぐ側から発生したようだったが、アワンがその風に巻き込まれることはなかった。ユウキの体だけが、目に見えないものに押し流されていく。
「状況は理解できましたね? 彼の目的は、あなたです」
「っ!!」
風を起こした張本人――エバが、唸るように告げる。
見上げる横顔には、酷く余裕がなかった。
それが、ただでさえ余裕のないアワンの焦りを加速させる。
これはアダとエバが、基本的にいつでも頼もしい父と母である弊害でもあった。
「私が時間を稼ぎます。その間に、二人とも逃げなさい」
彼というのが誰のことか、あなたというのが誰のことか、アワンは間違わなかった。エバが戦いを挑もうとしているのが、誰のことかも。
だからこそ、アワンはこれを止める。
もう二度と、あんなことは起こって欲しくないから。
「ま、待ってよ! ユウキは悪いことしてると思ってないの! ちゃんと話せば!! 私が話せば、きっとやめてくれるから!」
「見て分かるでしょ!? もうそういう段階じゃないのよ!!」
「分からない!! 分からないよ!!」
分かっていた。もう取り返しがつかないということは。
アワンは分かりたくなかっただけだ。もう駄目だなんて、諦めたくなかっただけだ。
だから、叫んでいるのだ。
しかし、そんな中途半端な優しさが、どちらにもいい顔をしようとする狡さが――
大切な二つを、ぶつかり合わせる。
「まただ……アワンのこと虐めるんだ……」
ユウキは、重ねているのだ。
今のアワンと、過去の自分を。だから――
「ボクが助けて上げなきゃ! アワンがまた、酷いことされちゃうんだ!」
大切な存在を無理やり連れ去り、恐怖に体を震わせ、悲しみの涙を溢させた。
それを悪霊と呼ばずして、なんというのか――
ユウキの勘違いは、決して馬鹿にできたものではなかった。
「ボクは、勇者になるんだ!!」
遠吠えのような宣言と共に、ユウキは駆けだす。
それは丘の上を滑り落ちるような、信じがたい速度。
エバがその人外の脚力に瞠目し、猛然と地を駆ける獣の牙が彼女に届こうという時――彼は、やってきた。
「<赤き土>」
「ぶふっ!?」
ユウキの足を弾ませ、友達の元へと駆ける彼の背中を押していたはずの大地が、急に手の平を返す。
それはまさに――手だ。大地は、人間よりも一回り大きな拳となり、ユウキのみぞおちを急襲した。
「アダ!!」
滑るように舞台にあがったのは、英雄だ。
誰もがそう信じて疑わない、勇者。
歓喜と安堵が入り混じった様なエバの声が、場の空気を一変させる。それは同時に、ここが戦場へと変わった合図でもあった。
「包囲せよ!! 呼吸器系の対策を怠るな!!」
「はっ!!」
アダの合図で、いつの間に、一体どこに隠れていたのか――大勢の騎士たちが躍り出る。
誰も彼もが完全武装。まるで戦争のような重装備だ。
戦いに関して全くの素人であるアワンをして、規律と練度を感じさせる、美しいとすら思えるような陣形展開。
そんな感想を抱くのも束の間、騎士たちが距離を保ち、長槍でユウキを責め立てていく。ユウキは軽やかな動きで、それらを避けていた。
当然だ。ユウキはアワンが追いかけっこで一度も勝てたことがないほどの速度を誇り、また持久力も生物としては信じられないものがある。
丘の上を丸一日中でも走れるくらいだ。純粋な身体能力で、人が彼の動きを捉えられるとは思わなかった。
もちろん――例外はいるが。
「うっ!?」
「囲め!!」
アダの一撃の前に、ユウキが吹き飛ばされる。
それを追うように、陣形は移動した。
役者が増えたというだけで、あっという間に、ユウキとアワンらとの距離は離される。
「何が起きているんですか?」
ユウキと入れ替わるように後退したアダに、エバが問いかける。
アワンも、一体何がどうなっているのか知りたかった。
「説明している時間がない。それよりも、絶対に彼に近づかないでくれ。それと、適当な布で口元を隠すんだ。早く」
アワンは即座に懐をまさぐり、ハンカチを取り出す。
口を押えた時には、レイラも同じように口元を隠していた。
緊急時におろおろして何もできないような者は、ここにはいない。曲がりなりにも、勇者の娘なのだから。
その時――
「うぅっ!! うああっ!!」
叫ぶユウキの体から――何かが飛び出した。
(なに……あれ……)
アワンの目には、ユウキの体が一瞬大きく膨らんだように見えた。
しかし、それは見間違えだ。正しくは、ユウキの体の輪郭をなぞるような形をしたものが、噴きだした。
あまり耳に心地よくない類の音を立てながら、何らかの気体のようなものが溢れている。それはゆっくりと、じっくりと、まるで空気を蝕む様に広がっていき――そして、空間を満たした。
アワンの目には皮肉なことに、それは――悪霊のように見えた。
「…………あれは?」
「毒ガスだ」
「――っ!?」
無意識に、アワンは一歩引き下がった。
遠くのようで、近い距離。平時なら遠すぎるその距離が、手が届くほどに近く感じる。それはまるで、最低でも数十年が約束されている死が、眼前にまで迫ったかのように。
「近距離で取り込めば、数十秒の肉体痙攣の後、死に至る。接触すれば終わりだ。だが、吸い込みさえしなければ問題ない」
それはまるで、犠牲者を見たような口ぶりだった。
それも、数多く。もはや予感ではない、確信に限りなく近いその事実に、アワンは吐きそうになる。
信じたくなかった。ユウキが、人を殺したなど。
「エバ、僕が時間を稼ぐ。その間に子供たちを――っ!?」
そして、限りなく事実に近かったそれは――
今アワンの目の前で、現実となった。
「ごっ……!? おおっ!? おぶっ……!!」
一人の兵士が、喉元を両手で押さえ、仰け反る。
体は天を見上げるように伸び、地を揺らすように震えた。
終わることがないと思えるような長く、そして大きな痙攣を経て、やがて地に沈む。しかし、地に転がっても、彼の地獄は終わらなかった。
「馬鹿な!? 呼吸器系じゃないのか!?」
対策を施したはずの騎士が、毒に犯された。
その動揺は、たちまち伝播する。そして伝播したのは、動揺だけではなかった。
「ああっ!? うわあっ!?」
一人、また一人と、症状が出始める。
人から人へと移っていくかのように、それは急速に拡大したのだ。
「<生きる者>! <生命>!」
エバが前に乗り出し、術を発動する。
光に包み込まれた兵士たちの体は、まるでそれを拒絶するかのように、一層激しく動いた。
それはまるで、エバの力こそが悪だとでもいうように。
「どうして!? どういう能力なの!?」
「あっ、あっ……」
アワンは恐怖に、震えあがる。
こんな感情を友人であるユウキに抱くのは、初めてのことだった。
いや、違う。実に半年ぶり、ユウキと最初に出会った時から二度目の――恐怖。
それはまるで、因果の巡りのように。第一印象が、その存在の全てだとでも言うかのように。
アワンの心を、楽しかった思い出ごと――嘲笑う。
「見てよアワン!! アワンの言った通りだ!!」
「っ!?」
喜色ばんだ声に、アワンの体はびくりと反応する。それは確かに、怯えという感情だった。
遠く離れているはずの声は、近くから。まるで耳元でささやかれているかのよう。
アワンは顔をあげ、その存在を視界へと収める。
両手を掲げ、自身の成果を嬉しそうに披露する存在を。どこまでも、無垢なる子供の笑顔を。
「ボクが毎日頑張ったから、ボクが毎日いい子でいたから、神様がご褒美をくれたんだ!! 神様がボクのお願いを聞いてくれたんだ!!」
「っ!!」
『ユウキはどんなことができるようになりたい? 頑張ったら、神様が願いごとを叶えてくれるんだよ!』
――天術。
神への祈りが、能力を与える。
信仰心は、人の願い。その人間の声を、神は聞く。
「そ、そんな……! 私が……!」
「アワン様、聞かないで!」
レイラの声は、アワンには届かない。
アワンに聞こえるのは、ユウキの声だけだった。
『ボクも、勇者になれるかなぁ?』
(私が……教えたから……!!)
ユウキの純粋な願いが、神に届いた。
悪霊を追い払いたいという彼の望みが、間違った形で――。
まだ子供のユウキに、軽はずみに教えてしまったから――。
「見て!! 悪い霊をやっつけてるんだ!! ボクが助けてるんだ!!」
ユウキは心から嬉しそうに、人々を指し示す。
苦しみ、足掻き、血を吐きながら、地を転げまわる人々を。人の中にいる悪霊が、苦しんでいる姿だと。
誰かを救う存在。自分も、勇者になれたのだと。
「アワンはやっぱりボクの神様だ!! アワンがくれた力なんだ!!」
「ああああっ……!!」
アワンは膝から崩れ落ちる。
それは、心が折れた音だった。魂の悲鳴を代弁するように、声が出る。もはや叫ぶことでしか、精神を保つことができなかった。
まだ7歳の子供には――あまりに受け入れがたく、あまりにむごい現実。
そして5歳の子供には――やはりこの現実は、見えなかった。
「アワン……? やっぱり……」
ユウキの表情は、たちまち怒りに染めあがる。
友達を傷つける存在を、彼は決して許さない。勇敢で、優しい心が、彼をどこまでも怒らせた。
「ボクが助けにくるのが遅かったから!! お前たちが、アワンを虐めたんだ!!」
自分が傍にいない間に、アワンが悪霊に痛めつけられた。
ユウキはここでも、自戒を続ける。弱くて助けられなかったという二度に渡る過去が、彼を強くした。
「アワン、レイラ!! 逃げなさい!!」
「全力を出されたら、僕でも捉えきれない!! 今しか逃げられない!!」
「逃げなきゃ!! アワン様!!」
三者三様の言葉は、一貫していた。緊迫感も同様に。
時が加速するように、焦りを募らせる。
アワンの体は追い立てられるように、動いた。
「…………え?」
アワンは初めての深い絶望と、膨大な恐怖を前に――
全ての現実から――目を背けることに決めた。
目を閉じ、耳を塞ぎ、思考すら手放して――流される。
それは前回と同じのようで、大きく異なる事実。
アワンは自分の意志で――
ユウキから、逃げたのだった。
***
「…………アワン?」
表情が抜け落ち、感情さえも抜け落ちたような姿。
まるで長年信仰してきた神に裏切られたかのような様子は、見る者に同情心さえ抱かせる。
しかしアダはそんな敵を見据えながらも、心は別の場所にあった。
(アワン……レイラ……)
彼の中にあるのは、計り知れない安堵だけだ。
娘たちが逃げてくれて、本当に良かったと。
「…………エバ」
「私たちで終わらせましょう。責任を取らなければ」
「…………」
未だ放心から戻ってこれないユウキの様子を確認し、アダはちらりと背後を見やる。
待機させていた使用人が新しい馬車を用意し、ちょうどその中にアワンとレイラが乗り込むところだ。彼女たちはこちらへと振り返る。まるで、誰かを待つかのように。
「行ってくれ、エバ。ここは僕が受け持つ」
アダの言葉に、エバは目を見開いた。
彼女は正面の敵から目を離すという愚行に身を預けながらも、それを辞める気はない。
「娘の過ちは、親の責任のはず。私はアワンの母親です」
「その通りだ」
ユウキの命を救い、そして匿ったというアワンの罪は、その親であるアダとエバの責任。
この罪を親が背負うことは、そして二人で責任を取るのは、当然のことだ。しかし――
「なら――」
「だがこれは、僕の過ちだ。アワンは関係ない」
ユウキが今、ここコロノスで暴れていることに、アワンは関係ない。
これはアダの同情という独善的な理由から生まれた、過ちだ。あの時――アダがアワンの行いに対しけじめをつけ、しっかりと責任を果たしていれば、こんなことにはならなかった。
だから――
「僕のせいだ。アワンも、レイラも、彼女たちは悪くない」
「…………」
正しい判断を行う思考能力がないからこそ、子供なのだ。
だからこそ、大人の判断ミスに、言い訳は許されない。
アダは最愛の妻と顔を合わせ、そして目で伝える。
この事実を、どうか届けてくれと。誰かが真実を残さなくてはならないと。
だがそんな時間も、長くは続かなかった。
「そうか! そうだ!」
ようやく我を取り戻したユウキの声に、アダとエバの視線は引き寄せられる。
ユウキは笑っているような、泣いているような――そんな形容しがたい表情で、アダではないどこかを見ていた。
いや、彼はずっと、一貫して――彼女のことしか見ていない。
「アワンも悪霊に乗っ取られたんだ!! きっとそうだ!!」
「…………」
「ボクが助けなきゃ!! アワンはボクが助けるんだ!!」
痛々しいものでも見るように、アダの目は細まる。
ユウキも、被害者。そんなことは、アダにも分かっていた。
しかし、もはや話し合いで済むような現状ではなく、また話が通じるうような相手ではない。それも、分かっていた。
そして、自身の生還の可能性が限りなく低いということも。
だから――
「エバ……」
アダは、エバの方を見なかった。
真っ直ぐに敵だけを見続け、告げる。
「頼む」
「…………」
長い、しかし時間すればたったの数秒――そんな沈黙の後、エバは走り去った。
彼女の気配が馬車へと辿り着き、それが進み出した瞬間――アダの意識は、完全に切り替わる。
「<ゴルゴタの丘>」
大地が、動き出す。
それはまるで、世界そのものが動いているかのように。
建物、地に伏した騎士たち、大地は全てを押しやり――瞬く間に巨大な丘を作り上げる。
波打つ地に立ち続け、即席のリングに残ったのは、たったの二人。
両者譲れない信念と覚悟の元に――今再び、両雄は向かい合ったのだ。
「ボクは勇者になるんだ!! 約束したんだ!!」
「勇者になるのは……僕だ」
勇者を夢見、そして約束した――二人の戦い。
これが――コロノス大公領を襲った悲劇。
この世から――英雄が消えた日。
ロフォス家の援軍により終結を見たこの戦いは、最終的な死者数――およそ1万9600名。
それは、コイラスの歴史に確かに刻まれた――悪夢だった。
***
「――おお! 来てくれたのか、二人とも!」
わざとらしい挨拶に、アワン達は歓迎される。
それはもはや、いつも通りとさえ言える姿だった。
アワンは内心を必死に隠し、外見を取り繕い、演じる。彼の中の、アワンという少女を。
「それ毎回言ってるよ? もうボケちゃったの?」
「アワン様も、それ毎回言ってる」
「ははははっ!」
病人にしては明るすぎるくらいに元気なのは、アワンの父――アダ。
コロノスを襲った悪夢から、早くも3年。アワンは10歳に、レイラは13歳になっていた。
アワンは週に一回ほどのペースで、レイラと共にここへとやってくる。
アダが療養している、この病院へと。
「何回でも言うさ。よく来てくれた。遠いのに悪いな」
ここはある患者たちのために新しく建てられた――特別病院。
アダと同じ症状を抱えた患者たちが静養する場所だった。
「ううん、私たちもここに住んでいいのに」
「そうだよ。そしたら毎日会えるよ」
アワンもレイラも、思ってもいないことを口にする。
アワンにはレイラの気持ちが、レイラにはアワンの気持ちが、痛いほどに分かっていた。二人は、同じだから。
「いや、お前たちにうつっちゃまずいだろ?」
「うつらないよ。知ってるでしょ?」
あれから三年。
術に基づいた先端医療によって、ユウキの毒の解析は進んでいる。あくまで解析のみだが。
この毒は、人体に潜伏するが、人から人への感染はほぼない。
侵入は呼吸器系に問わず、皮膚、粘膜からも入り込み、霧状の毒は血液に溶け込むようにして、生物の全身へと巡る。
至近距離で吸い込めば超短期的な痛み――その代わり信じがたいほどの激痛と痙攣の果てに、遠からず死ぬ。
距離が遠く、また量が少なければ、毒は体内へと潜伏し、長期にわたって生を蝕む。じっくりと時間をかけて、人を殺すのだ。
ここはユウキの毒を受けた者達だけが入院する病院。アワンたち家族の、罪の結晶だった。
「そうだったな……でも、やっぱり心配なんだ……」
遣る瀬無く微笑むアダの顔は、痩せこけていた。
頬も、目元も窪み、顔色に生気は見られない。
顔だけではない。衣服から見える首元も、腕も、その下の体さえも、以前までの逞しさはまるでなかった。
三年かけて少しずつ少しずつ、奪われていった生命力。
それはまるで、吸血鬼に血を吸われてしまったかのように――今の彼は、ただの抜け殻だった。
そんなアダの姿を見るたびに、アワンの心も少しずつすり減っていく。
アダもそれが分かっているから、アワン達に来てほしくないのだ。日に日に弱っていく自分を見せたくないと、虚勢を張るのだ。
それを家族全員が、理解していた。もう誰も傷つけたくはないと、ここにいる誰もが思っているのだ。
だから、アワンも自分を偽る。
「心配することないよ、もうすぐ治るんだから!」
「…………ああ、そうだな! 今治った気がするよ!」
偽りに偽りで応える。
だからこそ、痛々しい。人によれば正視に耐えないほどの光景を、互いに分かっていても、それでも二人は続けた。続けざるを得なかった。
「そうじゃないよ、私が治すの!」
「おおっ……もうそんな段階なのか?」
アダの視線は、傍らに座るエバへ。
彼女は幸薄く微笑むと、頷いた。
「ええ。そろそろ能力習得、開発の段階に移れます」
「凄いじゃないか!! まだたったの3年だぞ!?」
その反応だけは、演技には見えなかった。
しかし、アワンの中にそれを誇るような余裕はない。
「頑張りましたから」
頑張った――などというものではなかった。
アワンは、それこそ死に物狂いだった。鬼気として、狂気にすら身を預け、それだけに勤しんできた。全ては、自分の過ちを償うため。
「だからね、もう少しだけ待ってて。きっと私が治してみせるから」
「ああ、約束も果たさずに死ねないよ。競争だもんな?」
「うん……競争……」
アワンは最後まで、嘘をつき続けた。
***
「――大丈夫?」
病室から出た途端、レイラから声をかけられる。
これも、いつものこと。何度大丈夫だと言っても、レイラは満足しない。
きっと、自身を映す鏡として、アワンのことを見ているのだ。
「大丈夫」
大丈夫ではなかった。
ユウキが起こしたあの事件を、自身は無関係だと主張できるほど、アワンは図太い少女ではない。
だがアダを筆頭に、多くの被害者、犠牲者が出ているこの状況で、自分だけが楽な道を選ぼうとするほど、弱くも無かった。
何もできずに、何もせずに、何も足掻かずに、終わる事など許されない。
その中途半端な逞しさが、さらにアワンを苦しめる。
「寝れてる?」
寝れていない。
もちろん全く寝れていないわけではないが、体感としてはそうだった。
毎晩悪夢を見ては、目が覚める。それでも必死に寝ようとして、眠ることができない悪循環。食事は無理やり胃袋に詰め込み、吐き出し、また取り込む。それを繰り返す。
毎日悪夢を見て、毎日苦しんで――それでも、何とか死なないように生きている。それを三年続けてきた。それが、今のアワンの状態だった。
そしてそれは、レイラも同じだろう。
「もう少しなんだよね?」
「…………うん」
あの事件から、3年の月日が流れた。
その間、アワンはただひたすらに、天術の探求に没頭した。一夜で死んだ人間の数は約一万人。そして残り約一万人が、今も闘病生活を続けている。
それは軽度の症状から、重症者まで多岐にわたる。ここは重症患者が集められた病院だった。
「アワン様なら、なんとかできるよね?」
「…………うん」
それは真実でもあり、嘘でもあった。
術開発の段階にまでこぎつけたのは、本当だ。しかし正攻法でユウキの毒を無効化できるだけの天術を開発するのは、アワンの才能を持ってしても不可能と言わざるを得なかった。
現状全ての医療者、術師たちが匙を投げ出すほどの強力な毒。勇者の血を引く者とはいえ、まだ10歳の少女には荷が重かった。
調整に調整を重ね、幾多の試行錯誤を重ね、検証を繰り返してきたが――全く届かない。
現時点で力を得るには、才能とレベル、何より時間が、圧倒的に足りていなかったのだ。
だから――
(これしかない)
術には、外法とも言われる禁忌の手段があった。
それこそが――命。
神は人の命にそこまでの価値を見出さない。所詮は一個でしかないから。
しかし命を捧げる程の人の信仰心は、評価する。
アワンは己の命と引き換えに、アダと、そして今も尚ユウキに苦しめられる人々を、救うつもりだった。
それこそが、責任。彼女が始めた物語の――終わりだ。
(ユウキ……もうすぐ会えるよ)
3年前、アワンのせいで死んでしまった友達に、続く。
夢も、約束も、命さえも――大切な者の全てを投げ捨てて。
世界のどこにも救いはない。世界のどこにも居場所はない。
アワンはもう――とっくに限界だったのだ。




