第036話 過剰の無
――<一触即動>
過去一度でも自身の手で触れたものに限り、自由自在に操作することが可能な念動力。
アワンにはこの旅路の間に、既に接触を完了している。
具体的には、御者の交代を告げる際、さりげなく彼女の肩に手を置いた。セクハラ男の汚名と、そんなセクハラ男を睨み上げる侮蔑の視線と引き換えに満たした発動条件。だがやはり、憂いを取り除くための備えは――無駄ではなかった。
それが証拠に、空中で手足をばたつかせることしかできなかったアワンの身体は、俺が翳した手に吸い寄せられるように降りてくる。
異変から僅か7秒――突然空中に浮きあがったアワンは、今再び地上へと帰った。
俺は少女を抱え込むように捕まえると、即座に周囲の状況を確認する。
人外の聴覚でまず捉えたのは――喧騒、怒号、悲鳴、戦慄き。
前者二つが地上から、後者二つが空中から。地上といっても橋の上だが、空中も橋の上なので地上と呼ぶほかない。
視覚で現状を把握すれば、地上では至る所で諍いのようなものが発生している。今のところ暴動とまではいかないが、それも時間の問題だろう。いや、もう始まっているか。硝煙が上がっている箇所がある。つまりは、ボヤ騒ぎ程度の事態は既に起きているということ。
だが問題は地上よりも――
「ちょっと! 気安く触らないでください!! 誰の体に触れているか分かってるの――むぐっ!?」
腕の中で暴れ出すアワンの口を、即座に塞ぐ。
乱暴な行為だが、明らかに彼女の、いや彼女たちの今の状態は普通ではない。
この目に見えた――視覚的異変を受けてようやく分かった。攻撃されていると。だからこそ、今は相手をするだけ無駄だ。
(迂闊だった。もう少し早く気づけた)
ルルワのことは俺が良く知っているのだ。彼女の普段との様子の違いから、姿を見せない敵の存在にもっと早く辿り着くこともできたはず。
その微かな異変を、要塞での喧嘩と昨夜の衝突の事実に誤魔化すように納得させてしまった。せめてもの負け惜しみがあるとすれば、タイミングが悪かったという他ない。
(いや、後だな……)
月並みだが、やはり反省するのは後だ。今は現状を何とかすることに頭を使うべき。
アワンに関しては嬉しい誤算だが、俺の腕力だけで簡単に封じ込められた。
変わらず抵抗は続けられているが、まるで蜘蛛の巣にかかった蝶だ。少なくとも暴力で抜けられることはないだろう。
そうして片手間でアワンを押さえつけながら、空中を見上げる。
空に浮かび上がる人間たち。ゆっくりとではあるが、確実に高度があがって行っている。
目視できる限り200人に届くかといった大量の人間が、この世から重力が消えたかのように空へ浮かび続ける。
もはや混沌だ。明らかに、普通ではない。これで何が起こっているんだろう――とボーっと空を見上げる奴がいたとすれば、それは異常者だ。
(攻撃が来ない……正確な位置までは特定されていないのか?)
戦況を混乱させるためか、それとも自分の有利な戦場を作り出す為か。いずれにせよ、狙っている対象の位置が割れているのならアクションを起こさないはずがない。おそらくは、俺たちを炙り出すためにこの状況は作り出されたものと考えられる。
ならば――
「<反教底位>」
現状と戦地の正確な把握は、有利へと繋がる。そして敵の位置の把握は、その有利を圧倒的なものとする。相手がまだこちらの位置を掴めていないというのであれば、なおさらの事。
――<反教底位>
肉体から不可視かつ不定形、人間の聴覚では聞き取れない音域の超音波を発生させ、飛ばす。
音波が反響する範囲に存在する全ての位置、形、数、姿勢――その全てを洗い出す力。
空間を瞬時に把握する力において、この能力の右に出るものはない。
(…………コイツか)
一瞬で脳内に入ってきた大量の情報。俺は瞬時に取捨選択し、解読する。
この能力の練度は、もはや条件反射、脊髄反射の領域。俺の数ある能力の中でも、最も技術の極致に到達しているといっていい。
そんな己の手足、まさに目と耳ともいっていい能力の発動によって、アワンを取り戻してから僅か12秒――敵の捕捉に成功する。
(一人……待ち伏せか?)
俺たちから60m以上離れた位置に佇む、形からして女と思われる人影。
他の者達が忙しなく動き続けているこの橋上の中にあって、一人だけ直立不動。声も上げていなければ、もちろん空中に浮かんでもいない。
こんな状況の中、ただそこに立っているだけという行動は、非常に怪しい。だが確定させるには早いというのも確かだった。
だから<反教底位>の発動を打ち切ることはできない。この混乱の中、群衆に紛れているという可能性だってあるのだから。
だが俺が戦場の把握をほぼ完ぺきに終えた頃、それを見計らったように、攻撃は飛んでくる。
「っ!?」
「<銀の弾丸>!!」
それは――まさかの背後。
それも超至近距離から放たれた必殺の一撃に、俺は慌てて身を翻した。
アワンを抱えたまま地面を滑るように距離を取れば、攻撃を躱した吸血鬼を冷ややかに見下ろす女の姿があった。
御者台に足を乗り上げ、敵意を隠さないような表情。身を伏せる俺と向かい合うのは、本来俺の敵であるはずのない存在。
「ルルワ!」
俺の最愛の女性が、愛しい男を殺すために、背後から攻撃を放ったのだ。
「なんで私じゃない女に触れてるのよ!? ベタベタと体もくっつけて!! 大切な恋人の前で、どうしてそんなことができるの!?」
(…………だめだな)
ここに確定する。確実に正気ではないと。
発言の内容もそうだが、何より最も大きいのが俺への攻撃だ。浮気に対し背中に風穴ではあまりに罪と罰が釣り合わないという前提はさておき、彼女はそんな女ではないはず。中には浮気イコール死、気づいたら背中に包丁が生えていたとかそういう話も聞いたことがあるが、彼女はそんな女とは違うはずだ。
(そう……だよな? え? 違うよね?)
先端に鋭い光を宿すレイピアをチラつかせながら、憤怒の表情で見下ろして来る恋人の姿に――大きく揺らぐ心、焦りが加速する精神。
精神作用完全無効の俺だったが、能力の影響下にあるのだと信じたい。あと彼女はそういう女ではないと本当に信じたい。幾本もの包丁を心の中に隠し持っていないと信じたい。
などという半分(?)冗談はさておき、彼女が絶対にしないようなことをしていることで、ここにようやく、100%の確信に至る。二人――ルルワとアワンは、敵の能力の影響下にあるのだと。
(アベルのような精神系か……? 俺にはそういうの効かないからな……)
ルルワから聞いたところ、吸血鬼は精神への作用は軒並み無効化できるらしい。
そしてアワンだけではなくルルワもこの有様なことから、敵はかなりの腕を持つ術者であることがここに分かった。
「はあっ!!」
「くっ!」
御者台が悲鳴をあげるほどの踏み込み――それが生み出したのは、勇者の突貫だった。
速度の乗った刺突を掻い潜る。今度の狙いはアワン。
確実に殺すつもりの一撃を、俺は地面を滑るようにして再び躱す。
「やっぱり!! 守ったわね!!」
「…………」
「浮気だわ!! 私が殺したい女を、あなたは守った!! 私よりその女の方が大事っていう、何よりの証拠じゃない!!」
(…………一体、どういう能力なんだ?)
錯乱のようには見えない。
一応意味のある言葉は喋っているし、動きに迷いはないように見える。少なくとも、その人間の能力そのものを低下させるような感じではない。
だが普段の彼女ではないことは確か。
浮気浮気としつこく連呼するルルワを、俺は冷めた目で観察する。こんなものは彼女ではない。その時――
「悪霊退散」
「いっ!?」
アワンの攻撃が俺を襲う。
ルルワの攻撃を躱す際、口元にやっていた手を腰に回したことで、アワンの口枷が外れた。その結果、術の発動を許すこととなったのだ。
右腕に走った鋭い痛みに肉体が反応し、その隙に拘束が緩んだ腕からアワンが脱出を果す。
彼女は俺から逃れた途端、少しずつ空へと浮かび始めた。
だがそれを気にするような素振りはもはや見られない。二人とも、それどころではないようだった。
「浮気はしないって言ってたのに!! 裏切ったわね、この私を!!」
「馬鹿な女!! だから騙されていると教えてあげたのに!! 化け物に騙されたあなたが悪いのよ!! 私の忠告を聞かなかったあなたが!! 自業自得じゃない!!」
「私は騙されてない!! ムメイが騙されたんだわ!! 私達の仲を引き裂こうとする邪魔者!! あんたさえいなければ!!」
「あなたは勇者に相応しくない!! 世界を救う勇者は私だ!!」
「<一触即動>」
目も当てられないような口論を経て、今にも戦いが起き出しそうな女二人を、俺は同時に宙へと浮かせる。
そしてアワンだけを引き寄せ、再び片腕で拘束した。当然、口を塞ぐのも忘れない。
やはり乱暴だが、この精神状態の人間に今は何を言っても無駄だろう。その証拠に、俺の腕に抱え込まれる少女は、全く懲りることなく暴れ続けた。
(この状態では……流石に戦えないな)
「なんでその女のことばっかり!! なんで私は抱き寄せてくれないのよ!! やっぱり若い子がいいのね!?」
もちろん、これはそんな理由からではない。
単純にアワンにはスキルによる遠距離攻撃がありそうだと思っただけだ。だから詠唱ができないよう口を塞ぐ必要があった。
それにルルワが全力で暴れ出せば、流石の俺でも片腕での長時間の拘束は不可能だ。怪我をさせれば可能ではあるが、この先何が起こるか分からない現状化ではいたずらに行動不能にはできない。
(かといってこのまま浮かし続けるのもな……アワンを抱えたまま戦うというのも……)
天術魔術を用いた実戦の難しさを、ここにきて再度痛感する。
個としては最強の俺が、こうも簡単に身動きを封じられてしまっている事実。それらの反省も、今することではないが。
「若さだけが取り柄の能無し女に唆されて、可哀想に!! 待ってて!! その子を殺して、今自由にしてあげるから!!」
「…………」
「やっぱりその子は邪魔だったわよね!! 必要とされてないことにも気が付かない、空気の読めない女!! 無能なくせに偉そうにしゃしゃり出て!! 二人っきりの時間を壊した邪魔者!!」
(…………まずいな)
本当に、タイミングが悪いとしか言いようがない。
冗談ではなく最悪のタイミングだ。もし彼女たちが正気に戻った時、これらの記憶が残ってしまうのなら――例え本心ではないと分かっていても、吐いた唾は飲み込めず、また心に残った傷までは消せない。
しかし<一触即動>では、口を塞ぐことまではできないのだ。
これ以上ルルワに余計なことを言わせないためにも、早めに決断しなければ。
「こんなに好きなのに!! あんなに好きだって言ってくれたのに!! おかしいと思ってたのよ!! アワンにはあんなに優しくして!!」
「私だけを見てよ!! 私だけを愛してると言って!!」
俺は今のルルワの全てを無視し、状況の把握と今後の動きの思考に努める。
もはや入り乱れた乱闘も各場所で起き始めているような始末。
拘束を一度でもとけば、この二人もあの中へと突っ込んでいくことだろう。アワンは空中に再び浮き上がってしまうという懸念もあるため、絶対に手放すことは出来ない。しかしこの状態のままでは、戦闘は困難。足手まとい二人を抱えて戦うのも滑稽な話。
(…………)
この喧騒の中、その場から一歩も動く気配のない女を感知し続ける。
開戦から――俺がそれを認識してから――既に数分は経過しているというのに、不気味な程に動かない。
俺ならルルワとアワン、この二人が足手まといとなっている今こそが攻撃のチャンスと思う。具体的には、今よりも少し前の段階。異変が起こり、俺たちが状況についていけていないその瞬間を狙うのがベストのはずだ。
少なくとも、こうして俺に時間を与え続けることは絶対に悪手だ。現に、俺はもう普段と変わらない水準の冷静さを取り戻してしまっているのだから。
(……何か理由があるのか? この能力に関係が?)
既に敵に正確な位置を把握されているとも知らない案山子を、警戒し続けながら思考を展開する。もちろん橋上に伏兵が潜んでいる可能性も考慮しながら。
腕の中で暴れ続けるアワンと、今も尚中空で叫び続けるルルワ。とにもかくにも、まずはこの二人をどうにかしなければならない。
といっても、既に対策は思いついている。ならばなぜ行動しないか。それは誘導されているのではという懸念が完全には取り除けないから。
(直線距離で約80m。おそらく、支柱間の橋の上が能力範囲。全部で448人か)
このガリライヤー大橋の、支柱間で区切られた範囲。
<反教底位>で読み取った情報から、そこまでが能力が届く範囲と思われる。
ならばこの範囲から出れば、攻撃の影響はなくなるはずだ。現にこの支柱間区域の外側の橋の上にいる者達は、空に浮いてもいないし、我を忘れてもいない。常時展開している<反教底位>はその事実を正しく俺に伝えている。
しかし、だからこその誘導という懸念。
この混乱の中、攻撃を潜り抜けて範囲から一早く脱出した者たち。それが勇者だと判断するための。
今回の襲撃に、勇者の存在が無関係とは思わない。むしろこの能力の形態とその範囲からして、待ち伏せをしていた可能性が最も高い。
これがその狙いのために作り出された状況というのであれば、脱出はむしろ相手の戦略に乗ってしまうことになる。そして敵と思わしき存在が全く動き出さないこの現状は、その可能性を押し進めている。
(…………いや)
俺は長考の果てに、ようやく動くことを決めた。
選択は、範囲内からの脱出。
第一に、この状態のルルワとアワンを放置して戦いには行けない。俺を彼女たちから引き離すことが目的という可能性だってある。分かりやすく橋上に突っ立っている女がそのための囮という線も捨てがたい。
第二に、敵を殺してこの状況が好転するのかが分からない。
敵の能力が死によって解除されるのであれば、空に浮いている者達は落下死するし、逆に殺すことで解除されないのであれば、人々の狂乱はなおも続く。
総合して、やはり俺には術に関する知識が圧倒的に不足している。天術魔術に詳しい彼女たちの意見を聞くのが、この場は最も安全で確実だという結論だ。
(くそ……)
問題を先送りしていた現状が、ここにきて痛い。
天術魔術に関する知識を教わること、そしてそれからなる俺の能力開発は、本来一番の課題だった。それがアワンとの関係という目先の問題で先送りにされてしまったのだ。
しかもそのアワンとの関係も、牛歩の歩みと言わざるを得ない。
様々な課題が溜まっているこの時に、敵の襲撃。さらにこの後――直近の彼女たちも問題だ。
正気に戻るからこそ、怖いこともある。
本当に、タイミングが悪い。相手の能力も。全てが最悪の組み合わせ。
だが――
泣き言を言っても仕方がない。
俺はルルワを引き寄せて瞬く間に拘束すると、自身の脚力を遺憾なく発揮し、橋の上から飛び出す。
両腕で暴れる女たちを拘束しながら、わずか一歩で、橋外へと飛び降りたのだった。
『誓約と破滅は紙一重』
瞬間――耳元をくすぐる吐息を幻視する。
脳に直接語りかけるような、甘美な女の声が聞こえた。




