第053話 アワン・コロノス(3)
「――アワン様……」
「ん? どうしたのレイちゃん?」
夜、部屋を訪ねてきたレイラに、アワンは手を止めて振り返る。
明日は引き続き天術の指南だ。難度が高く、加えて重要な事項のため、自分の理解を深めるためにもノートにまとめていたが、家族よりも優先される作業ではない。
ノートを閉じ、不意の来客をアワンは快く迎えるが、しかしレイラは、扉付近から移動する様子を見せなかった。
普段とは違うレイラの態度、所在ない立ち姿、そして何よりその表情に――アワンは直感的に嫌な予感を覚える。
こういった時の嫌な予感というものは、往々にして正解を引き当てる。
人類共通、いや、世界共通の法則。
アワンも例に則り、レイラが口を開くよりも前に――その嫌な予感を、たった一つの隠し事へと結びつけた。
「あの子……誰なの?」
「っ!!」
見られていた。
あの子――というのが誰のことを指すのか分からないほど、アワンは能天気でも鈍感でもなかった。
それ以前に、レイラの表情が物語る。ユウキのことを指し示していると。
ここにきて、アワンは誤魔化すようなことはしなかった。
その理由としては、誤魔化しても意味がないことを知っていたのと、隠し事はしても、嘘はつきたくなかったからだ。
「ユウキだよ……友達……」
「友達? でも、人じゃない……よね?」
「…………うん」
人じゃない。
その言葉が、アワンの胸に棘として刺さる。
それは他者からの攻撃でもあり、自傷の類でもあった。
「危ないよ……殺されちゃう」
「っ!」
レイラは自分のことのように、恐怖していた。
体の震えも蒼褪めた表情も、偽りではないことをアワンは察する。
だからこそ、アワンも血の気が引くような気分を味わった。先走るその誤解に呼応するかのように、アワンの動揺も押し寄せた。
「違うの!! そんな子じゃないの! とっても優しい子なんだよ!?」
だから、アワンは必死に伝えようとしたのだ。真実を。
だがその必死さが、レイラの嫌なイメージを加速させる。
必死と言えば聞こえがいい、その余裕のない姿が、レイラからも余裕を奪った。
「アワン様……騙されてる。絶対そうだよ……」
よくない流れは、さらなる良くない流れへ。
一度流れ出せば――止まることはない。
「違う! 騙されてなんかない!! 」
「騙されてるよ! だっておかしいもん!! 変だよ!! 普通じゃない!!」
「変じゃないよ!! 変なのはレイちゃんの方だよ!! 勝手に決めつけないで!!」
人外の存在を受け入れた少女と、受け入れられない少女。
どちらが正しいではない。ただ、一度分かれてしまえば、衝突は避けられなかった。
思えばこの時にはもう、二人の道は分かれていたのかもしれない。
「ユウキは本当にいい子なの!! レイちゃんだって会ってみれば、きっと仲良く――」
「化け物と仲良くなれるわけないでしょ!?」
「――っ!!」
――化け物。
その言葉に、アワンは何も言えなくなる。
心が打ちのめされたのを感じた。なぜならそれは、ユウキを初めて見た時、アワンが最初に思ったことだから。
ユウキを恐怖していた自分が、これを否定する資格があるのか。どの口でレイラのことを諭すのか。
間違っているのは、自分なのではないか。
アワンとレイラは、二人して移ろう己の心に震える。
大人びているように見えても、二人はまだ子供。そんな未熟な少女たちが扱うには、この問題は大きすぎたのだ。
そして――手に負えないものに手を出せば、人は、破滅の道へと向かう。
「パパとママに……内緒にしてくれるよね?」
「…………」
アワンは、アダとエバを信頼していないわけではなかった。
しかし誤解をされる可能性があるとは思っていた。それこそレイラのように、ユウキを悪者だと。
だから隠していたのは、誤解を避けるためだ。波風立てず、穏便にやり過ごすため。
現状、この先も、誰にも迷惑をかけないというのなら、これはアワンとユウキ――二人だけの秘密でいいと思っていたのだ。
子供には分からない。
それが――どれほど身勝手で、どれほど残酷な仕打ちかということは。
それはもしかすれば、大人でも分からないことかもしれない。
少なくとも、意見が分かれることは確かだった。
「レイちゃん? 内緒にしてくれるよね?」
「…………うん」
アワンの念押しに、レイラは頷く。
アワンは、レイラを信頼していた。
約束を破るような子ではないと、思いたかった。
***
「――アワン、どきなさい」
「…………」
アダは、天地を揺るがすほどの動揺の中、立っていた。
今にも叫び散らし、この感情を発散させたいが、そんなことは許されない。
だから、必死に現実を受け止め、ここに立っている。
まさかこんなことになっているとは、つゆにも思っていなかったのだ。
(こんなことが……)
涙を流しながら震える娘――アワン。
彼女が睨むようにして見上げているのは、アダだ。まるで敵を見据えるように、こちらを見ている。
そんなアワンが抱きよせ、庇う存在。
それは――人ではなかった。
(犬妖精)
それも、邪精霊と呼ばれる種族。
人間を主食とする、山の精霊だ。
精霊は高次元存在や下級の神などと巷では呼ばれているが、それは人間のイメージが先行した誤りだとアダは思っている。
実体は、世に蔓延る他の種族たちと何も変わりはない。住む場所が自然の中であり、国などを形成しないというだけの――ただの化け物だ。
その中でも犬妖精は食欲旺盛な種族であり、それこそ人間の街に一匹解き放つだけで大惨事となるほどの危険な存在。
人間の敵。これこそが揺るがぬ真実だった。
だから今もなお、アワンが犬妖精の傍から離れようとしないことに、アダは生きた心地がしなかった。
なぜ今の今まで気が付かなかったのかと、己のマヌケさを恨みながら。
(レイラが知らせてくれなければ……大変なことになっていた)
これを知らせてくれたのは、もう一人の娘――レイラ。
悪いと思いながらも、アワンが毎週誰と会っているのか気になって、こっそりと後をつけたらしい。そして、この街から離れた丘の上でアワンと人外の友人との密会を目撃。
最初はもう会わないようにアワンを説得しようとしたらしいが、逆に説得され秘密の共犯者とされる。
その後、数週間以上悩み抜いた末に、アダとエバへとこのことを打ち明けてくれたのだ。
本当に、助けられた。
彼女の葛藤と勇気がなければ、アダはきっとこの先も気が付くことはなかっただろう。
難しい判断だったはずだ。苦しい決断だったはずだ。
本当によく勇気を振り絞ってくれたと、アダはレイラを誇りに思った。
「アワン、よく聞きなさい。その子は危険な存在なんだ。関わっていれば、お前の命も危ない」
「危険なんかじゃないよ!! 危なくなんかない!! ユウキはとっても優しい子なんだから!!」
激情のままに叫ぶ娘を見るアダの目は、静かな悲しみを帯びていた。
ここまで必死に、感情的になるアワンを見るのは初めてのことだ。子供ながらに、不自然なほどにどこか大人びていた娘の、初めての姿。
それだけに、遣る瀬無く、また心も痛む。そんな顔をさせてしまっていることに、親として情けなさも感じた。
「…………」
アワンが震えるように抱きしめ、そしてそんなアワンよりもさらに震える存在。それはまだ、子供だった。
この光景を見て、何も思わないほどアダは冷酷な男ではない。むしろその逆だ。残酷な現実を直視したくないとすら思ってしまう。
しかし、時に冷酷にならなければならないことも、大人であるアダは知っていた。
自身の感情のままに動いていいのは、子供だけだ。大人には責任がある。
アダは心を鬼にし、抜き身の剣を握る手に力を込めた。
「その子にも、お前にも、罪はない。だけど……その子は、人の世界にいてはいけない存在なんだ」
「アワン、お父様の言うことを聞きなさい」
アダの隣に、静観していたエバも並ぶ。
当然レイラは連れてきていない。危険な場所に子供を連れてくるほど寝ぼけてはいなかった。
ならば妻はどうなのかという問いかけには、自身を持って答えることができる。
エバは、元々勇者の血を覚醒させ、名をあげていた術師。
その役目をアダが奪い、今でこそ現役を退いてはいるが、元々はアダよりもずっと強かった。今でさえ、戦えばどちらが勝つかは分からない。
この場面では、いやこんな場面だからこそ、非常に頼りになる存在なのだ。
「パパもママもおかしいよ!! だって、勇者は誰かを助ける者なんでしょ!? 弱い人を助けるのが勇者だって!! そう言ってたのに!!」
「…………」
「…………」
アワンの混じりけなしの悲痛な叫びに、アダとエバの心は――揺れる。
当然だ。彼らも人なのだから。
しかしその心の揺れ、迷いを、並々ならぬ責任で押しつぶすのが――大人だ。
自分の楽な方にばかり進む者を、大人とは言わない。
だから――
アワンの言葉は、正しい。
弱き者を救う――それこそが勇者。
しかしその弱き者は――人に、限られた。
「エバ」
「はい」
視線を交わさずとも、言いたいことは伝わる。
現状説得は不可能だと、アダは早々に見切りをつけた。先に問題の解決に当たった方が良いと。
そしてエバの返事が聞こえた瞬間――アダは動き出す。
「――ぁ」
風の揺らぎよりも早く、二人の元へと距離を詰めた。
遅れて花びらが宙へと舞った時には、アダはアワンの背中の衣服を掴み、一思いに引き剥がす。
何が起こったのか分からない。そんなアワンの微かな声が聞こえた時――引きはがされたアワンの方へと、ユウキの手は伸びたのだ。
「っ!?」
動きについてきているという信じがたい事実を前に、精神が驚愕を覚える間にも――アダの肉体は精密に、無慈悲なほどに動き続ける。
英雄と呼ばれる男の力は、本物だった。
「ふぎっ!?」
アワンを捕まえようとしたユウキの両手が、彼女に届くことはなかった。
無防備な腹に炸裂した膝蹴りによって、二人の距離は強制的に離される。
蹴り飛ばされたユウキが丘の上を滑っていく時、アワンは成すすべなく宙を舞い――そして、エバの腕の中へと収まった。
「連れていけ!!」
「はい!!」
たった一度の攻防で、ユウキの危険度を察知したアダとエバの動きは――迅速だった。
一刻も早く、アワンをこの場から遠ざける。
戦いに巻き込まれれば命はないと、直接接触を交わしたわけではないエバも、察したのだ。
「ううっ……! あぐうっ……!!」
腹を押さえ、痛みに悶絶する小さき獣を、アダは油断なく見据える。
アダの全力の一撃を受けて、この程度のダメージ。地を転げまわり、顔は涙で濡れてはいるが、致命傷には至っていなかった。
それは、彼がまだ幼い子供であることを鑑みれば、信じがたき光景。
この時点で、アダの中にユウキへの情は完全に消え去った。
「あああっ!! いやだ!! いやだああぁぁっ!!」
しかし、背後から届く悲痛な声には、どこまでも胸が締め付けられる
これが彼女のためだと信じていても、大切な者を傷つけるのは、やはり心が痛んだ。
「っ!? あっ! ああっ……!」
激痛の中、ユウキは気が付いたように顔をあげる。
涙で汚れる目を擦り、口元から涎を垂れ流しながら、彼は探し物をしていた。彼にとって何よりも、大切なものを。
そして、見つける。
「あっ!? ああっ!! アワン!! アワン!!」
犬の顔が、大きく歪む。
それは人間であるアダから見ても、悲しみが分かる表情だった。
「いやだぁ!! ユウキぃ!!」
「アワン!!」
こうして二人の聖域は――犯される。
大人という理不尽によって、二人は引き裂かれたのだ。
***
「――ああっ……!」
ユウキは、こちらへと必死に手を伸ばし続けるアワンを眺める。
大切な友達を、ただ見送ることしかできなかった。
ユウキが自身の痛みを優先している間に、アワンが連れ去られてしまった。
痛いのを我慢して手を伸ばし続けていれば――アワンと離れることはなかったかもしれないのに。
自分が弱いせいで、自分に勇気がなかったせいで――
ユウキは、自戒を続けていた。生まれてから、ずっと。
今だってそうだ。
アワンの父と母がアワンを急に虐めだしたことに、自分が関係していないとはユウキは思わなかった。
しかし、それは自身の種族的な理由からではない。
彼は、この現実に対しても、悪霊を結び付けた。
(ボクが……ここにやってきたから……)
悪霊が、ここまでついてきたのだ。
聖域の中にいたアワンとユウキだけが助かり、そして外にいたアダとエバが肉体を乗っ取られた。
そのせいで、アワンが酷い目に合わされているのだと。
ユウキのせいで、アワンが悪霊に攫われたのだ。
(悪霊がきたんだ……次はボクのばんだ……)
瞬間――ユウキの脳裏に蘇ったのは、悪夢だ。
愛していた父と母に捨てられた――地獄の記憶だった。
『次々に死んでいく。ゆっくりと、時間をかけて……まるで呪いだ』
『この子の近くにいた者から……やっぱりだ。原因はこの子だった』
『殺せ。こやつは悪魔だ』
『離れた場所で育てればいいなんて、お前が言うから』
『殺すのは勿体ないって言ったのはあなたじゃない!! だからさっさと殺しとくべきだったのよ!!』
『このままじゃ俺たちまで危ない。殺さなければ』
『パパ、ママ……ボクもう悪い子しないよ。だから虐めないで……』
『殺せ!!』
「うぅ……ううぅ……」
ユウキは恐怖に、震える。頭さえ抱えて、恐怖から身を守った。
怖かった。自分もあんな風になってしまうことが――。
怖かった。悪霊に乗り移られ、アワンを傷つけてしまうことが――。
泣いて、震え、恐怖に蹲る。
それは――弱き者の姿。虐げられる弱者の姿だった。
しかし――
「いやだぁ!! ユウキぃ!!」
「っ!!」
助けを求める少女の声が――ユウキの震えを、止めた。
『ボクも勇者になったら、誰かを救えるのかな?』
決して消えない悪夢を、蘇る地獄の記憶を――
『アワンの夢は、ボクの夢だよ。ボクもきっと、勇者になるから』
約束が――晴らす。
『あなたの名前は、”ユウキ”。とても勇気のある子だから』
「…………勇気」
その言葉を聞くと、不思議と力が漲る。
彼女が与えてくれたものだから。
少女が与えてくれた名前が――ユウキに、恐怖に屈することを許さなかった。
「助けなきゃ」
「っ!?」
痛みは――もうなかった。
そこにあったのは、底知れない勇気だけだ。
「ボクが……」
ユウキは立ち上がる。
戦ったことはない。それどころか、自分で狩りをしたことすらも。
でも、やらなければと思った。
だって、ここでユウキが戦わなければ――
「ボクが助けなきゃ!! 今度こそ、悪霊から守るんだ!!」
約束が――違うから。
***
「――はあっ……! はあっ……!」
この世界において、レベル50というのは一つの指標であり、また絶対的な指標の一つでもある。要は複数ある判断要素の中の一つではあるが、絶対に欠かせない一つだと言うことだ。
というのも、ここへ到達した者、これを乗り越えた者、そしてそうではないものでは――力に隔絶した開きがあるためだ。
つい半年ほど前――試練を乗り越え、真の英雄となったアダは、当然この壁を乗り越えた達成者だった。
人の身で、人を超えた者――
今の彼は、名実ともに伝説に名立たる勇者にも匹敵し得る存在だった。しかし――
(…………化け物だ)
血を被り、地に伏し、震えながら死に抗う存在を――
英雄は、恐れていた。
「フゥッ!! フゥッ……!!」
もはや身動きは取れない程の重症。
全力のアダを相手にした対戦者としては、当然の末路。
しかし、決して敗者には見えないだけの眼光が、そこにはあった。
一般の人間よりは他種族への知識に明るいアダは、これが当たり前のことではないことを知っていた。
むしろ――驚異の事実。
信じられなかった。生まれてからまだたったの数年、そんな歩きたての存在が――
既に、アダとまともに戦えるだけの力を持っていることなど。
(信じられない。こんな子供が……既に壁目前にまで到達している)
アダは過去幾多の戦闘経験と、そして天性の感覚的センスから、敵のレベルを把握する能力に長けていた。
その直感が、囁く。レベル50に、限りなく近い位置にまで到達していると。
(どれほど神に好かれれば……これほどの寵愛を……)
一説には、その人間の才能は、神が定めるとされる。
どれだけ強くなれるのか――その可能性の幅は、神の匙加減だと。
だから生まれながらに生物的な脆弱を約束された人間という種は、神に見捨てられた種族。そういった間違った信仰を唱える者達も、この世には数多くいるくらいだ。
アダはそう言った者達の考えを、内心蔑んでいた。
長所があれば欠点もあるのは当たり前だと。人間には他種族に無い文明発展力とでもいうべきものがある。術でアイテムを創造する力に長けているのも、人間の特徴だ。そういった正論で、アダは自身を慰めていたのだ。
しかし、それは間違いだったのではと、今は思い始めていた。
なぜならそれほどの存在が今、アダの目の前にいる。
アダにして、前代未聞。見たことも聞いたこともないような事例。
それは、神の視点から見ても、世界的に類を見ない――奇跡。
神の惜しみないほどの奉仕の末に誕生した――祝福の子。
ユウキは生まれながらの――怪物だった。
(――殺さなければ)
現時点でこれほどの強さ、そして才能を持つ存在。
この先、どれほど厄介な存在となるかなど、目を瞑っていても分かること。
だからこそ、目も当てられないような事態となる前に、対処する必要がある。
今ここにいるアダが、目を見開き、芽を摘まなければ。
(――僕が)
アダは血濡れの剣を手に、ゆっくりと歩を進める。
それは断頭台へと赴く、死刑執行人を彷彿とさせた。
アダがユウキを殺そうとした理由は、最初は人間社会を生きる者として当然の――責任感からだった。
人の世界に魔の者が巣食うことを、民衆は許さない。
誰にも迷惑をかけていないではないか。可哀そうではないか。まだ子供なんだから、逃がしてやればいいではないか。山に帰すだけでいいではないか。
そんな見せかけだけの優しさが、誰かを傷つけることを、アダは知っていた。
それは優しさではない。甘さ、そして弱さだと。醜さですらある。
責任ある者は、そんな逃げ口上を許さない。
(――僕の手で)
仮にユウキが人を襲えば、責められるのはアワンだ。
いや、人外のペットを飼っている。そんな噂が広まるだけでも、アワンの将来は終わる。
まだ純粋な子供だからこそ、ユウキは人に手をかけていないのだろう。現状、やはり彼に罪は全くない。そもそもの話、人を喰うことは罪ではないのだ。
だからこれは、どこまで行っても人のエゴ。
その無垢なる心が、いつ獣の本能に結びつくかは分からないという不安。
そして一度人の味を覚え、狩りのやり方が体に刻み込まれれば、そこから引き返すことはまず不可能。
それが人を喰う種族の宿命だと、アダは知っていた。
どんなに理性や感情で制御しようとも、この本能だけはどうにもならないと。種族の違いとはそういうものなのだ。
だからこれを知っている大人が、手を下さなければならない。
人を救うためには、殺さなければ。誰かが幸せになるということは、誰かを不幸にするということ。
(殺す)
見たくないものから目を逸らす。
そんな甘えを――勇者という夢と、英雄という立場は許さない。
アダの瞳は暗く、どこまでも暗く沈んでいく。
「あっ、あっ……」
振り絞っていた勇気。そこから結びついた殺意は、それ以上の恐怖によって塗り替えられた。
近づくアダに震えあがる姿は、やはりどこまでも子供だ。
被支配者であり、被虐者。本来は守るべき弱き者の姿。
見るだけで、同情心を誘う。
殺したくないと、人の心が囁く。
だがそんな声に耳を塞ぎ、アダは前へと進み続けた。
それは――狂気にさえ届く領域だった。
人は、理由さえあれば、どこまでも残酷になれる。
正義という名の、人の狂気。
「――があっ!!」
死の恐怖からか、それとも生への執着からか、最後に足掻く存在にも、アダは粛々と対処する。
飛び掛かってきた矮躯を剣の柄で殴り倒し、逆に制圧した。
肩を足で踏み、押さえつける。そして――剣先を喉元へと突き立てたのだ。
瞬間――映ったのは怯えの表情。
殺すべき存在の瞳は、理不尽に押し寄せてきた恐怖に染まっていた。
「…………」
両手で持つ剣が、これほど重かったのは、初めてのことだった。
アダは確かに今――命の重さを実感していた。
(やれ……やれ!!)
必死の叫びで、自身を後押しする。それは、懇願にも等しかった。
ユウキ一人を匿うことは、やろうと思えばできる。
アダなら、それこそ誰にもバレないように保護することができるだろう。
だが、人のために行動する英雄が、そんなルール違反は出来なかった。
自分だけが特別など、人の社会では絶対に許されないこと。
そんな例外を許してしまえば、秩序も糞も無い。そして――
(殺さなきゃ、人が死ぬんだ!! 誰かが犠牲になる!! 優先すべきは人の命だろう!?)
アダは大人として――どこまでも正しかった。
間違っているのは、子供なのは――どこまでも、アワン。
しかし――
「…………できない」
アダは、こぼれ落ちる涙を――止めることができなかった。
歪む表情の間から次々に流れ落ちる雫は、剣をなぞるように滑り落ち、ユウキの顔へ。
恐怖一色に染まっていたユウキの顔色が、変わる。
無垢なる子供の表情を前に、アダの心は――決壊した。
「できない……!! 僕は子供を……殺せない!!」
英雄は、泣く。
情けなく弱音を吐き、決して許されない甘さに縋る。
子供と大人では、考えと、その考えに基づく責任の重さが違う。
大人には――感情よりも優先される、責任がある。
しかし――
大人も――人だった。
***
あれから、50日余りの時間が経過していた。
ユウキの処分を端的かつ明瞭に表現すれば――追放。間違っても明るくはない結末だ。
区分としては公的国外追放ではなく、どこまでも私的で独善的な――人の領域からの追放である。
アルフレート大山への定期遠征に合わせ、アダはユウキを密かに北領域から追い出すことに決めた。つまり彼の本来いるべき場所――南領域への追放となる。
これは違う視点から見れば、いやそうでなくとも、逃がしたと取れる行為。
だからこそ、秘密裏の行動なのだ。アダは大人の責任を放棄し、自分の感情を優先させた。
そんな子供のような大人の決定と行動を前に、さらに子供であるアワンは当然成す術がなく――彼女に出来る抵抗と言えば、こうして部屋に閉じこもることだけだった。
「…………」
明かりもつけず、また窓もとじ切った室内は、今のアワンの心情を表すように暗かった。
しかし部屋の中は惨状――などということはない。
彼女は怒りや憤りを周囲に散らかすタイプではなく、逆にどこまでも貯め込むタイプだった。
(…………ユウキ)
アワンは当然のように目元を腫らしながら、遠くに行ってしまった友人を思う。
毎日毎日、考えるのは彼のことばかりだ。考えざるを得ない。
一体、何がいけなかったのか。何が間違っていたのか。
助けたのがいけなかったのか。あのまま見殺しにするのが正解だったのか。
ならば、ユウキが生きること自体が間違いだというのか。
ならあの時間は? あの楽しかった時間も、全てが間違いだったというのか。
あの笑顔も、あの約束も、あの夢も――全部全部、間違っているのか。
答えの出ない問いはやはり答えが見つからず、何度も何度も繰り返す。終わらない堂々巡りから、抜け出す術はない。
彼女がもっと愚かなら、自暴自棄となり、この地獄からも容易く抜け出せただろう。
彼女がもっと子供なら、憔悴し、それどころではなかっただろう。
しかし良くも悪くも、殺害ではなく追放という事実が――アワンを救い、そしてどこまでも苦しめたのだった。
生きているのにもう会えない。この事実が、アワンにとっては呪いだった。
「アワン様……」
「レイ……ちゃん……」
アワンはベッドの上で、力なく振り返る。
そこには、いつかのように所在なさげに扉の前に立つ、レイラの姿が。
いつも通りだ。彼女はあれから、毎日アワンの様子を見に来る。大丈夫だと言っても、謝りにくるのだ。まるで義務のように。
「ごめんね……」
「…………」
アワンとの約束を破り、レイラはユウキのことを伝えた。
それが、全ての始まり。
レイラがアダに伝えなければ、あの幸せな時間は続いていた。
アワンもユウキも、誰にも迷惑はかけていなかった。丘の上でひっそりと、ただ二人の時間を過ごしていただけだ。
聖域を犯さなければ、ずっと、ずっと続いたのだ。
だが、アダ、エバ、レイラの心が全く分からない程、アワンは愚かではない。
彼女は分かっていたのだ。だからこそ、隠していた。ユウキの存在を。
自分は許されないことをしていると。間違ったことをしているのは自分の方だと。
彼女は――分かっていた。
だが――
「勇者……」
「え?」
「私はもう……勇者になりたくない」
ユウキのような者を殺すことが、勇者の役目というのなら――
ユウキのような者を救えないのが、勇者であるというのなら――
アワンはもう、勇者になんてなりたくはなかった。
少女は、この年で現実を知る。
勇者とは、誰かを救うために、誰かを殺す者だと。
「私は……なりたいよ。だって、私たちの夢でしょ?」
「…………」
「約束したよね?」
夢だった。
それは、ユウキの夢でもあった。
(約束……)
「なんか……外がうるさくない?」
「え?」
唐突なその言葉に、アワンは顔をあげる。
耳をすませば、意識が切り替わったように音が届いた。
言われて見れば、なぜ今までは気づかなかったのかというレベルの騒がしさが、耳に届いた。
アワンはベッドの上を移動し、カーテンを開く。
暗い部屋にまず差し込んできたのは、太陽の光でも、夕焼けの明かりでもない――
炎の、赤だった。
「燃えてる……」
「え!?」
慌てて部屋を駆けてきたレイラが、アワンの隣に並ぶ。
その横顔に炎の揺らめきが映ったことで、ようやくアワンは事態を現実のものとして受け入れられた。
レイラが窓を開けば、まるで世界が変わったように――たちどころに喧騒は入り込む。
「…………何が起きてるの?」
事故、火事、事件――
それぞれニュアンスの違いだけで大枠は同じかもしれない。しかし、そのどれとも違う気がした。
それも、大きく。
燃えてるのは屋敷ではなく、街だ。
少し高い場所に立てられたアワンの家は、コロノスの街を一望することができる。
あちこちから硝煙が上がり、喧騒が至る所から轟く。人の動き、人の悲鳴。
まるで別世界に来てしまったかのように、アワンとレイラは取り残された。
「アワン!! レイラ!!」
「マっ――!!」
言葉は、最後まで紡げなかった。
その前に、アワンは肉体の動きを強制される。いや、支配されたと言った方がいい。アワンとレイラはそれぞれエバの脇に抱え込まれ、全てを制御された。
「ママ、何が起きてるの!?」
「エバ様!!」
「黙っていなさい!! お願いだから今は黙ってて!!」
いつになく余裕のないエバの姿は、アワン達の恐怖も掻き立てた。
足早という表現では済まない速度で、エバは屋敷から飛び出す。
そして広い敷地内を、やはり着の身着のままという表現では足りない状態で、疾走した。
見えてきたのは、屋敷前の門を塞ぐように待たされている馬車だ。
そのことから、逃げる準備をしていたことが伺える。
つまり事は、アワン達が気が付くもっと前から起こっていたのだと。
(一体何が!? 何が起きてるの!?)
分かっているのは、もうすぐで馬車へと辿り着くということと、その馬車でどこかへ逃げるということ。
ここから、逃げる。
それはここは、危険だということ。
ならばなぜ、一体何が原因で――こんなことになっているのか。
その時――
「っ!?」
ようやく辿り着こうとした馬車が、消え去る。
それはまるで、アワンらの到着を見計らったようなタイミングだった。
遥か上空に飛んで行く馬車を――アワンは見送らなかった。
なぜならそんなものよりも、見なければならないものがあったから。
アワンは馬車を投げ飛ばしたその存在と――目が、合った。
「アワン!!」
アワンの姿を見咎めた存在は、その顔に喜色を浮かべる。
それはアワンがずっと会いたいと願い、そしてもう二度と会えないと思っていた――存在だった。
「ユウ……キ……」
血に濡れた存在が、アワンの前へと立つ。
それは、人か、獣か――
「アワン!! 助けに来たよ!!」
約束を――守るために。
ユウキはアワンの元へと、帰ってきた。




