第052話 アワン・コロノス(2)
「――がぁ!!」
「っっ!?」
アワンの存在を見咎めた瞬間――それは動き出した。
猛然と飛び掛かってくる存在に、アワンは悲鳴さえあげることもできずに押し倒される。
だが当然、抵抗しないわけはなかった。男に襲い掛かられれば、それを跳ねのけようとするのは女に備わった防衛本能。それは7歳の少女であっても例外ではない。
ましてや、アワンは弱者の立場に甘え、そのままやられてやるほど気概がない少女ではなかった。勇者の血をいかんなく発揮し、力を操る。しかし――
(っ!? 強い!!)
アワンの全力の抵抗は、意味を為さない――とまでは言わないまでも、彼女の思い描いていた理想とは大きく異なった。
アワンのレベルは、現在11。これは7歳の子供としては信じがたい数値である。
筋力は大人に匹敵し、おそらくこの領地で腕相撲大会を開催しようものなら、彼女の予選突破は確実。決勝トーナメントに名を連ねるのも固いだろう。もちろん、大人の部である。
それほどの身体能力を持ってしても、跳ね返せない。それも、瀕死の存在に。
(血!? 怪我を!!)
暗い視界に映ったのは、負傷の体。
ぐったりと横たわるように寝ていたのは、アワンの見間違いではなかった。
息がかかり合うほどの距離に来たからこそ、分かる。その存在は――死にかけていると。
鼻孔をくすぐる血の匂いと、力強い強襲の中にあって弱弱しい体。
明らかに衰弱し、今彼は、死に物狂いで生に足掻いているのだ。
この時点で、アワンは悟った。
彼はアワンを襲っているのではなく――恐れているのだと。
震える肉体が、彼の恐怖をありありと教えてくれた。
だから――
「大丈夫……」
「っ!?」
アワンは震える存在を、受け入れるように抱きしめた。
首元に噛みつき、喉笛を引き裂こうとしていた小さき刺客。その脅威を、全身で受け止める。
恐怖に震える体で、恐怖に震える体を包み込む。
大丈夫だと、もう何も怖くないと。
「大丈夫……大丈夫……」
「ふうっ……! ふぅ……!」
興奮に荒立っていた獣の呼吸音は、やがて――人の意思を持つ声へと変わる。
ボロボロと流れ落ちてくる液体の正体を、アワンは知っていた。
そこに込められた温かさを、アワンは知っていたのだ。
「大丈夫、もう大丈夫だよ」
人か、獣か――そんなあやふやな存在への優しさは、常軌を逸する奇行と断じても表現に誤りはない。
しかし、少女は過ちに自ら手を染め――救う。
勇者はどこの誰とも、人であるかさえも分からぬような妖しき存在さえも――
当然のことのように、救ったのだ。
***
「――うわぁ……!」
横たわる体に手を添える。
天術を発動し、傷を治すと、歓喜の声があがった。
それはアワンではなく、目の前の存在からだ。
(言葉が……)
アワンの力量では体の衰弱はもちろん、全ての傷はまだ治せないが、取り急ぎ目に見える傷口は塞がったようだ。
その神の祝福による輝きを受け、彼の目にも輝きが宿る。それはおもちゃを与えられた子供のように明るく、幸福に満ちていた。
「すごいや! すごいや!」
「まだ動いちゃだめだよ。元気になったわけじゃないの」
「え? 治ったんじゃないの?」
「病気はね、そんなにすぐには治らないの。ゆっくり時間をかけなきゃ……」
喜びに水を差すようで気が引けたが、事実だ。
体の傷が塞がったからといって、今の彼が危ない状態にあることは変わらない。アワンの術では衰弱や体力の低下などはなんともならないからだ。
そのような回復は、自力に頼ることになる。そしてそれらは、時間がかかることだった。
(でも喋れはするみたい……良かった)
それは二つの意味で。
一つは、意思疎通が可能ということ。そしてもう一つは、言うまでも無く、命の危険がないことを悟ってだ。
弱弱しくも明るい雰囲気の声に、思ったよりも元気そうだとさえアワンは思った。子供の空元気の類かもしれないが。
「まずは自己紹介からね。私の名前はアワン。あなたのお名前は?」
「お名前? ボク名前ないよ?」
「え?」
話のとっかかりとしてはごくごく当たり前の入り。
しかしそんな日常会話に、それこそごく当たり前のように返された返答に、アワンは目を丸くする。
まさかそんな答えが返って来るとは思わなくて。
「…………明かりつけてもいい? 暗くて見えないの」
「ボク見えるよ?」
「私の顔とか見えてるの? こんなに暗いのに?」
「うん、見えてる」
――暗視。一部の種族が生まれつき持っていると言われる種族的能力だ。
こういったように、人間ではない種族は生まれつき腕力に恵まれたり、身体的能力に恵まれたりする。
そして暗視は、人間では決して持ちえない。
アワンはいよいよにじり寄る不安を確かなものとしながら、腰のポーチをまさぐった。
「なぁにそれ?」
「<金糸の革袋>だよ。荷物がいっぱい入るの」
重量は関係なく、ほぼ無限にアイテムを収納できる小袋だ。非常に有用なアイテムだが、貴族などの特権階級であれば比較的簡単に手に入れることができるらしい。
アワンがこれを買ってもらったのは、つい最近のことだ。先日の買い物の一件での苦労話を経て、アダから贈られたプレゼント。
小袋を開き、その中から容量に釣り合わないアイテムを取り出す。
「これは<ヘカテーの松明>。明かりだよ、えいっ」
「うわぁ……! すごいや!」
薄暗かった洞窟内に、突如として生まれた光。
照らし出られるのは少女と、もう一人。
そして今度こそ、アワンは彼のことをしっかりとその目で見た。
まず目につくのは、やはり体の大きさ。
7歳のアワンよりもさらに小さい。声色や雰囲気、そして抱きしめた時の感覚から察していたが――やはり子供だった。
次に目につくのが、美しい金色の毛並み。
全身が多量の毛に覆われ、地肌が見えている場所がほとんどない。
最後に、顔。やはりアワンの見間違いではなく――
彼は、獣だった。
(やっぱり人じゃない……でも、人の言葉を喋ってる……)
その時、アワンの中に芽生えた感情は、恐怖――ではなく、好奇心だった。
そして未知への期待。もしかして、自分はとんでもない存在と巡り合ってしまったのでは――などという、非日常感。
まるで自分が物語の主役になったかのような、全く別の世界に招かれたかのような、そんな刺激的感覚。
子供心とは、時に勇敢と無謀の間を容易く駆け抜ける。
「あなた何歳なの?」
「五つ」
やはり、アワンよりも年下だ。
しかし5歳にしては、かなり言語力がある――などと、仮に口にすれば「いやいやいや……」とツッコミが入るような感想をアワンは抱く。
これほど自分を棚に上げるという表現が適切な事も無かった。
「ここに住んでるの? 私の名前知ってる?」
「ううん、ボクお山からきたんだ。アワンはエサだよね?」
「え?」
刺激的な非日常感は、早々に凍り付く。
聞き間違いかと思い、彼の顔を確認するが、そこには無垢な表情が待ち受けていた。
遅れて、アワンはようやく恐怖を抱く。くりくりとした瞳と、牙が見える口元。人とは違う存在がリアルに映り、ようやく認識が現実へと追いついた。
「え……さ? エサっ……って、あの……どういうこと?」
アワンはなんとか言葉を吐きだす。
冷静に、動揺していることがバレないようにと、全力で表情を取り繕ったが、たぶん上手くできてはいなかった。
しかし彼はそんなことに気づきもせず、無垢なる気配を崩さない。
「え? エサの仲間じゃないの? アワンみたいなのこと、みんなエサって言ってた……」
「っ!」
ここに、アワンは己の勘違いを理解する。それでよかったとは間違ってもならない誤解ではあったが、ひとまず解けた。
おそらく、彼の種族では、人間のことをエサと呼んでいたのだ。だから彼は、アワンをエサという種族の仲間だと認識している。
つまりは――
「そのエサを、あなたも食べるの?」
「うん」
人がパンを食べることを当たり前だと思うように、人を食べることを悪いことだと全く思っていない。
悪意が見えないからこそ、その事実はより強く伝わった。そして悪意がないからこそ、どこまでも恐ろしい。
人を食べる種族。
ここまで条件が揃えば、アワンにも分かった。
つまり彼は、アダが戦っている敵の仲間だ。世界を荒らしている人間の敵。
そんな存在を、アワンは助けてしまった。
勇者を志す――アワンが。
(…………どうしよ)
取り返しのつかないことをしてしまったと、急速に募る焦りが背中を濡らす。
生まれて初めて悪いことをしてしまったのではと、アワンは親に怒られる前の子供のように震えた。
だがその前に、まずは目先の問題をなんとかしなくてはならない。
恐怖はまだ、どこにも去ってはいないのだから。
「じゃあ……さっきもしかして、私のこと食べようとしたの?」
「うん。でもボク自分で狩りしたことないんだ……だから怖くてできなかったの」
「…………」
怖くてできない。
もし彼が臆病な性格でなかったら、アワンの命はあの時――
ほんの少しの行動の違いで、あり得たかもしれない未来。その先を想像し、アワンは身震いする。
今からでも引き返した方が良いのではないか。そんな彼女の生存本能と理性を引き留めたのは――
「でも、ボクもうアワンのこと食べられないよ……」
「え?」
くしくしと手で顔を擦りながら、彼はつぶやく。
そこには、申し訳なさはなかった。まるで自分の考えに怯えるように、また新しい感情への不快感に驚くように――
彼も戸惑い、揺れていたのだ。
「あんなふうにポンポンされたのも、ギュってされたのも……ボク初めてだったんだ。だから……食べたくないよ」
「…………」
くしくしと、顔周りを手の甲で擦り回す。
それは、親に怒られる前の子供を彷彿とさせる――弱弱しい姿だった。
何も違わない。同じだ。
彼はアワンたちと、同じ存在なのだ。
アワンは、道を引き返す。己の意思で、己の足で。
その先は――
「でも、お腹すいてるよね?」
「…………うん」
やせ細った体から察していたが、満足に食事を取れていないのだろう。
それでも彼は、アワンのことを食べないという選択をしたのだ。
逆の立場ならどうだろうか。アワンなら、そんな選択ができるのか――
「じゃーん!」
「わあ!」
アワンはバスケットを取り出すと、蓋を開く。
そこには昼食として持たされた、色とりどりのサンドイッチが入っていた。
「これ食べられるかな? お水は飲める?」
「食べられるのかなぁ?」
鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅ぐ姿は、犬のようだ。
子犬とは言えない大きさだが、動きがどこか動物的で、どうしても小動物をイメージしてしまう。
「じゃあ一緒に食べてみよ!」
「うん!」
アワンは勇者の責任、役目、今後――それらの考えを一度全て取っ払い、行動することに決めた。
ただ、弱い者を助ける。
心のどこかで不安感を抱き、迷いながらも――
ひとまず彼を、救うことに決めたのだ。
***
アワンは丘を駆ける。
ここ連日、三日に渡ってアワンはこの丘にまで足を延ばしていた。その理由については、もはや説明するまでもない。
アワンはまだ、アダにもエバにも、このことは言っていなかった。賢いアワンは、彼の存在を大人が許さないことをなんとなく分かっていたから。
だからこそ、ひとまず隠すことに決めた。子供ながらに、大人顔負けの知性を持った恩恵でもあり、弊害。
彼女は残酷なほどに、敏い少女だった。
「…………」
洞窟入り口に辿り着くと、誰にも見られていないかを再度確認する。
くどいほどのチェックを重ねて、アワンはようやく中へ。
ちなみにアワンがこうして連日の外出ができているのは、協力者であるレイラのおかげだ。
レイラはここ最近ずっと部屋に籠って勉強の日々なので、アワンがその教師役を務めているという嘘でこの時間を作ることができているのだ。
レイラには新しい友達ができ、その子と遊んでいると伝えていた。彼女も特に違和感を抱くこともなく、アワンの嘘に付き合ってくれている。
「あれ、いないの? アワンだよ~」
暗闇の中、アワンは小声で語り掛ける。
もしかして寝ているのかもしれないと思って。しかし――
「――わっ!」
「わぁ!?」
突然陰から飛び出てきた存在に、アワンはびっくりして仰け反った。
バランスを崩し、尻もちをつきそうになるが、その前に柔らかい存在がお尻に滑り込む。
「アワン、重いよぉ……」
「もう! そっちが驚かせたんでしょ! あと、女の子に重いとか言っちゃだめ!」
もふもふの柔らかい感触に、アワンはその正体をすぐに悟る。
そのクッションは喋るのだから、本当に誰かは一目瞭然だった。
「重くないよぉ……」
「ほんと? おりゃっ!」
「あははっ! くすぐったいよぉ!」
アワンは地面に蹲るモフモフに抱き着き、その柔らかさと温かさに沈み込む。そして、両手で撫でまわした。
クッションは意志を持つように、アワンの手から逃げ回る。二人して地面を転がり、土だらけとなった顔を見合わせ、そして――笑い合った。
「だいぶ元気になったね!」
「アワンのお薬のおかげだよ。神様みたいだ!」
アワンの天術のことを言っているのだろう。術で誰かの命を助けたのはアワンにとっても初めてのことだったので、その言葉は本当に嬉しかった。
勇者に一歩近づけたみたいで。
「今日はね、発見があるの。でもその前に、ズボン穿いてって言ったでしょ?」
「これ動きにくいよ……きゅうくつなんだ」
「駄目、穿く」
アワンは逃げる彼を押さえつけ、無理やりズボンを穿かせる。
これが無いと、彼は素っ裸なのだ。毛で色々隠されてるとはいえ、流石に乙女としては看過できなかった。
「うぅ~」
嫌そうだが、アワンが穿かせれば大人しく受け入れた。
ここ三日ほど彼の人となりを見てきたが、素直ないい子だ。
この時点で、アワンの中に彼への苦手意識や拒否感というものは全くと言っていいほど残っていなかった。もちろん、食べられるという恐れも無い。
「これ見て、図鑑で調べてみたの。あなたはたぶんコレじゃないかな?」
「難しくて分かんないよ」
図鑑のイラストを指し示す。が、彼の反応は芳しくなかった。
おそらくは、字が読めないのだろう。これは特に珍しくもないことだ。レイラも最初は満足に字が読めなかった。
「えっとね、精霊の犬妖精だって。聞いたことある?」
「くーしー?」
「うん、誰か言ってなかった?」
「分かんない……」
精霊とは、高次元存在とも、下級の神とも言われる種族のことだ。
山や川などの自然の中に生息し、人間の街には滅多と降りてこない――神聖な生き物。
アワンも当然、実際に見たのは初めてのことだったが、特徴の一致加減からして、彼が犬妖精である可能性は非常に高かった。
「どこからやって来たか分かる? おうちはどこ?」
「おうちはお山だよ。逃げてきたの」
「…………逃げて?」
一体何から。
敵対種族にでも襲われたのか。
「ボクは危険だからって、村長が言うんだ……ボク怖くて、パパとママに助けてって言ったんだけど、怖い顔して言うんだ。出て行けってみんな言うんだ」
「っ!」
唐突な語りに、アワンは口を閉ざす。
その信じられないような内容に、言葉が出せなかった。
「パパとママ、きっと悪い奴に操られたんだ。悪い霊が体を乗っ取って、ボクに酷いこと言わせたんだ」
「…………」
「でもボク、パパとママを助けてあげられなかったんだ。怖くて、逃げちゃったの。みんなが悪い霊に乗っ取られて、ボク一人になっちゃったから……みんなしてボクはいらない子って言うんだ……」
ポロポロと涙が溢れ、それを必死に両手で拭う。
拭っても拭っても、追いつかない。
それは見ていられない程の、悲しみに溢れていた。
「ボクが弱虫だから……ボクに勇気がなかったから……」
アワンは、泣いている存在を、抱きしめる。力強く。
抱きしめずには、いられなかった。
「うっ……ううっ……ボク、ボク……」
「大丈夫。大丈夫だよ……」
彼の言葉をそのまま受け取るほど、アワンは察しが悪いわけではなかった。
彼は何らかの事情で群れを追い出され、そして――父と母にも見限られたのだ。
幼い存在がそんな目に遭って、耐えられるだろうか。アワンなら、絶対に耐えられない。心が壊れてしまう。
彼は心を保つために、悪霊に縋るしかなかったのだ。
「おそとが怖いんだ……ボクも悪い霊に憑りつかれちゃうんだ……」
「大丈夫……私がいるから」
「パパとママが夢に出るんだ……逃げたボクを許さないって言うんだ……」
「大丈夫……私が許すから」
これが、間違いであるはずがない。
間違いだとは、言わせない。
アワンはこの時、本当の意味で彼を救うことに決めた。
彼をこの狭く暗い洞窟の中から――きっと救い出してみせると。
だから――
「友達になろうよ」
「とも……だち……?」
人ではない。彼は、人の敵。
分かっていた。これは正しいことではないと。
それでも、アワンは――
「うん。あなた友達いる?」
「ううん、ボクいないよ。アワンが初めてだ」
友達を傷つける奴は、絶対に許さない。
それが目に見えない悪霊であろうと、きっと助け出す。
彼が悪霊に憑りつかれたのなら、きっとアワンが祓ってみせる。
「私たちは、今日から友達」
こうして二人は、友達になった。
***
「――怖い?」
「こわいよ……こわい」
あれから早くも、四日という時間が経過していた。
友達の宣言から日に日に仲良くなっていった二人は、今ではその呼称が後れを取るほどにまで心を通わせる。
まるで運命で決められていたかのように、全てが噛み合うのだ。繋がった精神の結びつきが、ほどける気がしない。
この先一生を共にすると今から確信できるほどに、それほどまでに――既にアワンにとって、彼は欠かせない存在となっていた。
そんなアワン達は今――一歩を踏み出そうとしていた。
並んで手を繋ぎ、洞窟入り口に立つ。
「大丈夫だよ。悪霊なんか、私が追い払ってあげるから。見てて」
アワンは繋いでいた手を離し、洞窟外に両手を構える。
そして、スキルを発動した。
「<悪霊退散>!!」
「わあっ!」
空中にキラキラとしたエフェクトがかかり、それを見あげる者の目も照らされるように輝く。
<悪霊退散>は悪の属性を持つ種族に絶大なダメージを通すスキルだが、対象がいなければ当然不発に終わる。
しかし悪のあのじも見つからない空へと向けた攻撃は、パフォーマンスとしては最適だった。きっとアワンの目には見えない悪霊が、遠くの空へ飛んで行ったことだろう。
「これで、きっとあなたを救ってあげる! 悪霊なんか、私が追い払っちゃうんだから!」
「すごい! すごいや!」
子犬のように、飛び跳ねて喜ぶ。
アワンが救ってくれると、信じて疑っていない瞳だ。アワンは騙していることに若干心を痛ませながらも、覚悟は嘘でないと気を取り直す。
こんな狭い場所に閉じ込められていたら、精神的に追い詰められるのも無理はない。彼の悪夢を取り除くには、まずは環境から変えなければだめだ。
その一歩が、今日なのだ。アワンは、彼と外で追いかけっこをするために、二人で外を目指す。
「頑張って! 勇気だよ!」
「……うん!」
アワンは再び、その小さな手を取る。
恐怖に震える――その手を。
彼も、アワンの手を握った。
手をつなぐと、不思議と勇気が湧き上がる。
それはアワンにとっても、例外ではなかった。
「「せーの!」」
アワンは自分と彼を信じて、一歩踏み出す。
彼はアワンよりも前に、足を踏み出した。
「ね、大丈夫でしょ?」
たったの一歩。だが、確かな一歩だ。
アワンは彼の勇気を、心から誇らしく思った。
しかし、隣に立つ存在は、洞窟から出てもなお――震える。
彼の恐怖は、まだそこにある。彼はまだ、暗い洞窟から出られてはいないのだ。
「でも、今だけなんだ。アワンがいなくなったら、またパパとママがやってくるんだ……」
彼を蝕む――悪夢。夢にまで出てきて彼を追い詰める家族を、彼は悪霊だと信じて疑わない。
その気持ちは、よく分かった。アダ、エバ、レイラに、ある日突然裏切られたら、アワンだってきっと信じられない。信じたくない。
悪い存在に操られているのだと、思いたくなってしまう。
だから、彼を救うには――
「おいで。こっちだよ」
彼の手を引き、アワンは導く。
そして、丘の上の花畑へと辿り着いた。
「悪い霊なんていないよ。ここには、怖いものはもうこないから」
「ほんと?」
「うん。ここは聖域なんだよ?」
花を潰さないよう、地肌が見えている場所に二人で腰掛ける。
手を繋ぎ、二人で恐怖を分かち合い、そして――二人で立ち向かった。
「せいいき?」
「うん、ここは私とあなただけの場所。二人だけの世界。私がそう決めたの。だから、誰もここには来れないんだよ?」
「ほんとう!? 凄いや! やっぱりアワンは神様だ!」
「うん!」
嘘でも良かった。
彼を、苦しみから救い出せるのなら。
神の名を騙ることも、偽りの神に成り上がることも――
大切な友達を救うためなら、アワンは間違いでよかった。
「あなたの名前、ずっと考えてたんだ」
「え? お名前くれるの?」
「うん」
出会った時から、ずっと考えていたことだ。
大事な事だけに、すぐには思いつかなかった。
だけど、今決まった。これしかないという名前が。彼にピッタリの名前が。
「私があなたに、名前をつけてあげる」
「ほんと!? やった! やったぁ!」
飛び跳ね、飛び上がり、抱き着いてくる。
アワンはその体をしっかりと受け止め、そして、抱き返した。
そんな二人を――聖域は祝福する。
「あなたの名前は、”ユウキ”。とても勇気のある子だから」
「ユウキ! 凄いや! ボクの名前だ!」
初めての友達。初めての名前。そして――初めての温もり。
全てを与えてくれた存在。
ユウキにとってアワンは、まさに救いの神だった。
***
アワンとユウキの出会いから、約半年ほどの月日が経過する。
この間――驚くべきことに、ユウキの存在が誰かに知られることはなかった。
アワンがそれだけ慎重に立ち回っていたこともあるが、一番はユウキが丘の範囲からは絶対に出なかったことが大きい。
彼は聖域の番人かのように、またその場所こそが自分の居場所だというように――そこに居座り続けた。
そして週に一度ほどのペースでやってくる友達を、出迎える。
彼にとっては神にも等しい――そんな少女を。
「――天術? 魔術?」
「そう! 特別な力のことだよ! 私が使ってるのは天術なの!」
今日は追いかけっこではなく、勉強だ。
というのも先日、アワンが家からこっそり盗み出してきたアイテムで、ユウキの属性判別をしたことが起因している。
そしてその結果は――
「ユウキも天術だよ! 私と一緒!」
「ほうとう!? アワンと一緒だ! やったぁ!」
「うん、やったね!」
同じ天術なら、一緒に勉強を進めることができる。
アワンはこれまで秩序術しか選択してこなかったから、自分で能力を創造する混沌術にずっと憧れていたのだ。
そのあたりの説明をすると、ユウキはこれ以上に無いほどに目を輝かせた。
「どんなことができるか、自分で決められるってこと!? 凄いや! 凄いや!」
「うん、うん! 凄いよね!」
アワンも一緒になって飛び跳ねた。
これはユウキに合わせているのではなく、ありのままの姿だ。アワンも何度聞いても、興奮に身が震える。本当にワクワクすることだ。
「もっと教えて! ボクもっとたくさん知りたいよ!」
「うん、教えてあげるね」
アワンは、ユウキに何かを教えてあげるのが好きだった。
ユウキは物をあまり知らない。それこそ文字の読み書きや言葉、当たり前の常識さえも。だがユウキは、それら知識を知りたいと乞い、そして驚くべき速度で学習していく。
だからこそ、アワンも教えがいがあった。
素直で、真っすぐで、意欲のある生徒。アワンはこの時間が、大好きだった。
「――こんな感じ。ユウキはどんなことができるようになりたい? 頑張ったら、神様が願いごとを叶えてくれるんだよ!」
アワンは天術を、そのように理解していた。
頑張れば頑張る分だけ、神様が褒めてくれる。その人間の努力を神が評価し、それに釣り合うだけの力を授けてくれるのだと。
だからこそ、ユウキの顔色は暗くなった。天術の法則を正しく理解したからこそ、彼の中に浮かび上がった懸念だ。
「でも……ボクなんかのお願いを、神様が聞いてくれるのかなぁ?」
しょんぼりと耳を伏せるユウキを、アワンはいつものように撫でつける。
自己評価が低いのが、ユウキの悪いところだと。
「きっと聞いてくれるよ! ユウキはこんなにいい子なんだから!」
「でもね、神様はボクを助けてくれなかったんだ。だから、アワンがボクの神様なのかなって」
「…………」
「ボクを助けてくれたから、アワンがボクの神様なんだ」
これには、アワンも答えに詰まった。
確かに神がこの世にいるというのなら、なぜユウキはこんな目にあっているというのか。
悪いことなど一切していないユウキが、酷い目にあっている理不尽。神がこれを許すと言うのか。ユウキが神の存在を疑うのも無理からぬことだ。
だからアワンは、自分の信じていることを、健気に伝えることしかできなかった。
「けど……神様が、私たちを出会わせてくれたんだよ?」
「ふわぁ!」
暗く沈んでいたユウキの表情が、途端に輝きを放つ。
神の存在を確信した――そんな顔だった。
「そっか! アワン凄いや! ボクそんなこと考えたことなかったよ! やっぱりアワンは凄いや!」
「えへへへ……」
再び、飛び跳ねて喜びを表現するユウキの姿に、アワンも嬉しくなった。
ユウキが酷い目に合わなければ、こうしてアワンは彼と出会うことができなかった。
そう考えれば、全てが運命のような気さえしてくる。口が裂けてもユウキを虐げたものたちを肯定するつもりはない。だが、アワンは密かに感謝していた。
ユウキと、こうして出会わせてくれて。
ユウキと出会えたことに、アワンは感謝していた。
「私はね、勇者になるのが夢なの」
「ゆうしゃ?」
アワンが自身の夢を彼に語るのは、これが初めてのことだった。
本来勇者の敵であるはずのユウキにこれを伝えるのは、なんとなく憚られたのだ。しかし、今は違う。
アワンはユウキを完全に例外として考えていた。人の敵ではない、むしろ人の味方である存在だと。
間違っても、アワンは彼を傷つけたくはなかった。
「そう。勇気を持って、戦う人のことだよ。それでね、世界を救うの!」
「勇気……」
アワンの夢の宣言に、なぜかユウキは顔を伏せる。まるで恥じ入るように。
だがやがて、震える口元から、勇気を絞り出した。
「ボクも……なれるかなぁ?」
「え?」
震える声に導かれれば、ユウキは泣いていた。
アワンの方を見て、ポロポロと涙をこぼしている。それは、震えるほどの恐怖に立ち向かう――勇気ある者の、姿だった。
「ボクも、勇者になれるかなぁ?」
「っ!!」
しゃくり声をあげ、言葉をとぎらせながらも――ユウキはずっと胸の中に抱えていた感情を、ここに吐き出す。
それは――ユウキの夢だった。
「パパとママを……助けに行きたいんだ。みんな、悪霊に憑りつかれたままだから。ボクが逃げ出したから! きっとまだ苦しんでるんだ!」
ユウキは、悪霊の存在を信じて疑わない。
自分が苦しめられたのではなく、自分が苦しめているのだと。
どれだけ優しい心を持っていたら、こんな考え方ができるのか。
彼は聖域の中で、一人後悔と戦っていたのだ。半年間――ずっと。
「頑張って天術を覚えたら、アワンみたいにアクリョウタイサンできるかな? ボクも逃げない勇気を持ったら、神様もみんなを助けてくれるかな?」
「ふっ……! うっ……!」
気付けば、アワンも一緒に涙を流していた。
ユウキの痛みは、アワンの痛み。
ユウキの苦しみも、悲しみも、喜びも――全部全部、アワンのものだから。
「ボクも勇者になったら、誰かを救えるのかな?」
「なれるよ! なれる! あなたは誰よりも、勇気があるんだから!!」
アワンは、勇気を振り絞り、恐怖に立ち向かう存在を――抱きしめる。
そして、信じて疑わなかった。
彼はきっと、勇者になると。
「アワンの夢は、ボクの夢だよ。ボクもきっと、勇者になるから。約束」
「うん、約束。一緒に勇者になろう」
アダの夢は、アワンの夢に。
アワンの夢は、ユウキの夢に。
勇者。それは――みんなの夢だったのだ。




