第040話 神託聖域(3)
――神託聖域。
儀式型の天術。
神の神託を預かる女司祭の権限は時に王を超え、世界全体を見渡しても、一時、随一の影響力を誇る。この儀式に関しても例外ではなく、この橋上支柱間区画一辺では、司祭の権限はかの勇者をも超えるのだ。
神より賜いし神託は、以下の3つ。
一 汝、自身を知れ
二 過剰の無
三 誓約と破滅は紙一重
一つ、理性という仮面を外し、時には真実の顔を見せなさい。本当の自分を知れば、相手のこともより知れるから。
二つ、想い人を作りなさい。何もないということが、人には一番耐え難いことだから。
三つ、約束は守りなさい。神の教えを違えれば、必ず破滅が待っているから。
儀式中、女司祭は指定範囲内から動くことが許されず、その恩恵として、子羊たちの声を聞くことが出来る。
そして聖域のルールを破る不届き者が現れたその瞬間――この儀式は完成する。
三つの神託、その全てを聞き入れない迷える子羊は、やがて神の器として献上される。つまりは、自意識の完全なる消失。
人への最大の救いは、神の器へと成りあがること。それが、この神託聖域の真骨頂だった。
「――つっ、まっ、りっ! ボクは君たちを救ってあげてるとこなんだよね!」
女司祭の講釈が終わった時、その話に耳を傾けていた二人の様子は、先ほどまでとは打って変わっていた。
金髪の少女ルルワは、視線だけで殺せるほどに神の代弁者を睨みつけ――
そしてもう一人の赤髪の少女は――
「アワン!! 立ちなさい!!」
「…………」
膝を折り曲げ、地に座り込んでいた。
それは、戦意――いや意欲というものが根元から折れてしまったかのように、どこまでも力なくへたり込む。
自失した表情は、希望の一切を無くしいるようだった。
「酷い女だなぁ。彼女は今心を休めているんだ。傷つけられ、打ちのめされた女にまだ立てなんて、鬼にもほどがあるよ。だから腹筋も割れるんだ」
「ちっ! 救ってやるとか言い出す奴に、碌な奴はいないわね」
「含蓄があるね。君も昔言ってたのかな? それとも今もかな?」
「私なわけないでしょ。うすら寒い!」
ルルワの感情的反発に、蛇女はさらに笑みを深くする。
獲物を眺めて舌なめずりするような、生理的嫌悪感を覚える笑みだった。
「そうだよねぇ……救われてばかりの勇者さん」
「っ!」
瞬間、ルルワはやはり来たと身構える。
相手には読心術がある。それを利用し、相手の精神的弱点をつくのは定石だ。
精神抵抗力が落ちれば、精神操作能力の通りが良くなるのは自明の理。おそらくはそれが狙い。
ならば喋らせないようにすればいいだけだが、肝心の三つ目の能力、その誓約を破るという行為の具体的な詳細がまだ聞き出せていない。
それに――
「君って特に誰も救ってないよね? 人を救わなくても勇者って名乗れるもんなの?」
「自称勇者って言ったでしょ? 聞こえてなかった?」
「開き直りか~可愛げのない女だぁ……。でもやっぱ、支えがある人間は強いね。それとも、一度乗り越えているからかな?」
「…………」
『世界よりも男を選んだ最低の女』
それはルルワの弱みを、的確に撃ち抜いた言葉だった。
究極の二択――世界の全人間と、愛する男。天秤に乗せた時、どちらに想いは傾くのか。
現状、ルルワはどちらも手にしている状態だ。欲しいものを全て手にしようとするズルい女。先日ミサにも指摘されたこと。
真面目な彼女は、常人であれば軽く流すようなその問いにも、正面から向き合っていた。
そして一時とはいえ、森の中で選んだのは愛する男だ。あの時のルルワは、もはや世界などどうでもいいと言わんばかりにムメイのことしか見えていなかった。それは否定できない。
ならば今は? 森の外へと出た今、究極的にはルルワはどちらを選ぶのか。
その答えは――やはり分からない。
ムメイに言えば、そんなの選ぶ必要ないと一笑に付すような問いだろう。
しかしルルワはずる賢い選択のせめてもの償いとして、逃げる事だけは許さなかった。そして現時点でルルワが導き出した結論が、どちらも手に取れるだけの資格を得ること。つまりムメイに頼りきりではなく、彼と並べるほどの女となり、強欲のつけを清算することだった。
どちらも欲しいのなら、どちらかを選ぶ状況に陥らないくらいに、強くなればいい。目を見張るようなパワープレイではあるが、この目標と確かな信念で彼女はこの試練を乗り越えた。
つまりこの程度の言葉では、今のルルワを揺さぶることはできない。
ムメイとの出会いを経て、彼女という人間は精神的にも一段高みへと昇っていた。
「でもさ、乗り越えた気になってるだけかもね。そう思った方が楽だから。実際この戦場でも足を引っ張ってばかり……というか思い返してみたら、ほんと凄かったね。男狂いのヤンデレ勇者様っ」
「っ!?」
『浮気だわ!! 私が殺したい女を、あなたは守った!! 私よりその女の方が大事っていう、何よりの証拠じゃない!!』
脳裏に蘇る――醜態。
高潔を是とするルルワにとっては、もしかしたら最も嫌なことかもしれない。ルルワの理想とする女とは程遠い姿だ。今でも自分の言葉とは中々信じられない。
そして、そこから導き出された行動も。最愛の男を、傷つけようとしたことも。
『しっかりしてくれよ。勇者なんだろ?』
だがその後悔も、後ろめたさも、罪悪感も、自責の念も――それら全ての負の感情を、ムメイの言葉が晴らした。
ルルワが失態を重ね、さらに未遂とはいえ、愛する男を殺そうとした最大の醜態の直後でもまだ戦えているのは――
やはり、愛する男の存在が全てだった。
この状況で己の失態に押しつぶされ、立ち上がれない女こそが、本当の恥。その時こそ、彼という男がルルワを見限る瞬間だろう。
それを、短い言葉で伝えられた。どれだけ彼が、ルルワとアワンに期待しているかという事実を。
正直、似合っていないと言うレベルの厳しい言葉だったが、あそこで優しく寄り添われても、ルルワと、そしてアワンの心には何も響くことはなかっただろう。
どっちつかずの対応も、取ってつけたような優しさでもない、あの場面では、厳しさこそが必要だったのだ。
彼は300年檻の中に閉じ込められていたと思えないほどに、人間理解が深い。そして、やはりどこまでも優しい。
その人に今一番必要な言葉を、いつも選ぶ。
人を救う存在。ルルワにとっては、彼こそが勇者だった。
だから――ルルワは戦える。
「その手には乗らないわよ。あなたの能力の影響だということは最初から分かっていた。自分でもそう言ってたじゃない」
だが、前を向こうとする人間に立ちはだかるのは――いつも、悪意だ。
それは善にこそことさら効果を示し、彼女たちのように立ち向かう者にほど、鋭い牙をむく。
「ん~んっんっんっ~」
待ってましたとでも言わんばかりの高らかな鼻歌。
子供のような無邪気さが、ルルワにとっては耳障りな不協和音だった。
「自分に都合の良いように曲解しないで欲しいな~。神の言葉はちゃーんと聞くものだよ」
「…………」
良い言葉はやってこない。それが分かっていても、ルルワは動けなかった。
わざとらしくアワンへと向けられた蛇の視線。ルルワが距離を詰めようとすれば、敵は即座にアワンを攻撃することだろう。
「君たちは怒りという感情の抑制を外す精神攻撃だと、どこまでも自分たちに都合よく解釈してるみたいだけど……厳密には違う」
この時点で、アワンが人質として有効なことをルルワは証明してしまっている。だからこそ、動けない。
ルルワにはまだ強力な援軍がいるということも、選択に拍車をかける。
「ボクが取り除いたのは――理性。人は理性があるからこそ感情をコントロールでき、さらに自身の考えさえもねじ曲げることができる。その力は、時に自分の本心すら覆い隠すほどに、強力無比なものだ」
それは――最悪の予感だった。
特に、アワンにとって。
「つまり君たちがこの世に残した数々の言葉は、望まぬ怒りから生み出されたマヤカシなんかではなく――」
この悪は、どこまでも邪悪だと――
「君たちの、本心なのさ」
ルルワは、確信した。
***
「――アワン!! 信じないで!! 敵の思うつぼよ!!」
「あ~やっぱり人間は逃げるよね。嘘だってことにした方が楽だから。それとも自分に言い聞かせているのかな? 本音だと思われたくないもんねぇ!」
「くそ女!!」
戦闘の音が聞こえる。
しかし、遠い。すぐ近くで行われているはずのルルワと敵の攻防が、アワンには酷く遠いものに感じられた。
だが、声が聞こえる。
大きく、確かな声が。その声だけは、はっきりと。
『私は騙されてない!! ムメイが騙されたんだわ!! 私達の仲を引き裂こうとする邪魔者!! あんたさえいなければ!!』
『やっぱりその子は邪魔だったわよね!! 必要とされてないことにも気が付かない、空気の読めない女!! 無能なくせに偉そうにしゃしゃり出て!! 二人っきりの時間を壊した邪魔者!!』
『君たちの、本心なのさ』
ルルワが必死にまやかしだ、敵の策略だと訴えかけるそれらの言葉は――アワンには、酷く腑に落ちるものだった。
なぜならそれは、彼女自身がずっと思っていたことだから。
誰が今のアワンを見て、必要な存在だと思うのか。
誰だって思うはずだ。邪魔だと。
口先だけは達者で、自分では何もすることができない。
感情任せに怒りをぶつけ、人の心を傷つける。かといって自分から向き合う訳でもなく、現状他人の優しさに甘えてばかりの子供。
ルルワとムメイの関係に割り込んだ不純物。二人だけの旅路なら、きっとこんなことにはならなかっただろう。
もっと笑っていられたはずだ。もっと楽しい時間になっていたはずだ。
いや、それはもっと前から――
アワンはずっと――
「さっきまで彼女が何考えてたか教えてあげようか!! 大爆笑だよ!? 12使徒と互角に戦えてるぅ!! 私も戦えるんだぁ!! 私も勇者になれる!! これで私も勇者だって認められるぞぉ!! はははっ! 戦闘中にそんなこと考えてやんの! 特に何もしてねえのに!」
「黙れ!」
「聞きたくない言葉は間違いだ、嘘だと言って逃げる! 聞かせたくない言葉は暴力によって口を塞ぐ! やっぱり人間は逃げるよね! 心が弱いから!」
ルルワの猛攻を、蛇女は躱し続ける。
逃げの一手、回避の一手に準じているからこそ、ルルワの抵抗は悲しくも届かない。
その一端に、アワンも関わっていることは分かっていた。
彼女はいつでもアワンのことを庇えるように、距離を測り、攻めきれずにいる。
だから――
「ほおら! 馬車アタック!!」
「くっ!」
尻尾で蹴り飛ばされた馬車。向かって来る暴力に対し、アワンは何もできなかった。
だから、先は容易く防げた攻撃を代わりに防いでくれたのは、別の人間。
勇者は大型のボールをその豪脚で蹴り飛ばし、粉砕する。そしてアワンの前に立ち、その身で全てを庇った。
「うへぇ……わざっとらしい! これ見よがしな守ってあげるアピールだぁ! 身を挺して庇えば、今までの暴言がチャラになるとでも思ってるのかなぁ?」
「…………」
「薄っぺらい友情ごっこ見せられるこっちの身にもなってよ。うすら寒いよほんと。お互い心の中では邪魔だと思ってるくせにさ。こっから友達になれるとほんとに思うの? 殴り合いの喧嘩までしといて? 関わらない方がお互いのためって奴じゃない?」
アワンは、鮮やかな金髪が揺れる背を見上げる。
なぜ守るのか。こんな女を。
『あなたたちの行動の一つ一つが、勇者の名を汚している! 見ていて不愉快なのよ!!』
許されないことを言った。人にだけ厳しく、自分には甘い。そんな女だ。
これまでのアワンの全ての言葉は、漏れなくアワンへと返って来るもの。
勇者の名を貶めている少女への、懺悔だった。
「身の程を知らないってのは悲しいもんだよねぇ……だから苦しいのさ。ボクは真実を教えてあげてるだけ。だって客観的に見て彼女っている? 何か役に立った? 本当に、心から必要だと思ってる?」
「アワン、聞かないで」
アワンだって、聞きたくはなかった。それに、聞くことが敵の思うつぼだと言うことも分かっていた。
しかしそれらの言葉は残酷な程に――
ことごとく、アワンの心に届く。
「おまけに誰にも愛されていない。なぜ君たちの中で彼女だけが空に浮かび上がったのか教えてあげようか? 想いが詰まっていないから。だから重みがないんだ」
「聞かないで」
真実だ。
アワンは、誰にも愛されていない。むしろ、誰からも嫌われてきた。
嫌われる、確かな理由がある。
「君たちは人に愛されている。想いに満たされている。そんな恵まれた人間の言葉が届くかな? 君たちは上から目線で気持ちよくなってるだけなんだよ。可哀そうな子を憐れんで、自分はそうじゃないって思いたいんだ」
「ボクなら分かってあげられるよアワン。何も無さ過ぎて、直視したくもないような無が、これ以上ない圧迫感や重さになってるんだよね。自分に何もないことが、本当に耐えられないんだよね」
「負けないで」
真実だ。
アワンには、何もない。だから必死に足掻いていたのだ。そうじゃないと証明したくて。
勇者の血を引くのに、何もなかった。才能も、人望も、人を救う力さえも。
「だから勇者になりたかった! 自分も何者かになりたくて! でも、たった一つの約束のための人生が、本当に君の幸せなのか? 君の居場所なんて、この世のどこにもないのでは!? 本当はもう分かってるんだろう!?」
「諦めないで」
真実だ。
アワンは心のどこかで、それを悟っていた。どこかに自分の居場所があるのではと、ずっと信じていた。
だけど――そんなものは、どこにもなかった。今だって――
「『汝、自身を知れ』、『過剰の無』、『誓約と破滅は紙一重』。ここは神託聖域!! 神のお告げこそが、人の救いだ!!」
アワンが顔を上げた時――
彼女に見えたのは、自分を庇う勇者の背中ではなく――
天に両手を掲げる、神の代弁者だった。
それは、アワンの言葉の代弁でもあった。
全てが、アワンに向けられた言葉だったのだ。
「ここは君とボクだけの世界!! ボクだけが、君を救える!!」
瞬間、アワンが思い出したのは――過去の残影。
彼女の全てが始まった、悪夢だった。
こちらへと手を伸ばす女の姿に、悪霊の影が重なる。そうだ、彼は――
「さあ戻って来るんだアワン!! ボクの元へ!! 君の居場所はここにある!!」
「しっかりしなさい。勇者でしょ?」
全ては――彼から始まったのだ。
『私があなたに、名前をつけてあげる』
『ボクも、勇者になれるかなぁ?』
『パパもママもおかしいよ!! だって、勇者は誰かを助ける者なんでしょ!? 弱い人を助けるのが勇者だって!! そう言ってたのに!!』
『見て!! 悪い霊をやっつけてるんだ!! ボクが助けてるんだ!!』
『僕じゃない。きっとアワンが……この世界を救う、勇者だ』
『私はいずれ、7人の魔王を撃ち滅ぼす者!! この世界を救う勇者です!!』
『どんな気持ちで父親に罪を被せてたの? 何で平気な顔してられたの? 私なら生きていけない』
『何万という人間を殺し尽くした、大量殺人鬼だ』
聖域は、人の弱さを曝け出す。
神の言葉は、良くも悪くも、弱っている人間にこそ届くから。
ここは、アワンだけの世界。
だから――
「だーれだ?」
場違いな程に能天気な声が、聖域を汚す。
それは神への冒涜のように――涙を流し続ける少女の視界を、塞いだ。
「…………遅いわよ」
だが、そのある種この場に不釣り合いな存在の登場により、アワンの意識は、ようやく現実へと戻る。
肉体を襲った異変によって、感情と記憶渦巻く不確かな領域から、抜け出すことができたのだ。
闇が、闇を晴らした。
「そんな。これでも朝ごはん抜いてきたんだよ?」
「いつも通りじゃない。あとそれ、セクハラだから。彼女、泣くほど嫌がってるわよ?」
「え!?」
両手が離れ、視界が開く。
一瞬の闇に襲われたせいか――涙で滲む景色は、さきほどよりも少しだけ、明るく見えたような気がした。
そんなアワンの目に、ルルワと、ムメイの姿が映る。
今確かに、二人が映った。
「ほんとだ。ルルワ……話をしてみるとは言ってたけど、これはいくらなんでも一方的すぎるよ。もうちょっと手加減できなかったの?」
「私なわけないでしょ。あと今結構シリアスだから、その冗談やめて。イライラするから」
「ごめんなさい」
ムメイだ。人にそっくりな吸血鬼。
なぜ、彼がもうここにいるのか。
別れてからまだ――5分も経っていないというのに。
「俺のルルワをイライラさせやがって! あいつ許せねえよ!」
「初めてね、責任転嫁をたらい回す人。でも確かに……許さなくていいわ」
一人加わっただけで、不思議と心が軽くなった様な気がした。
いや、まるで空間そのものが、軽くなったかのように。
「あいつ、私の友達を泣かせたから。殺してくれる?」
「ああ……なら――」
男女の視線が一瞬交わり、そしてすぐに離れる。
その短い時間で感情のやり取りを終えたとばかりに、吸血鬼の表情は一変した。
「確実に、殺さないとね」




