第035話 汝、自身を知れ
『汝、自身を知れ』
「…………ん?」
なんとなく、本当になんとなく俺は目を見開く。
視線をやったその先には、ルルワ。
彼女は俺のように見せかけではなく、真実のまどろみの中を彷徨っている様子だった。
「…………何か言いましたか?」
聞こえてきた声に御者台を見れば、そこには赤髪の少女アワン。
眉間にしわを寄せ、訝しむような表情。
「いや、何も言ってないよ?」
俺の答えに、彼女は即座に前へと向き直ると、こちらに背を見せた。まるでもう喋りたくないとでも言わんばかりに。
「…………」
御者台に腰かけ、同じ空間には一時すらいたくないと剣呑な空気を放つ少女の一端を知れたのは、つい昨夜の事。
一夜明けた現在、俺たちは変わらず馬車を走らせていた。
しかし明確に変わったこともある。それは場所だ。
馬車の隙間から、流れていく景色を見る。
時速にして50km以上は出ているだろうか。経過地点からしてもう2時間以上、休むことなく走り続けていることになる。
流石は高級馬、蒸気馬。たった一頭でこの重量をこの時間、全力疾走し続けるのは一般的な馬ではまず不可能だろう。
そしてそんな俺たちが現在走っているこの場所こそが、かの有名な世界最長の大橋。
その名もガリライヤー。
全長165kmを優に超える陸上大橋は、アルフレート大山、ロータル大谷、ウェーゲナー大河の大陸横断線に沿うように並行している。
俺たちがこの橋に乗り上げたのは、ロータル大谷から真っすぐ北へ進んだ凡そ中間地点から。そこから右に行くか、左に行くかで目的地が変わる。俺たちにとっては命運を左右すると言っても過言ではない大きなルート選択。
左に進めば戦争中の国々、そして右に進めば縦に並んだ三つの国へと行くことができる。
つまり俺たちが選んだのは、右だ。
「…………」
すっかり覚醒した頭で考えるのは、やはりアワンに関して。
彼女と和解、そして友誼を深めるのは急務なのだが、それでも俺たちは足を止めることができない。
ロータル大谷からそう遠くないガリライヤー大橋へと辿り着くのはすぐであったし、ここに来てこの橋を使わないというのもありえない。
俺たちの関係とは裏腹に、あまりにも順調な旅路。だからこそ焦りは募る。
(グズグズしていると、本当にこのまま目的地についてしまいそうだ……)
この橋を渡り切った後は、二つの国を下っていくだけ。
その道中が最も時間を作り出せるポイントだろうが、その間ルルワは挨拶回りで忙しいと言っていたし、何よりそれは今という時間を無駄にしていいということにはならない。
むしろこの溝の深さを考慮すれば、時間は一秒たりとも無駄にはできないだろう。
しかし、ルルワはアワンとの関係について考えていたのか、昨夜はよく寝れなかったようで、こうして今体を休めている。
俺は御者をすることができないので、彼女たちが馬車内で会話をすることは物理的にできない状態だった。
(そろそろ交代の時間か)
船を漕ぐルルワには心苦しいが、アワンだけに負担を押し付けるわけにはいかない。本当に、俺が御者をできればよかった話なのだが。
「ルルワ……」
俺は非常に申し訳なく思いながらも、ルルワの身を軽く揺する。
ルルワはすぐに目を開いた。馬車に揺られる悪条件では、そこまで深い睡眠はできなかったようだ。
「…………なに?」
「起こしてごめん。そろそろ交代の時間だ」
彼女に交代の時刻を告げる。
しかし、ルルワの返答は俺の予想だにしないものだった。
「嫌よ」
「え?」
苛立ちさえ感じられるような声に、呆気にとられる。
思わずルルワの顔を覗き込んでしまう。そこには、不機嫌を隠しもしないような表情があった。
初めてのことに、血の気が引いていくような気分を抱く。
「私は昨日寝れてないのよ? あの子にさせればいいじゃない」
あの子とは、アワンのことだろう。
確かにアワンは昨日しっかりと就寝し、対してルルワは満足に眠れていない。そう考えればアワンに今日の御者は任せ、彼女は馬車で睡眠をとる。一見おかしくはない理屈だ。
しかし、俺はルルワの言葉にほんのわずかな違和感を抱く。俺の中の彼女なら、寝ていないのはこちらの都合なのだから、仕事に持ち込むべき話ではないと考えそうだ。
実際俺の考えもそちら側だ。昨日寝ていないからといって、既に三人の間で決められたルールを破るのはどうかと思う。寝れなかったことまで彼女のせいにするのは酷、というより完全な八つ当たりだ。これに関してはアワンに全く罪はない。
だが俺は心苦しさから、そんなことは言えなかった。なぜなら現状、俺はこの馬車で何もできない役立たずなのだから。しかも唯一睡眠も疲労も必要のない体だというのに。だから――
「本当にごめん……だけど、頼めないかな?」
寝起きで彼女も少し不機嫌なのかもしれない。心情的にはこのまま寝かせてやりたいのだが、やはりそれとこれとは話が別だ。
「だったらあなたがすればいいでしょ? なんで何もしてない人に言われなきゃならないのよ」
ここに来て、俺は心から、意外感に目を剥く。
まさか彼女がそんなことを言うとは思わなくて。本当に、ルルワらしくない。どうして今日に限ってこんなに機嫌が悪いのか。
いや、普通の人間なら苛立つ日くらいあってもおかしくないのだが、ルルワがこんな姿を見せるのは初めてのことなだけに、新鮮さというよりも不気味さを抱く。
だが、言っていること自体はそこまで暴論ではない。むしろごくごく普通だ。
「…………ごめん。分かったよ」
仕方がない。アワンに頭を下げて、今日の御者を引き受けてもらうしかないだろう。
俺は、よっぽど今日は機嫌がよくない日なのだな――などとそんなことを思いながら、彼女から離れる。
その時――
「ん?」
ふと、馬車が減速していることに気が付く。
アワンの方を見た時には、馬車は完全に止まる素振りさえ見せ始めていた。
「どうしたの?」
このガリライヤー大橋で、走行者が止まることなど、滅多に起こることではないという。中継地点にはまだ距離があるし、事故か、あるいは事件か。
そんな刑事のようなことを考えながら御者台へと辿り着くと、アワンに声をかける。
返ってきたのは、乱暴に投げ捨てたような言葉だった。
「私が知るはずないです」
前方を睨みながら、顔さえ向けず、また一瞥もせずに。
流石に扱いがぞんざい過ぎると肩を落としながらも、俺も前方を確認した。
俺たちと同じような馬車が、渋滞を作り出している。やはり事故でも起こったのか。いや、よく耳を済ませれば、遠くから喧騒が聞こえてくる。
これは――
(……言い争い?)
何やら姦しい声だ。まるで言葉での争いが起こっているような。
痴話喧嘩でも起きているかのような――そんな小さな、だが確かな騒がしさ。
「なんなのその言い方」
そんな能天気な考えは、ピシャリと一喝するような声に吹き飛ばされた。
前方に気を取られていたせいで、背後の気配に気づくのに遅れたのだ。
底冷えするような声に振り向けば、そこいるのは、やはりルルワ。
いつの間にか完全に目覚め、その顔に怒りという激情を湛えながら、アワンを睨みつけている。俺の言葉には振り返らなかった赤髪の少女が、ルルワの声には振り向いた。それも、彼女と同じような怒りの表情で。
「私ですか?」
「そうよ、あなたよ。前々から思ってたけど、目上の人間に対してその感じはどうなの? 失礼過ぎるでしょ」
二人の視線がぶつかる。
バチバチと中空で激しくぶつかる何かは、きっと俺の見間違いではないだろう。確かにそこに、目には映らないエネルギーが発生しているように見える。
女たちの突然の衝突に、俺は息を飲むしかなった。それも、ルルワの方から吹っかけるなど。
「目上? 誰のことでしょうか?」
「私達よ。そんなことも分からないの? 勇者の血が聞いて呆れるわね」
弾かれたように、御者台に立ち上がるアワン。
手綱から完全に手を離した姿は、どう考えたって冷静ではない。激情に突き動かされている。
高いところから見下ろされる形となり、ルルワの眦も決した。
「それはお互いさまでは? 無為に重ねてきた年月だけで人の上下を決める。それしか人に誇れるものがないからでしょうか? それが女ともなれば、滑稽を通り越して同情すら覚えますね」
「心配しなくても、年齢を含めた全ての要素であなたは下よ? まあ見ていて恥ずかしくなるような痛々しさだけは、どうやっても勝てる気はしないけど」
「…………試してみるか?」
「…………どうぞ? 醜態を晒せばいいわ」
みるみるエスカレートし、とうとう武器が言葉だけではなくなろうという気配にまで発展する。
急転する事態に、俺は本気で動揺した。
どう考えたって展開が早すぎるし、何よりルルワらしくない。
確かに昨夜の一件で表に見えない鬱憤は貯めていたのだろうが、だからこそ昨夜の一件を経た今、この態度はおかしい。彼女は昨日のアワンの発言を聞いて、彼女に一目置いているようだった。
そして関係の改善を志してもいた。ならばこそ、ルルワならもっと落ち着いて会話するはずだ。
それも、俺が見ている前で。明らかにおかしい。
原因は分からなかったが、まだ俺の声を聞いてくれそうなルルワを制止するのは、当然の行動だった。
俺はアワンに背を向け、ルルワの肩に両手を掛ける。
「ルルワ、一体どうしたんだ? ――――『過剰の無』……!?」
瞬間、その声は聞こえたのだ。
「「え?」」
呆けるような声はルルワのものだったか、それともアワンのものだったか――もしかしたら両方だったかもしれない。
耳元で直接囁かれたような声の主を探す暇もなく、立て続けに異変は起きる。
ルルワの高く上がっていく視線を追うように振り返れば、そこには空に浮き上がっていくアワンの姿があった。
「っ!?」
まるで海を泳ぐようにもがき、取り乱しながら、こちらへと必死に手を伸ばすアワンの姿。
重さというものが肉体から消え失せてしまったかのように、フワフワと遥か空を目指して浮き上がっていく。
そして彼女の背後に見えた――無数の空に浮かび上がっていく人間たちの姿を見て、ようやく俺は悟ったのだ。
全身に、怖気が走った。
「敵だ!! 攻撃を受けているぞォ!!」
全神経を張り巡らせ、俺は天に向かって吠える。
射線が通る位置からルルワを庇うように立ち、空へと手を伸ばした。
「<一触即動>!!」
敵が、こちらの事情を汲んでくれるはずもなく――
災難は――畳みかける。




